第百五話「嵐の日・1」


 その日――
 朝から降り出した雨は次第に強くなり、午後には雷を伴う豪雨となった。
 竜介は昼食後、滝口がいれてくれたコーヒーを飲みながら、閉め切られたガラス戸を叩いては流れ落ちる雨をぼんやりと眺めていた。
 ガラスはところどころ白く曇り、暖房の効いた室内に比べて外気温がいかに低いかを物語っている。
 その向こうに広がる空は暗い灰色で、ただでさえ暗澹とする気分にさらに拍車をかけるかのようだった。
「竜兄」
 背後から呼ばれて振り向くと、鷹彦が立っていた。
 その浮かない顔を見るだけで答えは知れたが、念のため質問してみる。
「紅子ちゃんは?」
 鷹彦はかぶりを振った。やっぱりな、と彼は声に出さずにつぶやく。
 碧珠の魂縒を受けてから、今日で三日目。
 紅子はまだ、眠り続けていた。


 二日前。
 碧珠は紅子に魂縒を授けると、しばしのまどろみに入るかのようにその光と力を弱めた。
 同時に、竜介と鷹彦の身の内には、なんとも言えない違和感が広がる。
「うへえ、御珠の力が弱まるとこんな感じなのか。日可理さんも志乃武くんもよく平気な顔してたなぁ」
 竜介は鷹彦が魂縒を受けたときすでに経験済みだったが、今回が初めての鷹彦はそんなふうにブツブツとひとりごちた。

 今頃は泰蔵・玄蔵親子もそれぞれ紅子が魂縒を受けたことに気づいているだろう――

 鷹彦の文句を聞き流しながら、竜介はそんなことを思っていた。
 帰路、術後の昏睡状態に入った紅子については彼ら二人が交代で背負う手はずで、前半の荷役は鷹彦だった――のだが。
 身軽だった往路でさえあれだけ足が遅れていた鷹彦に、行程の半分とはいえ、人を背負って歩き通せる体力が残っているはずもなく。
 結局、彼は行程の四分の一くらいで音を上げた。
「ごめん、竜兄。もうちょっと頑張れると思ったんだけど」
 荷役交代後、鷹彦は申し訳なさそうに言った。
「短い距離でも手伝ってくれたらそれでいいさ」
 竜介が肩越しになぐさめる。
 鷹彦は兄の後ろを歩きながら、眠る紅子の頬をつついた。
「かわいい寝顔しちゃって。お姫様、いつになったら俺っちの切ない胸の内をわかってくれるの?」
「お前は自分の気持ちを優先しすぎなんだよ」
竜介は苦笑して言った。
「今の紅子ちゃんは自分のことで手一杯で、お前の胸の内なんか知ったこっちゃないんだと思うぞ」
「それもそうかも」
鷹彦は珍しく神妙な顔であいづちを打った。
「昨日買い物に行ったとき思ったんだよな。こんなに楽しそうにしてる紅子ちゃんは初めて見たな、って」
 その後、しばらく考え込んでから、彼は言った。
「東京に戻ってからでも、遅くないよな」
 質問とも独り言ともつかない弟の言葉に、竜介は前を見たまま、答えた。
「遅くなんかないさ」

 ――そんな会話を交わしてから、丸一日が経過。
 碧珠の力はとっくに回復している。
 なのに、紅子の昏睡はまだ、続いていた。
「どうする?」
 鷹彦が落ち着かない様子で尋ねる。
「どうもこうも、これ以上昏睡が続くようなら、入院させるしか……」
と、竜介が言いかけた、そのとき。
「お話中、失礼致します」
執事の斎が部屋の入口に立っていた。
「お客様がおみえです。紅子様にぜひお目にかかりたいと」
 来客。こんな雨の日に、それも紅子に。
 いぶかしむ竜介と鷹彦の顔を見て取った斎は、ひと呼吸置いて、こう続けた。

「お名前は、黄根朋徳と――おっしゃっておいでです」

 それはまるで、人の形をした黒い影のように見えた。
 薄明の中、男は黒いレインコートだけで雨に打たれていた。
 フードを目深にかぶり、ややうつむいているその顔は上半分が見えない。
 時折ひらめく稲光が、白髪まじりのひげに覆われた口元から下を照らし出し、したたり落ちる雨滴を白く光らせる。
 男は傘を持っていなかった。
 両手は空で、軽く拳をつくって身体の両脇にだらりと下げている。
 それにもかかわらず、彼には隙がない。

 そして、全身からみなぎる、圧倒的な力の気配。

 それは、中肉中背の平凡な体躯をしたこの男が、見たままの人物ではないことを何よりも証すものだった。
 斎の執務室で防犯カメラの映像を確認した後、門まで男を出迎えに行った竜介は、その気配にはるか十七年前の記憶を呼び覚まされる心地がした。
「ご無沙汰しています」
そう言って、持ってきた傘をさしかける。
「黄根さん」
 男は悠然と門をくぐると、顔をあげた。
 稲妻がしわ深くなったその面を照らし、雷鳴が辺りを震撼させる。彼は薄く嗤っていた。

「わたしが野垂れ死んでいなくて残念だったな。小僧」

 その言葉は、まるで抜き身の刃のように、竜介の背筋をぞくりとさせた。
 さしかけられた傘を無視して玄関へ向かう朋徳の後ろ姿を見つめながら、相変わらずこの男は怖い、と思う。
 と同時に、彼と拳を交えてみたい気持ちが高まるのを感じずにいられない。
 限界まで引き絞った弓のようにキリキリとした緊張を強いられる、朋徳の気配。
 老いてなお、なぜこの男は何人をも寄せ付けぬ凄絶な気配をまとい続けるのか――言葉で尋ねても、彼はおそらく答えないだろう。
 そんな確信が、なぜか竜介にはあった。
 玄関のたたきで朋徳はぬれそぼった雨具を脱ぎ、出迎えた滝口にそれを手渡した。
 レインコートの下はえび茶色の綿入り作務衣で、傘を差していなかったにもかかわらず、奇妙なことにそれはまったく雨の影響を受けていなかった。
 ひげと同じく白髪のまじった蓬髪をさらした老人は、黒い長靴を脱いで板間に上がると、右手に控えていた斎に言った。
「そこに立つな。わたしは右目が見えん」
 斎は急いで老人の左側へ移動した。

2009.6.24

2021.9.8改稿


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