第百十三話「心の迷宮・7」
死にそうなくらい凄まじい喉の乾きと空腹とともに目が覚めた。
枕元にいたのは英莉と鷹彦で、そのことに紅子はほっとした。
もし枕元に竜介がいたら、どういう顔をしたらいいのかわからなかっただろう。
英莉の目は潤んでいて、心底安堵したというように息をつくと、
「よかった、目が覚めたのね……」
そう言って言葉をつまらせた。
続けて鷹彦が言った。
「紅子ちゃん、二日も眠ってたんだぜ」
夢の中で竜介が言ったことは本当だったということだ。
英莉は人差し指でさりげなく目頭を拭いながら、尋ねた。
「気分はいかが?何か欲しいものはあるかしら」
とにかく喉が乾いてうまく声が出ないので、まずは水をもらい、次いでいきなり固形物よりはと、とりあえず喉の乾きも癒せるゼリー飲料をいくつかもらったのだが、これがまったく腹の足しにならない。
結局、滝口に頼んで比較的消化の良さそうなメニューを急ごしらえで持ってきてもらい、布団の上に起き上がってそれをきれいに平らげた。
食欲が収まると、今度は寝汗でべたべたする髪や身体が俄然気になりだした。
風呂に入りたいと訴えたところ、英莉が風呂場まで付き添うことで、どうにか許可が出た。
廊下はひんやりとして、濡れ縁との間に閉め立てられたガラス戸の外は夜のように暗い。
驚いた紅子が時刻を尋ねると、英莉は午後四時を過ぎたくらいだと言った。
「今は雨脚が弱まっているけれど、さっきまでひどい雷雨だったのよ」
彼女は続けた。
「ふもとの道が一部冠水して通れなくなってるらしいって、さっき斎さんが言っていたわ」
泰蔵さんのところへは、あなたの体調と相談しながら明日以降に考えましょうね。
そんな話をするうちに、浴室に着いた。
思ったよりしっかりした足取りの紅子に、英莉は安心したらしい。
「私は滝口さんと台所にいますから、長湯しないで、上がったら必ず私たちのところに言いに来てちょうだいね」
と言いおいて、彼女は廊下をもどって行った。
泰蔵の家に行くときは前回と同じく山を越えるのがいいな――
紅子は熱い湯の中で手足に血流が戻ってくるのを実感しながら、そんなことを思った。二日も眠ったあとでなまっている身体には、いい運動になるだろう。
窓にはまっているすりガラスのこちら側には、外気が寒いせいでうっすら水滴が浮いている。
それを見るともなく眺めながら、眠っているあいだに見た夢のことへと、いつしか彼女の思いは移っていった。
大昔のことだとわかっていても、思い出すと今も胃の中に石を飲み込んだような重苦しい気分に襲われる、御珠の記憶。
あれは自分の未来だと思った――現実に戻れば間違いなく待っている、抗うことのできない運命なのだと。
血なまぐさく恐ろしい記憶から、運命から逃れる道は、死の闇に深く沈んでいた。
その途上を、迷いながらもそろそろと進みかけていたとき――
とうに亡くなったはずの祖母の声に、呼ばれた気がした。
その姿を探して背後を振り返った瞬間、オレンジ色の炎が忽然と現れ、闇を切り裂いた。
暗かった視界は気が付くと朱色に染め替えられ、まるで舞台の場面転換のように、景色は一変していた。
なぜかそこはよく知った自宅の仏間で、そして――
炎の向こうには、竜介がいた。
一番会いたくて、一番会いたくなかった人が。
紅子には温度のない立体映像のようでしかない炎が、竜介には本物と寸分違わぬ熱を持って感じられるらしく、彼は舞い散る火の粉から手で顔をかばうようにしてこちらを見ていた。
驚きに我を忘れた目。
どういう態度を取ったらいいのかわからないまま、つっけんどんな応答をする紅子に怒りもせず、二日も眠っているから起こしに来た、と彼は言った。
このままだと死ぬことになる、とも。
それでもいい、と答えた言葉にうそはない。
それなのに。
目の前にいる彼は、夢が作り出した幻だとわかっているのに――
心が揺れる。
現実に戻りたい、と叫ぶ。
夢ではない、現実の竜介に会いたい、と。
だが、頭の片隅で、別の声がささやくのだ。
現実に戻ったところで、お前は「封印の鍵」として死ぬだけだ。
この男も、しょせんお前の力を利用しようとしているにすぎない。
見ただろう?御珠の記憶の中で、多くの神女が殺されるのを。術に耐えきれずに死んでいくのを。
可哀想に……お前もああなるのだよ。可哀想に……。
その声が、紅子を混乱させ、苦しめた。
わからない――何がうそなのか。どこまでが真実なのか。何を信じればいいのか。
もう考えるのをやめてしまおう。
何もかももうどうでもいい、ただ楽になりたいと思った、そのとき――
ものすごい力で、腕をつかまれた。
そして次の瞬間、高圧電流のような「何か」が、自分の腕から竜介の手へ、一瞬にして駆け抜けるのを感じた。
竜介はそのとき、魂縒のときに紅子が受けた御珠の記憶を「見た」のだ。
彼の顔は青ざめ、その目には驚愕や苦悩、逡巡など様々な感情が浮かんでは消えていく。
紅子は彼が手を放すだろうと思いながら、心のどこか片隅で、放してほしくないとも感じている自分を意識した。
そして、竜介は手を放さなかった。
あの月夜の、慰撫するような優しいものとは違う、息苦しいほどの抱擁。
それが、死の夢に浸って冷え切っていた紅子の身体に、心に、生命の温もりをよみがえらせていった。
夢に現れた竜介は、自分の心が見せた幻だとわかっていても、あのときはその幻を通して現実の竜介とつながっているような気がした。
だから、現実に戻ろうと思ったのだ。
そして、ふと思った。
これは夢なのだから、何か一つくらい思い通りになってもいいのでは?
それを言葉にしたとき、竜介は驚きと困惑、それに少し怒ったような顔をして、言った。
「あのさ……額とかじゃダメなのか?」
「ダメ」
紅子は即答した。
「してくれないんだったら、あたし、現実に戻らない」
きっぱり言うと、竜介は困り切った顔で額を押さえ、おおげさな溜息をついた。
「弱ったな……」
そうつぶやくのが聞こえた。
悲しいような、腹立たしいような気持ちで紅子が「もういい」と口を開きかけた、そのとき。
ようやく、竜介が重い口を開いた。
「わかったよ」
次いで、両肩に大きな手が置かれ、端整な顔がおもむろに沈み込んでくる。
と、目の高さが同じくらいになったところで、竜介の動きが止まった。
その目は、ちょっと困ったように笑っている。
「やりにくいから、目を閉じてくれるかな」
「あ……」
そうだった。
セオリー通りに目を閉じる。と――
ほんの一瞬だった。
唇に、温かな何かが、そっとかすめるように降りて――消えた。
脱衣室には全身を映せる大きな姿見が壁にかかっていて、紅子はバスタオルで全身の水滴を大雑把にぬぐった後、そこに映る自分を眺めた。
ひじより少し上に、青黒いあざがある。
大きさは、自分の手よりもひと回り大きい。
それはあの夢の中で、竜介につかまれていたのと同じ場所だった。
あれは本当に、単なる「夢」だったのだろうか?
そして――
あの夢の中の彼は、本当に、自分の心が作り出した「幻」だったのだろうか?
2009.9.14
2021.10.18改稿
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