第百六話「心の迷宮・7」


 炎の中で目を覚ました少女は、しばらくの間、自分の身体をしげしげと改めていた。
 まだ半ば眠っているような、ぼんやりとした表情で、不思議そうに。
 それはまるで、なぜ自分がここにいるのかわからない、と言っているようだった。
 しかし、やがて周囲を見渡して竜介の存在に気づくと彼女の目は大きく見開かれ、次いでその表情は一変して険しくなった。
 八千代は自分の孫娘に何も教えなかったらしい。
 少女はこう言った。
「なんで……あんたがここにいるの」
 似たようなセリフを少し前にも聞いた。
 あまり友好的とはいえない言葉と態度だが、竜介は安堵の笑みを抑えられなかった。
 目の前にいるのは、確かに自分がよく見知っている紅子だ。
 彼は質問に答える代わりに聞き返した。
「俺がいると、何か不都合でも?」
「別に」
紅子はぷいと横を向いて言った。
「ただ、なんでいるんだろうと思っただけ。これはあたしの夢なのに」
 竜介は少なからず驚いた。
 彼女は、ここが現実ではないということを知っている。
 現実のようであってそうではない、この奇妙な空間が。
「そうだな、これは夢だ」
と彼は言った。
「碧珠の魂縒を受けてから、きみはもう二日も眠ってる。だから、起こしに来たんだ」
 どこから、どうやって、と訊かれれば、正直に答えるつもりだった。
 だが、紅子は尋ねなかった。
 彼女は竜介を含めて今目に映るすべてを自分の夢の産物と解釈したのだろうか。
「来なくていい」
 少女はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに言った。
「あたしはこのままでいいの」
 竜介は眉をひそめた。
「眠ったまま死ぬことになるぞ」
「それでもいい。もう、何もかもどうでもいい」
 現実に戻ることをここまで頑なに彼女に拒否させるものとはいったい何なのか。
「いいわけねぇだろ。黒珠を封印して、元の生活に戻るんじゃなかったのか」
 彼の言葉に、紅子は一瞬、心を揺らしたようだった。
 だが、迷いを払うようにかぶりを振る。
「あたし、今まで軽く考えすぎてた。それがよくわかったの」
「何を軽く考えてたって?」
 竜介はいやな胸騒ぎを覚えながら尋ねた。
「黒珠を封印することか、元の生活に戻ることか?」
 紅子は「全部」と答える。
「そうか」
 竜介は大きく息を吐きながら、訊いた。
「御珠の記憶を見たから?」
 違う、という返事がほしかった。
 が、同時に、それが得られないだろうことも彼は知っていた。
 紅子は驚いた様子で目をみはると、
「……知ってるの?」
期待を裏切る答えを口にした。
 竜介は心中でため息をついた。
 紅子は知ってしまったのだ――できることなら彼女にだけは永遠に秘密にしておきたかった、汚らわしくも残酷な真実を。
「たぶん、きみほど詳しくはないと思うけどね」
 彼はそう答えて皮肉っぽく笑った。
「魂縒を受けた者はみんな、大昔の記憶を見せられることになってるらしい」
「どうして黙ってたの」
 その声には力がなく語尾が震えていて、竜介を困惑させた。
 いっそなじられたほうが、どれだけ気が楽だろう。
「余計なことできみを混乱させたくなかった」
 半分真実、半分は嘘。
 彼は言い直した。
「……すまない、違うな。それもあるけど、それだけじゃない。できれば知られたくなかったんだ。俺たちの先祖がきみの先祖にどんなことをしてきたか」
「だったら、もうあたしにかまわないで。ほっといて」
「きみを死なせたくない」
 紅子はふっと笑った。
 初めて見せる、冷たい笑み。
「『封印の鍵』がいないと困るものね」
 竜介はいらだちを抑えなかった。
「俺がそういう意味で言ってるんじゃないことくらい知ってるだろう」
「竜介はそうでも、他の人は?」
 八千代と同じ問いを、紅子は相手の顔から目を逸らしたまま、静かにその唇に乗せる。
 そして彼の返答を待たずに、つぶやいた。
「もう、どうしたらいいのかわかんないよ……」
 彼女の姿に異変が起きたのは、そのときだった。
「あたし……何を信じたら……」
 リアルな質感を保っていたその身体が、すうっと背景に融け始める。
 消えていく、華奢な肩。
 竜介は全身が総毛立つような危機感に襲われた。
「やめろ、消えるな!」
 いくぶん勢いは弱まっているとはいえ、彼女の周囲ではまだ火が燃えている。
 しかし、もはやそんなことなど気にしている場合ではなかった。
 彼は衝動的に炎の向こうへ身を乗り出すと、思い切り手を伸ばした。
 まだかろうじて実体を保っている少女を捕らえるために。

 今にして思えば、八千代がここにいたことは彼女なりの「親切」だったのだ。
 小さな紅子を使った「引っかけ」を用意していたとはいえ、結果的に紅子本人をこうして呼びだしてくれたのだから。
 彼女が本気で自分の孫娘を目覚めさせないつもりだったなら、竜介を自ら迎えたりはしなかっただろう。
 適当な幻でも見せておいて罠にかけて殺すか、手ぶらで退散させればいい。簡単なことだ。
 紅子が目覚めることか、それとも永遠に眠ることか、八千代はどちらを望んでいたのだろう。
 いずれにしても、彼女はもういない。
 もしもこのまま紅子が消えることを許してしまえば、その意識を呼び出すすべは、彼にはない。
 そして、現実の彼女は永遠に目覚めない。
 八千代は消える寸前、竜介を「坊や」と呼んだ。
 それはこういうことだったのか?
 彼が紅子を再び無意識の闇の中へ逃がしてしまう、その予言だったのだろうか。
 だったらどうだってんだ、と彼は心中で毒づいた。
 予言。
 運命。
 そんなものくそくらえだ。
 心の底では八千代も、自分の孫娘がこんなところで死んでしまうことなど望んでいなかったはずだ。
 あのいけ好かない黄根老人と同じように。
 それは竜介も同じだった。
 もう一度、現実で、自分が知っている通りの紅子に会いたかった。
 ――なぜ?
 その理由を考えるよりも先に、彼の手は少女の細い二の腕をつかんでいた。
 その瞬間。
 紅子に触れた部分から、雷に打たれたような衝撃が彼の全身を貫いた。
 接触による感応、それも一方的かつ圧倒的な情報の流入。
 それは、御珠の記憶だった。
 彼が魂縒を受けたときとは比べ物にならないほどの現実感を伴った、強烈な記憶。
 単なる事故のようなものだったのか、それとも紅子の意志によるものだったのかは、わからない。
 ただ、結果として彼は彼女とまったく同じ記憶を共有することとなった。
 悲劇の一族の歴史を。


 天帝暗殺――それが終わりの始まりだった。
 いかに強大な霊力を手に入れようと、人の業は尽きぬものなのだろうか。
 暗殺者はすぐに捕らえられた。
 天帝の身の回りを世話する、傍仕えの少女。
 彼女の部屋から、治癒を禁じる術をかけられた、血まみれの短剣が発見されたのである。
 だが、事件はそれだけで終わらなかった。
 彼女は五支族の首長全員が集められた評議会で、こう主張したのである。
 自分は誰かに操られたのだ、と。
 実際、彼女には動機らしい動機が何もなかった。
 そして――
 彼女が普段使っている寝台の下、その床に、人の意志力を奪う、強力な法円が描かれているのが見つかった。
 術は、それが強ければ強いほど、使い手を選ぶ。
 霊力の寡少な者に強制力の大きい術は使えない。
 それはちょうど、小さな器に大量の水を入れようとすることに似ている。
 ただ違うのは、強大な術は器からこぼれるのではなく、それを壊してしまうということだ。
 つまり――
 問題の法円を描いた人物は必然的にかなり強い力を持つ者に限定されることになる。
 それは、暗殺を企てた謀反人が、炎珠、あるいは黒珠のいずれかに潜むことを示唆していた。
 だが結局、その「謀反人」は見つからなかった。
 仕方なく、事件をとりあえず終結させるために評議会が決めたことは、二人の人物を処刑することだった。
 一人は、気の毒にも何者かに操られて殺人者となってしまった少女。
 そしてもう一人は――天帝の花婿である黒珠の若者。
 而してその罪科は、天帝にもっとも近く、彼女を守る立場にありながら結果的にその責務を果たさなかった、という、半ばこじつけのようなものだった。
 黒珠の首長が王配たる青年の処刑にかなりの難色を示したのは当然のことといえた。
 が、結果的に彼がそれを認めたのは、自分たちに謀反の意志などない、つまり傍仕えの少女を操った者は自分たちの身内ではありえない、ということを他の四支族に訴えるための苦肉の策であった。

 果たして真の「謀反人」とはいったい何者で、どこへ消えてしまったのだろうか。
 一つだけ考えられることがある。
 直接己の手を汚すことなく標的を消し去った彼――あるいは彼女――は、それを企て、実行した己が記憶をも、その力でもって消し去ったのではないかということだ。
 強い霊力を持つ者であれば、そう難しいことではないのだから。
 炎珠の一族は、殺された天帝の身内であるがゆえに、評議会で糾弾されることはなかった。
 だが、彼らの中に、口をぬぐって素知らぬ振りを決め込んでいる裏切り者がいないなどと誰が言えよう。
 いずれにしても、真実が明かされることはなく、疑惑の火種は残ることとなった。
 黒珠の者たちは相応以上の犠牲を払ったにもかかわらず、この事件よりのち、華やかな権勢を急速に失っていく。
 己が主上にまがう事なき忠誠を誓いながらも、あらぬ疑惑によって権力の座を追われることに屈辱を感じない者などいないだろう。ましてや強大な霊力を誇る一族であればなおのこと。
 最初のうちこそ心を一つにして再起を誓った黒珠の一族だったが、その団結に崩壊の亀裂が目立ち始めるまで、さほど時間はかからなかった。
 そしてそれこそが、黒珠の者たちを亡き者とし、炎珠の者たちを天帝の眷属から追い落とさんとする、黄珠の首長たちの狙いであった。
 黒珠の一族では、ひたすら天帝に忠誠を誓い、いつか疑惑の晴れる日を待ち続けるべきだと主張する、穏健だがある意味愚直とも言える者たちが大勢を占めていた。
 しかし、時は人の心を変えていく。
 鬱屈した日々が長引くにつれ、自分たちは何者かにはめられたのであり、多少強引な手を使ってでも己が権勢を取り戻すべきだと過激な主張をする者たちが徐々に力をつけ、世代交替がそれに拍車をかけた。
 やがて――
 黒珠を除く四支族は緊急評議会を開き、天帝にこう奏上した。
 黒珠の者たちに反逆の疑いあり、と。

2009.6.30


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