第百三話「嵐の予兆・2」
翌朝。
東京へ帰る計画が、涼音の反対で消えてなくなってしまったことを紅子が聞いたのは、朝食後にわざわざ部屋までやってきた竜介と虎光からだった。
「もう絶対に紅子とケンカなんかしないから!だから、竜介は東京に行かないで!」
英梨と虎光から、涼音とこれ以上の衝突を避けるため紅子が帰京するが、それには竜介と鷹彦が同行すると聞いた涼音は、そう言って懇願したらしい。
それが昨夕のこと。
英梨と虎光はその後、竜介・鷹彦の二人を交え、どうしたものかと夜遅くまで額を寄せ合った結果、
「安全の面では、やはりここにとどまるのが一番である。ひとまずは涼音を信じて、帰京は一旦保留にしよう」
ということで意見が一致した、と、座卓の向かい側に並んで腰を下ろした竜介と虎光が、申し訳なさそうに言った。
部屋にやってきたときの二人の、明るいとは言い難い表情から、何かよくない知らせがあるのだろうと察していた紅子は、心中で半ば「やっぱりな」と思い、半ば落胆しつつ、
「ふーん、それで?」
と言った。
「もし涼音がまたあたしにちょっかいかけてきたら?こらえないといけないんですか?それとも反撃していいの?」
虎光は心中、「怖いこと言う子だなぁ」と思いながら、
「いや、実は、それについてはプランBがあるんだ」
「プランB、ですか?」
紅子がおうむ返しに尋ねる。虎光はうなずいた。
「そう。紅子ちゃん、君、泰蔵おじさんのところに移るのはどう思う?」
竜介があとを引き継ぐ。
「師匠のところなら、碧珠の結界内にあるから安全だし、涼音と顔を合わせることも滅多にない。昨夜、師匠に電話で訊いてみたら、大歓迎だって言ってたよ」
紅子は腕組みをし、難しい顔でしばらく二人の顔を交互に眺めていたが、やがてため息とともに言った。
「なんかイマイチすっきりしないけど、おじいさんがいいって言ってるなら、いいですよ、プランBで」
というか、それが嫌ならあとは野宿くらいしかないだろう、と紅子は思ったけれど、竜介と虎光が明らかにホッとした様子で顔を見合わせているので、口には出さずにおいた。
彼らの説明によると、今後の予定はこうだ。
まず、魂縒のあと、昏睡中は健康状態のチェックが必要なので、紅子はこの邸内で休み、目が覚めてから泰蔵の家へ移ること。
もう一つ、向こうでも紅子に不便のないよう、滝口夫人の紹介で通いの家政婦が来る予定だということ、である。
「わかりました。ありがとうございます」
紅子がぺこりと頭を下げると、
「いやいや、礼には及ばないよ」
虎光は大きな手のひらで紅子を制した。
「紅子ちゃんに不便をかけて本当に申し訳ないと僕らが思ってるってことを、これでわかってもらえるとうれしいな」
その後、紅子たちが出かけるときも、虎光は英梨と一緒に玄関まで見送りに来てくれた。
「涼音のこと、色々とほんとにごめんなさいね。よかったらまた一緒にお買い物に行きましょう」
滝までの道は、途中まで泰蔵の家に行ったときと同じ道だとのことで、竜介は二日前と同様、玄関を出ても門はくぐらずに、庭の奥の木戸から屋敷の敷地を出た。
道がハードモードなのは変わらないが、一昨日と比べると道が乾いている分、かなり歩きやすい。
冬の始まりを知らせるように冷たい朝の空気に対し、木々の間から差し込む日差しは温かくて、小鳥たちが嬉しそうに鳴き交わすのが聞こえる。
ケガについて涼音本人から直接謝罪がないことや、「紅子とケンカなんかしない」という、まるでこちらも涼音に対して反感を持っているかのような言い草にささくれ立っていた紅子の神経も、思わず和みかけた、そのとき。
「紅子ちゃん、昨日は大変だったね。昨夜、竜兄から紅子ちゃんがケガしたって聞いたときはびっくりしたよ」
鷹彦のおしゃべりが始まった。
「俺っちも東京に戻りたかったなー、ほんと残念。あ、もちろん、ここだっていいとこなんだけどね」
おそらく彼は、帰京の話がなくなった紅子のことを気遣ってくれているのだろう――彼なりに。
あからさまに無視するのも悪いので、最初は「うん」とか「だよね」とか、素っ気ないながらも相槌を打っていた紅子だったのだが、二度目とはいえ、道の険しさにその相槌さえ次第に面倒になってきた頃、紅子が不機嫌なのは涼音のせいだと思ったのか、鷹彦が言った。
「涼音のこと、まだ怒ってる?」
先頭を歩いていた竜介が、弟の質問を聞きとがめて、ちらりとこちらを振り返る。
紅子は一瞬考えてから、
「怒ってない、とは言えない」
と答えて、自分が涼音の何に腹を立てているかを説明した。
「でも、これ以上涼音以外の誰かからゴメンって言われても、あたしには意味ないから。竜介も鷹彦も、このことはもう気にしないで」
そう言って、紅子はニコっと笑って見せた。
泰蔵おじいさんのところに行けば、もう涼音と顔を合わせることもなくなるだろう。
今日、碧珠の魂縒を受けたら、残るは黄珠一つだけ――でも、その黄珠は今、行方不明。
紅子は思わずため息をつき、ひとりごちた。
「たった一人の孫がこんなに苦労してるのに、黄根のおじいさんはいったいどこで何してるんだろ」
すると、竜介が肩越しに皮肉っぽく言った。
「案外、今頃どこかでのたれ死んでるかもしれないぜ」
竜介の珍しい毒舌に紅子が面食らっていると、鷹彦が言った。
「朋徳(とものり)おじさんは竜兄の地雷なんだよな」
「鷹彦」
竜介は苦々しい口調で弟の言葉をさえぎろうとしたが、鷹彦はかまわず続けた。
「玄蔵おじさんと日奈おばさんを出逢わせたくなかったくせに、どうしてあの御大は一年もここにいたと思う?」
「母さんの病気のせいじゃないの?」
紅子の答えに、鷹彦は頭を振る。
竜介がやけくそのようにあとを引き継いで言った。
「黄根さんは、日奈おばさんを俺と結婚させるつもりだったんだ」
一瞬の沈黙。
「えええええっ!!?」
紅子の素っ頓狂な声で、周りの木々にいた小鳥たちが一斉に飛び立った。
「びっくりだよな」
と、鷹彦。
「八歳の子供が十三も年上の娘と婚約って、いくら何でもめちゃくちゃだ」
と、竜介。
当時、紺野家の当主を務めていた竜介の祖父も、当然ながら、朋徳からのこの申し出にはかなり困惑したようだ。
しかし、朋徳は断られてもなかなか引かず、その上に日奈の病が高じたこととが相まって、紺野家での彼らの滞在が思いがけず長くなった、というのがことの真相らしい。
紺野家当主が、朋徳からの縁談を固辞したことは、言うまでもない。
「黄根さんは、顕化を持つ人間の血を一色家に入れたかっただけだ。もっと強い霊力を持つ神女を生み出すためにね。そのためなら自分の娘の幸せなんてどうでもよかったのさ、あの人は」
吐き捨てるように言う竜介に、鷹彦が言った。
「でもさ、日奈おばさんは竜兄の初恋だったんだろ?」
初恋、という言葉に紅子は一瞬、胸が詰まるような感覚を覚えた。
一方、竜介はやおら立ち止まると、憮然とした顔で振り返り、
「はあ?俺がいつそんなこと言った?」
と問いただす。
対する鷹彦はのんびりと、
「だって、前に言ってたじゃん。婚約の話が出たときちょっと嬉しかったって」
「ガキの頃の話だろ。悪くないと思っただけだ。嬉しいなんて言ってねえよ」
竜介はそう言って、何かを追い払おうとするように片手をひらひらさせると、再び歩き出した――ほんの一瞬、紅子のほうに表情をうかがうような視線を投げてから。
2009.6.16
2021.8.1改稿
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