第百一話「嵐の前・3」
紅子が靴箱が入った紙袋を竜介に渡すと、彼は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。
「やれやれ、見つかってよかったよ。鷹彦のところにはなかったし、ここにもなかったら、車の中を探しに行かなきゃならないところだった」
そう言って笑う竜介の顔を見ながら、紅子はふと、頭の片隅に引っかかりを覚えた。
何か言わないといけないことがあったような……?
「俺の顔に何かついてる?」
「えっ、あっ、ううん」
紅子は慌てて頭を振る。
「何か、忘れてるような気がしただけ」
「そうか。……疲れてない?昼メシのあと、なんか元気ないように見えたけど」
「大丈夫だよ」
「ならいいんだ」
それじゃまた夕食のときに、と言って、竜介は踵を返して廊下を歩いて行った。
買った服の整理に戻った紅子は、紙袋から出したカーディガンをかけておこうとハンガーを探して、そこにかけてあった竜介の丹前に気づいた。
「あーもう!」
自分の迂闊さに思わずひとりごちる。
「なんで忘れるかな、自分!これ返さないとだったんじゃん」
襖を開けて廊下を見たが、竜介の姿はもうどこにもない。
どうしよう、と考える前に、紅子の足は自室を出て、竜介の部屋へ向かっていた。
彼の部屋の場所は昨夜の一件でおおよそわかっている。自分と同じく買い物の後片付けをしているだろう今なら、おそらく部屋にいるはずだ。
中庭に面した廊下を行くと、目当ての部屋はすぐに見つかった。
「竜介、いる?」
雪見戸になっている障子をほとほとと叩いてみたが、返事はない。
当てが外れた紅子は途方に暮れたが、すぐに適当に部屋に放り込んでおくことに決めた。
「おじゃましま〜す……」
小声でそう言いながら恐る恐る障子を開けてみると、やはり室内は無人だった。
竜介の部屋は紅子が使っている客間と同じく二間続きの和室で、居室のほうには淡い青灰色のカーペットが敷かれ、中央に小さな座卓があった。
座卓を挟んで片側には大きくて重厚なデザインの木製事務机と黒いアームチェア、反対側に机とそろいのデザインのガラスキャビネットとクローゼットがそれぞれ置いてあり、ちょっとした仕事部屋という印象だった。
室内がどこもすっきりと片づいているのは、家政婦の滝口のおかげか、それとも竜介が自主的に片しているのか。
いずれにしても、シンプルで大人っぽい、良い部屋だと紅子は素直に思った。
机の上はノートパソコンと充電中の携帯電話、それにブックエンドに挟まれた書籍が何冊かあり、その中には日本語と英語のほかに、見たこともないような文字の背表紙も混じっている。
クローゼットの隣にあるガラスキャビネットは中に酒瓶が並んでいるのが見えた。背面から伸びた電気コードが壁のコンセントに接続されているところを見ると、ただのキャビネットではなく、保冷庫か何からしい。
竜介って、お酒が好きなのかな?
そんなことを思いながら、室内に入ったとき最も目に付くだろう座卓の上に丹前を置いて、紅子は部屋を出た。
そのとき。
「オマエ今、竜介の部屋で何やってた」
振り返ると、学校のロゴ入りジャージを着て、ボストンバッグを肩に掛けた涼音が、廊下の真ん中で通せんぼをするように立っていた。
「おかえり」
内心、ややこしい相手に出くわしてしまったと思いつつも、それを顔には出さないようにして、紅子はできるだけ友好的なあいさつを心がけた。
「借りてた物を返しに来ただけだよ」
「借りてた物って?」
紅子は言葉に詰まった。
正直に言えば、昨夜のことまで説明しなければいけなくなり、そうなると余計に話がこじれることになる。
「それは……あとで竜介に訊きなよ」
紅子は苦笑いでごまかすと、涼音の脇を通り抜けようとした。
「待てよ、まだ話は終わってないだろ!」
涼音の怒気をはらんだ声が聞こえた。
手首をつかまれる感触。
次の瞬間、紅子は反射的に手首をひねって涼音の拘束から逃れるとほぼ同時に、相手の手を掴み返して逆手に軽くひねり上げていた。
紅子にとってはほとんど無意識の動作だったのだが、武術の心得などない涼音にとって、これはまったく予期せぬ反撃だった。
恐怖に近い驚きと痛みに、彼女は悲鳴を上げた。
「キャッ!?」
「あ、ごめん!つい」
紅子は慌てて手を放す。
と――
「おーい、二人して俺の部屋の前で何やってんだ」
まるでタイミングを計っていたかのように、竜介ののんびりした声が聞こえた。
このとき、紅子は廊下をこちらへやってくる竜介のほうへ視線を移してしまった。涼音を甘く見ていたのだ。
紅子に明らかな隙ができた、その瞬間を、涼音は見逃さなかった。
突然、何か固い物が紅子の右の頬骨に当たり、目から火花が飛んだ。
今度は紅子が悲鳴を上げる番だった。
「やめろ、涼音!」
竜介の切迫した声と、バタバタと駆け寄る足音。
激痛で熱を帯びた頬を手で押さえながら、紅子がどうにか視線を上げると、涼音は兄に腕をつかまれ、じたばたともがいていた。
どうやら、自分は涼音に拳で殴られたらしい、と紅子はようやく気づく。
「放してよ!」
子供みたいに暴れながら叫ぶ涼音に、しかし竜介は厳しい口調で言った。
「紅子ちゃんに謝るんだ」
「いやだ!」
彼女はもぎとるようにして兄の手をふりほどく。
「もうやだ!こいつ嫌い!竜介も大っきらい!」
「いったい、これは何の騒ぎなの?」
いつの間に来たのか、英梨がすぐそばで腕組みをして立っていた。
竜介は額を押さえてため息をつき、
「涼音が紅子ちゃんを殴ったんだよ……」
「それはだって、こいつが!」
言い訳をしようとする涼音を、英梨が鋭くさえぎる。
「涼音さん。お客様に向かってその口のきき方は何?」
すると、涼音は言葉で反論する代わりにわっと声を上げて泣き出したかと思うと、最後の置き土産とばかりに、左手に握り込んでいた何かを紅子に向かって投げつけざま、踵を返して走り出した。
「涼音さん!」
英梨の厳しい声がその背中を追ったが、涼音は振り返ることもせず、そのまま廊下の向こうへ姿を消した。
竜介は、涼音が投げた物を空中でキャッチすると、指先でつまむようにして自分の顔の前にぶら下げた。
「自転車のカギだ」
と、彼は言った。
「あいつ、こんなもん握り込んで……危ねえなぁ」
それを聞いて英梨は「なんですって!?」と慌てふためき、
「紅子さん、ごめんなさいね。ちょっと傷を見せてくれる?」
紅子は手をおろして、じんじんと痛む右頬を彼女に見せる。
英梨の顔が曇った。
「このままじゃ腫れてしまうわ。本当にごめんなさい、なんてお詫びしたら……」
「紅子ちゃんの手当ては俺がしておくから、母さんはとりあえず涼音のフォロー頼む」
竜介はおろおろする英梨をなだめるように言った。
「あいつがこれ以上紅子ちゃんに反感を持たないように、あんまりキツイことは言わずに、母さんはあいつの味方でいてやってくれ」
※※※
一方、その頃の涼音は、自分の部屋にいた。
竜介が追いかけてきてくれなかった――それが涼音の悲嘆をさらに深くする。
彼女はしゃくりあげながら崩れるように畳の上に座り込むと、ボストンバッグの中をさぐって携帯電話を取り出した。
手の甲で涙を拭い、登録された番号を呼び出して通話ボタンを押す。
数回のコールで相手は出た。
「あんたの……言う通りにするよ」
涼音は相手を確かめもせず、涙声のまま言った。
「勘違いするなよ……あんたのことだって、ボクは大嫌いなんだからな。ただ、今は、アイツを……これ以上、竜介に近づけたくないんだ。だから……だから、あんたに協力してやる」
――ありがとう。
電話の相手はそう言って、鈴を振るような声で、笑った。
2009.6.12
2021.6.30改稿
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