第百二話「心の迷宮・3」


 その日――
 朝から降り出した雨は次第に強くなり、午後には雷を伴う豪雨となった。
 竜介は昼食後、滝口がいれてくれたコーヒーを飲みながら、閉め切られたガラス戸を叩いては流れ落ちる雨をぼんやりと眺めていた。
 ガラスはところどころ白く曇り、暖房の効いた邸内に比べて外気温がいかに低いかを物語っている。
 その向こうに広がる空は暗い灰色で、ただでさえ暗澹とする気分にさらに拍車をかけるかのようだった。
「竜兄」
 背後から呼ばれて振り向くと、彼の末弟が立っていた。
 その浮かない顔を見るだけで答えは知れたが、念のため質問してみる。
「紅子ちゃんは?」
 鷹彦はかぶりを振った。やっぱりな、と彼は声に出さずにつぶやく。
 碧珠の魂縒を受けてから、今日で二日目。
 紅子はまだ、眠り続けていた。


 ――時間を少し前に戻そう。
 二日前の朝、紅子は竜介と鷹彦の二人に案内されて碧珠のもとへ行った。
 前日から続いている好天のおかげで道はほぼ乾き、緩やかな下りの勾配であることも手伝って、行程はかなり楽だった。
「虎光さんは行かないの?」
 屋敷を出てまもなく、紅子が訊いた。
 なぜ虎光だけ「さん」付けなのかと内心苦笑しながら、竜介は
「あいつは魂縒を受けていないから」
と答えた。
 紺野家の場合、魂縒を受けるか否かは他に後継者がいない場合を除き本人の意志による。
 武術の指南は泰蔵からひと通り受けたものの、彼は異能力よりも実務を身につけるほうを選んだのだった。
 彼の説明に紅子は適当な相づちを打ちつつ、
「あの体格なら、力なんかなくても大抵のことはどうにかなりそうだもんね」
という感想を付した。
 たしかに、あの重戦車並みの体躯には異能力など邪魔なだけだろう――普通の人間として生きていく分には。
「涼音もそう?あの子、力の気配がないよね」
「涼音は、親父が受けさせなかった」
竜介は答えた。
「本人は受けたがったらしいけど、将来のこともあるしな」
 将来のこと、というのが何を意味するか紅子はすぐに察したらしく「なるほどね」と納得した。
 そのあまりの屈託のなさは、この娘は自分の未来をどう考えているのだろうか、と竜介が心配になるほどだった。
 特異な能力を持ちながら平凡に暮らすことは不可能ではない。
 だが、結婚して家庭を持つとなると、話は別だ。
 相手の理解がなければ、関係は破綻するだろう。
 恋愛さえ面倒だと忌避している彼女のことだから、思うような相手が現れなければ一生独りを決め込もうとすることもありうるが、一色家の血が絶えてしまうような事態を紺野家と白鷺家の者たちが黙って見過ごすとは思えない。
 彼は心中、ため息をついた。
 生まれながらに、己の血脈を次代に残すことを義務づけられた少女。
 涼音の気ままさに比べ、彼女の人生にはなんと(かせ)の多いことか。
 おそらくまだそのことに気づいていない彼女は今、竜介の前を鷹彦と何事か話しながら歩いている。
 昨日、一昨日と鷹彦は――彼自身の退屈しのぎも兼ねていたのだろうが――紅子を誘ってテレビゲームに興じていた。
 当初、彼女のほうはあまり乗り気ではなかったようだが、今は時折笑顔まで見せて、これまでになく鷹彦と格段にうち解けているのがわかる。
 これで互いの腕でも絡ませれば、似合いの恋人同士のできあがりだ。
 紅子がこのまま鷹彦を気に入ってくれればいい、と竜介は思った。
 そうすれば、自分が彼女の将来を案じたりする必要もなくなる。
 だが――
 彼女が鷹彦に笑顔を向けるたび、胸の奥に広がるこの奇妙な苦々しさは何だろう?
 その感情の名前を、彼は知っている。
 しかし、それが今なぜ自分を悩ませるのか、その理由がわからない。
 警戒心でハリネズミみたいだった「初対面」の頃――彼にとっては十四年ぶりの「再会」なのだが――から、少しずつガードを解いていって、ようやく懐いてくれるようになった可愛い仔猫。
 彼女は涼音と同等に単なる庇護の対象であり、それ以上になどなりようがない――はずだった。そうあるべきだった。
 少なくとも、このときの彼にとっては、まだ。

 しばらく前から聞こえていた水音がどうどうという轟音に変わると、まもなく木立が途切れ、頭上に虹を冠した白い瀑布(ばくふ)が姿を現した。
 竜介たち兄弟にとってはなじみの場所だが、初めて訪れた紅子には新鮮だったのだろう、
「わあっ、きれい!」
と歓声を上げるのが聞こえた。
 滝の落差は四階建てのビルくらい、滝壺から下流へと続く川幅は五、六メートルといったところだろうか。
 対岸は峻険な崖で、彼らが今いる場所からしか滝には近づけないが、かといって此岸も決して足場が良いわけではない。
 辺りはごつごつと険しい岩場が広がっていて、これが観光地なら間違いなくロープが張り巡らされ、「立ち入り禁止」の札が立っているだろう。
 流れ落ちる水量を一見して、これなら楽に裏側へ回れそうだと胸をなで下ろしたとき、竜介の視界の端に、紅子が水辺へ近づいていくのが見えた。
 鷹彦は自分が慣れている場所だから大して危険だとも思わないのか、彼女を追いかける気はなさそうだ。
 だが、紅子が意外と粗忽であることを知っている竜介は、放っておく気になれず、彼女に付き合って清流の傍まで行った。
 紅葉が終わり、枯れ木と針葉樹しかない水辺はやや殺風景だったが、開けた景色と冷たい川風がここちよく、気分がせいせいとする。
 紅子も同じ感想だったらしく、大きくのびをすると、
「風が気持ちいいね」
と竜介を振り返って笑いかけた。
「今日は水に落ちるなよ」
 今日は、という部分を強調して竜介が言うと、
「落ちないよ」
紅子は怒り笑いのような顔になって口をとがらせた。
 そういう少し子供っぽい表情を見ると、なぜかほっとする。
「鷹彦とずいぶん仲良くなったじゃないか」
 ちょっとからかうつもりで言ったのだが、紅子は一瞬ふっと黙り込んでから、
「……まあね」
曖昧な返事。
「鷹彦って、竜介と似てるよね。顔とか、声も」
 いきなり何だと思ったが、
「たしかに、声は似てるって言われるかな」
と彼は答えた。
「電話だと親父もおふくろさんも間違えるくらいだし」
 それがどうかしたのか、と尋ねようとしたとき。
 いつの間にか傍に来ていた鷹彦が口を挟んだ。
「えっ、何なに?何が似てるって?」
「何でもない」
 紅子は持ち出したときと同じくらいの唐突さでこの話題を打ち切ると、滝に向かって歩き出した。
「きれいな水。この川って泳げる?」
 川面に視線を落としながら、竜介と鷹彦のどちらにともなく尋ねる。
「泳げるよ」
鷹彦が即答した。
「ここは岩だらけで危ないけど、もう少し下流でなら、全然オッケー」
それから彼は兄に向かって、
「ガキの頃よく泳いだよな。夏休みとか、素っ裸で」
「ああ」
 竜介が首肯すると、紅子は本気でうらやましそうに言った。
「いいなぁ、男の子は楽で。気持ちよさそう」
「来年の夏休み、泳ぎに来る?俺が帰省するときでよかったら、一緒においでよ」
 鷹彦の招待に当惑したらしい彼女は、竜介に「いいの?」と訊く。
 が、彼に否やのあろうはずもない。
「親戚の家なんだから、気軽に遊びに来ればいいさ。師匠も喜ぶよ」
 紅子の顔が明るくほころぶ。
 花が咲きこぼれるように。
「ありがとう」
と彼女は言ってから、慌ててこう付け加えた。
「あっ、でも念のため言っとくけど、泳ぐときは絶対、水着着用だからねっ!」

 瀑布の裏に隠された横穴に入ると、息が白くなった。
 洞穴は自然にできた岩の裂け目を利用して造ったものらしい、と竜介は前に泰蔵から聞いたことがあった。
 中は大人二人が並んで歩けるくらいの広さがあり、天井は暗くて見えないほど高い。
 彼らを歓迎するように奥から差してくる青い光のおかげで辺りはほのかに明るいが、足元までつぶさにわかるほどではなく、彼はシャツの胸ポケットに入れてきたペンライトを取り出してスイッチを入れた。
 水音が反響して互いの声が聞き取れないため、三人はほとんど無言で洞内を進む。
 目当ての宝玉は、まもなく彼らの前にその姿を現した。
 周囲に真新しい注連縄(しめなわ)を張られ、これまでの二つの御珠と同じく饕餮紋(とうてつもん)を刻んだ台座に据えられたそれは、まるで天空の青をそのまま封じ込めたような輝きをまとって彼らを迎えた。
 御珠は魂縒を授ける相手によって輝きを変えるのかもしれない、と竜介は思った。
 自分が儀礼を受けたとき、これほどの光の洪水を見た記憶はない。
 紅子の様子を見ると、彼女は既に半ばトランス状態に入っているようだった。
 顔からは表情が消え、目の焦点もどことなく定まっていない。
 白鷺家での魂縒で水に落ちかけたときと同じだった。
 足取りもあのときと同様、ふわふわとおぼつかなかったが、彼女はつまずく様子さえ見せず、まっすぐに青く揺らめく奇跡の源に近づいた。

「ああ、チョー可愛い寝顔。マジでキスしてえ」
 白珠のときと同じく昏睡状態に入った紅子を抱えて運びながら、鷹彦はため息混じりにそうつぶやいた。
 洞穴を出て岩場を抜け、彼らは既に木立が続く小道を戻るところだった。
「あぶねーヤツだな」
竜介は弟をにらんだ。
「そんなことして彼女が目を覚ましてみろ、お前、病院送りじゃすまないぞ。たぶん」
「言ってみただけだっつーの」
鷹彦は肩をすくめた。
「せっかく懐柔策が成功したんだし、俺だって今の良好な関係をとりあえず維持したいぜ。でもなぁ……この無防備な寝顔がまたそそるんだよな」
「アホか」
 竜介は弟の額を中指で弾いた。
「ってーなぁ、何すんだよ」
 両手がふさがっている鷹彦は抗議の声をあげて兄をにらむくらいしかできない。
「ちったぁ気を引き締めろってんだよ。俺たちが今どういう状況に置かれてるか、いちいち言わなくてもお前にだってわかるだろ」
 光の洗礼を少女に授けた後、碧珠の輝きがうそのようになりを潜めた途端、竜介は自分の身のうちにある力もまたパワーダウンするのを感じた。
 今、彼は本来の力の半分も出せないだろう。
 山の霊気を利用している紺野家の結界はさほど影響を受けていないようだが、あまり気分のいい状況でないことは確かだ。
 鷹彦も同じことを感じているはずだが、それでも惚れたはれたと浮かれていられるのは、よほど神経が太いのか、それとも単に考えなしなだけなのか。
 とにかく、今の竜介には弟の気楽さが色々な意味でしゃくにさわった。
「でもさぁ、白珠のときはわりとすぐに回復したじゃん。今度も同じようなもんじゃね?」
「お前はつくづく楽天的でうらやましいぜ」
弟の意見に、竜介はため息をついた。
「まあその調子でせいぜい頑張れ。お前と紅子ちゃんが今と同じ格好でバージンロード歩く日を楽しみにしてるよ」
 半ば冗談、半ば本気で、彼はそう言った。
 その後、自分の予測さえも楽天的にすぎていたと思い知らされる事態になるとは知らずに。


 ――そして、二日後の現在。
 碧珠の力はとっくに回復している。
 なのに、紅子の昏睡はまだ、続いていた。
「どうする?」
 鷹彦が落ち着かない様子で尋ねる。
「どうもこうも、これ以上昏睡が続くようなら、入院させるしか……」
と、竜介が言いかけた、そのとき。
「お話中、失礼致します」
執事の(いつき)が部屋の入口に立っていた。
「お客様がおみえです。紅子様にぜひお目にかかりたいと」
 来客。こんな雨の日に、それも紅子に。
 いぶかしむ竜介と鷹彦の顔を見て取った斎は、ひと呼吸置いて、こう続けた。
「お名前は、黄根朋徳と――おっしゃっておいでです」

2009.6.12


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