第百五話「心の迷宮・6」


 漆黒の宮殿に、低い詠唱が響く。
 明かりの一切ない建物の内部は真闇に沈んでいる。
 が、薄暮のようなかすかな光のもれる部屋が、一室だけ、あった。
 詠唱はそこから聞こえていた。
 高い天井、左右対称に並ぶ柱には複雑な幾何模様の浮き彫り――神殿とおぼしきその大広間の最奥には丸い祭壇が設けられ、四つの人影が正方形を描くようにしてそれを囲んでいる。
 詠唱は彼らが行っているものらしいが、さだかではない。
 なぜなら、彼らは四人とも、円錐状の黒い布で頭の先からあごの下までをすっかり覆ってしまっていたからである。
 着ている黒衣も、袖は指先がちらりと見えるだけで、すそは床まで届く長衣。
 年齢も性別さえもわからない。
 まるで、わざと彼らの個性を消し去ろうとしているかのように。
 黒衣の姿をようよう闇の中に浮き上がらせている唯一の光源は、祭壇に描かれた青白い法円だった。
 詠唱に合わせてゆっくりと回転する、その円の中央――
 そこに、「彼」はいた。
 淡い光に惜しげもなくさらされたその裸身は、ギリシャ彫刻に描かれる美丈夫さながらにたくましく、顔立ちの美しさと相まって見る者の目を奪った。
 力強い鼻梁(びりょう)、形のいい唇、流れるような黒い巻き毛。詠唱に聴き入るように陶然と閉じられたそのまぶたを縁取るまつげの長さ。
 いかなる造化の神に愛されれば、これほどの美を手に入れることができるのだろう――
 ただし、その肉体には二つの特異な点があった。
 一つは、その全身に浮き上がる、黒い幾何模様。
 刺青(いれずみ)だろうか、禍々(まがまが)しい稲妻のようにそれは彼の白い肌を這い、胸のところで生物らしきものの像を結んでいた。
 つり上がった大きな目、この世界をも食い尽くさんとするかのように裂けた、鋭い牙の並ぶ口――饕餮(とうてつ)である。
 そして、今一つの特徴。
 それは、彼の背にあった。
 筋肉隆々たる広い背を左右に分けるように、彼の背骨に沿って首筋から仙骨までを覆うもの。
 それは、黒くつややかな柔毛(にこげ)の群れだった。
 やがて――
 長かった詠唱が終わりを告げ、黒い美神がゆっくりと目を開く。
 強烈な輝きを放つ、二つの瞳。
 しかしそれは、人間らしい感情とは無縁の冷徹さと酷薄さをたたえて辺りを威圧した。
 そこに宿るのは、暗い狂気、それだけだった。
 いかなる炎をもってしても溶かすことのできない、凍てつくような闇。
 恐るべき冥府の王が、そこにいた。
 彼は祭壇を囲む四人の黒衣のうち一人から差し出された黒い高坏(たかつき)の中身を片手で無造作につかむと、頭上に高く掲げ持つ。
 灰白色をして、ところどころ赤黒い液体のこびりついたそれは、正体を口にするのもおぞましい物。
 だが、彼の唇はほのかな笑みを浮かべながらゆっくりと開き、そして――
 それを、食べた。
 捧げられた供物に長い犬歯を立て、したたり落ちる液体をすすり、口の周囲から下あご、のどにかけてを無造作に汚しながらむさぼり食らうその様は、飢えた獣ように凄絶だった。
 響き渡る咀嚼音がやみ、広大な神殿がようやく静けさを取り戻した頃、小さな人影が一つ、音もなく現れた。
「主上におかれましてはご機嫌麗しく」
 影は祭壇よりはるか手前で膝を折り、言った。
 少女のような声。
 祭壇から降りた暗黒の王は、黒衣たちによって汚れた身体を清められ、衣装を着せかけられながら鷹揚にうなずきかける。
「何用か」
白眸児(はくぼうじ)より、碧珠の魂縒を感知したとの報告にございます」
 トーガのような長衣をまとい、腰に太刀を()いた王は唇をゆがめ、笑みをつくると、
「それは重畳」
と言った。
「封印が解かれてより、(われ)がこうして思いのほか早くに実体をえられたことは、ひとえに汝の功である。礼を言うぞ……伽陵(がりょう)
 目の前に立つ己があるじの言葉に、彼よりもはるかに華奢な身体をぴったりとした黒衣で覆う少女は、深くその頭を垂れる。
「もったいなきお言葉」
 黒い王はそのとき、ふと思い出したように言った。
乱荊(らんけい)の具合はいかに」
 伽陵はしばし言いよどんでから、答えた。
「ようよう回復しておりますが……いまだ狂乱激しく、手に負えませぬ」
「よい。いずれ戦場(いくさば)ではそのほうが役に立とう」
 若き王はそう言って歩き出した。
 神殿を出て行く彼のあとを、影のように少女は追う。
「僭越ながら、お尋ねしたきことがございます」
「何か」
「神女に三つ目の魂縒を許されたは、なにゆえでございましょう」
伽陵は言った。
(わたくしめ)が浅慮致しますに、あやめる機会などいかほどにもございましたものを。神女が碧珠の結界に入るまでにも」
「あのとき、我はまだ実体をえない影だった」
「恐れながら……」
と、更に言い募ろうとする己が従者を手で制し、闇の王はにやりと笑う。
「我に策謀あり」
 真闇に沈む回廊を彼らは歩く。
 灯火などなくとも、その目は闇を見透かす力を持つらしい。
「永き封印の屈辱を晴らすときが来たのだ。早々に殺したのでは興を欠く。そうは思わぬか?」
 彼らは上部に饕餮紋を刻んだ巨大なアーチを抜け、外へと出た。
 そこはテラスへのびる通路になっており、異形の生き物をかたどった彫像がその左右を守っている。
 テラスはただ広いだけで、幾何模様を施した太い石柱が四本、正方形を描くように配されているほかは、何もない。
 夜である。
 雲はなく、天の星が妙に近く見える。
 彼らはテラスの端に立ち、眼下に広がる雲海を見はるかした。
 冥府の王の居城は、重力の制限を受けていなかった。
 雲の切れ間からのぞく地上の光。
 天空を彩るそれよりもはるかに華やかで、刹那的で、頽廃的(たいはいてき)なその光を見下ろしながら、
鎧猴(がいこう)はおるか」
と、冥府の王は言った。
 伽陵は背後に気配を感じ、振り返る。
 彼女よりもはるかに巨大な影がそこにいた。
 強烈な獣臭を全身から放ちながら、それは低くくぐもった声であるじの呼びかけに答えた。
御前(ごぜん)に……」
「伽陵とともに行き、神女を我が前に連れて参れ」
 王は少女の姿をした臣下を振り返り、続ける。
「伽陵、手段は汝に任せる。ただし、神女には傷をつけてはならぬ。できうる限り、丁重に扱え」
 伽陵は一瞬、何事か言おうとして口を開いたが、すぐに
「……御意」
と頭を垂れた。

 まもなく、二つの影は消えた。
 一人その場に残った王は、再び足下に目を落とし、つぶやく。
「時は来た」
雲海の下に広がる世界に向かって、彼は宣言する。
「――死と闇と沈黙とが世界を支配する時が」
 聞く者のないその言葉も、忍び笑いも、風がさらっていく。
 星は凍えたような光を放ち、天はただ、黙していた。
 語る言葉を持たぬがゆえに。

2009.6.24


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