第百十五話「心の迷宮・9」
時間は少し戻る。
虎光の部屋を出たあと、竜介は台所に寄ってグラスを片付けると、ちょうどやってきた滝口に夕食はいらないことを伝えて自室に戻った。
泰蔵と連絡を取るために机の上の携帯を取ると、着信が一件あった。
『竜介さん、僕です……少し困ったことが起きてしまいました』
留守番サービスに吹き込まれていた志乃武の声は、珍しくせっぱ詰まっていた。
『すみませんが、折り返し僕の携帯に連絡をください。できれば、至急で。お願いします』
着信時刻は今から三時間ほど前。
ちょうど、黄根老人を出迎えていた頃合いだろうか。
家の電話にかけてくれていたら、斎さんか滝口さんが取り次いでくれたろうに――
至急、と言うわりには回りくどいやり方に、竜介は眉をひそめた。
他の人間に知られたくないことなのだろうか?
ややこしい問題でなければいいが――
志乃武の携帯を呼び出すと、相手は電話を握りしめて待ちかまえていたかのように、たった一回のコールで出た。
竜介が連絡が遅くなったことをわびると、その言葉をほとんどさえぎるようにして志乃武の憔悴した声が早口で言った。
『そちらに、日可理から何か連絡は入ってませんか』
「日可理さんから?いいや」
『実は三日くらい前から、日可理の様子がおかしくて』
曰く、話しかけても上の空で、ぼんやりしていることが増えた。
どこか具合が悪いのかと尋ねても、別にどこも悪くないという返事。
さらに、行き先も告げずに忽然と屋敷からいなくなったかと思うと、いつの間にか自分の部屋に戻っていたりする。
『どこへ行っていたのかと訊いても、笑うだけで答えないか、逆に、自分は今どこかに出かけていたのかと聞き返してくるんです。……どうも記憶がときどき飛ぶらしくて、そのことを僕に不安そうに相談してきたかと思うと、次の瞬間には無表情になって自分の部屋に戻ってしまったり』
日可理はあまり冗談を言ったりふざけたりするたちではない。
それに、彼女の表情はとても嘘をついているようには見えなかった、と彼は疲れた声で言った。
『実は今日、病院で詳しい検査を受ける予定だったんですが……朝の九時ごろ部屋まで迎えに行ったら、中はもぬけの殻で、それきりまだ何の連絡もないんです』
部屋に携帯がないので、持って出ているはずなんですが、何度呼び出しても留守電のままで――
「わかった。もし日可理さんから何か連絡があったら、知らせるよ」
竜介はそう言って携帯を切ると、ため息をついた。
元から浅かった酔いは完全に醒めている。
そのせいだろうか、室内の気温が一度低くなったような錯覚に襲われて、彼は身震いを一つした。
心配は心配だが、さしあたって今の自分にできることなどないに等しい。
とりあえず、あとで一度、日可理さんの携帯にこちらからかけてみるか。
何かの拍子につながるかもしれないし――
そんなことを考えながら机の上に置いた携帯を眺めていると、ほとほととふすまを叩く音がした。
「竜介さん、ちょっといい?」
英莉の声。
竜介は一瞬、まずいなと思ったのだが、返事をしないわけにもいかない。
「どうぞ」
「夕食はいらないって、滝口さんから聞いたけど……」
ふすまを開けて顔をのぞかせた英莉は、そう言って部屋の空気をひと息吸ったとたん、すべてを察した顔になった。
しばし気まずい沈黙の後、彼女は小さくため息をついた。
「……黄根さんがいらしてたことは、斎さんから聞いています。でも、お酒で憂さを晴らすのはあまり感心しませんよ」
改まった口調は、英莉が腹を立てているときの癖だ。
昼酒の原因を黄根への心理的わだかまりによるものと彼女は思っているらしい。
その誤解に、竜介は妙な安堵を覚えた。
「ごめん、母さん」
神妙な顔で謝ると、英莉はふっと口元を緩めた。
「あまり心配させないでちょうだい」
竜介も笑顔を返す。
「ところで、紅子ちゃんは?」
「ご飯を食べ終わって、お風呂に入りたいって言うから、お風呂場まで送って行ったところよ。長湯しないように言っておいたから、あと20分くらいで出てくるんじゃないかしら」
「思ったより元気そうでよかった」
英莉もにっこりしてうなずいた。
「ホントにね。黄根さんがいらしたと聞いたときは、正直言って何が起きるかヒヤヒヤしたけど、お孫さんが心配だったのね」
それだけのために来たわけじゃなさそうだったけどな、と竜介は心中でつぶやいてから、
「黄根さんが来たこと、紅子ちゃんには?」
「まだ言ってないわ」
「俺から話すから、しばらく伏せておいて」
英莉はうなずき、
「それと、紅子さんを泰蔵さんのところへ送っていく日取りだけど……」
「紅子ちゃんの体調さえよければ、明日でどうかな」
竜介は言った。色々な意味で、あまり日延べをしたくない。
「師匠には俺から連絡しておくよ」
「お願いね。他の人たちには、黄根さんの件と一緒に、私から伝えておくわ」
英莉は踵を返しかけてから、思い出したように「そうそう、」と付け加えた。
「もし休むなら、せめてお風呂に入ってからにしなさいな。身体が冷えたままだと眠りが浅くなるわよ」
ふすまを閉めた後、竜介は再び携帯を手に取った。
泰蔵は思ったよりすぐに電話に出て、紅子が意識を取り戻した知らせを喜んだ後、明日の夕刻以降ならかまわない、と返答した。
『家政婦さんが来てくれるのは早くても明後日以降になるだろうが、まあ孫と二人で食事作りも悪くない。なんとかするさ』
朋徳が来ていたことは話さず、竜介はただ
「急なことですみません」
とだけ謝った。
電話を切って時計を見ると、英莉がここに来た時刻から30分近く経っていた。
英莉に勧められたからというだけでなく、この長過ぎる一日の締めくくりに風呂でゆっくり身体を温めてから休むというのは、なかなかいい考えに思われて、竜介は浴室に向かうことにした。
浴室はさすがにもう無人になっているだろう。
そう思っていたのだが――
浴室の引き戸に手をかけようとしたそのとき、いきなりそれがガラリと開き、中から小柄な人影が出てきた。
温かな湿り気を含んだ空気と、せっけんの匂い。
紅子だった。
竜介も驚いたが、むこうもかなり驚いたようだ。大きな瞳がさらに大きく見開かれてこちらを見ている。
彼女の頬が上気しているのは、風呂上がりだからだろうか?
廊下は静かだった。
静か過ぎた。
がんがんと早鐘を打っている自分の心臓の音だけが、耳元に響いている。
相手にも聞こえるのではと思えるほど、大きく。
どれくらい、そうやって互いの顔をまじまじと見つめ合っていただろう。
何か話さないと。
この心臓の音を消さないと。
そう思いながらも、言葉が何も浮かんでこない。
口蓋に貼り付いた舌をどうにかはがし、
「……意識が戻ったんだな。よかった」
できる限り、いつもどおりに。できる限り、さり気なく。
紅子も我に返った様子で、竜介の顔から目を逸らすと、
「うん」
素っ気ない返事だけが返ってきた。
「体調はどう?」
「元気だよ」
会話が途切れた。
ほんのわずかな沈黙が、ひどくいたたまれない。
「あの……」
二人はほぼユニゾンで言った。
「何?」
竜介が訊くと、紅子は落ち着きなく視線を泳がせる。
「いや、その……そこ、どいてくれないと、あたし出られないんだけど」
彼は苦笑した。
「悪い」
そう言って、出入り口をふさぐように立っていた自分の身体を一歩退き、紅子を廊下に出してやる。
湿った髪から立ちのぼる、甘い香り。
彼女はこちらをちらりと一瞥して、「で?」と言った。
「竜介は何言おうとしたの?」
「師匠のところへ移る日取りだけど」
「早いほうがいいんでしょ。明日でもいいよ」
紅子は即答した。
こういう決断の早さは助かる。
「師匠が、明日の夕方以降なら構わないって」
「じゃあ、それで」
そう言って踵を返す間際、彼女はすん、と鼻を鳴らし、あからさまに顔をしかめた。横目でこちらをひと睨みしたかと思うと、
「お酒くさい」
それだけ言い捨てて足早にその場を立ち去る。
竜介は一瞬、その手をつかみ、引き留めたい衝動にかられた。
引き留めて、なぜ自分がこんなときに酒など飲んだのか、その理由をすべて話せたら。
この気持ちをすべて、吐き出すことができたら――
嫌われているくらいでちょうどいいなどと思っていた少し前の自分を思い出し、竜介は一人、苦笑する。
脱衣室には、紅子の甘い香りがまだ、かすかに残っていた。
2009.10.15
2021.11.2改稿
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