第百四話「嵐の予兆・3」


 泰蔵の家に続く道から脇道にそれてしばらく歩くと、開けた場所に出た。
 広場の一隅は崖になっていて、木立の向こうに麓の街が一望でき、ずっと林の中を歩いてきて、変化のない景色に飽き飽きしていた紅子は思わず、
「わ、いい眺め!」
と言いながら景色をもっとよく見ようと駆け寄った。
 が、その時。
 誰かが紅子の腕をつかんで引き止めた。
「何すんの!?」
 鷹彦がふざけたのだろうと怒って振り向くと、そこにいたのは竜介だった。
「足元よく見なよ」
 言われて足元に目をやると、そこには一抱えくらいありそうな丸木が横倒しになっていた。
 おそらく転落防止の柵代わりに置かれているものなのだろうが、竜介が止めてくれなければ、紅子はあともう一歩でそれにつまずくところだった。
 丸木の柵から崖の縁までは数メートルあるので、向こう側に倒れ込んだからといって即、崖下へ真っ逆さまとはならないが、それでも膝をすりむくとか、顔から突っ込むのを避けようとして手首を捻挫するとかくらいはありそうだ。
「……ありがとう」
 紅子が礼を言うと、竜介はニヤっと笑った。
「今回は、間に合ってよかったよ」
 「今回は」という言葉を強調している辺り、二日前、彼女がぼんやりしていて川に落ちたことを言っているのだろう。
 紅子が赤くなって何か言い返そうと息を吸い込んだところで、鷹彦の声にさえぎられた。
「なあなあ、少し休もうぜ。俺っちもう足が痛くて痛くて」
 彼はすでに丸木の柵に腰を下ろし、足首をさすっている。
 竜介は鷹彦のほうを振り返ると、苦笑して言った。
「しょうがねえな。じゃあ、五分だけ休憩にするか」
 鷹彦は、助かった、というように大げさに息をつく。
 実は紅子も、荒れた道に足が悲鳴を上げ始めていたので、休憩は願ったりかなったりだった。通るのが二度目くらいでは、なかなか慣れないものだ。
 鷹彦にならって足を休めようと柵に腰を下ろしたそのとき、紅子は柵の影に隠すようにして置かれた石碑に気づいた。
 高さは紅子の膝くらいで、30センチ四方くらいの石の角柱。
 かなり風化していて一見わかりづらくなっているが、四面それぞれに彫られているのは饕餮(とうてつ)紋である。
「これ何だろ」
 紅子が竜介と鷹彦二人のどちらに言うともなくつぶやくと、二人がユニゾンで「結界石」と答える。
「そういえば、紅子ちゃんはまだ見たことなかったっけ?文字通り、うちの結界を作ってる石なんだけど」
 鷹彦の答えは説明になっていないので、竜介が解説を引き継いだ。
「前に、紺野家の結界はこの土地自体が持つ霊力を利用しているって言ったろ?この石がその霊力の集積供給を担っているんだ。碧珠の霊力に頼ってないから、魂縒で碧珠の力が一時的に弱まっても、結界は守られるってわけ」
 確かに、と紅子は思った。石碑からは、紺野家の敷地に初めて入ったときに感じたのと同じ術圧を感じる。
「この石一つだけで結界を作ってるの?」
「いや、これと同じものがあと五個あって、敷地のあちこちに散らばってる。どれか一つにでも何かあれば、術圧に変化が起きるから俺たちにすぐわかるし、六個全部が一度に壊されでもしない限り、結界は破れない」
「へええ」
 紺野家の絶妙な結界システムに、紅子と鷹彦が同時に感心の声を上げる。
 竜介が憮然として言った。
「鷹彦は知ってるだろ」
「いや、竜兄の説明がうまくて、つい」
 ぺろっと舌を出して笑う弟に呆れつつ、竜介は腕時計をちらりと見て言った。
「そろそろ行こうか」
 結局、彼はずっと立ったままで腰を下ろさなかった。
 広場を出ると、道は明らかに狭くなったが、アップダウンは比較的少なくなった。
 もっとも、「歩きやすい」と言えるレベルかどうかは微妙なところで、実際、鷹彦の歩調は遅れ気味だ。得意の軽口も聞こえてこない。
 静かになったおかげで、水が流れ落ちるざあざあという音がよく聞こえるようになった。目的地の滝が近づいてきたのだ。
 紅子は前を歩く竜介の背中を眺めながら、休憩前に彼がこちらに寄こした、なんとなく意味ありげな視線について考えていた。

 そういえば、あたしのお母さんて、竜介から見てどんな人だったんだろう。

 竜介が初恋については否定したものの、婚約の話については「悪くない」と思ったということは――?
 そんなことを考えていたら、いきなり竜介が立ち止まり、こちらを振り返った。
 彼は紅子の後方に一度視線を投げて鷹彦の位置を確かめると、言った。
「鷹彦が遅れてるみたいだから、ここで少し待とうか」
 紅子が肩越しに後ろを見ると、確かに鷹彦との距離がかなり開いていた。竜介は、鷹彦のおしゃべりがまったく聞こえなくなったので、心配になって立ち止まったのだろう。

 無意識に考えが声に出ちゃってたのかと思って、一瞬焦ったぁ……。

 紅子は内心胸をなでおろした。
 竜介が相変わらず疲労を感じさせず涼しい顔をしているのはしゃくに触るけれど、こういった小まめな休憩はありがたい、と紅子が思っていると、
「紅子ちゃん、俺に何か聞きたいことがあるんじゃないのか」
 こちらに向かって、「大丈夫」というふうに手を振る鷹彦に手を振り返しながら、竜介が言った。
「えっ、なんで?」
 見透かされたことに紅子がぎょっとしながらもしらばっくれると、彼は言った。
「歩きながら、俺の背中をずっと見てたろ?俺、そういう気配はすぐわかる質なんだよ」
 そんなのあんたの気のせいでしょ、と紅子は一瞬言いかけて、やめた。

「……あたしのお母さんって、どんな人だった?」

 竜介が、質問の意味を問うようなけげんな顔でこちらを見たので、紅子は慌ててこう付け加えた。
「あっ、えっと、父さんもおばあちゃんも、お母さんの話を振ると暗い顔で黙り込んじゃって、うちでは訊けなかったからさ。竜介の知ってる範囲でいいから、教えてほしいんだ」
 竜介は微笑んで答えた。
「とても優しくて、きれいな人だったよ」
 表面をなぞっただけのような返答に飽き足らず、紅子は思わず質問を重ねていた。
「それだけ?」
 竜介は一瞬、困ったように笑ってから、おもむろに言った。
「こんな姉さんがいたらいいのに、って思ってたよ」
それから遠い目になって、ぽつりとこう付け加えた。
「幸せになってほしかったな……玄蔵おじさんと」

 鷹彦が追いついてしばらく休憩したあと、再び歩き出してみて紅子は一つ気づいたことがあった。
 通り道の両脇には、草木が野放図と言っていいような状態で茂っているのだが、人の顔の高さや足元などに張り出している枝がないのである。
 そういった枝があったと思しき場所には、明らかに刃物で切り落とした痕跡が木々に残っていたりする。
 切り落とされた枝の痕は新しく、みずみずしい。

 誰かがこの二、三日のうちに、自分たちよりも先に山に入って枝打ちをしておいてくれたのだろうか?
 ――でも、誰が?

 紅子はそう考えて、昨日の朝食の席で竜介が「滝まで下見に行った」と言っていたことを思い出したのだった。

 目的地である「乾の滝」は、山の急斜面をむりやり人一人通れるように削り取ったような、細い道の先にあった。
 竜介や鷹彦が言うには、道幅は2メートル以上あるとのことだったが、何しろ片側が手すりもない切り立った崖なので、紅子の心理的にはもっと狭く思われた。
 しかも滝に近づくにつれて山肌や足元は湿りがちになり、苔などで滑りやすくなっている。
 恐る恐る足を運ぶ紅子に、背後から鷹彦が言った。
「紅子ちゃん、大丈夫?手をつないであげようか?」
「うるさい」
 拒否するものの、声に力が入らない。
 遠くから聞こえていたときは涼しげだった水音は、今やほぼ轟音に変わり、頭上に生い茂る木々の間から絶え間なく降り注いでは、はるか谷底の木々の間へと消えていく水を見ていると谷底に吸い込まれそうで、紅子はへその下あたりがすうすうした。
「なんだ、思ったより水が減ってないなぁ」
 昨夜、上流で雨が降ったかな?
 碧珠を安置している洞窟の入り口が水のカーテンでふさがっているのを見て、竜介はひとりごちると、最後尾にいる鷹彦に向かって叫んだ。
「しょーがねえ。鷹彦、出番だぜ」
「やったね、名誉挽回、面目躍如ときたもんだ」
 鷹彦が嬉しそうに軽口を叩くと同時に、その全身が青く輝く。
 次の瞬間、谷底からの風が水を吹き上げ、洞窟の入り口が姿を現した。
「すごい!」
 思わず歓声を上げる紅子に、鷹彦は得意満面で言った。
「紅子ちゃん、どう?俺っちのこと見直した?」
「うるさい」
 紅子は無愛想に一蹴して、洞窟に向かう竜介のあとに続く。
「ちぇっ、ちょっとくらい褒めてよ」
 そう言いながら、鷹彦も紅子にならった。
 上空には、吹き上げられた水が見事な虹を作っていた。

2009.6.19

2021.8.22改稿


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