〜あいちゃんの「二人羽織」〜



「レット症候群」という病気を知っていますか。

原因不明の進行性の神経疾患で、生後1歳から1歳半ぐらいから精神遅滞が著しくなり、知能の発達が止まってしまいます。重症のお子さんは、運動面でも発達に影響が出て、車椅子の生活となってしまいます。手を揉むようなしぐさを繰り返すようになり、これがこの病気の外見的な大きな特徴となっています。なぜか女の子にしか発病せず、治療法もまだ分かっていません。発病率は出生した女の子の1万人から1万5千人に1人といわれています。

長女の愛子(8歳)がこの病気と診断されて3年が経ちました。雅子という6歳の妹がいるのですが、今ではすっかり愛子の面倒を見るようになりました。
「お母さん、お母さん、あいちゃんがジュースこぼしちゃった」
「あいちゃん、道路の方行っちゃだめだよ。こっち、こっち」
「あいちゃん、いっしょに踊ろう」
まあ、こんな具合です。

そんな姉妹と父がいっしょにお風呂に入ったときのある日のやり取りです。浴槽に入るときは、父は愛子を後ろから抱えるように入り、妹の雅子はそれに向き合う形でいつも3人で入ります。
「お父さん、お父さん、こんなの知ってる?」
「どんなの?」
「ぴかちゅう、かいりゅう、やきにく、ていしょく、びーるのおつまみちょっとまずい...」
まあ他愛もないこどもの手遊び歌です。
「お父さんもやって」
「こう?ぴかちゅう、かいりゅう、...」
「そうそう。あいちゃんもやって」
さあ、この時は父が愛子の手を後ろから持って妹のやるとおりに愛子の腕を動かします。まるで宴会芸の「二人羽織」のように。
「ぴかちゅう、かいりゅう、やきにく、ていしょく...」
この「ていしょく」のところでわざと愛子の手でお風呂のお湯をぱっと巻き上げるとそのしぶきが2人の顔にかかって2人は大喜び。
「きゃはは。愛ちゃん、おもしろーい」
愛子もケラケラ笑います。

浴槽からあがり、体を洗う時。自分では何もできない愛子の体は当然父が洗ってやります。
「まーちゃん、はやく体洗いなさい」
「やだ。お父さんに洗ってもらうもん」
「どうしてぇー。まーちゃん、もう1人でできるでしょ」
「だってあいちゃん、お父さんに洗ってもらっているじゃん。あいちゃんだけズルだ」
「だって、愛ちゃんは1人でできないからだろ?でも、ちょっとぐらい自分でできるかな」
また父が「二人羽織」よろしく、愛子の手を持ち、妹にわからないように、愛子が自分で洗っているようなしぐさをすると、妹はしぶしぶ1人で洗い始めます。でもすぐばれて、
「あー、お父さん、ズルだー」

「ねーねー、お父さん」
「なに?」
「あいちゃん、おとなになったら1人で体洗えるようになるかな?1人でおしっことかうんちとかできるようになるかな?」
「愛ちゃんの病気はとっても難しい病気だからなー。でも、きっと偉いお医者さんが治し方見つけてくれるんじゃないかな」
「まーちゃん、神様にお祈りしよっと」
妹はキリスト教の幼稚園に通園しています。
「神様、あいちゃんがおとなになったら、ちゃんと1人で体が洗えるようになりますように。ちゃんと1人でおしっことかうんちとかできるようになりますように。このお祈りをイエス様のお名前をとおして、おささげいたします。アーメン」
父も妹に合わせて「アーメン」。
神様が、このお祈りを聞き入れてくださり、「奇跡」を起こしてくださるまでは、愛子のような障害者には、「二人羽織」の黒子のような存在が必要なのです。
そしてその「黒子」は健常者と障害者の障壁を拭い去るような存在であって欲しい。そう願ってやみません。

体を洗い終わってまた浴槽へ。
「あいちゃん、あいちゃん、またやろ。ぴかちゅう、かいりゅう、やきにく、ていしょく...」
愛子も妹にあわせてケラケラ笑いながら手遊びをします。そして「ジャバッ」と水しぶき。
「きゃははは。あいちゃん、おかしい。お父さん、お父さん。あいちゃん、おもしろいよ」
「おもしろいね。まーちゃん、愛ちゃんのこと好き?」
「うん。まーちゃん、あいちゃんのことだーいすき」


1998年 1月
レット症候群の娘とそのファミリーより