第百話「嵐の前・2」


 紅子が出かける準備をして玄関に行く途中、廊下で虎光とすれ違った。
 おはようございます、と虎光に声をかけると、彼は笑顔で
「おはよう」
と返してから、紅子の出で立ちを見て尋ねた。
「どこか行くの?」
 英梨が買い物に誘ってくれて、竜介と鷹彦と一緒に服を見に行くのだと紅子が話すと、彼の一重まぶたの目は一層細くなり、
「そうなんだ。気に入った服が見つかるといいね」
「虎光さんは行かないんですか」
 紅子が尋ねると、虎光は苦笑した。
「あー、行きたいのはやまやまなんだけどね。会社からFAXやメールで送られてくる仕事が色々あってね……」
 たはは、と頭をかく。
 そこへ英梨が玄関のほうから来て、紅子に声をかけた。
「紅子さん、準備できた?」
 紅子が「はい」と返事をすると、虎光が言った。
「母さん、出かける前にちょっと」
 英梨はちょっと怪訝な顔をしてから、紅子に、
「玄関に車を回してもらったから、先に乗っててくれる?」

 紅子が玄関を出ていくのを見届けてから、虎光は英梨に言った。
「今日、紅子ちゃんを連れて出かけたことは、くれぐれも涼音には知られないように」
 それから、彼は紅子が紺野家に来た初日に起きたことを話した。
 英梨は、知らなかった、と眉をひそめてため息をついた。
「涼音さんにも困ったものね……どうしたらいいのかしら」
「これ以上、涼音のライバル心を煽らない、ってことくらいしか僕にも思いつかないね」
虎光も肩をすくめる。
「あとは、涼音と紅子ちゃん二人の接触をできるだけ減らすくらいかなぁ。ま、ひとつ屋根の下にいるんだから、限界はあるけど」
 英梨はうなずき、言った。
「教えてくれてありがとう、気をつけておくわ」

※※※

 紅子は当初、この日の買い物は自分の小遣いでまかなうつもりだった。東京を離れるとき、玄蔵が多めに持たせてくれていたからだ。
 が、行きの車中、後部座席で紅子の隣に座った英梨から、
「紅子さん、お金のことは気にしなくていいから、好きなものを選んでね」
と言われたのと、到着した場所が見るからに高価そうなブティックやブランドショップの立ち並ぶ一角だったのとで、あきらめてお言葉に甘えることにしたのだった。
 英梨の審美眼は確かで、彼女が
「これ、どうかしら?」
と言って選んだ物は、どれも紅子の好みに沿い、サイズもちょうどよく、おまけに試着して見せる度に、「とっても似合うわ」だの「素敵ね」だのと褒められたので、照れくさくはあるが悪い気分ではなかった。
 小学校中学年くらいまでなら、祖母と父の三人でこんなふうに買い物に行くことはあったし、それはそれで楽しかったのだけれど、
「若い女の子の服を見るのって、楽しいわ」
と言って笑う英梨を見るにつけ、紅子は

 もしあたしにお母さんがいたら、こんな感じだったのかな――

と思わずにはいられなかった。

 さて、そんなこんなで二時間くらい買い物を楽しんだろうか。
 店を出る度に指数関数的に増えていく荷物に竜介と鷹彦が音を上げたので、一旦すべての荷物を車のトランクに入れて、彼ら四人は昼食休憩を取ることにした。
 トランクにしまった荷物の中には、紅子が立ち寄った憶えのない店の名前が入ったショッピングバッグが数点混じっていて、どうやら紅子と英梨を待っている間、竜介と鷹彦もまた、自分たちの買い物を楽しんでいたようだ。
 昼食について、
「何か食べたいもの、ある?」
と英梨から訊かれたので、紅子が考えていると、鷹彦が横から耳打ちした。
「肉にしなよ、肉肉」
「うるさいっ」
 紅子が一喝すると、彼はおどけてよろけるふりをし、それを見た英梨と竜介が笑った。
 結局、紅子はハンバーグをリクエストした。鷹彦の耳打ちに影響されたみたいでしゃくだし、少し子供っぽいかなと思ったが、食べたくなったのだから仕方ない。
 英梨が連れて行ってくれた店は、おしゃれなカフェレストランだった。
 外観も内装も可愛らしい雰囲気の店で、メニューもなんだか小洒落ているが、確かにハンバーグ料理がその中にあった。
 もっとも、紅子が考えていたものよりずっとおしゃれな盛り付けになっていたけれど。
 店内は女性客やカップルが多く、家族連れはあまりいない。
 店に入ったときからなんとなく感じていた、周囲からチラチラと送られてくる視線は、おそらく自分たち四人が、この中でちょっと異色な人員構成だからだろう、と紅子は合点していた。
 だが、料理を注文し終えて、セルフサービスの飲み物を取りに行くとき、周囲の主に女性の視線が、竜介と鷹彦の二人の動線に沿って移動するのを目の当たりにして、紅子はようやく注目されていたのが誰なのかを知った。
 志乃武や藤臣ほど華やかではないものの、竜介と鷹彦兄弟の容姿も、周囲の目を引くに十分な整っているということのようだ。
 料理が運ばれてきて、食事を始める。
 鷹彦の軽い冗談にみんなが笑う。

 そっか、と紅子は思った。

 こういうことだったんだ。

 そのとき、紅子は初めて、本当の意味で理解できたのだ――涼音の独占欲が。
 それと同時に、自分が今座っている場所が、本来は涼音の場所だということも。

※※※

 四人が買い物から帰宅したのは、午後もまだ早い時間だった。
 玄関先では、書類仕事が一段落したらしい虎光が出迎えてくれ、荷物を下ろすのを手伝ったあと、車を車庫に持って行ってくれたので、紅子は英梨たち三人の手を借りて、買った物を部屋まで運ぶことができた。
 竜介と鷹彦が自分たちの買った分を持って紅子の部屋を出た後は、英梨が荷解きを手伝ってくれた。
「我ながら、ちょっと調子に乗って買いすぎちゃったかしらね」
と、彼女は大量の荷物を前に、ちょっと苦笑して言った。
「帰るとき、もしカバンに入りきらなかったら、何着か宅配でお家に送るといいわ。斎に言えば手伝ってくれるから」
 そんな調子で荷解きが終わりに近づいた頃、開封した紙袋の中から、男物のショートブーツが入った箱が出てきた。
 竜介か鷹彦のどちらかが買ったものが紛れ込んでいたらしい。
 ブーツのサイズをあらためた英梨が、
「これ、竜介さんのだわ」
と言ったそのとき、部屋の外から斎が英梨を呼ぶ声が聞こえた。
 英梨が襖を開けると、斎が言った。
「旦那様からお電話が入っております」
「貴泰さんから?わかりました、今行きます」
英梨は斎にそう答えてから紅子を振り返り、言った。
「ごめんなさい、あとはお任せしていいかしら?それと、そのブーツ、竜介さんにここまで取りに来るよう伝えておくから、ちょっと預かっててね」
 ぱたぱたと電話口に急ぐ英梨と、その後を追う斎の背中を見送っていたら、ちょうど彼らとすれ違う形で竜介が廊下のむこうから来るのが見えた。
 英梨は竜介に手短に何か言ってから――おそらく、紅子の荷物に紛れ込んでいた靴のことを伝えているのだろう――斎と一緒に廊下の向こうへ姿を消し、竜介一人がこちらへやってきた。

2009.5.26

2021.6.26改稿


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