第百十二話「心の迷宮・13」


 曇りガラスのはまったサッシ窓をすりぬけて、雨の音が浴室に入り込んでくる。
 さらさらという、柔らかで静かな音。
 広い浴槽につかりながら、紅子は聞くともなしにその音を聞いていた。
 今の弱い雨足からは想像もつかないが、昼間は大変な雷雨だったらしい。
 らしい、というのは、自分で実際にそれを見たわけではないからだ。

 目が覚めたのは午後も遅い時間だった。
 紅子はてっきり、魂縒を受けたその日のうちに目が覚めたと思ったのだが、傍にいた鷹彦はこう言った。
「紅子ちゃん、二日も眠ってたんだぜ」
 その言葉を何より裏付けたのは、さびついたように言うことをきかない自分の身体と、今にも餓死しそうなほど凄まじい空腹だった。
 指先がこわばっているせいで箸を何度も取り落としそうになりながら、自室で昼食とも夕食ともつかない食事をとっているとき、念のため滝口に頼んでその日の新聞を持ってきてもらった。
 その日付は、紅子が意識を失ってからたしかに二日が経っていることを告げていた。
 夢の中で、竜介が言った通りに。

 熱い湯の中で手足を伸ばすと、関節や筋肉に血流がよみがえり、ぎこちなさがなくなっていくのがわかる。
 紅子は少しほっとして、深く溜息を吐いた。
 晩秋の日没は早い。
 天候がよくないこともあって、外はもうすっかり夜の気配だ。
 明日、晴れたら身体を動かしたい、と水滴でびしょびしょになった曇りガラスを眺めながら考える。
 ここから泰蔵の家まで走ってみようか。
 アップダウンがありすぎて、途中でへばってしまうかもしれないけど。
 でも――その前に、今夜眠れるかどうかが問題だ。
 二日も眠って、目覚めたばかりなのに。
 そう、もし「寝貯め」ができるなら、しばらくは眠らなくても支障ないほど眠った。
 それなのに、妙な疲労を感じるのはなぜだろう?
 あの妙に生々しい夢のせいだろうか。


 大昔のことだとわかっていても、思い出すと今も胃の中に石を飲み込んだような重苦しい気分に襲われる、御珠の記憶。
 あれは自分の未来だと思った――現実に戻れば間違いなく待っている、抗うことのできない運命なのだと。
 封術を起動すれば、死が待っている。
 たとえ生きて東京に帰れたとしても、他人に決められた人生しか残っていないとしたら。
 だとしたら、現実に戻ったとして、いったい何の意味があるだろう。
 血なまぐさく恐ろしい記憶から、運命から逃れる道は、死の闇に深く沈んでいた。
 その途上を、迷いながらもそろそろと進みかけていたとき、懐かしい声に呼ばれた気がした。
 とうに亡くなったはずの祖母の声。
 その声の主を探して背後を振り返った、そのとき。
 オレンジ色の炎が忽然と現れ、闇を切り裂いた。
 暗かった視界は気が付くと朱色に染め替えられ、死の夢は赤い炎の中で燃え落ちていった。
 だが、夢の向こう側で待っていたのは、またしても夢。
 なぜかそこはよく知った自宅の仏間で、そして――
 炎の向こうには、竜介がいた。
 一番会いたくて、一番会いたくなかった人が。

 紅子には温度のない立体映像のようでしかない炎が、竜介には本物と寸分違わぬ熱を持って感じられるらしく、彼は舞い散る火の粉から手で顔をかばいながらこちらを見ていた。
 驚きに我を忘れたような目で。
 どういう態度を取ったらいいのかわからないまま、つっけんどんな応答をする彼女に怒りもせず、二日も眠っているから起こしに来た、と竜介は言った。
 このままだと死ぬことになる、とも。
 それでもいい、と答えた言葉にうそはない。
 「封印の鍵」としての役目しか待っていない現実に戻るなどありえない、そう思っていた。
 少なくとも、そのときは。
 それなのに。
 目の前にいる彼は、夢が作り出した幻だとわかっているのに――
 心が揺れる。
 現実に戻りたい、と叫ぶ。
 夢ではない、現実の竜介に会いたい。
 だが、頭の片隅で、別の声がささやく。
 ――現実に戻ったところで、お前は「封印の鍵」として死ぬだけだ。
 この男も、しょせんお前の力を利用しようとしているにすぎない。
 ――見ただろう?御珠の記憶の中で、多くの神女が殺されるのを。
 術に耐えきれずに死んでいくのを。
 ――可哀想に……お前もああなるのだよ。
 可哀想に……可哀想に……。
 わからない。
 何がうそなのか。どこまでが真実なのか。
 何を信じればいいのか。
 わからない。
 すうっと目の前が暗くなったような気がした。
 そのとき――
 もの凄い力で、腕をつかまれた。
 次の瞬間、高圧電流のような「何か」が、自分の腕から竜介の手へ、一瞬にして駆け抜けるのを感じた。
 視界は元の明るさを取り戻し、血の気のなくなった竜介の顔が見えたとき、紅子は直感した。
 先の電流のようなものが御珠の記憶だったことを。
 彼は見たのだ。
 あの恐ろしい幻影を、自分と同じように。
 つかまれたままの腕が痛い。
 夢なのに、痛い。
 だが、彼はまもなくその手を放すだろう、と紅子は思った。
 あの記憶を見たのなら、もう現実に戻りたくないというこの気持ちをわかってくれるだろう。
 ところが。
 竜介は手を放さなかった。

 あの月夜の、慰撫するような優しいものとは違う、有無を言わせない、息苦しいほどの抱擁。
 それが、死の夢に浸って冷え切っていた紅子の身体に、心に、生命の温もりをよみがえらせていった。
 今にして思えば、夢に現れた幻にすぎない相手の言葉を真に受けるなど我ながらどうかしている。
 が、あのときは目の前の幻を通して、現実の竜介とつながっているような気がしたのだ。
 だから、決めた。
 現実に戻ることを。
 そして、ふと思った。
 これは夢なのだから、何か一つくらい思い通りになってもいいはずだ。
 目の前の竜介が夢の産物であるなら、なおのこと。
 現実ではかないそうもない、けれど、とてもささやかな望み。
 それを言葉にしたとき、竜介は驚きと困惑、それに少し怒ったような顔をして、言った。
「あのさ……おでことか、ほっぺたじゃダメなのか?」
「ダメ」
紅子は即答した。
「唇にしてくれないんだったら、あたし、現実に戻らない」
 きっぱり言うと、竜介は困り切った顔で額を押さえ、おおげさな溜息をついた。
「弱ったな……」
 そうつぶやくのが聞こえた。
 もちろん、竜介が本当に無理だと言うのなら、そのまま現実に戻るつもりでいた。
 けれど。
 そんなにイヤがることないじゃん。
 悲しいような、腹立たしいような気持ちで「もういい」と言いかけた、そのとき。
 ようやく、竜介が重い口を開いた。
「わかった」
と、たしかに彼は言った。
 両肩に大きな手が置かれ、端整な顔がおもむろに沈み込んでくる。
 と、目の高さが同じくらいになったところで、竜介の動きが止まった。
 その目は、ちょっと困ったように笑っている。
「やりにくいから、目を閉じてくれるかな」
「あ……」
 そういえば、そうだった。
 セオリー通りに目を閉じる。と――
 ほんの一瞬だった。
 唇に、温かな何かが、そっとかすめるように降りて――消えた。


 脱衣室には全身を映せる大きな姿見が壁にかかっていて、その足下に体脂肪計つき体重計が置いてある。
 この屋敷には誰か、ウエイトコントロールに余念のない人物がいるらしい。
 涼音――は体型からしてそういうイメージではないから、英莉だろうか?
 紅子はバスタオルで全身の水滴を大雑把にぬぐった後、姿見に映る自分を改めて見た。
 くっきりした二重の目がこちらを見返している。
 今でこそ、おしゃれや化粧に夢中の友人たちから、
「紅子は目が大きくてまつげも濃いから、マスカラもアイラインもいらなくてうらやましい」
などと言われるが、小学校の頃までは、口さがない男どもから「ギョロ目」などとからかわれたりしたものだ。
 首から下に目を転じれば、やや筋肉質だが、細く引き締まったボディライン。
 悪くない。
 と自分では思うのだが、白鷺家で鷹彦が見ていたアダルトサイトの画像群に比べれば、当然だが見劣りがする。
 でも、あたしだってあと二、三年もすれば、あれくらい……!
 そう思いかけて、自分にはもう「二、三年後」どころか、来年というものさえないかもしれないことに思い当たり、紅子は苦笑した。
 一瞬でも未来の自分を想像したことが馬鹿らしい。
 現実に戻るとは、そういうことだとわかっていたけれど。
 なかなか乾かない髪を肩に掛けていたバスタオルでがしがしとぬぐい、再び鏡の中の自分を見ると、何だか情けない顔。
 その顔に向かって正拳突きと後ろ回し蹴りを繰り出してみた。
 ハイキックのつもりが、ミドルキック。
 切れ味もシャープとは言い難い。
 溜息が出た。
「こんなんじゃ、ハエが止まっちゃいそう……」
 鏡には、軸足である左半身が映っている。
 紅子は鏡の中の自分の左腕を見た。
 ひじより少し上に、青黒いあざ。
 大きさは、自分の手よりもひと回り大きい。
 いつ、どこでできたものかわからない――否。
 「これは夢だ」と意識できる夢。
 身体感覚が現実とほとんど変わらない夢。
 あの夢の中で、ほぼ同じ場所を竜介に痛いほどつかまれていた。

 あれは本当に、単なる「夢」だったのだろうか?
 そして――

 あの夢の中の彼は、本当に、自分の心が作り出した幻だったのだろうか?

2009.9.1


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