第百十二話「心の迷宮・6」


「で?」
と、虎光が言った。
「したのか?キス」

※※※

 紅子の意識界から現実に戻って、竜介が最初に目にしたのは、眠る前に見たのと同じ部屋の天井だった。
 窓を叩く雨の音もそのまま。
 ただ、雷雲は遠ざかったようで、時折、低い地鳴りのような音が聞こえる程度になっている。
 金色の法円と、その向こうからこちらを覗き込んでいた黄根老人の顔も、見あたらない。
 黄根老人はもう帰ってしまったのだろうか?
 慌てて起きあがると、
「気分はどうだ」
 聞き覚えのある少ししわがれた声が背後から聞こえた。
 振り返ると、老人は孫娘の枕頭に座し、その額の上にある金色の法円に手を置くところだった。
「……悪くありません」
 竜介は答えた。
 身体にどことなく違和感は残っているけれど、すぐ元に戻るだろう。
 意識界で感じた、奇妙に生々しい夢を見ているような感覚はもうなく、それが何よりほっとする。
 ここは確かに現実だ。
 辺りを見回すと、室内には彼ら三人だけだった。
「俺、何時間くらい眠ってました?」
「一時間強」
 老人は手短に答えると、何やら二言三言つぶやいて紅子の法円を消した。
「五分もすれば目を覚ますだろう」
彼は少女の寝顔を見つめたままそう言うと、おもむろに立ち上がった。
「帰る」

 黄根老人のあとについて廊下に出ると、鷹彦が壁にもたれて立っていた。
 彼は老人を見るや、所在なげにジーンズのポケットにつっこんでいた両手を慌てて出し、会釈したが、朋徳は一瞥をくれただけで彼の前を通り過ぎた。
 そのあとに続く竜介の姿を認めると、鷹彦は、ほっとしたような、それでいてどこか怒っているような顔をした。
「気が散るって言われて、追い出されたんだ」
 鷹彦が小声で耳打ちする。
 さもありなん、と竜介は思ったが、口には出さなかった。
「紅子ちゃんは?」
「じきに目を覚ますそうだ」
 弟の質問に、竜介は、廊下をずんずん進んでいく朋徳の後ろ姿を目で追いながら答えた。
「俺はあの人を見送りに行ってくる。お前は彼女についててくれないか」
 うなずく鷹彦を視界の端で確認して、彼は引き続き老人の背を追いかける。
 玄関でようやく朋徳に追いつくと、できるだけ丁寧に礼を言った。
 嫌いな相手に頭を下げるのは気が進まないが、彼が来てくれなければ紅子を目覚めさせることはできなかったのだから。
 しかし、老人の反応はといえば、斎から受け取ったレインコートを再び着込みながら竜介の顔を一瞥すると、冷ややかに鼻を鳴らしただけだった。
 ほぼ予想通りの反応なので、もう腹も立たない。
「紅子ちゃんにはお会いにならないんですか」
 竜介が尋ねると、朋徳は再び彼を見た。表情を読ませない目。
「今は、な……」
老人は底冷えのするような声で続けた。
「貴様も、そのほうがよかろう」
 その意味深な言葉は、竜介の心臓に氷をとぎすませた刃を当てたような感覚を残した。
 やはり、この男は怖い。
 一体何をどこまで知っているのか、底の知れない恐ろしさがある。
 朋徳はさっさと雨靴をはき終えると、廊下に立ち尽くしていた竜介に向き直り、言った。
「最後に一つだけ、貴様に言っておくことがある」
 玄関のたたきに降りている朋徳の人差し指が、竜介のみぞおち辺りを指す。

「己から逃れることはできぬぞ」

 謎めいた言葉だけを残し、足早に玄関を出ていくその背中を、竜介は急いで追いかけた。
「黄根さん!」
 言葉の意味を問いただしたかった。
 だが、そこにあったのは降りしきる激しい雨と、分厚い雲に太陽を奪われた薄暮のような世界だけ――

 黄根老人の姿は、もはやどこにもなかった。


 その後、竜介は一旦、自室に戻ったが、洋酒の黒い大瓶とグラス二個を提げてまた廊下に出た。
「虎光、入るぞ」
 そう声をかけるのと、足で乱暴に襖を蹴り開けるのとはほぼ同時だった。
 こちらに向けられていた大きな背中が、
「ああ?」
と間の抜けた声とともに振り返る。
 その向こうには、竜介のものと同じ黒いオーク材の事務机があり、机上に置かれたパソコンのモニターは明るかった。
 床に散らばる書類を避けながら彼は室内に入ると、襖をまた足で器用に閉め、
「お前、今、ヒマか?ヒマだよな?ちょっと付き合え」
と、どう見ても忙しそうな弟に向かって酒瓶を見せた。
 そして、場面は冒頭に戻る。

※※※

「っしょーがねえだろ!」
虎光の質問に、竜介はやけくそのように答えた。
「断ったら現実にはもどらないとかぬかしやがって。あのマセガキ」
 虎光の部屋に座卓はないのか、それとも出すのがめんどうだったのか、二人はカーペットの上にじかに腰を下ろし、酒瓶やグラスもそこに置いて飲んでいた。
 散らばっていた書類は、無造作に部屋の隅に寄せてある。
 氷も水もなし。
 竜介は手にしていたグラスの中身をあおると、また新たに液体を注いだ。
 ボトルの残りはあと三分の一くらいだろうか。
「まあいいじゃん、キスくらい」
 虎光はあぐらをかいた膝に頬杖をつき、もう片方の手でグラスをもてあそびながら言った。
 兄とはあまり似ていない、一重まぶたの細い目はニヤニヤ笑っている。
 いつも冷静で動転した所などめったに見せない兄が、珍しく狼狽しているのが面白くて仕方ないらしい。
「減るもんでなし、役得だと思ってありがたーく頂戴しとけば」
 気楽なことを言う弟を、竜介は横目でにらんだ。
「凉音と同い年なんだぞ」
「だから?」
「玄蔵おじさんの娘だし」
「それで?」
「子供に手を出すなんて、俺の主義に反する」
「主義と来たか」
 虎光はくっくと喉で笑うと、グラスに一センチくらいしかない中身を一口なめる。
「てめー笑いすぎなんだよ」
「おおこわ」
 兄の殺気立った口調に虎光は形だけ首をすくめ、そんな弟に竜介は舌打ちをくれると、再びグラスをあおった。
 目は据わっているが、顔色は変わっていない。
「くそっ、ぜんっぜん酔えねー」
「もうやめとけよ」
虎光が少しだけニヤニヤを引っ込めて言った。
「昼酒なんてばれたら、おふくろさんにどやされるぞ」
 英莉は普段、優しくてのほほんとした印象だが、そういった行儀やけじめに関してはけっこう厳しく、こうるさい。
 虎光がグラスの中身をなめる程度にしているのは、酒の匂いで英莉のお小言を頂戴しないようにするためだ。
 が、竜介は虎光の忠告を鼻で嗤った。
「この際、もうどうでもいいや。今日は俺、晩飯いらねー。部屋でふて寝でもしてるよ」
 虎光は苦笑して肩をすくめた。
「何をやけっぱちになってるのか俺にゃわからんけど、真面目な話、兄貴がそんなに混乱してるのは惚れてるからじゃないのか」
 図星を突かれて竜介は言葉に詰まる。その顔を見て、虎光はふふんと鼻を鳴らした。
「語るに落ちたな。いいじゃん、付き合えば」
「だからそれは……」
 最初の反論を繰り返そうとする兄を片手でさえぎり、虎光は続けた。
「心理的ハードルが高すぎるってんなら、あの黄根とかいうじいさんが見せた夢か幻でした、ってことで忘れるだけさ」
 少なくとも、紅子ちゃんは全部夢だったと思ってるんだろ?
 竜介は生まれて初めて光を見たように、目を見開いた。
「そう……そうだよな」
 様々な感情で混沌としていた頭の中に、理性と秩序の道が一筋現れた気がする。
 感触があまりにもリアルだったから混乱してしまったが、あれは紅子の意識界、いわば夢の中の出来事であって、現実ではないのだ。

 彼女への気持ちは真実だが、それを伝えるのに急ぐことはないのだ。
 今はまだ、夢のままでいい――

 竜介はやおら虎光の手からグラスを取り上げると、
「え?おいちょっと」
 当惑する虎光を尻目に残りを飲み干し、来たときと同じように自分のグラスと一緒に片手に持ち、もう片方の手には酒瓶を持って立ち上がった。
「仕事の邪魔して悪かったな。おかげで頭ん中の整理がついたぜ。ありがとよ」
 そう言ってさっさと部屋を出て行こうとする兄に、虎光は苦笑しながら、
「あ、そうだ」
と連絡事項を思い出して手のひらを拳でぽんと叩いた。
「紅子ちゃんを泰蔵師匠のところに送るのはいつにするんだ?」
「今日はもう遅いし、明日でいいだろ」
 竜介は肩越しにそう答え、師匠には俺から連絡しとくよ、と言い残して弟の部屋をあとにしたのだった。

2009.9.1

2021.10.10改稿


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