第百十話「心の迷宮・4」
黒珠の封印によって、戦は終わった。
人々は平穏を取り戻し、大地には再び豊かな緑があふれる――はずだった。
現実は違った。
すべては幻となりはてた。
封禁の術を行った天帝と伺候者たちは命まで失うことはなかったが、力の大半を失った。
残る神女たちだけではもはや天候の変異をくいとめることはおろか大地を再生することもできず、御珠の一族は長く住み慣れた父祖の地を離れ、温暖な南へむかう旅を余儀なくされる。
厳しい寒さに追われるようにして海を渡り、たどり着いた小さな島国。
そこに彼らは新しい王国を築こうとした。
このときの天帝は、五つの御珠から魂縒を受けた神女としては最後の一人であった。
このままでは天帝としてつとめを果たせるだけの力を持った神女がいなくなることに不安を抱いた炎珠の者たちは、安住の地が見つかった今、黒珠の封印を解くことを主張した。
見知らぬ土地に根を下ろし、かつてのような繁栄を取り戻すには、黒珠の力が不可欠だ、と。
長く過酷な旅に誰もが疲れ切っていたのだろう。
その提案に異を唱える者はおらず、黒珠の封禁は解かれた。
解除には封印の時と同じく、術を立ち上げる神女とそれをバックアップする四人の伺候者を必要とする。
術を起動する手順、法円を踏む者たちの霊力。
何かが間違っていたのか、何かが足りなかったのか。
それとも、封禁の術そのものにどこか間違いがあったのか――
封印を解かれた黒珠の者たちは、障気をまとう恐るべき異形としてこの世に姿を現した。
彼らは亡霊のように闇を好み、人を襲ってはその脳髄を喰らった。
実体と霊力を取り戻すため、また封印を受けていた間の記憶を補うために。
恐怖と混乱の中、黒珠から魂縒を受けることはもはや望むべくもなかった。
封禁の術を行うにしても、伺候者となる神女たちはいずれも四つの御珠から魂縒を受けた者しかいない。
それでも、やらねばならなかった。
そして――
五つの御珠から魂縒を受けた最後の天帝は、黒珠を再び封印するのと引き替えに、その命を落とした。
封禁の術はまさしく禁断の術だった。
禁忌に触れた報いは、やがて御珠の一族全体の運命を狂わせていく。
黒珠の者たちのおぞましい姿は、術に対するぬぐうことのできない恐怖を人々の心に刻みつけた。
とくに、黄珠を始めとする三支族が自分たちでは扱うことのできないこの禁術を恐れたことは当然といえる。
自分たちにあの忌むべき術が使われることのないようにするには、どうすればいいだろう?
炎珠の者を一人残らず殺してしまうか――いや、それでは黒珠の封印が老朽してきたとき困ることになる。
では、どうするか。
炎珠はもともと男児がほとんど生まれない女系一族である。
四つの御珠からしか魂縒を受けられなくなった炎珠の神女の霊力は、黄珠を始めとする他の三支族のそれよりやや抜きんでているというほどしかない。
ならば――
炎珠を組み敷いてしまえばよい。
それが、三支族がたどりついた結論であった。
残る三支族では最も霊力の高い黄珠が玉座を占めてより後、炎珠の神女たちがたどった運命は、過酷というにはあまりあるものだった。
黄珠の新しい王は彼女らを一人残らず捕らえると、特殊な護法を張り巡らせた後宮に閉じこめた。
炎珠の者にのみ有効で、彼女らの力を抑えるための護法である。
宮殿が広く、豪奢なつくりだったのは、かつて支配者として神にも等しい力を振るった炎珠への、せめてもの敬意だったのだろうか。
だが、その中身は、ていのいい牢獄だった。
抗う者、反乱を企てる者、力のない者は、たとえ子供であろうと容赦なくその命を奪われた。
黄珠、白珠、そして碧珠。
彼らによって、天帝の眷属たる炎珠の誇りは踏みにじられた。
彼らはただ黒珠の封印を保つ、それだけのために神女を生かし、霊力を制御し、その血統を強迫的なまでに守ってきたのだ。
彼女たちの意思とは無関係に。
そしてそれは、度重なる戦乱によって黒珠の石柩が失われ、御珠の一族が散り散りになるまで続き――
現代に至る。
※※※
生々しい幻影の嵐はほんの一瞬の停電のように竜介を襲い、去っていった。
気がつくと彼は大きくあえぎ、全身にびっしょり冷たい汗をかいていた。
人の心は、ここまで醜くなることができるのか――
これが現実なら間違いなく吐いていたと思うほど、強烈な吐き気が彼の胸を焼いた。
三支族と、黒珠と。
いったいどちらが異形だろう?
おおまかな経緯は知っていたが、こうして嫌気がさすほど微細に事実を見せられると、けだものにも劣るような輩から受け継いだ自分の血が呪わしくなる。
「……放して」
そんな声が聞こえた気がして、竜介はようやく自分の手の中にある紅子の腕に気づいた。
炎越しに伸ばした腕は灼熱の舌にあぶられているのに、何の熱も痛みも感じない。
奇妙といえば奇妙だが、現実ではないこの空間で彼はもはやそんなことに拘泥する気にならなかった。
それよりも、少女の身体が元の質感を取り戻し、足下に柔らかな影を落としていることのほうがはるかに大事だ。
「痛いったら」
今度ははっきりと聞こえた。
竜介は視線を上げて紅子の顔を見た。
炎に照らされたその白い頬を、透明なしずくが静かに伝い、落ちていく。
「もう……いいでしょ?あたし、誰にも利用されたくない。楽になりたいの。だから……放して」
訥々としたその言葉は、竜介が今その手を放せば、彼女が再び無意識の闇に溶けてしまうことを意味していた。
だが、彼にはそれが紅子の本心からの望みとは思えなかった。
炎の明かりを受けて揺れる涙が、まるで彼女の心を映しているような気がして。
迷っている心なら、こちらへ引き戻せるかもしれない――だが、その資格が俺にあるのか?
遠い昔のこととはいえ、黒珠と封禁の術を恐れるあまり、人の心を捨てたような連中の血を引く俺に。
この世の地獄を見てしまった少女の苦しみは、察するに余りあった。
「楽になりたい」などという、およそ彼女らしからぬ言葉からもそれが痛いほどわかる。
死にたくなるような苦痛を引きずったまま現実に戻るか、それとも苦痛を逃れて命を手放すか。
本当に紅子のためになるのは、いったいどちらだろう。
わからない。
――わからない。
今わかることは、ただこの手を放したくないということ、それだけ。
自分にはそんな資格などないかもしれない。
それでももし許されるなら、この少女の涙をぬぐってやりたい。
その苦しみを、少しでもいい、取り除いてやりたい。
わき上がる感情を何と呼ぶべきか考えるよりも先に、竜介は紅子の腕を強く引いていた。
2009.7.22
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