第百三話「心の迷宮・4」


 それはまるで、人の形をした黒い影のように見えた。
 薄明の中、男は黒いレインコートだけで雨に打たれていた。
 フードを目深にかぶり、ややうつむいているその顔は上半分が見えない。
 時折ひらめく稲光が、白髪まじりのひげに覆われた口元から下を照らし出し、したたり落ちる雨滴を白く光らせる。
 男は傘を持っていなかった。
 両手は空で、軽く拳をつくって身体の両脇にだらりと下げている。
 それにもかかわらず、彼には隙がない。
 そして、全身からみなぎる、圧倒的な力の気配。
 それは、中肉中背の平凡な体躯をしたこの男が、見たままの人物ではないことを何よりも証すものだった。
 斎の執務室で防犯カメラの映像を確認した後、門まで男を出迎えに行った竜介は、その気配にはるか十七年前の記憶を呼び覚まされる心地がした。
「ご無沙汰しています」
そう言って、持ってきた傘をさしかける。
「黄根さん」
 男は悠然と門をくぐると、顔をあげた。
 稲妻がしわ深くなったその面を照らし、雷鳴が辺りを震撼させる。彼は薄く嗤っていた。

「わたしが野垂れ死んでいなくて残念だったな。小僧」

 その言葉は、まるで抜き身の刃のように、竜介の背筋をぞくりとさせた。
 さしかけられた傘を無視して玄関へ向かう朋徳の後ろ姿を見つめながら、相変わらずこの男は怖い、と思う。
 と同時に、彼と拳を交えてみたい気持ちが高まるのを感じずにいられない。
 限界まで引き絞った弓のようにキリキリとした緊張を強いられる、朋徳の気配。
 老いてなお、なぜこの男は何人(なんぴと)をも寄せ付けぬ凄絶な気配をまとい続けるのか――言葉で尋ねても、彼はおそらく答えないだろう。
 そんな確信が、なぜか竜介にはあった。
 玄関のたたきで朋徳はぬれそぼった雨具を脱ぎ、出迎えた滝口にそれを手渡した。
 レインコートの下はえび茶色の綿入り作務衣で、傘を差していなかったにもかかわらず、奇妙なことにそれはまったく雨の影響を受けていなかった。
 ひげと同じく白髪のまじった蓬髪(ほうはつ)をさらした老人は、黒い長靴を脱いで板間に上がると、右手に控えていた斎に言った。
「そこに立つな。わたしは右目が見えん」
 斎は急いで老人の左側へ移動した。

 とりあえず応接室へ、という竜介たちの案内を断り、朋徳は勝手知ったる我が家のように、どこかへ向かってさっさと歩き出す。
 十七年前の騒動を知っているだけに、彼を恐れるそぶりを見せる家政婦と執事に元の仕事に戻るよう指示してから、竜介は一人、鬼面を貼り付けたようなこの客人に従った。
「この屋敷は気にくわん」
 廊下を歩きながら、老人は苦々しげにつぶやく。
 続けて、
「貴様も、気にくわん」
 隣を歩く竜介を、大きな目でじろりと睥睨(へいげい)する。
「奇遇ですね」
竜介はわざと穏やかに微笑した。
「俺も、あなたが嫌いです」
 老人は何も言わずに唇だけをゆがめ、にやりと笑った。
「あなたの行方をずいぶん捜しました」
「だろうな」
「黄珠は今、どこに?」
「今はわたしの生家に預けてある。欲しければ取りに行くがいい」
朋徳は続けて言った。
「……もっとも、貴様らにその時間があればだが」
「どういう意味ですか」
 不吉な予感が胸をよぎる。
 と、朋徳は突然立ち止まり、竜介を振り返った。
「身内に気を付けることだ」
 老人は彼の胸に人差し指を突きつけ、言った。
 まるで自分の言葉をそこに刻もうとするかのように。
「とくに、白鷺の娘には、気を許すな」
 凶兆をはらんだ言葉を投げるだけ投げて、朋徳は相手の質問を待たずにすぐ傍の襖を開ける。
 そこは紅子の眠る客間だった。
 少女の枕元に座っていた鷹彦は、何の挨拶もなくいきなり部屋に入ってきた朋徳にかなり面食らった様子で、
「えっ、何?誰?」
と、老人と竜介の顔を見比べ、兄に小声で尋ねた。
「この人が例の、紅子ちゃんの母方のおじいさん?」
 竜介は「そうだ」と首肯し、朋徳に視線を戻す。
 老人は既に紅子の枕頭にあぐらをかいて座り、節くれ立ったその手を少女の額にかざすところだった。
 次の瞬間、老人の手と紅子の額の間に金色の小さな法円が出現する。
 様々な紋様が明滅を繰り返しながらゆっくりと回転するその法円は、何かの緻密な制御パネルのようだ。
 朋徳は何事か二言三言つぶやいて法円から手を放すと、横目で竜介を見た。
「小僧。この娘の眠りを覚ましたいか」
 小僧と呼ばれるのが一度だけならまだしも、二度目となるとさすがに腹が立ってくる。
 が、彼は声を荒げなかった。
 今は些末なことで口論などしている時ではない。
「俺には竜介という名前があるんですが。お忘れですか」
 最後の嫌みを朋徳は鼻で嘲笑(わら)った。
「では、竜介よ。わたしの質問に答えよ」
「それができるなら、もちろん」
「でも、自然に目が覚めるんじゃないんですか。白珠のときは」
 鷹彦が口を挟んだ。
 彼もまた朋徳の強烈な気配を感じ取っているのか、いつになく居住まいを正している。
「禁術が起動している」
朋徳は手を挙げて鷹彦を制してから、おもむろに言った。

「このまま捨て置けば、この娘は眠ったまま、遠からず死ぬ」

 その場に、目に見えない衝撃がはしった。
 鷹彦はもちろん、竜介も、口にすべき言葉を失い、しばしの間、激しい雷鳴と雨音だけが場を支配した。
 禁術。
 誰が、何のために。
 問われる前に、老人は重々しく口を開いた。
「御珠の見せる我々の歴史を知ってなお、命を()してこの世界を守るか否か――この娘に迷いが生じたとき、起動するよう仕掛けられた術だ。そして、それは本人が目覚めたいと願うまで解けん」
 それから彼は気にくわないと言わんばかりに鼻を鳴らし、こう付け加えた。
「術者は八千代だろう。あの女のやりそうなことだ」
 かつて自分を支えた妻を「あの女」などとどうして呼べるのか、この男の気が知れない、と竜介はちらりと思う。
 が、今はそれよりも訊かねばならないことがあった。
「俺たちにできることは」
「ある」
老人は唇の片端をゆがめ、笑みをつくる。
「簡単なことだ。この娘の意識界に入り、直に本人を説得すればよい」
「そんなことが……できるんですか?」
 疑わしげな鷹彦の質問に、老人の返答は短かった。
「できる」
ただし、と朋徳は続けて言った。
「一筋縄ではいかぬだろうがな。あの八千代がかけた術だ、解こうとする者の命を危うくする罠の一つ二つは覚悟せねばならんだろう」
 しかし、このまま手をこまねいていても結果は同じ――紅子の命はなくなる。
 朋徳の言う通りのことが可能だとすれば、死の危険を冒してでも試す価値はあった。
 問題は、誰がその任を負うかだ。
 だがそれは考えるまでもなかった。
 なぜなら、朋徳が片手を持ち上げ、その者を指し示したからである。
「顕化を持つ者。紺野家の竜よ」
老人は炯々と光る目を竜介に向け、宣告した。
「お前がやるのだ」
 竜介の背筋を、窓の外と同じ青い稲光が駆け抜けた。
「俺が?」
 思わず聞き返す。
 紅子を助けたい、その気持ちに偽りはない。
 そのためにこの命を投げ出すのも一向にかまわない。だが――
 鷹彦を見ると、目が合った。
 彼は複雑な顔で兄を見ている。
 竜介はもう一度訊いた。
「なぜ、俺なんですか」
「それを知りたければ、この娘の意識界に入ってみることだ」
 老人が答えになっていない答えを口にするのと、畳の上に巨大な法円が出現するのとは、ほぼ同時だった。
 法円は紅子の額の上で回っているものと同じ金色に輝き、囲まれた空間の半分は空いていた。
 彼女の隣に、ちょうどあともう一人横になれるくらいの場所が。
 鷹彦の視線が無言の抗議を発しているのを感じつつ、朋徳に指示されるまま、竜介は法円に入って仰臥した。
 途端に奇妙な眠気に襲われ、全身から力が抜けていくような感覚に眉をひそめる。
「俺が……彼女を説得できる保証はありませんよ」
 遠のく意識を引き戻そうとするように、彼は額の上の法円越しにこちらを見下ろしている朋徳に言う。
 が、老人は冷笑とともにこう言った。
「貴様にできなければ、他の誰にもできぬ」
 その言葉に続けて、老人は何か言ったようだ。
 だが、それは竜介の耳にはもはや届かなかった。

2009.6.16


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