第百十話「心の迷宮・11」


 紅子のあごにかけていた指をはずしてぬれた頬をぬぐうと、新たなしずくが大きな黒い瞳からこぼれ落ちる。
「どうして……」
紅子は口に出しかけた問いを途中でやめると、かぶりを振った。
「できるわけない……そんなこと」
「できる」
竜介は断言した。
「それできみが死を選ばずにすむなら、俺が可能にしてみせる」
「でも」
 反論しようとする少女の唇を人差し指でふさぐ。
 驚きに大きくなるその目を見ながら、彼は言った。
「きみの望みに俺は従う。だから……楽になりたいなんて言わないでくれ」
 竜介の指が唇から離れると同時に、白磁のようだった紅子の頬に、かぁっ、と朱がさす。
 鮮やかなバラ色。
 紅子は男から間近に注がれる視線を避けるように赤い顔をそむけた。
「あたし……」
 そう言ったきり、彼女は唇をきゅっと結び、困ったような、苦しいような表情で黙り込んだ。
 彼女の心は、生々しすぎる過去の幻影とまだ苦闘を続けているのだろう。
 沈黙を先に破ったのは、竜介だった。
「すまない」
罪悪感に耐えきれなくなった彼は言った。
「俺に、きみを現実に引き留める資格なんてないことはわかってる」
 もはやどうすればあがなえるのかもわからない罪。
 それは自分のとがではない。
 ないけれど、この血肉にたしかに刻まれていることに変わりはない。
「俺が謝ってもどうにもならないことも。ただ……わかってほしいんだ。きみが見たものは、あれは、遠い昔に終わったことだ。だからって、もう時効だとか、そんなくだらないことが言いたいんじゃない。俺が言いたいのは、あれはきみの未来じゃないってこと。それだけだ」
竜介はそう一気にまくし立てると、こう付け加えた。
「『封印の鍵』をやめてもいい。一色の血を絶やしたってかまわない。それできみが苦痛から解放されるなら」
 紅子は驚いた顔で竜介を見ると、
「違う」
と、かぶりを振った。
 何かを振り払うように。
「そうじゃない。あたし、あたしは、ただ……」
 彼女の望むことは、

「東京に、戻りたい」

 それだけ。
 だが、その望みは、さまざまな矛盾をはらんでいた。

「あたしだって、この手で世界を守れるなら、そうしたい」
 でも、本当にそれができるのかどうかが、わからない。
 自分の受けた魂縒はまだ三つ。
 このあと黄珠から受けることができたとしても、四つの御珠から受けた力だけで、黒珠に完璧な封禁をかけることができるのか。
「たくさん死んでた」
 封禁の術と引き替えに。神女が。
 それははるか昔の幻のはずなのに、まるで未来の自分のようだった。
 竜介は違うと言ってくれたけれど。
「でも、あたしは、死にたくない」
 紅子は、無意識にだろうが、竜介の腕を痛いほどつかむと絞り出すような声で言った。
「何も変わってない、いつも通りの世界に、あたしも戻りたいって思うのは、わがまま?」
 術を起動した結果、たとえ自分が親しい人たちが待つ世界に生きて戻れなかったとしても、世界は何事もなかったように動いていくだろう。
 自分はやがては忘れられ、たまに思い出されるだけの存在になる。
 耐えられない。
「あたしの……この命と引き替えじゃなきゃ……やっぱ、だめなのかな?」
 消え入りそうなその声は、涙で震えていた。
「だめじゃない」
竜介は言った。
「俺を封術の伺候者に入れればいい。立ち上げまで、きみにかかる負荷は俺が引き受ける」
 紅子は驚いて顔を上げた。
「そんなことしたら、竜介が死んじゃう」
 竜介は薄く笑った。
「自分の力のキャパくらい、大体の見当はつく。俺はそう簡単に死なねーよ」
それに、と続けて、
「もし死んでも、きみが生き残ればそれでいい」
「よくない!」
 紅子はそう叫んでから、自分の語調に驚いた様子で口を手でふさいだ。
「だって……だって、あんたが言ったんじゃない。また東京で会えるって」
 慌てたような早口で付け加えられた言い訳に、竜介は笑ってうなずいた。
「そうだったな」
「だったら、あたしだけ生き残っても意味ない」
 紅子はそっぽを向くと、ややあって、怒ったような口調で続けた。
「死んじゃ、やだ」
 逡巡するような間がほんの一瞬あり、不意に上げられた彼女の目が竜介のそれとまともにぶつかる。
 かすれた声で彼女は言った。

「あたし……竜介と、また会いたい。現実で、東京で。……だから……死なないで」

 それは、たしかに愛の言葉だった。
 この上なくつたない――けれど、竜介がこれまでの人生で女性から受けたいくつかの甘い言葉のうち、これほどまでに懸命で、真摯で、これほどまでに彼の心を震わせたものなどなかった。
 竜介は、気が付くとまた紅子を抱きしめていた。
 腕の中にすっぽりとおさまってしまう、華奢な身体。
 一瞬、この意識界に入る直前に見た、鷹彦の顔が彼の脳裏をよぎる。
 だが、走り出した心を止めることは、もうできなかった。
「ありがとう」
紅子の耳元に唇を寄せ、ささやくように彼は言った。
「俺も、きみとまた、東京で会いたい」
 ゆっくり身体を離し、相手の顔をうかがうと、こちらを見上げてきた目と視線が絡まった。
 涙にぬれて、くしゃくしゃになってしまった小さな顔。
 それが、はにかむように、嬉しそうに、そのときようやく――
 笑った。


「ここを出れば、目が覚めるの?」
 曇りガラスのはまった引き戸を前に、紅子が不思議そうに言う。
「そのはずだよ」
と、竜介。
 彼ら二人は仏間を出て、玄関のたたきに立っていた。
 かなり長い時間をここですごしたような気がするのに、外から差し込む光は竜介がここに来たときと同じ、真昼のまぶしさを保っている。
 現実ではいったい何時間がすぎているだろう。
 早く戻りたい。
「開けるぞ」
と、彼が引き戸に手をかけようとした、そのとき。
「待って」
 紅子が竜介の袖を引っ張った。
 こんな居心地の悪いところに――いや、紅子にとっては自分の意識が作り出した世界なのだから、居心地が良いのかもしれないが――、彼女はまだ何か未練でもあるのだろうか。
 そんな軽いいらだちを気取られないよう、彼は黙って振り返った。
 紅子はどことなく険のある彼の目に気づいた様子で、
「ごめん」
と謝る。
「でもあの……これってほんとに夢なのかなって思って。なんか、すごいリアルだし」
 竜介は笑って答えた。
「夢だよ」
 そして、声に出さずに付け加える。
 俺の存在を除いてはね。
「そう、そうだよね」
はは、と紅子はどこか気の抜けた笑いをもらして、うつむいた。
「あ……その、目を覚ます前に、一つだけ、お願いが……あるんだけど」
 竜介は彼女の正面に向き直ると、
「いいよ。何?」
と訊く。
 が、紅子は逡巡するように視線を泳がせるだけで、答えない。
 沈黙が続き、急かしたほうがいいのだろうかと竜介が思い始めた頃。
 ようやく、紅子が顔を上げた。
 決然とした表情。
 彼女は言った。
 ゆっくりとその人差し指を持ち上げ、自分の淡い桜色の唇を示しながら――
「キスして。ここに」

2009.8.12


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