第百一話「心の迷宮・2」


 涼音の小さい背中を見送ってから、紅子は殴られた頬を押さえたまま、ふーっと深いため息を吐いた。
 壁にもたれてずるずると床に座り込みそうになる彼女の二の腕を、竜介が慌てて捉える。
「ごめん、本当にすまない。大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」
 頭痛と頬の痛みで、頭がくらくらする。
 今日は厄日ってやつか、と紅子は恨めしい気分になった。
 体調は悪いし身に覚えのないことで殴られる。
 最悪だ。
「とりあえず俺の部屋に入って」
と、竜介は彼女を抱えるようにして自室に入るとアームチェアに座らせ、隣室へ続く襖と中庭側の障子を閉めた。
 紅子はもはや抗ったり、何をするのかと尋ねたりする気力もなく、ただぼうっと彼のすることを眺めていた。
 ヘッドレストつきのアームチェアは座り心地が抜群で、頭痛が少し軽くなったような気さえする。
 あとは頬の痛みがなければ、今にも眠ってしまうところだ。
 そういえば、顔を拳で殴られたのって何年ぶりくらいだろう。
 小学校の時、同じクラスの男子と派手なケンカをして以来だから――などと、ずきずきする頬をなでながらぼんやり考えていると、
「ちょっと失礼。手をどけてくれるかな」
 という声とともに、頬に当てていた手をつかまれた。
 いつの間にか紅子の前に戻ってきていた竜介は、つかんだ彼女の手を肘かけの上に置くと、空いているもう片方の肘かけに自分の手をつき、彼女の上にその長身をかがめた。
 何、と紅子が尋ねるより先に、彼は彼女の下あごに指をかけて優しく持ち上げ、
「少し腫れてきてるな」
と、独り言のようにつぶやく。
 紅子はといえば、すぐ間近に迫る竜介の顔を正視できず、どぎまぎと視線を泳がせている。
 が、彼はそんなことに頓着していないようだ。
「口の中は?切ってない?」
 そう訊かれて、紅子はほとんどパニック状態にある心臓をなだめつつ答える。
「それは……大丈夫」
 竜介は微笑した。
「じゃあここだけ、あざになる前に治しちまうか」
 そう言って――彼の手が、あの鮮やかな青い光を帯びる。
 その指先がそっと頬に触れる心地よさは、紅子を陶然とさせた。
 年の離れた容姿の良い兄からこんな風にべたべたと溺愛されて育てば、涼音のようになっても仕方ないのかもしれない、と紅子は少しばかり彼女に同情的な気分になった。
 おそらく、涼音は竜介から浴びるほど受けてきた万全の愛情の、そのひとかけらも失いたくないのだ。
 それはわがままだとわかっていても。
 頬の痛みが嘘のように引いていき、替わって眠りの波が襲ってくる。
 しかし、今ここで目を閉じるのは状況的にまずい気がして、紅子は何か話すことで眠気に抗おうとした。
「涼音と何があったか……訊かないの?」
 できる限りはっきり声を出したつもりだが、どうしてもけだるそうなしゃべり方になってしまうのが恥ずかしい。
 ともすれば閉じようとする視界の中で、竜介が苦笑するのが見えた。
「大体の察しはつくから」
と、座卓の上の丹前を横目で一瞥してから彼は言った。
「……終わったよ。まだ痛むかい」
 紅子は竜介の指が触れていた場所に自分で触れてみた。
 腫れは引き、痛みもない。
「大丈夫、みたい。ありがとう」
「よかった」
 竜介は柔らかく笑うと、紅子から離れて事務机にもたれ、胸の前で腕を組んだ。
「ついでに少し話したかったんだが……その様子じゃ無理みたいだな」
「うん……ごめん」
紅子は額を手でこすり、眠気を払おうと頭を振った。
「今、すごく眠い。部屋で寝てくる」
 肘掛けをつかんで立ち上がると、少しふらついた。
 部屋まで送ろうかと言われたが、歩けなくはないので断り、
「それより、涼音のフォローに行ったら?」
と勧めると、竜介はまた苦笑した。
「あいつなら、もう朝練に出かけただろう」
 そういえば、今朝はこれからだと言っていたっけ、と思い出す。
 紅子がそのまま部屋を出ようと襖を開けたそのとき、竜介が言った。
「きみには申し訳ないけど、これからもあいつには大人の対応をしてもらえると助かる」
 当然、そうするつもりだった。
 紅子自身、誰かとケンカをするためにここに来ているわけではないのだから。
 しかしそれを竜介から言われると、無性にしゃくにさわる。
 紅子は彼を軽く睨みつけた。
「あたしのこと、涼音と同レベルだと思ってるくせに。そういうときだけ大人になれって、ちょっと虫が良すぎない?」
 それだけ言うと、彼女は相手の抗弁を待たずにそのまま廊下に出て、ぴしゃりと襖を閉めた。
 足音が遠のくのを聞きながら、やれやれというように竜介は深くため息を吐き、親指と人差し指で眉間を軽く押さえた。
「同レベルだと思わないと、やってられねーときがあるんだよ……いろいろと」
 そう独りつぶやく。
 誰にも聞かせられない言葉だった。たった今、ここを立ち去った相手には、とくに。


 部屋に戻るなり紅子は布団に倒れ込むようにして眠り、ふと目を覚ますと正午を半刻ばかり回っていた。
 これ以上眠ると夜また不眠に悩まされそうだったので、まだ眠り足りない身体を気力でもって引き起こし、洗面所で顔を洗って身なりを整える。
 たった1時間あまりの睡眠が朝の不調を霧散させて、彼女を悩ませるものといえば、あとは健康な食欲だけだった。
 中庭側の障子を開けると外は小雨がぱらついていた。
 山の天気は変わりやすいというが、本当にそうらしい、と紅子は思う。
 昨夜の月夜と今朝の晴天が嘘のようだ。
 昼食をもらいに行った食堂は無人で、時間が少し遅いこともあり、皆がもう昼食をすませた後かと紅子は思ったが、滝口は、まだどなたもおいでになっていません、と答えた。
 たしかに朝あれだけ食べれば三兄弟の昼が遅くなるだろうことは察しがつく。
 が――涼音はまだ朝練から帰っていないのだろうか?
 ともあれ、今朝のことを思い出すだけでむかむかと腹が立ってくる今の状況では、再度顔を合わせるのは避けたほうがお互いのためだろう、と紅子は思った。
 何か言われただけでそれを百倍くらいにして返してしまいそうだ。
 竜介から頼まれた「大人の対応」どころの騒ぎではない。
 昼過ぎまで布団を敷きっぱなしにしてもらったことを滝口に軽くわびてから、紅子が昼食の席についたとき、鷹彦が食堂に入ってきた。
「滝口さん、そろそろ昼メシ食いたいんだけど……っと、あれ、紅子ちゃんだけ?」
 紅子が首肯すると、彼はふうんと鼻を鳴らし、
「ま、ちょうどいいか」
と、何やら意味深につぶやいて、そのまま彼女の向かいに腰を下ろした。
「今朝のことだけど、謝ろうと思って」
 彼の膳を運んで来た滝口が台所へ姿を消したのを確かめてから、鷹彦は言った。
「何かヤってたのかなんて、女の子に言うことじゃないよな。悪かった。
竜兄からも怒られたよ。ちょっと話をしてただけだって……その、玄蔵おじさんと日奈おばさんのこととか」
 紅子は食事を続けながら、珍しく言いにくそうに言葉をつなぐ鷹彦を一瞥した。
 彼も多分、彼女の出生にまつわる複雑な事情を知っているのだろう。
「気にしないでいいよ。もう怒ってないし」
「ホント?よかった」
 紅子の言葉に、鷹彦は安堵の笑みを見せた。
 それが竜介によく似ていて、食事をする紅子の手が思わず止まる。
 兄弟なのだから似ていて当たり前といえば当たり前なのだけれど、今までにこんなことでドキドキするなんてありえなかった。
 鷹彦の顔から目をそらすと、紅子は心臓を静めるために話題を変えた。
「それより、碧珠の魂縒(たまより)はいつすんの?今日……はもう午後だし、明日?」
 鷹彦はかぶりを振った。
「いや、たぶん明後日になるんじゃないかな。この雨だから」
 続けて、鷹彦は紺野家の御珠はこの屋敷から徒歩十分くらいの山中にある、と説明した。
「滝の裏側に洞窟があって、その中だから、ちょっと、いやかなり面倒なんだよな。雨で滝の水が増えると入れなくなるし。明日一日晴れてくれれば、明後日には出入りできると思うんだけど」
 つまり、魂縒が受けられるか否かはお天気次第、というわけだ。
 何とものんきな話だが、今回が特殊すぎるのかもしれない。
 なるべく急いで魂縒を受けなければならないことなど、この家の過去においてはこれまでそうそうなかったことなのだろう。
 明日の天気予報はどうだったっけ、と紅子が考えていると、滝口が食後のお茶を入れに来てくれた。
「滝口さん、今朝の栗最中まだ残ってる?あったら食いたいんだけど」
 鷹彦がそう言うのを聞いて紅子は喫驚した。
「まだ食べるの?」
「なんで?男はみんなこれくらい食うっしょ」
鷹彦は笑いながら言った。
「高校生の頃なんか、俺、間食に食パン一斤とかフツーに食ってたよ」
 紅子はめまいを覚えた。
「うそでしょ?」
「いや、マジで。竜兄はようかん二竿(ふたさお)一気食いとかして」
「本人がいないとこで余計なこと喋ってんじゃねーぞ、こら」
 鷹彦の言葉をさえぎって食堂に入ってきたのは、竜介だった。その後ろには虎光もいる。
 体格のいい男が三人もそろうと、広いと思っていた室内がとたんに手狭になった気がした。
 虎光が鷹彦の隣に座り、早速今日の昼食についての感想を弟に尋ね始めると、竜介は紅子の隣に腰を下ろして彼女にだけようやく聞こえるくらいの声量で言った。
「気分は治ったみたいだな。顔色がよくなってる」
 紅子は首肯すると、同じく低めの声で返した。
「うん、ひと眠りしたから」
 竜介は彼女にうなずき返し、「今朝の話だけど」と言った。
「忘れてくれ。考えてみりゃ、うちの問題児は俺たちでなんとかするのが筋だ」
 この男はどうあっても紅子に対する認識を改めるつもりがないらしい。
 彼女は「ふうん」と意地悪く鼻を鳴らした。
「それってさあ、今度涼音に殴られたら、殴り返してもいいってこと?」
 ぐっ、と言葉に詰まる竜介の顔が、紅子を寛大な気分にさせる。
 我ながら性格が悪いと思いながら、
「冗談だよ」
と彼女は笑った。
「わかってるって。あたしだってトラブルは避けたいし、ここには誰かとケンカしに来てるわけでもないもん。まあまた殴られるようなことがあったら、今朝みたいに治してよ」
「お望みなら、何度でも」
竜介は苦笑して言った。
「ただ、今朝みたいなことは二度とないように、涼音にはよく言い聞かせておくけど」
 と、会話に一区切りついた、ちょうどそのとき。
「なあなあ、二人で何こそこそ喋ってんの?」
さっきのお返し、と言わんばかりに鷹彦が彼らの間に身体ごと割り込んできた。
「紅子ちゃん、このあと暇なら、俺の部屋でWiiテニスでもしない?」
「え、でもあたし……」
 突然の誘いに紅子が当惑していると、竜介が自分の膳に箸をつけながら言った。
「行って来たら?やることあるなら別だけど」
「いやでも、あたしゲームってほとんどやったことないよ?」
「大丈夫、すぐ憶えるって。ほら、立った立った」
 鷹彦はそう言うと、やや強引に紅子を立たせ、食堂から連れ出した。
 紅子は部屋を出るとき、ちらりと竜介を振り返ったけれど、彼は既に虎光との会話に移っていて、もはや彼女を顧みることはなかった。
 ただ、それだけ。
 それだけのことを、寂しい、と紅子はわけもなく思った。

2009.5.26


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