最終更新日: 2010/4/29
■ 訃報:栄ちゃん(高梨栄さん 06/9/13)、高梨良子さん(07/1/15)、マーやん(高梨正司さん 07/4/2) ... 2007/4/7
脳梗塞を治療中のご主人:正司さんの介護をされていた奥さんの良子(りょうこ)さんが体に不調をきたし、調べたところ胆管の癌であることが判明して、介護中の夫に先立ってしまわれました。
大きくはない体で夫の介護を6年以上続けておられたのに、ご自身が先に逝ってしまわれました。
6年ほど前に脳梗塞を発病されて闘病中だったマーやん:高梨正司さんが、奥さんの良子さんの後を追うように、4月2日お亡くなりになりました
私が生まれたときから身近においでだったので、ことさら親しみの大きい叔父でした。
碁を打ちギャンブルも強く、釣り・カラオケをしと、猛烈に働き猛烈に遊んだ方だったので、悔いのない人生だったのではないでしょうか。
100日早く生まれた夫が、80日後に<妻の後を追ったのは、ある意味で「夫唱婦随」と言えるでしょう。
居るのが当然だった父母・叔父叔母などがつぎつぎに亡くなり、さらに従兄弟にもそれが及び出して亡くなった人が増える一方、他方では結婚したり子供が生まれたりで、まさに「世代交代」を思い知らされます。
インターネットが無ければ勝秋さんとはコンタクトが無いままであったであろうことを考えると、今回のようなチャンスをもたらしてくれたインターネットの威力を強く感じさせられました。また、このような事態を期待してHPを開設したことは大正解でした。
さらに、次なるコンタクトが生れて、家系の情報が充実することを期待しています
今日(2月1日)の放送を聞いていて気になったこと2つ。
「元旦」の「元」は「はじめ」あるいは「基準点」と言った意味で、「元日」となって「1月1日」となります。「旦」の字は「日」と「一」から成っていますが、「日」はもちろん太陽を表し、「一」は水平線を表して、併せて「旦」となって、「太陽が水平線から昇る様子」すなわち「朝」をあらわします。「元」と「旦」とで「元旦」となり「1月1日の朝」をあらわし、まるまる1日を指す「元日」とは区別されます。ですから、「元旦の夕方」という表現は「真っ赤な白線」と同じことになります。
「元旦」と同じ意味の言葉に「元朝」があります。永さんでしたら「元朝参り」としてご存知ではないでしょうか。
正月のラジオで、多くのアナウンサーが「元旦」を「元日」と同じ意味で使っていましたが、永さんにはそのような使い方をしていただきたくない気がします。
北海道は、石狩・十勝・宗谷などの支庁がありますが、支庁ができる以前は、それとは違った「国」という単位があって、石狩・天塩・十勝などの国がありました。
私の田舎は、今はない名寄本線の下川町で、支庁は上川に属していますが、ここから手紙を出すと、消印は「天塩下川」となっていました。このところブームになっている富良野も、支庁はやはり上川ですが、国は石狩ですから、消印は「石狩富良野」のはずです。
「石北本線」は「石狩」の国と「北見」の国を結び、「狩勝峠」は「石狩」の国と「十勝」の国にまたがり、「塩狩峠」は「天塩」の国と「石狩」の国、「天北峠」は「天塩」の国と「北見」の国にそれぞれまたがっている、といった背景を理解すると、北海道の地名を理解する一助になります。
昨年の9月、健康診断を受けたところ、便潜血がみられるのと胃の形が悪いのとかで、大腸と胃それぞれの内視鏡検査による再検査を受けました。その結果、大腸にはポリープが見られ、良性のものだったので内視鏡で切除しましたが、胃は癌でした。
当初、健康診断を受けた病院に入院・手術する予定でしたが、妻が通っている病院の医師からセカンド・オピニオンを勧められ、学校の後輩であるそうな癌研究所付属病院の院長あての紹介状を頂いて同病院を訪れました。癌研病院長は消化器外科を専門とするも胃ではなく大腸が専門とのことで、胃が専門の消化器外科部長である山口医師に診察を受け、なんと2時間にもわたる詳しい説明を受け、さらに同医師の生家が旭川の3条7丁目の山口帽子店であることにまで話題がおよんで、その親近感もあいまって、同病院で治療する事にしました。
入院は12月21日、手術は27日で、胃の上部1/5くらいを残して摘出するものでした。手術時間は3時間くらいで、父の食道癌の手術時間10時間に比べればカンタン簡単。なにしろ出血が100ccたらずで、輸血の必要が無いってんですから。父の闘病を見ていた私にとって、私の場合はとても闘病と云えるような代物ではなく、ほとんど療養でした。
術後、30日までは絶食、31日は水300cc、1日は重湯半量、2・3日は3分粥半量、4・5日は5分粥半量+10時と3時におやつ、6・7日は7分粥半量+10時と3時におやつ、8日以降は全粥半量+10時と3時におやつ、といった食生活で、その間も28日から歩行訓練をし、30日には排尿の管と痛み止めを外し、点滴は3日で終わって抜糸もし、6日には外出もしました。30日の夜に一度だけ胃に血液などが溜まって気持ちが悪くなった事がありましたが、後にも先にもそれ以外は痛くもなんともなく、順調に回復しました。
排尿の管を外して元に復したとき、尿意を催してもなかなか排尿できなかったのは意外でした。排尿を抑えている筋肉を弛緩させればいいのだから何も問題ないと思っていたのが、そうではなくて排尿のための筋肉を使うものらしく、排尿管を使っている間にその筋肉が鈍ってしまったのか、半日以上のあいだ排尿できませんでしたよ。
7日になって退院の打診がありましたが、8日に村上君が見舞いにきてくれることになっているし、退院を手伝ってくれる妻の健康状態が優れなくて次男に頼むしかないところが、時間が11〜13日の3連休にしか取れないために3連休のいずれかの退院を申し出ると、11・12は病院の退院手続きができないとかで、13日になりました。結果的に、8日から13日まで病院で療養したのと同じ結果になりました。
入院中に見たり感じたりしたことをいくつかご紹介します
話の場に居合わせた看護婦さんに「あの人はたしか▲▲さんとおっしゃたよね」と確認したところ、その返事がまたすごい。
「そういう患者さんって沢山おいでだから、お名前まではちょっと…」
あの病院では胃を体外に出しているのはごくありふれた光景だそうで、患者の名前が印象に残るほど珍しいものではないのだそうですよ。いやはや。
これじゃあ私のように平凡な「初期の胃癌患者」なんて、内科医院におけるインフルエンザの予防接種に来た人と同じくらいの印象しかあの病院には与えないよね。
患者が「癌だ!癌だ」と騒いでも、あの病院にとって見れば「何の変哲もないふつうの患者」なんです。「たかが癌くらいで大騒ぎするんじゃないっ」てなもんですよ。
かように、癌は今やごく普通の病気。告知された途端に頭の中が真っ白になって背景が白黒反転するのは、今やワンパターンを後生大事にする安物のテレビドラマの中だけのようです。
8日に退院しても良かったのが、当方と病院との予定がかみ合わず、13日になってしまいました。 5日のあいだ病院で静養できたし、1月6日の午後に外出して出勤のテストをしていい感触を得ていたので、14日から即定期を買って出勤しています。
ふつう、前者を優先して大きく取ることが多いようですが、専門病院である癌研病院では、前・後者の両方を満足する方法を採用しています。
そのやりかたは、まず手術では必要最小限と思われる範囲を除去しますが、開腹したままですぐに除去した患部を院内の検査部門で検査するのです。その検査で患部の周囲に癌細胞がなければ十分な範囲を除去したということでOK、周囲に癌細胞が発見されれば、その部分の延長をさらに除去します。
手術中の開腹状態で検査できる設備を持たない一般の病院では、取り残しによる後日の再手術を避けるために、どうしても大きめに取る傾向があるのは仕方ないことでしょう。
私は3/4ないし4/5の胃を切除し、わずかに一部が残っているのですが、一般の病院で手術すると全部摘出した可能性もあります。一部でも残っているのと全摘とでは術後の苦しさが大違いと聞きます。また乳癌などでも、切除の大きさで、術後の生活への影響が大違いであるということは、近藤誠の『患者よ癌と闘うな』で述べられているところです。
切除範囲を最小限にするという意味で、専門病院で治療を受けたことは私にとって正解だったと信じています。
父は食道癌が肺と脊髄に転移したということでしたが、脊髄もかなり進んでいたようで、食道と脊髄あるいは肺も含めてがどれがオリジナルか判断できなかったようです。
母は40代に子宮癌をしていて、それは完治したのですが、70代になって胆嚢癌になり、それが肝臓に転移して命取りになりました。
また、父の兄である私の伯父は胃癌でしたし、父の父である私の祖父も胃癌でした。
かような血筋ですから、私は癌にとって「上得意様」のようです。
病院では、問診の際に血縁のある近親者の病歴を尋ねられますが、上のように答えると、医師も「さもあろう」といった表情で納得された様子でした。「バッハ以上の家系かね」なんて医師に軽口を叩いたりして。
父に続いて母も癌にかかった時点で、私もいずれ癌になるであろうことを自覚し、それからは、それがいつなのか、告げられるのを待っているような心持ちでした。ですから、今回それを告げられたときは、「来るべきものが来た」と思っただけで、「晴天の霹靂」とは程遠いものでした。
また、3年前にやはり癌で亡くなった遠藤直雄其君の無念を考えると、ここまで生かしてもらった事・遠藤君よりも3年も長生きさせてもらった事を感謝すべきだろうと考えるようになり、生きる事に対する執着がかなり薄れて、自分の命を客観的に見られるようになった気がします。だからといって死に急ぐ事がないのは当然の事ですがね。
上記「癌の予感」と「自分の命の客観視」とがあったので、今回の罹病にもあまり取り乱さずに対応できたと思っています。もっとも、「おまえは癌になった重大性をまだ認識していない」と指摘されることも無いわけではありませんが。
クリスマスにはライトアップも何も無かったのでどうかなとは思ったのですが、日本人にとって正月となるとクリスマスよりは重みがあるでしょうから、何か有りそうだという気がしたものですから。
年が明けた瞬間、やはり有りましたよ。ビルの屋上から花火が揚がりました、マイクロスターマインが。
あれを見て、今年の不況をはっきりと認識させられました。サンシャインビルの経営会社もテナントも、線香花火を上に向けた程度のサビしい花火しか揚げられないようじゃ今年も景気が良くなるわけがありません。
私の居た場所のとなりのナースステーションからも、花火が揚がった瞬間は歓声があがりましたが、数人の前座だけでおしまいになってしまった寄席のような花火に、たちまち落胆のため息に変わりました。
小泉さんや竹中さんとは関係なく、サンシャイン60は年の初めに高らかに力強く不況宣言をしたわけです。
胃が小さくなったのは、ご飯やパンなどの固形物を食べるより、ビール・牛乳などの飲物を飲むと強く実感できます。固形物には結構多くの空気が含まれているために、そこそこ食べてもゲップをして空気を吐き出すと胃がグッと楽になりますが、飲物は飲んだ量がまるまる胃の負担になるからです。
オッパイを飲んだ乳児の背中を軽く叩いてゲップをさせるのも、オッパイを飲むと結構空気を飲込むようで、それを出させて胃を楽にしているのでしょう。
ですから、私はいまのところ食事が終わると、行儀が悪いのをさておいて、赤ちゃん同様にゲップをするようにしています。今度、飲み会でご一緒したら、どうぞ私の背中を軽く叩いてください。
あともうひとつ気をつけるのは、食べ過ぎない事です。少し気を許すと、アッという間に食べ過ぎて気持ちが悪くなってしまいます。思っている以上に胃は小さくなっているようです。たぶん、ざる蕎麦なら食べられそうですが、かけ蕎麦はきっとつゆを残すでしょう。つゆを残さないようになるには、あと半年はかかりそうです。
いま半量くらいの3度の食事と、10時と3時にサブの食事をとっていますが、徐々に、半量を増量しサブを減らしていって、早ければ半年、遅くとも2年くらいで、元の全量の3度の食事に戻れそうです。
それでも何だかんだと言いながら、2日前と4日前にそれぞれ飲み会をこなしましたよ。2日前はご存知「じょうの会」4日前は職場の新年会でした。もっとも、ビールをチビリチビリでしたがネ。
「国立がんセンター」はその設立にさいし、そのような家元制度から切離すことが設立の主旨の一つであったとされていますが、それも時間とともに家元制度にじわじわと侵食されつつあるのが現状と癌研の医師から聞きました。
その癌研にもまた、「家元制度」とまでは云いませんが、もっとゆるやかな「流派」があるようです。私が目にしたのは、手術後の術部に残すドレーン(術部に溜まる血・体液・膿などを排出する管)の有無による流派です。
私は、ドレーン無用論の医師の手術を受けたためドレーンは使わなかったのですが、手術前の説明によると、胃癌の場合、@ドレーンは患者の身体にかなりの負担になり、2次災害の原因にもなる。Aドレーンを必要とする患者は手術を受けた患者全体の1割程度。B1割の患者のために9割の患者に苦痛を与えるのは不合理。C1割のドレーンが必要になった患者には、その時点で、鼻から胃へのドレーンを通すことができる。との理由で、ドレーンは使用しないということでした。
私はこれが癌研の流儀かと思っていましたが、術後に検温に来た看護婦が傷口を見て「○○先生はドレーンを使わないのよね」とつぶやいたのを聞いて、「それじゃ○○先生ではない▲▲先生は使うんだ。同じ病気に対する手術が、同じ病院のなかであっても、医師によってやり方が違うんだ」と、わかった次第。
ドレーンの有無に関しては、どちらの方法がいいのか決定的な差は無いという事なんでしょうけど、このような違いがやがて裏千家と表千家とに別れる原因のひとつになることってありそうな気がしません?
もっとも、その数字も看護婦によって大きく異なると考えたほうが楽しいね。5割以上を誇る人から皆無・0割という人までさまざま。また同じ人でも「昔は軽く3割はあったのに、この頃じゃあ1割がいいところ。年は取りたくないねえ」とかさ。
病院での採血のときにこの話を思い出し、しみじみ看護婦さんの顔を見ましたよ。自分の手を握りましたがね。
皆さんも採血の機会があれば看護婦さんの顔を見て方針を決められてはいかが。
あなたの名前の由来は何でしょう。正しくあってくれと「正」、美しくと願って「美子」、美しいだけじゃまだ不足、さらに賢くなくっちゃというので「美智子」、すぐれた男になってくれと「宗男」など、どの親も、子供の将来に期待を込めて命名し、その幸せを願います。
そうした親の望みを表した名前のひとつに、まり・マリ・真理・万理・真梨・麻里・真里・真利・茉莉といった「まり」系統の名前があります。これは、生まれたばかりのかわいい娘に、真理(しんり)・円満な人格…などを望む親が数多くいることを示しています。 私の周囲を2.0の視力でザッと見渡しただけでも、その名の女性が10人以上はおいでです。別に何も私だけに限ったわけではなく、皆さんの周りとて事情は同じでしょうが。私の知っているまりちゃん・真理ちゃん・万理ちゃん・真理子さん・etc... は、ご両親の願いを見事に体現し、みなさん素敵な人ばかりです。中に一人だけチョット…。
でも、もし私に娘がいたら「まり」系統の名前を付けたかと考えると、そうはしなかっただろうと思います。なぜなら、現在の日本において、結婚による改姓は圧倒的に女性側が多いのです。 考えてもご覧なさい。すべての「まりちゃん」が、必ずしも星山さんや佐藤さんと結婚できるとは限らないことは、容易にご理解いただけるでしょう。
たとえば、私の友人に「木津」という男がいます。善意と運動神経を同量まぜてラップして電子レンジでチンしたようないい男で、年頃の娘をもつ親御さんが彼を見れば、殆どがあのような男に娘を嫁がせたいと思うに違いない男です。でも、その娘さんが彼との結婚を考えたとき、嬉しさの中に小さなためらいを感じても仕方ないでしょう。結婚によって彼女は一生「木津まり」さんと呼ばれることになるのですから。それが少しも気にならない性格の「まりちゃん」ならば問題は何もないのですが、気になったからといって気にしちゃいけないよと強制するわけにもいきません。それでは、そういう事態にならないためにはどうすればいいのでしょう …。
取るべき道は2つです。第1の道は改姓しないこと、第2の道は、星山さんや佐藤さんのように改姓しても問題のない人と結婚することです。もちろん高梨さんでもいいですがね。
第1の道の「改姓しない」は具体的には3つの方法があります。「結婚しないこと」「夫婦別姓の制度を待つこと」「夫に改姓させること」です。1番目はあたりまえといえばあたりまえですが、結婚したい人にとっては悲劇的です。ただし、改姓という意味では内縁関係もこれに含まれるでしょうから、まんざら悪い手でもなく、現代ではいちばん現実的かも。2番目にはしばらく時間が掛かりそう。晴れて別姓が認められたときはもうお婆さんになっているかも知れません。3番目は俗に言う「婿養子を迎える」です。法的には「女性のほうが戸籍筆頭者になる」というだけのことで、何の変哲もありません。
第2の道の「改姓しても問題のない人と結婚する」はギャンブルです。高梨さんを好きになったまりちゃんはラッキーですが、木津さんを好きになったまりちゃんはブルーです。「木津まりになっても、高梨さんと結婚するよりはよっぽどまし」とは言わないでください、あくまでも例えですよこれは。まさか、相手の名前を聞いてから好きになるかどうか決めるわけではないでしょうから、好きになった人が改姓しても差し障りのない苗字を持っていることを、ただただ祈るのみです。
それでは、どうしらいいかわからなくなってしまった「まりちゃん」のために送る、「独身の(独身ではなくとも、離婚して再婚を狙っている人でもよい)まりちゃんが取るべき正しい結婚(再婚・再々婚…)への道」は、つぎのとおりです。道筋をフローチャート風に展開しましたから、辿ってみましょう。
[スタート] | 何も先入観を持たずに、好きな人が現れるのを待ちます。 |
[関門1] | いつまで待っても誰も現れない人は、お疲れ様。[スタート]に戻って、引続き辛抱強く待ち続けてください。 |
問題の誰かが現れた人は、[関門2]に進みます。 | |
[関門2] | 彼の苗字に差し障りのない人は、おめでとう。おしあわせに。 |
差し障りのある(別表参照)人は、[関門3]に進みます。 | |
[関門3] | 彼との結婚を諦める人は、残念でした。つぎの新たな恋を探しに行きましょう、[スタート]に戻ります。ガンバッテ! |
諦めない人は、[関門4]に進みます。 | |
[関門4] | 彼の戸籍への入籍にはこだわらず、潔く内縁関係を貫く決心の出来た人は、おめでとう。人間の幸せは気持ちの問題であって、役所に届け出る・出ないは関係ないんですよね。おしあわせに。 |
内縁関係の決心が出来ない人は、[関門5]に進みます。 | |
[関門5] | 彼があなたの戸籍に入籍することで話のまとまった人は、おめでとう。役所に届けるべきは届けることによって気持ちにけじめが付き、良識ある社会人としての幸せな生活が送れるのですよね。おしあわせに。 |
婿養子にはなじめない人は、[関門6]に進みます。 | |
[関門6] | 夫婦別姓の制度の制定を待つ決心をした人は、おめでとう。ここは一丁ジックリ待ちましょう。 |
そんな、いつになるのか分からない制度を待つなんて出来ない人は、[ゴール]に進みます。 | |
[ゴール] | 残念ながら、あなたの希望を叶えて差し上げることは、どうにも私の手に余ります。これ以上は勘弁してください。ご自分で手立てを工夫してください。ご健闘を祈ります。 |
安 | あん | 元ミス韓国の現婦人を追い落とし、韓国代表のFW安貞桓(アン・ジョンファン)を見事射とめたものの、これじゃあ... |
大古 | おおこ | バレーの大古選手も、まりちゃんには結婚してもらえなかった |
押田、忍田 | おしだ | 愚鈍な感じは否めない |
織田、小田 | おだ | やめときなはれこれだけは、何があっても。たとえ織田裕二でも止めたほうがいい |
音 | おと | 元中日ドラゴンズの音選手と結婚すると... |
唐 | から | いかにも酒癖が悪そう |
須藤 | すどう | 音さんと似たかよったか |
壇、団 | だん | これも愚鈍な感じ |
Hagi | ハジ | ルーマニアサッカー史上最高の選手といわれる「ゲオルゲ・ハジ」と結婚すると... |
飛騨 | ひだ | 冬は暖かそうだけど、夏は暑苦しそう |
蕗田 | ふきだ | 世間のはみだし者 |
水田 | みずた | ボーフラを飼っていそう |
「まりちゃん」でなければ大丈夫か?
結婚相手の選択における「まりちゃん」のハンディキャップについて考察してきましたが、それでは「まりちゃん」でさえなければ大丈夫と言えるのでしょうか。
じつは男女を問わず、苗字と名前との間には相性があるのです。たとえば、はらたいら(漫画家)や藤田平・鈴木平(ともにプロ野球選手)のように、たいら(平)という名前を持った男性が、リブ・タイラーと恋に落ち、結婚しようとしたとき、リブのパパ(スティーブン)に「リブは一人娘じゃきに、嫁にはやれん。どうしてもいうのやったら婿養子に来るあるヨロシ」と言われる可能性はないとはいえません。パパの出した条件をクリアしたたいら君は、めでたく「たいら・タイラー」となるのです。
また、今は亡き円生(本名:山崎松尾)が若いとき、松尾さんの婿養子になる話を受けていれば、これまた「松尾松尾」君になっていました。
あの宍戸錠さんだって、浦和レッズの城定信次選手のお姉さんと婿養子として再婚すれば(宍戸錠って現役の妻帯者でしょうね)、みごと「城定錠」になれます。
木村佳乃さんだって負けていません。どこかの吉野さんをゲットすると、「吉野佳乃」だもん。
苗字=名前だけではありません。たとえば、「ハル」さんが、神田さんと結婚すると「神田ハル」。なにやらエスニックで、あまり近付きたくないやや物騒な雰囲気が出てきます。
そういえば、舞台俳優で「歌川椎子=うたがわしいこ」という人もいますね。この場合は、わざと芸名をそう付けたようですが。
かように、結婚・養子縁組によって、思わぬ名前の組合せになってしまう危険性はかなりあります。子供が生まれたら、つい舞い上がってしまって「まり」なんて名前を軽はずみには付けないでください。Get Cool! ここは一番、気持を落着け、将来起こり得るあらゆる可能性を深く読んで、あくまでも慎重に…。
それで赤ちゃんの名前は決まったの? まり? そりゃ良かった。いい名前だよね。素敵な人になることほぼ間違いないよ。
・就職関連
■ 明けましておめでとうございます ... 2002/1/1
◇◇ 論語 ◇◇
時間を持て余すとなにか怪しからぬ事に手を染めるのが俗人ですが、そのひとりである私もそうなるかと思いきや、なんと、この数日来、何をしていると思います?
なんと論語を読んでいるのですよ!!!!!!!
ただし、儒教を学ぼうなどという高尚な動機ではなく、ただ単に正月休みに(いつも休みのくせに)いよいよやることが無くなって、とうとうおかしな本にまで手を伸ばしたということです。ついでに何か面白いことでも見つけられればいいなという軽薄な興味も合わせ持ちつつ。
ありましたねえ面白い記述が。
あなたが幼少の頃、父母・祖父母から食事中は喋ってはいけないと教育的指導を受けたことはありませんか? その指導の根拠らしきものが見つかったのですよ、論語から。論語 郷党篇の七の最後近くにありましたよそれは。
「・・・食不語、寝不言、・・・」とあり、「食不語」は孔子先生が「食事の最中には話をしてはいけないよ」と諭しているのでありますよ。
どうもこれが日本に伝わって、テーブルマナーの元祖となってからこのかた、連綿と続いているのではないでしょうか。
ついでにいうと、その後の「寝不言」は「寝言を言ってはいけないよ」ではなく「寝てからしゃべってはいけないよ」だそうで、「布団に入ったら話などせずにさっさとお眠り」ということだそうな。そんなこと、わざわざ孔子先生からとやかく言われなくってもいいような気がしますがね。「食不語」だって孔子先生がことさら言わなければならない程の問題ではないような気がするよね?
これを読むと孔子って「偉い学者先生」じゃなくって「余計なお世話おじさん」って気がしてくるけど、逆にそれで親しみを感じられる面もあって面白いですね。
昨日で論語を終えたので、今夜からは「孟子」ですよ。このぶんでいくと四書五経を読了するのも、間近です。
まっとうに読むと君子がひとり誕生するはずですが、裏読みばかりするので、裏君子誕生ですかね。
◇◇ 何曜日? ◇◇
今年2001年1月1日は月曜日ですが、来年の1月1日は火曜日、さ来年の1月1日は水曜日、というふうにふつうは1年経つごとに曜日が1日ずつ繰り下がっていきますね。もちろん、うるう年には2日分繰り下がりますが。
それでは、逆に年をどんどんさかのぼっていくとどうなるでしょう? 2000年前の1月1日は何曜日だったのでしょうか?
1年は365日ですから、52週と1日です。
2000年間では、104000週と2000日。ただし、これにはうるう年が考慮されていません。
うるう年は単純には4年に1回ですから、これまでに500回。これを加えると、104000週と2500日。
うるう年にも例外があって、100で割り切れる年、つまり、100年・200年・・・1900年・2000年などは、うるう年ではないのです。これらの年は、これまでに20回ありました。この修正を差し引くと、104000週と2480日。
例外にもさらに例外があって、100で割り切れても400で割り切れればうるう年になります。これまでに、400年・800年・1200年・1600年・2000年と5回ありました。これを加えると、104000週と2485日。
さて、この2485日は355週です。つまり、西暦1年から2000年末まではちょうど104355週間なのです。
これは、西暦2001年の1月1日と西暦1年の1月1日は同じ曜日だということです。
つまり、西暦1年の1月1日は月曜日。週の始まりは日曜ではなく月曜だということになります。
インターネットで探すと、指定した日の曜日を教えてくれるサイトがあるそうです。たとえば、あなたが生まれた日とか、アメリカの独立した日とか。興味がおありでしたら・・・
葬儀を通じて強く印象に残ったのは、故人の高専に対する思い入れの深さでした。
たとえば25日の通夜では、法要のあとわれわれ同窓生も親族の方々とともに線香の煙を守らせていただいたのですが、そのとき、厚子さんから「故人から」といってお酒の差し入れがありました。彼が自分の通夜で同窓生に飲んでもらうようにと酒を用意していたのです。
また通夜の法要のあとで、親族の写真撮影に引き続き、同窓生も撮影しました。故人・遺族の意向ということでしたが、自分の葬儀に同窓生が参列してくれたことをしっかりと残しておきたいという故人の遺志を感じました。
告別式では、ロータリークラブや商工会議所など、地元の方々も多数おいでのところ、高専関係者が親族の方々の次に焼香をさせていただき、また、火葬場へも参列させていただきました。
これらのことから、彼は、彼のゆかりの多くの人々の中でわれわれ高専関係者を親族に準ずるものと認識していたのだと強く感じました。
5年間にわたる闘病生活、とくに再発後の後半は死の予告を受けてでのものだったでしょうから、私には想像もできない辛いものがあったでしょう。もちろんそれは、彼だけではなく厚子さんや家族の皆さんにもいえます。昨年9月に退職した私はその後何度か北海道へ行き、彼にも会いましたが、彼はその苦しさを微塵も私には見せませんでした。しかしながら、彼は思い出話をする一方で、自分の通夜の席で同窓生に飲んでもらう酒を用意していたのです。
彼をはじめとする同窓生や高専関係者およびそのときの思い出は、私の一生の宝ですが、彼に出会ったことは、そのなかでもひときわ大きなものです。これは彼を知る全ての人にとって共通の思いでしょう。
彼とは旭川高専1期の同級生で、創立1年目の高専が春光町で仮校舎・仮寄宿舎だったときに、一部屋10人の寄宿舎で同室になったのが付合いの始まりですから、あれからもう40年近くになります。そのときの、同室のメンバーを記します。その写真を載せようと探したのですが、あいにく見つかりません。見つかり次第載せます。
1日目 (5/14) 浜松 → 名古屋 → 旭川 → 美瑛 → 芦別(夕食) → トマム(泊)
予告どおり、アイスキャンドルフェスティバルを見に、下川へ行ってきました。
◇ 2/19 Sat
9:26 旭川発の列車で 名寄へ。11:00 に着いたが、下川方面のバスまで一時間くらい。久しぶりの名寄の町を見る。
駅前の商店街に閉まっている店が多く、ゴーストタウン的な感じを受ける。唯一ショッピングセンター「西条」だけが活況を呈している。食料品の小売店が「西条」に客をとられるのはわかるとしても、パチンコ屋までがさみしいのはどうしたことか。効外に大きなのがあるのかもしれない。
13:00 頃、下川着。藤原重雄宅・山本勉宅・近藤八郎宅・原田四郎宅・今井峰子宅。
18:15 みやこ旅館で近藤八郎氏と待合わせて、アイスキャンドルパーク・アイスキャンドルフェスティバルへ。みやこ旅館はスズキ自動車の貸切り状態。
アイスキャンドルパークは、HP(アイスキャンドル パーク)の「フォトギャラリー」でどうぞ。
「アイスキャンドル パーク」のHP
アイスキャンドルフェスティバルは、中学校のグラウンドで行われ、そっちの方角に煙が立ち昇って明かりに照らされているので、てっきり仕掛け花火でもしたのかと思っていたところ、これがなんと「バーベキュー」の煙。20箇以上の横半分に切ったドラムカンをコンロに、大勢の人がジンギスカン・ホッケ・いも・そのた何でもを、焼きつつ食べかつ飲んでいる。ざっと1000人くらいはいただろう。町の人口の2割である。雪のステージでは「よさこいソーラン踊り」やらなにやら。ありゃ下川にとっては大イベントだわ。雪の中で食った(「食べた」ではなく「食った」のです)ジンギスカンは嬉しかった。父が「雪の降る山で、ナマコ鉄板で焼いたジンギスカンで焼酎を飲むと、それは美味いものだ」と言っていたのを思い出したものだ。
会場で前花氏・夏野さん・山口氏など。一期後輩の斎藤芙蓉さんが見えているということで、探したものの分らなかった。何しろ中学生だった彼女しか知らないのだから、いくら変ってないとはいえ、40年近い月日を経るとわかりませんわ。
菊池精肉店のとなりの飲み屋に同級生が集まっていて、ミニ同窓会。佐々木茂子さんには中学校卒業以来。他は私には馴染みの顔ぶれ。その次の店に西村氏。他にもどなたかおいでだったかもしれないが、私はよっぱらって覚えていない。失礼しました。それにしても、同級生は男女を問わずよく飲むわ。
◇ 2/20 Sun
旅館で朝食が一緒だった大阪からの女性は、まさかのアイスキャンドルフェスティバルの観光客。旅行会社のパンフを見て来たそうな。アイスキャンドル パークの会場を訪ねられたので教えました。案内の表示とか宿泊施設とか、観光を謳うには不十分だけれど、それらを充実させるほどには観光客も来ないだろうから、つらいところだね。
スキー場やスズキのテストコース(の外観)を見て、山崎幸保宅・彼のご子息のオモチャ店(フタバ商店あと)・近藤八郎宅。昼飯をごちそうになり、近藤八郎氏の車で、川端良子・佐々木茂子さんと連れ立って紋別へ流氷見物。ミーハーチックにクリオネを見る。帰途、なぜか気分が悪くなり嘔く。何だろう、乗り物酔いのわけはなし。
下川に戻って旅館に行くと、部屋がない。2泊のつもりが、向こうは1泊となっていて、すでに、スズキの人が部屋を使っているそうな。連絡の行き違い・確認不十分で、どうのこうのといってもいまさら仕方がない。都要さんは父の同級生でもあるし、ここは私が他に宿を探すのが穏当だろう。要さんと少しばかり父の思い出話をして、山崎幸保宅に泊めてもらうことにする。翌日の天候は悪くはなさそうなので、予定通り早朝のバスで遠軽に向かうことにした。
◇ 2/21 Mon
6:18 のバスで遠軽へ。信金前でバスを待っていたら。通り過ごして行ってしまった。あわてて、雪道を走ってバスを追い、元駅前のバス停で捕まえる。「何で通過するんだよ」となじると、「このバスは快速で、信金前には停まらない」とのこと。前日、信金前のバス停で時間を確認していたので、まさかバスが停まらないとは思わなかった。時間を表示するなら、同時に「通過時間であり、ここには停まらない」旨の表示もほしい。名寄の下川行きのバス停も、正規のバス停の向かい側のバス停に時間表示があり、そこでバスを待とうとしたら、違うといわれた。2度もバスを逃しかけたが、もう少し正確・親切な表示は望めないのか。
流氷は前日より接岸していた。9時半に遠軽に着き高橋勝男宅。カヨ伯母・幸三叔父のそれぞれの戒名と命日とを控える。パソコンショップへ行き、このHPを紹介して芳賀への紹介を依頼する。
12:28 のバスで上川へ。2時半。街外れのとんでもないところで降ろされる。歩いて高梨栄宅へ。栄司伯父・光子伯母のそれぞれの戒名と命日とを控え、浜松へのお土産用の魚を依頼する。カスベ・ニシン・タコなど。
藤井健宅で、このHPを紹介。駅前の明石さんが見える。過疎化の話、ひとしきり。藤井健宅泊
◇ 2/22 Tue
粟屋弘久宅。中愛別まで送ってもらい、清水重幸宅。味噌と漬物を頂き、空港へ送ってもらう。
16時頃、スタジオ・ゼロワン(田中信吉氏事務所)。手違いで山崎氏とは会えず、田中氏と語らう。山崎氏とは翌日会うことにした。恭介の部屋に泊まる。
◇ 2/23 Wed
株式会社シンプルにて山崎氏。多少恰幅が良くなるも、相変わらずのハンサムボーイ。転職の厳しさを説かれる。
近藤学宅。ヨウ子叔母のみ在宅。健康はだいぶ回復した由。中愛別からの味噌と漬物を置く。
夕刻帰宅。
例によって親戚めぐりの旅になりましたが、バスを多く利用し、そのインフォメーションが悪かったせいもあって「正確なインストラクション」を強く意識させられました。良く言えばおおらかですが、悪く言えばあまりにもアバウトな故郷が、簡単なインストラクションもきちんとやりおおせないのを見るのは、老いて衰えた肉親・知人を見るようで、辛いものがあります。
また、下川町の歳入の半分が地方交付税で、町税収入は5パーセントくらいしかなく、町税収入の2倍くらいの町債を発行していて、それでいて、上名寄小学校を新築したりしているのを見ると、町の財政・自治能力は破綻しているとしか思えません。多分、近隣町村はもとより北海道の全ての市町村がそうなのでしょう(原発の泊村を除いて)。いまさら一村一品運動をしてみても、焼石に水的な状況に立ち至っていると思われます。下川の「アイスキャンドルフェスティバルの盛上がり」や「町の活気のなさからは想像できない飲屋の賑わいぶり」からは、なにやら、やけっぱち的な雰囲気が感じられました。北海道全体が国の扶養家族に成り下がって、その開拓者魂までスポイルされてしまったのでなければいいのですが。
下川・北海道のために私に何が出来るかを考えると、無力感で気持ちが暗くなります。
父母の亡きいま、それらの唄をきくと、唄っていた情景やこまかな節回しとともに父母を思いだすので、朝夕の犬(ジョン・レノン)の散歩のときに唄ってみることもあります。そうすると、私の知らない父母の青春時代が見えるような気持ちになるから不思議です。
ところが先日、「芸者ワルツ」を唄おうとすると、どうにも唄になりません。歌詞は「芸者ワルツ」でも、メロディーが「シー・ハイル」なのです。
以前、「知床旅情」vs「早春賦唄」のように、そっくりな唄をリストしたことがあったのですが、そのとき、「芸者ワルツ」vs「シー・ハイル」もノミネートされ、その後しばらく「芸者ワルツ」の歌詞を「シー・ハイル」のメロディーで唄ったり、その逆をやったりということを続けたことがありました。その記憶が強烈だったために、今回もそれが口をついて出たようです。
正しく「芸者ワルツ」を唄うには。しばしのリハビリが必要なようです。
今年のフェスティバルは、2/19・20 だそうですが、私はまだ見たことがなく、いちどは見てみたいと思っていたので、この機会に行くことにしました。
概略の予定は、つぎのとおりです。
下川での宿は、同級生の 近藤 八郎 氏に依頼します。もし、このHPを見て同行を希望する善男善女がおいででしたら、申し出てください。
フェスティバルのレポートはこのページでする予定ですが、なにぶんHPのキャパが小さいので、写真は載せられないでしょう。フェスティバルの写真を見たいかたは、フェスティバルのHP(アイスキャンドル パーク)でどうぞ。
ジョンが、野良犬としての地位と名誉をなげうって我が家の飼い犬となってから既に16年が経った。本名・出身地などの過去については、本人は一切語ろうとはしないために、その正体はまったくの謎に包まれている。
その行儀の悪さや食い意地の張り方から「単なる野良犬さ。」という冷ややかな見方がある一方で、尻尾が右から左へカールしていることや、草むらに入ってウンチをする幼児教育の名残らしきものを見せつけられると、ひょっとすると、よんどころ無い事情で家を離れなければならなくなったいいところ出の犬かも知れないとも思わせる。あの品の無さを考えるとその可能性は限りなくゼロに近いけどネ。家に来た当時の推定年齢が1・2歳だったからもう17歳を越えていて、これは人間に換算すると80歳に相当する高齢になるそうだから、貴種流離譚には少々老けすぎてしまった。
先日、知人が訪ねてきて表で話をし、終わって私が家に入ろうとすると、見知らぬ人にするのと同じように吠えられてしまった。さすがに、ジョンもすぐに気が付いて苦笑いしていたが、以前はそのようなことは無かった。また、いつの間にか左下の犬歯が抜けている。気が付いたのは去年の9月だったが、犬歯が無くとも犬といえるのか。
近ごろは、そばを通っても気が付かずに寝ていることも多い。それまでは、家人の気配を感じるとすぐにガバッとはねおきて、食い物をねだっていたのが、それも億劫になったようだ。また、散歩に行こうとすると、以前なら躍り上がって喜んで、あたかも年末ジャンボ宝くじの全ての3億円を独占したかのようだったが、このごろは喜びも薄れたふうである。
すこし渋くなり、「いい年をして若い者と一緒にされちゃあ適わねェ。」と思っているのかも知れないが、それほどに枯れてきてはいない、結構甘えますから。とくに、恭介がいるときはひどい。ひとの弱みを見つけたヤクザさながらに、ここぞとばかりに甘える。鼻をクンクンと一日中鳴らしっぱなしだ。
亡き父母との思い出も数多く共有している我が家の一員だから、ささやかかつ何よりの楽しみである朝夕の散歩と食事を今までどおりに続けて、かわいいお年よりとしての余生を全うさせてやりたい。
ナンディには、日本語学校を経営している妻の知人・古川さんご夫妻がいらして、フィジーへいらっしゃいとかねがね誘いを受けていたところなので、今回寄らせていただき、ちょうど学校の卒業式に重なって、日本からの客ということで、参列もしてきました。
フィジーの主な産業のひとつは観光ですが、ほとんどの観光客は英語が通じるなかで、英語の通じない唯一の大口観光客(=日本人)がいるため、現地の人が日本語を話せるようになると、観光関連の就職におおいに有利になるという背景もあって、日本語の勉強熱は高いものがあります。現地の人にとってはかなりの負担になる授業料を払ってでも日本語を学びたいという人が多数いました。また、日本語教育は雇用促進の面からも期待されていて、青少年雇用省の大臣も式に見えました。大臣が卒業生に証書を渡しましたが、ただ渡すだけではなく、100人位の卒業生ひとりひとりにそれぞれ声をかけていたのが印象的でした。
フィジーは気候がいいうえに、フィジアンの人柄もいいので、保養などに訪れるには最適の土地のひとつだと思います。今回は短い滞在で島巡りなどが出来ませんでしたが、またいく機会があれば、バナナを食べては海辺で昼寝をするようなゆったりとした時を十分に持ちたいものです。
北海道は大雪山のふもとの山小屋に住んで、インターネットなどを利用した仕事が出来ればと思っていましたが、大雪山がフィジーでもいい気がしてきました。ミキサーのブロック図を1枚書けば、それだけで半年くらい生活できそうな気がしますよ、あそこは。
シドニーはただただ寒かったです。
オリンピックのマラソンコースを通って郊外のツアーに行ったとき、メイン会場・選手村が見えました。選手村の建物はアパートではなく、1戸建て風でした。
オーストラリア・フィジーともに日本と同じく左側通行で、奇異な感じは受けなかったのですが、交通標識がメートル法の表示だったのは意外でした。20年位前にメートル法に変わったとのことです。左側通行であっても、車の左ハンドルは許されていないそうで、アメリカの圧力に弱い日本とは違って根性があるなあと感心しました。
ケアンズでは無謀にもスキューバダイビング(の体験コース)をやってきました。
泳げない私がやるのですから、見ようによっては、失業を儚んでの身投げとも受け取られ兼ねないダイブでしたが、そこはインストラクターもプロです、ナポレオンフィシュ(体長が1メートル以上もある、頭にコブのある緑色の代表的な熱帯の魚)だかも出してきて、触らせてくれました。ひょっとして、あの魚はダイブクラブ(tusa dive)のスタッフかもしれません。ダイブだのシュノーケリングだのは、サーフィン同様、私には無縁のものと思っていましたので、珍しい体験でした。
シドニー・ケアンズともにスーパーマーケットによくいきました。
日本に比べ品数の多さにおどろきました。とくに、果物・肉類・それに雑貨です。果物・肉類は当然としても、幼児用の雑貨には感心しました。幼児が持ちやすい哺乳瓶とか、倒れても中身のこぼれにくいカップ・噛んでも口をいためないスプーンなど、幼児の動作に対応した製品作りがみられました。日本の幼児用といえば、たんに小さなものにキティちゃんかコアラのイラストが付いているだけのものが多く、デザイナー・メーカーの姿勢の違いを感じさせられました。
今回の目的のひとつが南十字星を見ることだったのですが、何の因果かすべて雨か曇りで、ニセ十字すら見られませんでした。
また、ナンディ・シドニー・ケアンズともに、日本語の看板の多さに驚きました。ケアンズのツァーガイドに言わせれば、ケアンズおよびその周辺の人口20万人のうち、4割は日本人だとのことですが、それは大げさとしても、そう言わせるほど多くの日本人がいるということです。とくにケアンズは、もともとサトウキビ畑以外は何もない土地だったのが、グレートバリアリーフを背景に日本人が観光開発をして急激に発展させたところのようで、大橋巨泉がカナダに続いてみやげ物店を開いてしまうほど日本人観光客が多く、彼らが町を支えている様子です。
日本の女の子のナタデココブームが長者を生み、続けて乞食を生んだフィリピンの例がありますが、日本人観光客の視線がケアンズから他の土地に移って、ケアンズが第2のフィリピンにならないよう、ケアンズの絶えざる努力を祈ります。あの多数のホテルが空家になる光景を想像すると不気味です。
行きのフライトは夜でしたが、帰りは昼で、オーストラリアの海岸線やニューギニアを眼下に見てきましたが、とても印象的だったのは、なんと言っても赤道です。真っ青な太平洋に真っ赤な帯がゆるやかなカーブを描いて水平線までズーッと続いているさまは、とてもこの世のものとは思えないほど感動的でした。これがさらに、赤道が日付変更線と交わっているところだと、青い海に赤い赤道、それに直交して北極南極まで伸びる黒い日付変更線、ガリレオならずとも地球の丸さを感じさせられ、宇宙の真理にまで思いをはせてしまうともいいます。今回のフライトはフィジーが東経180度直前でしたが、行き帰りはおよそ140度あたりでした。いつか、赤道と日付変更線との交点を見てみたいものです。
在職中はたいへんお世話になり、ありがとうございました。皆様がたのあたたかいサポートは、わたしのヤマハでのいい思い出となることでしょう。
今後の身の振り方はまだ決まってはいません。つぎの就職先を決めてから退職するような器用なこともできず、ただ、割増退職金に目がくらんで、前後の見境もなく、あたふたと退職をきめた次第です。
ヤマハには、22年前に入社し、当初はテレコのメカ屋としてAV事業部に勤務しました。そこで、カセットデッキのメカ設計を皮切りに、CDプレーヤーのメカ設計・CDプレーヤーやLDプレーヤーの光ピックアップの設計などを手がけ、その後、音響システム事業部に移って、1年ほどメカ屋をつづけたのち、取説を担当して現在にいたっています。
メカ屋としても取説屋としても中途半端で、今後、これらの貧弱な経歴を生かした仕事があるものやら、はたまた、そんな経歴をきれいさっぱりと洗い落として、まるきり違った方向に進むべきか、思案していますが、なにしろ、ご存知のとおり高齢者の再就職はとても難しい社会情勢ですからどうなりますか。
じつは、私にはこれからやりたい仕事について2つの夢があります。
ひとつは、生まれ故郷の北海道は大雪山のふもとで、山小屋に住んで、インターネットなどを利用した仕事が出来ればいいなあということです。十勝地方にはそのような人が多いと聞きますし、じっさい旭川近郊でそうしている人も知っています。ただ、私がそのような仕事をするならば、何を扱えばいいのか、今のところわかりません。
もうひとつは印刷関係で、超高級なカラー印刷をやってみたいのです。超高級カラーの両面印刷、それも透かし入りの和紙にぜひ印刷したいものがあります。
2つとも夢ですが、もし、最初の夢が実現したら皆さんも北海道へいらしてください。森の中で、サッポロビールを飲みながらジンギスカン鍋を食べましょう。2つめの夢が叶ったら、商売物で悪いですが、皆さんにも私の商品をさしあげます。
これからどうなるかわかりませんが、私はあとで「高梨さん、あのとき辞めて良かったね」と言っていただけるようにがんばります。皆さんもあとで「あのとき辞めなくて良かったね」と言えるようにがんばってください。
かさねて、長い間お世話になりありがとうございました。みなさまお元気で。
私の連絡先は次のとおりです。私からお金を借りている人は、ここにご連絡ねがいます。私にお金を貸している人の連絡は、ご遠慮ください。
E-mail:takanasi@aqua.plala.or.jp
追 私の2つめの夢は、あまり他の人には口外しないでください。