第百十五話「心の迷宮・16」


 涼音はいったい、何をしにあたしの部屋に来たんだろう。

 翌朝の午前六時すぎ。
 曇天のためにまだ薄暗い空の下、紅子は走っていた。
 眠れないかもしれないという昨夜の予想は幸いにもはずれ、涼音の奇妙な振る舞いや態度についてあれこれ考えているうちに、いつしかぐっすり眠ってしまっていた。
 おかげで、今朝の寝起きは爽快この上ない。
 これで天気が良ければ、自主トレに出る気分もぐっと盛り上がるんだけど、と思う。
 まあ雨でないだけましとしておこう。

 起きたとき、屋敷の中はまだ寝静まっていて、自室を出て玄関にたどり着くまで、誰にも会わなかった。
 唯一、台所で、おそらく滝口だろう誰かが朝食を作っている気配があったけれど、朝練に出る涼音とも会う恐れがあったので、台所と食堂は迂回。
 誰にも言わずに出かけていいものか迷っていたら、玄関にもう一人、早起きな人物がいた。
 英莉である。
 彼女は玄関脇に置かれた花瓶に花木を生けているところだった。
 もっとも、花木といっても秋のことなので、本当に花と呼べるものはなく、ススキやケイトウ、赤い実をつけたナナカマドか何かの枝などが中心なのだが。
 紅子の足音に気づくと、彼女はハサミで余分な枝葉を切る手を止めてゆっくりと振り向き、紅子が恐縮するほど丁寧に朝のあいさつを口にした。
「おはようございます。こんな朝早くに、どうかなさったの?」
 身体を少しほぐしに行くと紅子が答えると、英莉は少しだけ心配そうに眉を寄せ、
「そう。でも、あまり無理なさらないでね」
 昨夜の雨でぬかるんでいるから、転ばないように気を付けて。
 それと、今朝はかなり冷えるから、風邪を引きそうだと思ったら、すぐに戻ってらっしゃいね。
 優しく穏やかな忠告を聞きながら、紅子は苦笑した。
 こんな人から、なぜ涼音みたいなのが生まれたのだろう。この世は謎に満ちている。
 英莉は涼音が紅子を殴った件について何も言わなかった。
 たぶん、竜介が知らせていないのだ。
 涼音とて、最愛の兄のみならず、母親からまでも叱責されたら立つ瀬がない。
 外に出てみると、玄関先はすでにきれいに掃き清められ、戸口の両脇には盛り塩がしてあった。
 これほど広い屋敷の女主人たるには、かなりの早起きをせねばならないものらしい。

 吐く息が白い。
 ランニングコースに選んだ道は、これも昨日決めた通り、泰蔵の家へ続く山道。
 だが、これが思ったよりひどくぬかるんでいて、一定のペースで走ることが難しかった。
 この分だと、二〇分と保たずに息が上がってしまいそうだ。
 頬に当たる風は冷たく湿って、今日もまた雨が降るよ、と言っていた。
 そういえば、初めてこの道を歩いたときも、雨上がりだった、と紅子は足を動かしながら思った。
 指折り数えてみて、あの日からまだ一週間しか経っていないことに今更ながら驚く。
 この数日で、自分の内面のなんと変わってしまったことだろう。
 変化を頑なに拒んできた心は、もはや覆されてしまった――竜介の存在によって。
 彼は数日以内に黄珠を借り受けに行く、と言っていた。
 その魂縒を受けたら、次はいよいよ、封術の起動。

 待っているのは生か、それとも、死か。

 もしも待っているのが死だとしたら、竜介にこの気持ちを伝えるのは今しかないだろう。
 けれど、これは恋だと気づいたばかりで、心の準備がまだ整わない。
 たとえ、あの奇妙な夢に現れた竜介が、どういうわけか現実の彼と同一人物だったとしても。
 それに、気になることもある。
 日可理のことだ。
 彼女はずっと竜介を思い続けているのに、なぜ彼に告白しようとしないのか。
 竜介は日可理をどう思っているのか。
 わからないことが多すぎて、とりあえず今はまだ、この思いを口には出せない。
 拒絶されるのが怖い。
 竜介から拒絶されて、封術のせいで命までも落としたとしたら――そんな最期はあまりにも悲しすぎる。
 竜介だって、きっと後味の悪い思いをするに違いない。
 それなら、あの優しいキスの思い出だけを抱いて死ぬほうがまだましというものだ。
 たぶん。

 太陽の位置が高くなってきたらしい。
 いつの間にか視界が明るくなり、走るのが楽になっていることに紅子は気が付いた。
 水たまりやぬかるみがはっきりと見て取れる。
 足を止めて、呼吸を整えながら光のさす方角を振り返ってみた。
 相変わらずどんよりとたれ込める雲にそこだけいくつか切れ間ができ、蜂蜜色の朝陽が天と地とを結んでいる。
 奇跡のきざはし。
 それを眺めるうち、紅子は不思議と気持ちが静まっていくのを感じた。
 悩みが尽きたわけではない。
 死への不安は依然として胸に巣くっている。
 けれど、落ち着いて考えれば、そこに希望が残っていることに気づく。
 そう、待っているのが死だけとは限らない。
 もしも――
 もしも、封術のあとも生きていられたら。
 東京で、また彼に会えたら。
 そのときには、きっと。
 必ず。
 この気持ちに、初めての恋に、けりをつける。


 昨晩はよく眠れなかった。
 洗面所で鏡を見ると、寝不足で目が赤い。
 頭では片づけたと思っていても、心のほうはままならない。
 二十五年生きてきて、そんなことはわかっているはずなのに、今更のように思い知らされる。
 感情を殺すのは難しい。
 だが、すべてが片づき、紅子を東京の自宅に帰してしまえば、この気持ちもいくぶん落ち着くはずだ。
 彼女がそばにいなくなれば。
 視界に入らなくなりさえすれば。
 冷水で顔を洗うと、寝不足の頭が少しだがすっきりした。
 タオルで水滴をぬぐい、再び鏡を見る。
 ぎょっとした。
 自分の姿の斜め後ろに、もう一人の自分が立っている。まるで、この身体を抜け出た亡霊のように。
 ほんの一瞬だが、そんな錯覚を起こしてしまうほど、鏡の中のその男は、今の自分によく似ていた。
「黙って後ろに立つなよ。心臓が止まるかと思ったぜ」
彼はドッペルゲンガーの正体に向かって、鏡越しに苦笑して見せた。
「鷹彦」
 ところが、相手は「わりぃ」とぶっきらぼうに言っただけで、彼の隣に並ぶと、同じように水で顔を洗い始めた。
 この屋敷の洗面所には、蛇口が五個ついている。
 ドライヤーは三台。
 竜介が中学生の頃、虎光と二人で先を争うように朝の寝癖直しをするのを、まだ小学校低学年だったこの末弟がよく真似をしたものだった。
 幼い涼音も真似をしたがったけれど、熱風でやけどをするといけないのでドライヤーは触らせてもらえず、たいてい兄たちの後ろでかんしゃくを起こして泣いていた。
 あの頃に比べると、今の邸内の朝は格段に静かだ。
 竜介は、前屈みになって顔を洗っている五歳違いの弟を、見るともなしに眺めた。
 子供の頃、いつもあとをついてきたチビすけ。
 肩が並ぶようになったのはいつ頃からだろう。
 紅子が東京に戻るとき、その隣にはこの背中が並んでいるのだろうか――
 そんなことをふと想像するだけで、今はまだ、胸が奇妙な音を立ててきしむ。
 と、そのとき、洗面を終えた鷹彦が、タオルで顔をぬぐいながら、珍しく不機嫌そうな横目でこちらを見た。
「ぁんだよ、まだいたの。さっさとメシ食いに行けばいいのに」
 一瞬、その横面をはり倒しそうになった。
 が、すんでのところでその衝動を止める。
 こいつを殴ったところで問題が解決するわけじゃない。
「なんだ、朝からずいぶんご機嫌斜めだな」
普段通りの口調を心がけても、嫉妬が邪魔をする。
「恋愛がうまくいってる人間ってのは、もう少し寛大なもんだと思ってたが」
 鷹彦はしばし黙り込んでから、兄に背中を向けると、何事かつぶやいた。
「……ねーよ」
 消え入るような声。
「あ?聞こえねえ」
 竜介が聞き返すと、鷹彦は背中越しに、
「うまくいってなんかねえって言ったんだよっ」
と、やけくそのように怒鳴った。
「ふられたの、俺はっ」


 その後の朝食は、何を食べたかよく憶えていない。
 ただ記憶に残っていることといえば、食卓に漂う微妙な空気だけ。
 紅子がいれば、もっと微妙な空気が流れたに違いないが、幸いにも彼女はいなかった。
 滝口によると、まだ食堂に姿を現していないらしい。
 鷹彦がいて、室内がこれほど静かなことなど滅多にない。
 なぜなら、彼ら兄弟のうち、最もよくしゃべるのが彼だからだ。
 たいていの場合、その内容はどうでもいいようなくだらないことではあるのだが。
 ともかくも、今日の彼は不気味な沈黙を守ったまま食事を終えると、食後のコーヒーも飲まずに席を立ち、食堂を出ていってしまった。
 末弟の足音が聞こえなくなるのを待ってから、虎光はおもむろに兄に顔を近づけ、
「ふられたらしいぜ」
と、部屋の入り口を親指で示しながら言った。
 誰が誰に?などとは訊くだけ野暮というものだ。
「さっき本人から聞いた」
と竜介は返事をしてから、
「……って、なんでお前、知ってんの?」
「ゆうべ遅くに、鷹彦が死にそうな顔で俺の部屋まで来てさ」
虎光は苦笑して言った。
「ほんと、虎光恋愛相談所は大忙しですよ。次からは相談料もらおうかな。六〇分標準コース六千円。本番コース一万円。明朗会計、とかな」
 竜介は思わず吹き出した。
「本番って何だよ」
 二人で笑い合ったあと、虎光が笑みを消して言った。
「あいつの言葉をそのまま借りると、『一ミクロンの隙もなく、完膚(かんぷ)なきまでにふられた』そうだ」
「彼女らしいな」
 竜介がそう言って唇だけで笑うと、虎光は肩をすくめてかぶりを振った。
「しっかし、わからん。鷹彦といい、兄貴といい、なんであんな気の強そうな娘がいいんだか」
と、彼は言った。
「たしかに、あのみてくれは大変けっこうだが。俺はもっとおとなしめなほうがいいな。気の強いのは涼音一人でたくさんだ」
「俺だって別に、ストライクゾーンど真ん中ってわけじゃねえよ」
 怒ったような口調で言い訳をする兄を片手で制して、虎光は、
「で、どーすんの?」
と、訊いた。
 今度は竜介が肩をすくめた。
「どうするもこうするも」
 気落ちしている弟を後目に、素直に喜べるわけがない。
 どっちにしても、前にも言った通り、今は行動に出るつもりもない――そう答えようとした。
 そのとき。
「おはよーございまぁす」
 紅子が台所にいる滝口に声をかけるのが聞こえた。
 朝ご飯、お願いします。
 虎光が声をひそめる。
「うわさをすれば、だ」
 まもなく、彼女は食堂に姿を現した。
 やけにすっきりした笑顔で、先客である二人におはようとあいさつをすると、虎光の隣、竜介のほぼ真向かいに腰を下ろす。
「あーお腹減ったぁ」
 そう独りごちながら。
「やべ、もうこんな時間か」
 虎光は壁かけ時計をわざとらしく一瞥すると、紅子と入れ替わるように立ち上がった。
「俺はそろそろ仕事にかからんと。じゃあね、紅子ちゃん」
「ども」
 ぺこりと会釈する紅子に軽く手を降った後、虎光は兄に向かってひそかに片目をつむって見せた。
 てめーは気の回しすぎなんだよ。
 そう言ってやりたかったが、紅子の手前、声に出すわけにも行かず、竜介はただ渋面を返すにとどまったのだった。
 虎光が食堂から姿を消すと、
「虎光さんて忙しいんだね」
彼の大きな背中が消えたほうを眺めながら、紅子がちょっと驚嘆したように言った。
「あたし、ここに来て今日でちょうど一週間だけど、まだ数えるほどしか会ってないよ」
 そう言われて改めて思い返すと、食事時にも虎光を見かけないことが多い。
 さすがに週末は休んでいるようだが。
「そういえば、俺もだ」
竜介は苦笑した。
「メールやファックスのおかげで、どこででも仕事ができるのも考えものだな」
 会話が一段落したところで、「お待たせしました」と、滝口が紅子の食事を運んで来た。
「あ。今日は卵焼きがある」
 卓上に並べられていく皿を見て、紅子は嬉しそうにつぶやく。
 滝口は竜介の前にあった空のカップに新しいコーヒーを注ぐと、台所にさがって行った。
 何かご入り用でしたらお呼び下さい。
「卵焼き?好きなの?」
 黙っているのも何なので、竜介は訊くともなしに訊いた。
 するりと言葉が出てくることに我ながら驚く。
 相手が普段通りに振る舞ってくれているおかげだろうか、昨日あんなにアガっていたのがうそのようだ。
 コーヒーは湯気を立てていて、カップに触れるとやけどしそうに熱い。
 適当なところで席を立つつもりだったのに、これを飲み干すまでは動けなくなってしまった。
 相手のそんな心中など知るよしもない紅子は、食事をおいしそうに口に運びながら、
「前はそれほどでもなかったんだけど、この家に来てからね」
と、答える。
「卵焼きなんて、どこの家でも同じだろ」
 竜介が言うと、
「うちのはこんなに甘くないよ」
という反論が返ってきた。
「最初食べたときは、こんな伊達巻きみたいな卵焼きなんてありえないって思ったのに、慣れるとなんか、くせになっちゃってさ」
 竜介は思わず笑った。
「たかが卵焼きを、そこまで気に入ってもらえるとは思わなかったな」
 他愛のない会話。
 コーヒーはそろそろ飲み頃だろうか?
 でも、今は――
 今、ほんの少しの時間だけは、熱くてまだ飲み干せない、そんなふりをしていたい。

 穏やかで楽しい時間は、しかし、いつも早足に過ぎ去っていく。
 このときもそうだった。
 異変は、その日の夕刻に起きた。
 昨日と同じ、小雨の降る薄暮のとき、誰も予測しえなかった災厄が、音もなく舞い降りた。
 紺野家を守る結界が、消えたのである。

2009.10.15


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