第百十一話「心の迷宮・12」


「で?」
と、虎光が言った。
「したのか?キス」


 紅子の意識界から現実に戻って、竜介が最初に目にしたのは、眠る前に見たのと同じ部屋の天井だった。
 窓を叩く雨の音もそのまま。
 ただ、雷雲は遠ざかったようで、時折、低い地鳴りのような音が聞こえる程度になっている。
 金色の法円と、その向こうからこちらを覗き込んでいた黄根老人の顔も、見あたらない。
 黄根老人はもう帰ってしまったのだろうか?
 慌てて起きあがると、
「気分はどうだ」
 聞き覚えのある少ししわがれた声が背後から聞こえた。
 振り返ると、老人は孫娘の枕頭に座し、その額の上にある金色の法円に手を置くところだった。
「……悪くありません」
 竜介は答えた。
 身体にどことなく違和感は残っているけれど、すぐ元に戻るだろう。
 意識界で感じた、奇妙に生々しい夢を見ているような感覚はもうなく、それが何よりほっとする。
 ここは確かに現実だ。
 辺りを見回すと、室内には彼ら三人だけだった。
「俺、何時間くらい眠ってました?」
「小一時間」
 老人は手短に答えると、何やら二言三言つぶやいて紅子の法円を消した。
「五分もすれば目を覚ますだろう」
彼は少女の寝顔を見つめたままそう言うと、おもむろに立ち上がった。
「帰る」

 黄根老人のあとについて廊下に出ると、鷹彦が壁にもたれて立っていた。
 彼は老人を見るや、所在なげにジーンズのポケットにつっこんでいた両手を慌てて出し、会釈したが、朋徳は一瞥をくれただけで彼の前を通り過ぎた。
 そのあとに続く竜介の姿を認めると、鷹彦は、ほっとしたような、それでいてどこか怒っているような顔をした。
「気が散るって言われて、追い出されたんだ」
 鷹彦が小声で耳打ちする。
 さもありなん、と竜介は思ったが、口には出さなかった。
「紅子ちゃんは?」
「じきに目を覚ますそうだ」
 弟の質問に、竜介は、廊下をずんずん進んでいく朋徳の後ろ姿を目で追いながら答えた。
「俺はあの人を見送りに行ってくる。お前は彼女についててくれないか」
 鷹彦は兄に向かって小馬鹿にしたような「へっ」という笑いをもらすと、
「言われなくてもそうするぜ」
と言った。
「こーゆーとき、大抵のヒロインは目覚めて最初に見た男と恋に落ちるって決まってんだ」
「わかったわかった」
 相変わらず意味不明な軽口をたたく弟に、竜介はおざなりな返事をして老人の背を追いかけた。
 玄関でようやく朋徳に追いつくと、できるだけ丁寧に礼を言った。
 嫌いな相手に頭を下げるのは気が進まないが、礼儀は礼儀だ。
 それに実際、彼が来てくれなければ紅子を目覚めさせることはできなかった。
 しかし、老人の反応はといえば、斎から受け取った黒のレインコートを再び着込みながら竜介の顔を見て、冷ややかに、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
 ほぼ予想通りの反応なので、もう腹も立たなかったけれど。
「紅子ちゃんにはお会いにならないんですか」
 竜介が尋ねると、朋徳は再び彼を見た。
 表情を読ませない目。
「今は、な」
老人は底冷えのするような声で続けた。
「貴様も、そのほうがよかろう」
 その意味深な言葉は、竜介の心臓に氷をとぎすませた刃を当てたような感覚を残した。
 やはり、この男は怖い。
 一体何をどこまで知っているのか、底の知れない恐ろしさがある。
 廊下に立ちつくす竜介を後目に、朋徳はさっさと雨靴をはき終えると、
「小僧」
と竜介を呼んだ。
 まるで、故意に彼の怒りを煽ろうとするかのように。
 何か言い返してやろうと口を開きかける竜介をさえぎり、老人は言った。
「最後に一つだけ、貴様に言っておく」
 玄関のたたきに降りている彼の人差し指が、竜介のみぞおち辺りを指す。

(おのれ)から逃れられる者はおらぬぞ」

 それだけ告げるときびすを返し、玄関を出ていく老人のあとを、竜介は追わずにいられなかった。
「黄根さん!」
 彼は玄関の外を見た。
 だが、そこには降りしきる激しい雨と、分厚い雲に太陽を奪われた薄暮のような世界が広がっているだけだった。
 黄根老人の姿は、もはやどこにもなかった。

 その後、竜介は一旦、自室に戻ったが、黒いダルマのような洋酒の大瓶とグラス二個を提げてまた廊下に出た。
「虎光、入るぞ」
 そう声をかけるのと、足で乱暴に隣室の襖を蹴り開けるのとはほぼ同時だった。
 こちらに向けられていた大きな背中が、「ああ?」と間の抜けた声とともに振り返る。
 その向こうには、竜介のものと同じ黒いオーク材の事務机があり、机上に置かれたパソコンのモニターは明るかった。
 床に散らばる書類を避けながら彼は室内に入ると、襖をまた足で器用に閉め、
「お前、今、ヒマか?ヒマだよな?ちょっと付き合え」
と、どう見ても忙しそうな弟に向かって酒瓶を見せた。
 そして、場面は冒頭に戻る。


「っしょーがねえだろ」
虎光の質問に、竜介はやけくそのように答えた。
「断ったら現実に戻らないとかぬかしやがって。あのマセガキ」
 虎光の部屋のカーペットはモスグリーン。
 二人はその上に直接、腰を下ろして飲んでいた。
 散らばっていた紙類は、とりあえずといった感じで部屋の隅に寄せてある。
 彼らの間には木製のローテーブルが一台あり、そこに置かれた黒ダルマの中身はすでに四分の一くらいまで減っていた。
 氷も水もなく、二人ともストレートで飲んでいる。
 竜介は手にしていたグラスの中身をあおると、また新たに液体を注いだ。
 酒はもう残りわずか。
「まあいいじゃん、キスくらい」
 虎光はテーブルに頬杖をつき、もう片方の手でグラスをもてあそびながら言った。
 兄とはあまり似ていない、一重まぶたの細い目はニヤニヤ笑っている。
 いつも冷静で、動転した所などめったに見せない竜介が、珍しく狼狽しているのが面白くて仕方ないらしい。
「減るもんでなし、役得だと思ってありがたーく頂戴しとけば?やーしかし、聴けば聴くほどもったいない話だよなぁ。俺だったら、死なないで、とか言われた時点で抱きしめてもみくちゃにして最後までいただいてるなぁ、絶対」
 どこまで冗談かわからない口調でそう言って、自分でうんうんとうなずいている気楽な弟を、竜介は横目でにらんだ。
「あの状況で、んなことできるわけねーだろ。アホかお前」
 第一、現実とは身体感覚が微妙に異なるせいか、あのときはそういう衝動を感じなかった。
 もし感じたとしても、実行に移せるわけがない。
 涼音と同い年、しかも玄蔵の一人娘に成り行きで手を出すなど、あってはならない。
 自分の主義に反する。なのに――
 相手からせがまれて仕方なくとはいえ、してしまった。
 キスを。
 竜介はグラスを持っていないほうの手で頭をかきむしった。
「あーっ、くそ!近親相姦でもやらかしちまったような気分だぜっ」
「き、近親相姦て」
虎光はげらげらと腹を抱えて笑い出した。
「ひー腹いてぇ。今時、中学生でもたかがキスでそこまで悩まねーぞ」
「うるせえ。てめーそれ以上笑うとぶっとばす」
 殺気立った目で睨まれて、虎光はどうにか馬鹿笑いをやめると、目尻にたまった涙をぬぐいながら、「わりぃわりぃ」と全然悪びれた様子もなく謝った。
 その目はまだ笑っている。
 竜介は弟に舌打ちをくれると、またグラスをあおった。
 目は据わっているが、顔色は変わっていない。
「ちくしょう、ぜんっぜん酔えねー」
「もうやめとけよ」
虎光が少しだけニヤニヤを引っ込めて言った。
「昼酒なんてばれたら、おふくろさんにどやされるぞ」
 英莉は普段、優しくてのほほんとした印象だが、そういった行儀やけじめに関してはけっこう厳しく、こうるさい。
 だが、このときの竜介は別の問題で頭がいっぱいで、それに比べれば義母からの叱責など取るに足りないことと思われた。
 彼は何かを追い払おうとするかのように、空いている手をひらひらと振りながら言った。
「もうすぐ晩飯だろ?食前酒だよ、食前酒っ」
 虎光は肩をすくめた。
「ボトルほとんど一人で空けといて、何が食前酒だか」
 どちらが兄だか弟だかわからない。
「てかさ。あの子と涼音って、同い年って以外に何か共通点あるか?まあどっちも気は強そうだけど」
真面目な話、タイプが全然違うと思うんだよな。
「なんだかんだ言って、惚れてるからそこまで混乱してるんじゃね?」
 さらりと図星を指されて、竜介は空のグラスを見つめたまま、固まってしまった。
 それを見て、虎光はふっと鼻で笑う。
「語るに落ちたな」
 彼は自分のグラスに残っていた酒で舌を湿らせ、言った。
 竜介のものと同じ大きさのグラスが、その体格のせいか、虎光の手中では小さく見える。
「いいんじゃねーの?付き合っちゃえば?」
「九歳も下なんだぞ」
「野暮なこと言うなよ」
 竜介はグラスから手を離すと、テーブルにひじをついて両手を組み、それで額を押さえた。
 深いため息をついたあと、ようやく彼はぽつりと言った。
「鷹彦があの子を気に入ってる」
 虎光は興味なさそうに「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「どうせいつものナンパのノリだろ?ほっとけよ」
「けっこうマジらしい」
 虎光はグラスを置くと、広い胸の前で腕を組む。
 しばらく考えてから、彼は言った。
「だけど、あの子が好きなのは兄貴だ。鷹彦じゃねえ」
「人の心は変わる」
 虎光は肩をすくめた。
「またえらく悲観的だな。付き合う前から浮気の心配か?」
 竜介は唇だけで笑みを作った。
「あの子はまだ高校生だし、これからいくらでも出逢いがある、ってことさ。元の生活にもどれば、俺のことなんか忘れちまうよ」
「俺は兄貴ほどあの子を知ってるわけじゃない」
 虎光はあごを撫でながら言った。
「けど、そんな浮ついた感じは受けないがなぁ」
「あの子は、全部自分が見た夢だと思ってる」
竜介は言った。
「夢なら、簡単に忘れられる」
 弟のお気に入りを取り上げるようなまねはしたくない。
 それに、今の自分には恋愛などにかまけていられるような精神的余裕もない。
 竜介が言葉を切ると、長い沈黙が降りた。
 それを破ったのは、虎光だった。
「兄貴がそれでいいなら、俺から言うことは何もねえ」
彼は頭を掻き、長い溜息をつくと、言った。
「だがな、一つだけ言っとく。後悔しても知らねーぞ」
 竜介は喉の奥でクスッと笑った。
「するかよ、後悔なんか。地球上の人口の半分は女なんだぜ?」
 あの子だけが女じゃねーよ。
 そう言うと、彼は立ち上がった。
「仕事の邪魔して悪かったな。おかげでぐちゃぐちゃだった頭ん中の整理がついた。ありがとよ」

 兄が出ていったあと、虎光はなかなか仕事に戻る気になれず、座卓に頬杖をついて、空になった黒ダルマと二個のグラスを眺めていた。
 地球上の人口の半分は女なんだぜ?
 そう言った竜介の顔が脳裏をよぎる。
 自分に言い聞かせているような、苦々しい笑み。
「兄貴よ、たしかに女は星の数ほどいるだろうよ」
虎光はもういない相手の代わりに、グラスに向かって話しかけた。
「だがなぁ、掛け値なしで惚れて惚れられる相手と巡り会える確率ってのは、そう高くねえ。違うか?」
 後悔なんかしない、と竜介は言った。
 その言葉にうそはないだろう。
 そう――
 少なくとも、今は。

2009.8.18


第百十話へ戻る

第百十二話へ続く

このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。

ねこまんま通信/掲示板/ 小説
リンク集/ SENRIの部屋