第百九話「心の迷宮・10」


 相手の動きを、紅子は予測していなかったらしい。
 驚きに目を見開きながら、その身体はあっという間に重心を失って炎の輪からまろび出ると、竜介の胸に倒れ込んだ。
 まるで、五日前の、あの月の夜を再現するように。

 自分より九歳も年下で、涼音と同じ高校生。
 玄蔵の一人娘で、ごく幼い頃に会ったこともある。
 いくら見てくれが大人っぽくても、そんな姪っ子のような少女に恋愛感情を持つほうがどうかしている、ずっとそう思っていた。
 成長した紅子に再会して、なおかつ彼女を自分の庇護下に置ける、それは単純に嬉しかったけれど、黒珠の覚醒が思ったより早く、魂縒を急がねばならない状況下では、何よりそんなことに思考を割く精神的余裕もなかった。

 紅子の強情さや強気な面に本気でいらだったこともあった。

 彼女の竜介に対する第一印象が最悪で、余計な警戒心を持たれたせいもあるのだろうが、もしそうでなかったとしても、やはり同じような衝突は避けられなかったに違いない。
 なぜなら、涼音と紅子には決定的な性格の違いがあるにもかかわらず、竜介はそれを無視して、これまで紅子を涼音と同じに見てきたからだ。

 涼音は紺野家唯一の女の子として甘やかされて育ったせいか、自力で何とかなることも周りの人間に頼ってしまうところがあり、中学では帰宅部だったのに高校でいきなり陸上部に入部したときは、一週間保つかどうか家族全員から心配されていたくらいの甘ったれだった。
 それとは対照的なのが紅子で、自分のことには自分でケリをつけるという、他人をあてにしない野良猫のようなその性格が竜介には扱いづらく、また驚きでもあった。
 八千代が自分亡き後、玄蔵に何かあったときのためにと彼女をそうしつけたのか、あるいは単にそれが彼女の持って生まれた性格なのかどうかはわからない。
 自分の人生、自分の世界は自分で切りひらく。
 それはそれで頼もしいのだが、竜介には彼女がそんな強さを身につけるにはまだ早すぎる気がして、ついかまいたくなる。
 それが紅子には時にうっとうしく感じられるらしい。
 もっとも、白鷺家ではその強さに助けられたこともあったし、近頃はよそよそしさも消え、少しは頼られているのかと思うこともあるけれど。
 たびたび彼女をからかったのは、顔を真っ赤にしてむきになるところが可愛かったからだが、今にして思えば、無意識のうちに確かめていたのかもしれない。
 どんなに女に見えても、紅子はしょせん涼音と同じ「子供」なのだと。
 そして、自分は彼女から嫌われているのだと。

 それでいいと思っていた。
 否、そうでなくてはならないと思っていた。
 黒珠を封じ、紅子を、玄蔵のところに、元の生活に無事戻すこと、自分に課せられた使命はそれだけで、他には何もない。
 ありえない。

 それなのに――
 あの夜、なぜ紅子に声をかけてしまったのだろう?

 あの日、竜介は夕食後、虎光と彼の部屋で軽く飲みながら久し振りに会った泰蔵の様子などを話した。
 ひと風呂浴びてからまた飲み直そうと思っていたのだが、入浴後に弟の部屋をのぞいてみたら、相手は酔いが回ったのか、明かりをつけたまま畳の上で大の字になってしまっていた。
 仕方なく、二メートル近い巨漢を引きずるようにして夜具に寝かせたあと、彼は自室に戻って月を相手にまた飲み始めたのだった。
 が。なにぶん、月は相づちすら打ってはくれない。
 沈黙が欲しいときはこれ以上の友はないのだけれど、その夜の彼にとって、夜空に浮かぶ青白い淑女は静かすぎて物足りなかった。

 酒もさほどすすまない、さりとてまだ眠る気分にもならない――そんなとき、庭木の影から忽然と現れたのが、紅子だった。

 その日の彼女は、泰蔵から聞かされた昔話がよほど衝撃だったらしく、午後からはずっとぼんやり物思いにふけっているような感じだった。
 だから、恐らく眠れずに深夜の庭へさまよい出たのだろうということは竜介にも容易に想像がついた。
 月の光のいたずらだろうか、その横顔は、普段の紅子とは別人のように愁いを帯びて見えた。
 そのたたずまいがあまりにも絵になりすぎて、気が付くと、声をかけてしまっていた。
 驚いた様子で振り向く彼女の白い顔が、こちらを見るなりぱぁっと上気した、あの瞬間を竜介はおそらく一生忘れないだろう。
 胸の奥の、淡いさざめきとともに。

 あのとき声をかけなければ、状況は違っていただろうか。
 思いがけない涙や、少女と女の間をたゆたう危うさに触れることもなく、今も紅子を「子供」としか見ていなかっただろうか。
 それとも――
 ただ、今の竜介にわかることは、あのとき感じた胸のさざめきが何だったのかということ。
 それは、長らく彼が忘れていたもの。
 恋の予感だった。

 紅子を見ていて時折感じる、奇妙な物足りなさ、歯がゆさの原因。
 あの夜、彼女を抱き寄せた瞬間、自分を圧倒しかけた感情の正体。
 彼女の腫れた頬を治しているとき感じた、得体の知れない衝動。
 薄いベールの向こうで揺れるそのあいまいな影を、竜介は無視し続けてきた。
 だが、今それは姿を現し、彼の腕の中にいる。
 あの夜と同じ。
 ただ違うことがあるとすれば、この空間が現実のものではないということ。
 これは、夢だ。いかに現実に近くとも、しょせんは目覚めればいつしか忘れてしまう、あえかな幻。
 ならば今、この胸のうちで暴れる甘やかな熱に少しばかり身をゆだねたとしても、誰のとがめるところとなろう。
 しかし、と別の声がささやく。今、お前のするべき事は本当にそれなのか?

 竜介は腕を少し緩めると、うつむいている紅子の頬に片手をすべらせた。
 その下顎に人差し指をかけてゆっくり持ち上げると、涙にぬれた強烈な瞳が現れ、彼を内側から焼く。
 これが自分のするべき事なのかどうかはわからない。
 ただ、今はこの涙をとめたい。
 そして、その思いが自分の心の那辺からわきあがるものかということに、彼はもう気づいてしまった。
「誰もきみを利用なんかしない」
竜介は言った。
「俺がさせない」

2009.8.4


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