第百話「心の迷宮・1」


 翌朝、紅子は軽い吐き気と頭痛とともに目を覚ました。
 半覚醒状態のまましばらく布団の中で気分の悪さに呻吟しながら、夕べ何かおかしなものでも食べたり飲んだりしたろうか、と記憶をめぐらせる。
 そのうち、昨夜遅くまで竜介と話をしていたことを彼女はようやく思い出した。
 とすれば、今のこの状態は睡眠不足か、それとも気化したアルコールを吸い込んだことによる二日酔いか。
 両方かもしれない、と紅子は思った。
 小学校低学年の頃、彼女は夕食の粕汁で真っ赤になったことがあるからだ。
 以来、一色家の食卓に粕汁が並んだことはない。
 他にも、中学生のとき友達の家で出されたブランデーケーキ一切れでふらふらになり、その子の母親に車で送ってもらったなどということもあった。
 自分はアルコールに弱いのだ、と今更ながら自覚する。
 しかし、アルコールを吸い込んだだけで二日酔いなんてあるだろうか。
 実際に自分が今経験しているのだからあるのだろうが、それにはたぶん、睡眠不足も大いに影響している……と思う。
 急激に動くと本当に吐いてしまいそうで、紅子は恐る恐る起きあがった。
 枕元の着替えに手を伸ばそうとして、その隣に畳んである丹前に気づく。
 これがここにあるということは、やはり昨夜のことは夢や幻ではなく、現実だったのだ。
 一晩眠るだけで、人の記憶とはなんとあいまいになってしまうものか。
 紅子はもう一度時間を引き戻したいような焦燥感にかられた。
 現実の時間も、ビデオのように巻き戻せればいいのに――そんなことを思いながら。
 自分でも気づかないうちに丹前にそっと顔を近づけ、その匂いをかいでいた。

 床の間の置き時計は既に九時を回っていた。
 朝食を食べるのは自分が最後かもしれないと思いながら食堂へ行ってみると、涼音の姿がないのはいつものこととして、残りの三兄弟がうちそろって食事をしていたのは、紅子にとって少しばかり意外だった。
 給仕をしている滝口を含め、四人から一斉におはようを言われたのは頭に響いたが、彼女はできるかぎりにこやかにあいさつを返した。
 食卓にはベーコンエッグに温野菜のサラダ、果物、トースト、コーヒーなどが並び、さらに中央には巨大なミックスピザが鎮座していた。
 しかも、それはあと二、三切れを残すのみとなっている。
 つまり、あらかた食べられているのだ。
 朝からピザ。
 昨日の朝食がわりと一般的な量だったのは、彼ら三人がそろっていなかったからか。
 紅子も普段なら朝食はしっかり食べるほうだが、それでも朝からピザはありえない。
 とくに気分のすぐれない今朝は、ピザなんて見たくもなかった。
 焦げたチーズの匂いに胃袋が拒否反応を訴え始めたので、お食事をお持ちしましょうと言って食堂を出ていく滝口を追いかけるように、紅子も台所へ向かう。
 そこで、食欲がないから果物かジュースだけほしい旨を彼女に伝えると、紺野家の初老の家政婦はあからさまに顔を曇らせた。
「たしかに少しお顔の色がすぐれませんね。お薬をお持ちしましょうか?」
 まさか二日酔いに効く薬がほしいとも言えないし、このあと部屋に戻って少し休めば楽になるだろうという希望的観測もあったので、紅子がその申し出を断ると、滝口は大きな冷蔵庫を開けて、ドアポケットに並ぶ各種飲料の中から好みの物を選ばせてくれた。
 台所の隅にあったキッチンスツールに腰を下ろし、滝口が入れてくれた冷たいグレープフルーツジュースをちびちび飲んでいると、鷹彦が台所に入ってきた。
「滝口さーん、コーヒーおかわり。あと、なんか甘いものある?和菓子でもなんでもいいんだけど」
 滝口は笑顔で、はいはいございますよ、最中(もなか)でよろしゅうございますか、と戸棚から栗最中と書かれた箱を出す。
 鷹彦は箱の中をのぞき込んで菓子の数や大きさを確かめると、
「竜兄と虎兄も食うって言ってたから、一人二個ずつちょうだい」
と言った。
 まだ食べるのかと紅子が呆れて見ていると、彼女の存在に気づいた鷹彦と目があった。
「なかなか戻ってこないと思ったら。何で台所でジュースなんか飲んでんの?」
 頭痛と吐き気のせいでしゃべるのがおっくうな紅子は、「ほっとけよ」と一蹴したかったが、それだとかえって会話が長引きそうなので、手短に説明することにする。
「……食欲ないの。睡眠不足だと思う」
「へー。睡眠不足?奇遇だね」
「奇遇って?」
「竜兄も今朝は寝不足だって、あくびばっかしてるからさ」
鷹彦は面白くなさそうに口をとがらせ、言った。
「なんかあやしいなぁ。夕べ、二人で何かヤってた?」
 紅子は自分の神経が毛羽立ってくるのを感じた。
 鷹彦の下世話な言い方がとくにカンに障り、「話をしてただけ」と言い返したかったが、何を話していたのかとさらに根ほり葉ほり質問攻撃にさらされそうな気がして、固く口をつぐむ。
 黙ったままジュースを飲み続けている彼女の沈黙をどう受け取ったのか、鷹彦はわざとらしくため息を吐くと、コーヒーと最中を持って首を振り振り台所から出ていった。

 ジュースを飲み終えると、頭痛はともかく、吐き気は多少ましになったような気がした。
 大型食器洗浄機に汚れた皿を並べている滝口に礼を言って、紅子が台所を出ようとしたちょうどそのとき。
 逆にこちらへ入ってくる人物がいた。
「おっと、悪い」
 ぶつかりそうになったとき、頭上から振ってきた声は竜介のそれだった。
 彼は数歩後退して紅子と一緒に廊下へ出ると、
「鷹彦から聞いたんだけど、食欲ないんだって?大丈夫?」
と尋ねた。
「平気」
しゃべるのはやはりまだおっくうで、つい言葉少なになる。
「これから、部屋でもう少し寝る」
 それがいいな、と同意しながらもまだ少し心配そうな彼の顔を見ていて、紅子は忘れそうになっていたことをふと思い出した。
「夕べ借りた丹前、どうしたらいい?」
 竜介はほんの一瞬、何だっけ、という顔をしてから、「ああ、あれか」と言った。
「俺の部屋に適当に置いといて。気分が良くなってからでかまわないから。部屋、わかる?」
 昨夜のことで大体の位置は把握している。
 紅子がうなずくと、彼は微笑し、それじゃまたあとで、と言って、食堂へ戻っていった。

 部屋へ戻ってまずはひと眠り――
 と、一旦横になったものの、用事を残して眠るのは何となく落ち着かない。
 紅子はしばらく寝返りを打った後、やはり先に丹前を返しに行くことにした。
 竜介の部屋、というものに好奇心をくすぐられたせいも少なからずある。
 あるけれど、そういった興味は何となく低劣な気がして、自分は純粋に借りた物を返しに行くだけ、と口の中で何度も繰り返しながら彼女は自室をあとにした。

 中庭に面した廊下を行くと、目当ての部屋はすぐにわかった。
 廊下には空のショットグラスと酒肴用と思われる小皿の乗った盆が――酒瓶は片づけられていたが――あったし、何より障子が開け放たれて、部屋の中が丸見えだった。
 おそらく、酒臭さを消すために換気しているのだろう。
 中に入ってみても、昨夜の匂いはもう残っていなかった。
 部屋は二間続きで、(ふすま)で仕切られた片方は寝室らしい。
 布団や寝間着が部屋の主人が起きたそのときのまま放置されていて、紅子はなぜかそれらを正視できずに、急いでもう片方の部屋に目を逸らした。
 中学生の頃、彼女は友達の家に遊びに行って、大学生だというその子の兄の部屋を見せてもらったことがある。
 その部屋は床に漫画雑誌や洋服などが散らばって雑然としている上、壁にはきわどい水着姿で悩殺的なポーズをとるグラビアアイドルのポスターがでかでかと貼ってあり、若い男性の部屋というのはみんなこんな感じなのか、とげんなりしたものだったが、竜介のもう一方の部屋は、そういった過去の記憶による彼女の先入観を良い意味で裏切っていた。
 そこには淡い青灰色のカーペットが敷かれ、小さな座卓を真ん中に挟んで、片側に大きくて重厚なデザインの木製事務机と黒いアームチェア、反対側に机とそろいのデザインのガラスキャビネットとクローゼットがそれぞれ置いてあり、ちょっとした仕事部屋という印象だった。
 室内がどこもすっきりと片づいているのは、家政婦の滝口のおかげか、それとも竜介が自分でやっているのだろうか。
 いずれにしても、シンプルで大人っぽい、良い部屋だと紅子は素直に思った。
 机の上はノートパソコンと充電中の携帯電話、それに難しそうなタイトルのハードカバーが何冊か。
 中には英語の背表紙も混じっていて、英語アレルギーの紅子をぎょっとさせる。
 ちらりとのぞいてみたガラスキャビネットの中身は、ひたすらいろんな種類の酒瓶。
 それはしかし、紅子を苦笑させると同時に、なぜか少しほっとさせた。
 室内に入ったとき最も目に付くだろう座卓の上に丹前を置いて、紅子は部屋を出ようと中庭とは反対の廊下へ続く襖を開けた。
 屋内側の廊下だとどういう順路になるのか、単にそれを確かめたかっただけなのだが、これがつまづきの始まりだった。
 部屋の前を偶然にもちょうど通りかかった涼音と鉢合わせしてしまったのである。
 涼音は学校のロゴ入りジャージを着て、ボストンバッグを肩に掛けていた。
「おはよ。今朝はこれから朝練?」
 内心、ややこしいヤツに会ってしまったと思いつつも、それを顔には出さないようにして、できるだけ友好的なあいさつをする。
 しかし、相手はそんな気遣いなど無用と言わんばかりの仏頂面で、
「自主練だけだから」
と、答えた。
 無視してもいいような質問なのに、妙なところで律儀だと紅子は少し可笑しかったが、笑えたのはここまで。
「オマエ、竜介の部屋で何やってた」
 涼音が言った。
 いきなりオマエ呼ばわりかよ、と紅子は多少ムッとしたが、
「何も。借りてた物を返しに来ただけ」
 と、静かに答える。
 すると、それにかぶせるようにさらに質問が返ってきた。
「借りてた物って?」
 紅子は今朝からの頭痛と吐き気がまたぶり返してきた気がした。
 もうどうとでもなれ、という気分で「上着」と答えると、
「何でオマエが竜介から上着なんか借りるんだよ?滝口さんか、うちの母さんに言えばいいだろ」
「夜中だったから」
 紅子の忍耐強い返答。
 それに返ってきたのは、沈黙だった。
 涼音の顔はひどく不快そうにゆがんでいて、どうやら絶句しているらしい。
「……何だよそれ!?」
甲高い涼音の叫び声は、紅子の頭に割れ鐘のように響いた。
「夜中!?どういうこと!?説明しろよ!」
 紅子は耳をふさいで「うるさい!」と怒鳴りつけたいのをこらえつつ、
「説明も何も、少ししゃべってただけだよ。さあもういいでしょ?あたし寝不足で頭痛いから、もう行くね」
 と、きびすを返そうとした。
 実際、頭痛と苛立ちは限界に来ている。
 これ以上ここにいたら目の前の相手に何をしでかすか、自分でもわからない。
 と、そのとき。
 シュッ、と空気を切り裂くような音を、紅子の耳が捉えた。
 考えるよりも先に身体が動く。
 次の瞬間、紅子が反射的につかんでいたのは、涼音の手首だった。
 その手のひらは、あともう少しで紅子の頬をしたたかに打つ寸前で止められていた。
 紅子は相手が自分に何をしようとしていたのかということに気づき、むらむらと腹が立ってくるのを感じた。
 いったい、何があってここまで敵意を露わにされなければならないのか。
 コイツ、少し痛い目を見せてやろうか――
 今朝からの体調の悪さも手伝って、そんな凶暴な衝動が一瞬、頭をもたげる。
 が、まさか止められるとは思っていなかった一撃を止められて呆然としている涼音の顔を見るうち、何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「ケンカ売るのは相手を見てからにしなよね」
 低い声でそれだけ言うと、紅子は投げるようにして相手の細い手首を解放してやった。
 と――
「涼音」
まるでタイミングを計っていたかのように、竜介ののんびりした声が聞こえた。
「門の外に友達が迎えに来てるってさ」
 紅子はこちらへやってくる彼の姿に視線を移し、ほんの一瞬、目の前の相手から注意を逸らす。
 その刹那。
 ガツッ、と何か固い物が頬骨に当たり、目から火花が飛んだ。
 紅子は小さく悲鳴を上げ、重心を崩して肩から壁にぶつかる。
 涼音に殴られたと気づくのに、しばらくかかった。
「何やってんだ、おまえ!」
 厳しい叱責の声。
 痛む頬を手で押さえながら、どうにかそちらへ視線を転じると、涼音は兄に腕をつかまれ、じたばたともがいていた。
 竜介が言った。
「彼女に謝るんだ」
 が、涼音は聞かない。
「いやだ!放せよ!」
彼女は泣きながら、もぎとるようにして兄の手をふりほどくと、
「もうやだ!こいつ嫌い!竜介も大っきらい!」
 そう言い捨てて、ばたばたと廊下を走って行ってしまった。

 涼音は自室へ駆け込もうとして、途中、母親とすれ違った。
「涼音さん、お友達が迎えに来て下さってるわよ」
母親はおっとり声をかけてきたが、彼女は立ち止まらず、
「先に行ってもらって。ちょっと遅れるって言っといて」
と、顔を見られないように肩越しに言った。
「あら、どうしたの?泣いているの?」
気遣わしげな声が追いかけて来たが、彼女は振り返ることもせず、自分の部屋に入ると、襖をぴしゃりと閉めた。
 竜介が追いかけてこない――それが涼音の悲嘆を深くする。
 彼女は崩れるように畳の上に座り込むと、唇をかんで涙をこらえながらボストンバッグの中をさぐって携帯電話を取り出した。
 登録された番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
 数回のコールで相手は出た。
「あんたの……言う通りにするよ」
涼音は相手を確かめもせず、言った。
「勘違いするなよ……あんたのことだって、ボクは大嫌いなんだからな。ただ、今は、アイツを……これ以上、竜介に近づけたくないんだ。だから……だから、あんたに協力してやる」
 ――ありがとう。
 電話の相手はそう言って、鈴を振るような声で、笑った。

2009.5.18

2010.01.12一部改筆


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