第九十九話「月の魔法・6」


 真夜中の庭を、二人は他の家人を起こさないよう、静かに歩いた。
 月は音もなく彼らに従う。
 いったいどれくらいの時間、話していたのだろう、と紅子は思った。
 一時間か、二時間か。
   竜介からはかなり色々と聞いたはずなのに、もっと大事なことを聞き忘れている気がして、彼女の歩みははかどらない。
 が、竜介がその遅さを怪訝に思う様子もなく、自分に合わせてゆるゆると歩を進めてくれるのを、紅子は素直に嬉しいと思った。
 月明かりに照らされた端整なその横顔を、そっと見上げる。
 それだけで、紅子は胸に名状しがたい甘い感覚が広がるのを感じた。
 美しいというなら、藤臣や志乃武のほうが美麗なはずである。
 なのに、彼らを見ていてこんな感覚を味わったことはない――いや、これまで他のどんな男性を目にしても、なかったことだ。
 この感覚は、何?
 答えのない問いかけばかりが増えていく。
 と、そのとき。
 竜介が前を向いたまま、くすりと笑った。
「俺の顔に何かついてる?」
 気づかれていた。
 羞恥で紅子の顔が赤くなる。
「え……っと、あっ、その、訊きたいことが……あって」
 とっさに口から出たことだが、これは本当だった。
 これまでの話の中で、ほんの少しだけ気になっていることがある。
「でも、いいの。大したことじゃないから」
「きみにしちゃ珍しく歯切れが悪いな」
と、彼は笑った。
「言ってみなよ。言いかけてやめられると、かえって気になる」
 紅子はしばらく逡巡してから、訊いた。
「あのさ、竜介は、あたしの母さんのことが好きだったんでしょ?」
 彼は、何だそんなことかと言いたげな顔で首肯した。
「ああ。優しくて、とてもきれいな人だったからね」
「それってさ、初恋ってこと?」
 次の瞬間、彼は盛大にむせた。
「何、そのリアクション」
紅子が口をとがらせてにらむと、
「いや悪い」
と謝りながらも、竜介はくっくと含みのある笑いを漏らした。
「恋か。恋ねえ」
「だって、母さんとの結婚話、嬉しかったって言ったじゃない」
「ガキの頃の話だろ。それに、俺は『悪くない』って言ったんだ。嬉しかったとは言ってねえ」
彼はさもくだらないと言いたげに手をひらひらさせ、何かを払いのけるような仕草をした。
「たしかに日奈おばさんのことは好きだったけど、母親か姉みたいなもんで、恋愛感情なんてカケラもねーよ。それより、恋愛には興味ないんじゃなかったっけ?」
 そうからかわれて、紅子はまた顔が熱くなるのを感じた。
「竜介は母さんのことが大好きだったって泰蔵おじいさんからも聞いたから、ひょっとして、って思っただけだよ。レンアイなんて、興味あるわけないじゃん。友達とバカやってるほうがずっと楽しいもの」
 怒った口調でまくしたて、ぷいとそっぽを向く。
 あまりにむきになって否定したのがおかしかったのか、竜介のくすくす笑いが聞こえた。
「たしかに、恋愛ってめんどくせえことも多いからな。紅子ちゃんがそう言うのも、わかるよ」
 その口振りは、明らかに経験者のそれだった。
「恋愛、したことあるんだ」
 思わず口を衝いて出た質問とも確認ともつかない言葉に、竜介はあいまいに笑い、
「ま、二十五年も生きてりゃね」
 紅子はいきなり、ひどく突き放されたような気がした。
 彼が自分よりずっと年上だということはとうに知っている。
 なのに、こうして改めてその差を感じるたびに動揺してしまうのはなぜだろう。
 手を伸ばせば触れることもできるほど近くにいるのに、こんなにも遠く感じるのはなぜだろう。
 なぜ――
 もしも今すぐ、同じ二十五歳になれたなら。
 自分の知らない竜介の二十五年間を埋め尽くせるほど、彼を知ることができたとしたら。
 そうしたら、答えの見つからないいくつもの問いに頭を悩ますこともなくなるのだろうか。

 途切れた会話を無理に続けるつもりは、竜介にはなさそうだった。
 その沈黙は紅子の返事を待つかのようでもあり、ただその表情をうかがうだけのようでもあった。
 空耳だろうか、どこか遠くでサイレンが鳴っている。
 それは音の高低を変えながら近づき、やがて、遠ざかっていった。
 もどってきた静寂を破ったのは、紅子だった。
「あたしは……ないの。まだ」
 竜介は笑いもせず、ただ黙っている。
 紅子が一瞥すると、彼の目は「それで?」と先をうながしているように見えた。
「付き合ってって言われたことがないわけじゃないんだけど……なんてゆーか、そのたびに『違う』って思うんだ。何が『違う』のか、自分でもよくわからないし、うまく説明できないんだけど。友達からは、付き合ってみればそのうち好きになるかもしれないよ、って言われる。でもそんなの、ありえない。少なくともあたしは、まっぴらなの。好きでもない男子とデートなんて」
 なんでこの男にこんなこと喋ってるんだろう。
 そんな疑問が一瞬脳裏をよぎったけれど、ずっと心にため込んでいたことを今ここで吐き出してしまいたい欲求のほうが強かった。
 そしてその相手は、今目の前にいるこの人でないとだめだと、彼女の中の何かがささやいている。
「一番しんどかったのは、小学校五年と六年のときかな。それまでは男子とか女子とか意識しないで普通に仲良くやってきたのに、なんかだんだんそういうことができなくなって、息苦しいってゆーか煩わしいってゆーか。周りのみんなが変わっていくのがすごくイヤで、学校行きたくないって思うこともあったくらい。あたしがおかしいのかって悩んだりもしたけど……あたしは、変わりたくなかった。だから、変わらないほうを選んだの」

 中学では、友達に気を遣うのをやめた。
 恋愛話を振られても、興味がない、と正直に言うことにしたし、休部寸前だった女子の空手部に入部して、できるだけその手のことから距離を置くよう努めた。
 つまり、一般的な恋愛指向を持つ女子とは真逆の努力をしたわけである。
 決定的だったのは体育祭のとき。
 体育会系クラブのエキシビションタイムに、紅子が瓦割りとブロック割りの模範演技をしたのである。
 なぜ一年生の彼女が抜擢されたかといえば、単にそういった派手な演武をできる部員が他にいなかったから、ということもあるが、彼女が父親の道場で武術を学んでいるということもまた、大きかったようだ。
 どんな武術であれ長くやっているなら、そうそうケガをするような無茶をしたりはしないだろうとコーチ兼顧問の体育教師は踏んだらしい。
 それはさておき、どちらかといえば小柄な、それも一年生の女子がやすやすと瓦十枚をたたき割り、先輩の持つコンクリートブロックを回し蹴り一閃で真っ二つにする光景は、その場に居合わせた全校生徒のみならず教師達にとっても、当然ながらかなりの衝撃だったようだ。

「友達からはドン引きされちゃうし、よその学校の悪そうな男子は空手教えてくれって押し掛けてくるし、おばあちゃんからは大目玉くらうしで大変だったけど、そのあとの二年はまあまあ静かに過ごせたから、後悔してないよ」
 そう言って笑う紅子の横顔を見ながら、それまで黙って聞いていた竜介がゆっくりと口を開いた。
「高校では、ずいぶんおとなしそうな感じだったけど」
 一瞬の沈黙。
 紅子の顔から、笑顔が消えていた。
「おばあちゃんが、ね」
足元に視線を落とす。
「亡くなる前、おばあちゃんが言ったの。高校では目立つことはやめてちょうだい、って。女の子らしくしなくてもいい、父さんの道場に行くのもいい、どんなスポーツをしてもかまわない、ただ悪目立ちするのだけはやめて、って。だから……」
「そうか」
竜介は言葉少なに相づちを打つ。
「つらいな」
 紅子は少し笑ってかぶりを振った。
「別に。藤臣先輩のことで春香とおかしくなったのは、ちょっとつらかったけどね。あたし、ほんとに恋愛感情ってわかんないから。……でも、ああいうことがあると、正直、迷う。今のままでいいのかなって」
 紅子が使っている客間の前に着いた。
 二人の足が、ほぼ同時に止まる。
「変わりたくないなら、無理に変わる必要なんかない」
竜介が言った。
「いつか、きみが自分から変わりたいと思うときが来るまで、待てばいいさ」
「そんなときが一生来なかったら?」
 彼は苦笑して肩をすくめる。
「自分の人生だろ?きみが満足なら、それでいいと思うけどな」
 その言葉は、紅子の胸にすとんと落ちた。
 そうか、そうだよね、と心中でつぶやいていると、竜介が人差し指を立てて、「それと、あともう一つ」と言った。
「恋愛ってのは、ここでいくら考えてもムダだから」
 そう言いながら。
 彼は紅子の額をその人差し指で軽く小突いた。
 紅子が思わず額を押さえ、竜介を見上げると、彼は優しく笑った。
「……わかった」
紅子は額から手を放し、ためらいながら言った。
「あの、ありがとう……話、聞いてくれて」
「こちらこそ」
と、彼は言った。
「いろいろ変な話をして悪かった。ま、酔っぱらいの言うことだと思って忘れてくれ」
 紅子は笑ってかぶりを振る。
 忘れたりしない。
 彼女は竜介が帰るのを見送ろうと思い、彼がきびすを返すのをしばし待った。
 が、彼はその場に立ちつくしたまま、動く気配がない。
「もう部屋に戻ってくれていいよ」
「きみが自分の部屋に入ってから、戻る」
 ヘンなの、と心中で首を傾げながら、廊下に上がる。
 振り返ると、竜介はまだ同じ場所にいた。
 おやすみ、という言葉を交わして部屋に入り、障子を閉めると、紅子はそのまま耳を澄ました。
 庭の玉砂利を踏む音が、少しずつ遠くなって、聞こえなくなるまで。

 布団に入ろうとして、紅子は竜介の丹前を借りたままだったことにようやく気づいた。
 丹前からは彼が飲んでいた酒の香りが漂い、それはいつのまにか彼女の寝間着にもわずかに移っていた。
 甘く、ほろ苦い、禁断の果実の香り。
 今、紅子の胸の奥に、小さな赤い炎が揺れている。
 その炎の名前もまだ知らないまま――
 彼女は、竜介の匂いに抱かれて、眠った。

2009.5.8


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