第百十三話「心の迷宮・14」


「紺野涼音、だな?」
 その少女――少なくとも、涼音にはそう見えた――は、そんなふうに、声をかけてきた。
 ぎりぎり肩にかからない長さに切りそろえられた、まっすぐな黒髪と、抜けるように白い肌、赤い唇がそう思わせたのかもしれない。
 一瞥して、変な子、と涼音は思った。
 身長は自分と同じくらいなのに、顔立ちや言葉遣いが奇妙に大人びている。
 長い前髪の奥で鋭い光を放つ切れ長の黒い目は、まるで老人のようだ。
 服装も、奇妙だった。
 小雨がぱらつく寒い日だというのに、身にまとっているのは身体の線が見て取れるほど薄い黒衣だけ。
 その体型は皮肉なまでに涼音と似ていて、華奢というにはあまりに細く、女性らしさのかけらもなかった。
 奇妙なことは、まだあった。
 少女は、傘を持っていなかった。
 なのに、その髪も服も、まったく雨にぬれていなかったのである。


 放課後だった。
 雨でグランドが使えないため、部活は柔軟に筋トレ、それに校舎の廊下を使った走り込み程度で終わってしまった。
 だから、学校を出る時刻としてはいつもより早いのだが、天候がよくないせいか、外は既に薄暗く、友人たちと別れた後、涼音は何となく急ぎ足になった。
 徒歩で二十分あまりの距離が、今日はやけに遠く感じる。
 暗くて心細いから早足になるだけで、別に家に帰りたいわけじゃない、と、彼女は自分で自分に言い訳をした。
 家に帰っても最近はちっとも面白いことがない。
 あの紅子とかいうのが家に来てから、ずっと。
 大事なお客さんだということは、母親の英莉から何度も聞かされている。
 だけど、気に入らない。
 あの長い髪も、きれいな顔も、何もかも。
 兄たち、とくに竜介があの子に気を遣うのは、もっと気に入らない。

 小さいときから、自分のことをお姫様のように大切にしてくれた、大好きな兄。
 すらりとした長身で、顔もスタイルもいい、自慢の兄。
 竜介に会ったことがある涼音の友達は、皆一様に彼を「かっこいい」とほめ、涼音をうらやましがったものだ。
 たまに「似てないね」と言われることもあったけれど、竜介は母親似で、自分は父親似なのだろうと思っていたから、気にしたことなどなかった。
 英莉が実は後妻で、兄たちと自分とはいわゆる「異母兄妹」なのだということを知ったのは、中学一年のとき。
 家で大きな法事があり、そのときに両親――普段は東京で仕事をしている父も帰ってきていた――から教えられた。
 その法事は、竜介たちの母親である美夜子の十三回忌だった。
 両親は、集まった親戚連中の話を聞いて涼音が妙な誤解をするよりは、先に事実を教えてしまおうと思ったようだ。
 兄たちと自分の母親が違う、ということはもちろんショックだったが、そのことは同時に、もしかしたら、自分と竜介は血がつながっていないのではないか、という、淡くも愚かな期待を涼音に抱かせた。
 もっとも、そんな期待は、
「おまえが生まれてすぐDNA鑑定をしたから、間違いない。おまえはわたしの娘だ」
という父の言葉に、あっけなくついえてしまったのだが。
 家に連れてきた女友達を涼音が牽制しても、竜介は苦笑するだけで許してくれた。
 だから、たとえ兄妹でも、彼にとっての「一番」は自分なのだとずっと自負してきた。
 なのに――
 紅子に関しては、今までと勝手が違う。

 殴ったのは悪かったと自分でも思っている。
 だが、涼音でさえ「勝手に入るな」と言われている竜介の部屋に、紅子がしれっとした顔で出入りしているのを見かければ、しかも、夜中に二人きりで話し込んだなどということを聞かされれば、誰だって頭に血がのぼるというものだ。
 もしも同じ夜、竜介が出くわしたのが涼音だったとしたら?
 話し相手どころか、「早く寝ろよ」と言われただけで、自室に追い返されてしまったことだろう。
 涼音には涼音の言い分がある。
 それなのに、竜介はそんなことを聞くそぶりさえ見せてくれなかった。
 いつもなら、少ししょげた顔を見せるだけで、彼は、仕方ないな、というように表情を和らげ、頭をくしゃっと撫でてくれるのに、今回はそれもなし。
 こんなこと、今までなかった。

 竜介は変わってしまった――紅子が来てから。
 もっと正確には、自分が紅子を殴った日から。
 もしかしたら、その前から変わり始めていたのかもしれない。
 一見平静に見えるけれど、どことなくピリピリしていて、いきなり不機嫌になったりする。
 知らない男の人みたいに。

 その紅子が魂縒を受けて眠り込んでしまってから、今日で二日目。
 家の中はお通夜のようだ。
 竜介の沈んだ顔を見るのはつらい。
 でも、もういっそこのまま紅子の目が覚めなければいいのに、などとも思う。
 そして、そんな自分がいやになる。
 わかってる。
 いつまでも自分だけの竜介でいてもらうなんて無理。
 でも、もう少しだけ、ほんの少しだけ、彼の「お姫様」でいたい。
 本当に、それだけだったのに。

 長い築地塀のむこうに見慣れた門が見えてくると、涼音は足が急に重くなったような錯覚に捕らわれた。
 紅子が目を覚ましていたら、どうしよう。
 竜介からは、紅子に会ったらちゃんと謝っておくようにときつく言われている。
 でも、あの子に頭なんか下げたくない。
 あとから割り込んできたのは、あの子なのに。
 ともすれば止まりそうになる足を、忍び寄る寒気から逃れるため懸命に動かしながら、深いため息をつく。
 と、そのときだった。
 見知らぬ少女が、突然、声をかけてきたのは。


 涼音の視界に入るかぎり、周囲に人影などなかった。
 にもかかわらず、その奇妙な少女は、たしかにそこにいた。
 涼音は驚きのあまり返事もできずにいたが、少女は質問の答えを期待してはいなかったらしく、手に持っていた白い封筒を彼女に差しだし、言った。
「これを」
 相手の雰囲気に呑まれたまま、涼音は差し出された物を受け取る。
 その封筒はちょうど大学ノートくらいの大きさで、裏も表も真っ白なまま、宛名も差出人も書かれていなかった。
 もちろん、中身の説明なども、ない。
「たしかに渡したぞ」
 わけもわからず、ただ呆然と封筒に視線を落とす涼音の耳に、少女の満足げな声が聞こえた。
「え?」
 慌てて視線を上げる。
 だが、時既に遅く――あの黒い少女の姿は、もはやどこにもなかった。
 現れたときと同じく、彼女は忽然と涼音の視界から消えた。
 まるで、闇が人の形をとって現れ、ふたたび闇に戻ったかのように。

 説明も何もなく、ただ手渡された差出人不明の封筒は厚みもさほどなく、振っても音がしなかった。
 封緘(ふうかん)もされていなかったので、涼音は思い切って中を開けて見た。
 中身は、和紙でできた大きめの短冊のような紙片が八枚。
 いずれも複雑な幾何模様が、墨で黒々と描かれている。
 こんなもの、どうしろというのだろう――
 意味が分からずに呆然と立ちつくしていると、今度は突然、電子音が鳴り響いた。
 不意をつかれ、涼音は思わず小さな悲鳴をあげたが、携帯の着信音だということに気づくと、急いで通学鞄を開く。
 薄暮の中、携帯の液晶だけが青白く光る。
 そこに浮かび上がる発信者の名前を見て、涼音は通話ボタンを押した。
『呪符は、受け取っていただけたかしら』
 涼音が何か話す前に、相手の声が聞こえた。
 なぜ、自分が受け取ったことを知っているのだろう。
 涼音は声の震えを悟られないよう、できるだけ堂々とした口調で尋ねた。
「……これ、どうすればいいの」
『あなたのお屋敷の敷地に、岩があるわ。不思議な……模様が刻んである』
 涼音が嫌いな、きれいな声。
『岩は全部で八つ。その岩に、一枚ずつ、貼っていっていただきたいの』
 ちょっと手間だけれど、やっていただけて?
「貼ったら……どうなるの」
 電話のむこうで、ふっと笑う気配がした。
 わかっているくせに、と言わんばかりに。
『消えるのよ』
 その声は優しいのに、涼音の耳には、なぜか寒々として恐ろしく響いた。
『邪魔者が』


 少し、考えさせて……。
 電話はそう言って切れた。
 何を考えることがあるのだろう?
 きっと、あの子もすぐに気づく。
 迷う事なんて、何もないと。
 彼女はツーという信号音だけになってしまった携帯を閉じると、それをいとおしい物のように両手で抱いた。
 赤い唇から、溜息がもれる。
 もうすぐ、会える。
 愛しいあの人に。


 携帯の留守番サービスに吹き込まれた声は、珍しくせっぱ詰まっていた。
『竜介さん、僕です。志乃武(しのぶ)です。……少し困ったことが起きてしまいました』
と、少しどころでなく困っている様子の声。
『すみませんが、折り返し僕の携帯に連絡をください。できれば、至急で。お願いします』
録音はそこで終わっていた。

 虎光の部屋で洋酒のボトルを空けた後、自室に戻ってきた竜介は、充電器に立てかけたままほったらかしにしていた携帯を何となく開いてみて、着信が一件あることに気づいた。
 それが、志乃武からのこのメッセージだった。
 着信時刻は今から三時間ほど前。
 ちょうど、黄根老人を出迎えていた頃合いだろうか。
 家の電話にかけてくれていたら、斎さんか滝口さんが取り次いでくれたろうに――
 至急、と言うわりには回りくどいやり方に、竜介は眉をひそめた。
 他の人間に知られたくないことなのだろうか?
 ややこしい問題でなければいいが、と、ともすれば沈みがちになる気分を無理に引き立てながら、志乃武の携帯を呼び出す。
 すると、相手は電話を握りしめて待ちかまえていたかのように、たった一回のコールで出た。
 竜介が連絡が遅くなったことを軽くわびてから用件を尋ねると、志乃武の憔悴した声が言った。
『そちらに、日可理から何か連絡は入ってませんか』
「日可理さん?いいや」
 そういえば、彼女の体調は快復したのだろうか。
 医師から鎮静剤を投与されて眠る、青ざめた顔が脳裏をよぎる。
 そのことを言うと、志乃武の声は一層沈んだ。
『体調は問題ない……と思うんですが』
歯切れの悪い返答。
『何と言えばいいのか……あれからずっと、日可理の様子がおかしくて』
 彼が言うには、顧客から依頼された占術の仕事も放ったままで、ぼんやりと過ごすことが多くなったらしい。
 それだけならまだしも、行き先も告げずに忽然と屋敷からいなくなったかと思うと、いつの間にか自分の部屋に戻っていたりすることが、ここ数日頻発していたという。
『どこへ行っていたのかと訊いても、笑うだけで答えないか、逆に、自分は今どこかに出かけていたのかと聞き返してくるんです。……どうも記憶がときどき飛ぶらしくて』
 日可理はあまり冗談を言ったりふざけたりするたちではない。
 それに、時折見せる不安そうな表情は、とても嘘をついているようには見えなかった、と彼は疲れた声で言った。
『実は今日、病院で詳しい検査を受ける予定だったんですが……朝の九時ごろ部屋まで迎えに行ったら、中はもぬけの殻で、それきり、まだ』
「日可理さんの携帯は?」
『通じません。電源を切っているみたいで』
 竜介は電話の向こう側に聞こえないよう、密かに溜息を吐いた。
「……わかった。もし日可理さんから何か連絡があったら、知らせるよ」
 そう言って携帯を切る頃には、元から浅かった酔いは完全に醒め、それどころか室内の気温が一度低くなったような錯覚に襲われて、彼は身震いを一つした。
 携帯で時刻を確認すると、もうすぐ夕食の時間。
 それなのに食欲を感じないのは、酒のせいだけだろうか。

 竜介は携帯を閉じると机の上に置き、部屋を出た。
 向かう先は、食堂ではなく風呂場である。
 身体にしみついたアルコール臭をシャワーで流すつもりだった。
 夕食前に酒を飲んだと英莉に知られたら、あとがうるさい。
 飲んだという気がまったくしないのに、理不尽な気もしないではないが、子供みたいに叱られるよりはましだ。
 携帯を置いて出たのは、日可理から連絡が入る可能性は低いと思ったから。
 たしかに、志乃武たち姉弟と竜介との付き合いは長い。
 もうかれこれ十年になる。
 しかし、それは決して特別なものではなく、親しい友人としての付き合いの域を出ない、彼はそう考えていた。
 母親の胎内から一緒だった肉親をさしおいて、親しいとはいえ、ただの友人にまず助けを求める人間がいるだろうか?
 おそらく志乃武は心当たりにすべて連絡をしてみたものの、手応えがなかったために、藁をもすがる思いでこちらに電話をしてみたのだろう。
 心配は心配だが、さしあたって今の自分にできることなどないに等しい。
 とりあえず、あとで一度、日可理さんの携帯にこちらからかけてみるか。
 何かの拍子につながるかもしれないし――
 そんなことを考えながら、風呂場の前まで来た、そのとき。
 まだ引き戸に手をかけてもいないのに、いきなりそれがガラリと開き、中から小柄な人影が出てきた。
 温かな湿り気を含んだ空気と、せっけんの匂い。

 紅子だった。

2009.9.14


第百十二話へ戻る

第百十四話へ続く

このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。

ねこまんま通信/掲示板/ 小説
リンク集/ SENRIの部屋