第百十一話「心の迷宮・5」
紅子は驚きに目を見開きながら、あっという間に重心を失って炎の輪からまろび出ると、竜介の胸に倒れ込んだ。
四日前の、あの月の夜を再現するように。
自分より九歳も年下で、涼音と同じ高校生。
いくら見てくれが大人っぽくても、凉音と同い年の子供に恋愛感情を持つほうがどうかしている、ずっとそう思っていたし、そんなことに思考を割く精神的余裕もなかった。
たびたび彼女をからかったのは、顔を真っ赤にしてむきになるところが可愛かったから。
が、今にして思えば、無意識のうちに確かめていたのかもしれない。
紅子は涼音と同じ「子供」なのだと。
そして、自分は彼女から嫌われているのだと。
自分に課せられた使命は、黒珠を封じ、紅子を玄蔵のところに、元の生活に無事戻すこと、それだけ。
そう――思っていた。
あの夜までは。
あの日、竜介は夕食後、虎光と彼の部屋で軽く飲みながら久し振りに会った泰蔵の様子などを話した。
ひと風呂浴びてからまた飲み直そうと思っていたのだが、入浴後に弟の部屋をのぞいてみたら、相手は酔いが回ったのか、明かりをつけたまま畳の上で大の字になってしまっていた。
仕方なく、二メートル近い巨漢を引きずるようにして夜具に寝かせたあと、彼は自室に戻って月を相手にまた飲み始めたのだった。
が。なにぶん、月は相づちすら打ってはくれない。
沈黙が欲しいときはこれ以上の友はないのだけれど、その夜の彼にとって、夜空に浮かぶ青白い淑女は静かすぎて物足りなかった。
酒もさほどすすまない、さりとてまだ眠る気分にもならない――
手持ち無沙汰にグラスの中に映る小さな月をぼんやり眺めていた、そんなときだった。
ふと気配を感じて視線を上げた。
見慣れた庭が、月の光を受けて銀色に輝いている。
その中に、まるで化身のように忽然と立ち尽くしていたのが――紅子だった。
その日の彼女は、泰蔵から聞かされた昔話がよほど衝撃だったらしく、午後からはずっとぼんやり物思いにふけっているような感じだった。
だから、恐らく眠れずに深夜の庭へさまよい出たのだろうということは竜介にも容易に想像がついた。
月の光の中で、その白い横顔はずっと大人びて見えた。
気が付くと、声をかけていた。
驚いた様子で振り向く彼女の顔。
その頬が、こちらを見るなりぱぁっと上気した、あの瞬間を竜介はおそらく一生忘れないだろう。
胸の奥の、淡いさざめきとともに。
あの夜、あのとき――
本当はすべてが変わってしまっていたのだ。
ただ、訪れた変化のそのあいまいな影を、竜介は無視し続けてきた。
それを直視し、それに名付けることを避けてきた。
そうすれば、なかったことにできると思っていた。少なくとも、まだ考えなくてすむと。
だが、今――それはもはや「影」ではなくなってしまった。
竜介は腕を緩めると、うつむいている紅子の肩に両手を置いて、その目を覗き込んだ。
涙にぬれた黒い瞳が、彼を内側から焼く。
彼は言った。
「誰もきみを利用なんかしない」
これが自分のするべき事なのかどうかはわからない。
ただ、今はこの涙をとめたい。
そして、その思いが自分の心の那辺からわきあがるものかということに、彼はもう気づいてしまった。
「俺がさせない、絶対に。きみが見たものは、あれは遠い過去の幻影だ。きみの未来じゃない」
紅子は視線を上げて竜介の目を見た。
「あたし……」
何かを言いかけたが、怒ったような苦しいような表情で、再び目を伏せる。
頬を伝い落ちる、白いしずく。
竜介はそれを人差し指ですくい上げた。温かい。
「『封印の鍵』なんかやめていい。だから、どうかもどってきてくれないか」
「わからない」
紅子は目を伏せたまま、絞り出すように言った。
「あたしだってもどりたい。でも、現実の、東京にもどって、みんなに……父さんや、春香や学校の友達に会ったら……そうしたらきっと、あたしはみんなを見捨てるなんてできなくなる」
『封印の鍵』をやめることなんてできない。
己の命と引き換えに封禁の術を立ち上げることになるだろう。
結局すべて、過去の幻影をなぞるように――
「だからってこのままここにいたら、死ぬだけだ。見捨てるのと同じことになるんだぞ」
「わかってるよ、そんなこと!」
今ひとつ元気のないかんしゃく。
それでも竜介には、それが何よりの手応えに思われた。
「しょうがないじゃん、怖いんだから!」
現実にもどるのが怖いんだから!
「現実にもどったからって、死ぬとは決まってない」
手の中で震えていた細い肩が、少し静かになる。
我ながら予言者めいた言葉だと思いながら、竜介は続けた。
「きみは死なない。俺を信じて、もどってきてくれ」
紅子を説得するためのでまかせなどではなく、彼にはそれを可能にする確信めいたものがあった。
ヒントは奇しくもあの忌まわしい過去の幻影だ。
四つの御珠からしか魂縒を受けていない神女でも、封禁の術を起動するときに伺候者から強力なサポートを得られた者は生き延びることが多かった。
顕化を持つ自分が伺候者に入れば、きっと彼女は死なずに済む。
その結果、たとえ俺が命を落としても――そう思ったとき、鷹彦の顔が脳裏に浮かんだ――あいつが紅子ちゃんを支えてくれるだろう。
そんな竜介の心中など知る由もない紅子は、顔を上げて彼を見つめていた。
彼の言葉に驚いたのか、その目は大きく見開かれ、何か不思議なものを見るような輝きが宿っている。
ややあって、ためらいがちに、その唇が開いた。
「……あんたはたぶん、あたしの生きたいって気持ちが生み出した幻……なんだよね」
でも――
彼女は言いよどみ、竜介の顔から目をそらすと、続けた。
「でも……現実の竜介も、そんなふうに思ってくれてる……かな」
竜介は一瞬、真実を話してしまいたい衝動にかられたが、それを押し殺し、精一杯の笑顔で言った。
「きっと……いや、絶対思ってるさ」
紅子は小さくうなずいた。
「そう、だったらいいな」
涙のあとが白く残る顔。
それが、はにかむように、嬉しそうに、そのときようやく――
笑った。
「ここを出れば、目が覚めるの?」
見慣れているはずの玄関の引き戸をためつすがめつしながら、紅子が言った。
「そのはずだよ」
と、竜介。
彼ら二人は仏間を出て、一色家の玄関のたたきに立っていた。
かなり長い時間をここですごしたような気がするのに、外から差し込む光は竜介がここに来たときと同じ、真昼のまぶしさを保っている。
「開けるぞ」
と、彼が引き戸に手をかけようとした、そのとき。
「待って」
紅子が竜介の袖を引っ張った。
「あの、ここってほんとに夢の中……なんだよね?」
竜介は、今更何を念押しするのかと思いながら、肩越しに答えた。
「夢だよ」
そして、声に出さずに付け加える。
俺の存在を除いてはね。
「そう……だよね」
はは、と紅子はどこか気の抜けた笑いをもらして、うつむく。顔が赤い。
「その、目を覚ます前に、一つだけお願いが……あるんだけど」
竜介は彼女の正面に向き直ると、
「いいよ。何?」
紅子はしばし逡巡するように視線を泳がせた後、ようやく、意を決したように顔を上げる。
紅潮した頬。
ゆっくりとその人差し指を持ち上げ、自分の淡い桜色の唇を示しながら――彼女は言った。
「キスして。ここに」
2009.8.4
2021.09.30改稿
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