ドイツ領東アフリカ(タンザニア、ブルンジ、ルアンダ)の歴史

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[地理]
 ドイツ領東アフリカは、現在のタンザニア、ブルンジ、ルアンダを含んだ地域で、位置は東経29度から41度、南緯1度から11度にあり、この四角い枠内にほぼ納まる形をしている。面積は99万9259ku、とほぼ百万kuで日本の2.6倍に相当する。内陸部は高度1000〜2000mの広大な高原地帯で、平均気温は20℃前後、海岸地帯と違い1日の気温差が大きい。赤道付近にありながら同緯度の大西洋側の地域が熱帯降雨林中心であるのに対して、広くサバンナが植生している。年間の寒暑の差が余りなく、季節は乾季と雨季で分けられる。

[人種、言語]
 人口は、1913年の統計では750万人で、アラブ人やインド人等が15000人いたとされている。入植政策が消極的だったので白人は1900年には1131人、1913年には5336人(内4107人はドイツ人)であった。現在は、国別にみると以下の通り。
 タンザニア: 2008年現在4373万人。100万人を越える最大の部族であるスクマ族を筆頭に、極めて多様な部族から構成されている。古くから外国と交易が盛んであったので、アラブ系やインド系の移住者も多い。公用語としてスワヒリ語と英語を使用している。
 ブルンジ: 2008年現在830万人。ピグミー系のトワ族が住んでいたが、他の部族の流入が相次ぎ、現在では1%程度になっている。85%がフツ族、14%がツチ族(またはトゥチ族)である。公用語としてルンディ語とフランス語を使用している。
 ルワンダ: 2008年現在999万人。84%がバンツー系のフツ族で、残りはツチ族、トワ族である。公用語としてルワンダ語とフランス語を使用している。日本でも、ルワンダ難民問題でよく知られている国である。

[歴史]
 ここでは19世紀以降の歴史を見ることにする。

1.アラブ勢力の支配とそれを利用する者達
 アラビア半島のマスカットの領主であったセイド・サイド(Seyyid Said)は、1809年にイギリスから外航船を獲得し、40隻の船団で東アフリカに進出した。彼らは、すでにオマーンから移住し東アフリカ沿岸に勢力を誇っていたマズルイ(Mazrui)一族を狙い、1827年にはモンバサにあった本拠地を占領し、1837年までには完全に制圧した。これに対して、マズルイ側はイギリスに援助を求めたが、イギリスはこれを無視したと言われている。1840年にサイドはザンジバル島に本拠を移し、東アフリカ沿岸部の支配を本格化した。ヨーロッパ諸国はこの支配を容認し、ザンジバルへ武器を中心に輸出した。

 東アフリカからの輸出品は、象牙と「奴隷」が主であった。サイドもクローブ(丁字)のプランテーションを持ち、市場開拓のため、欧米の商人と契約を結んだ(1833年アメリカ、1839年イギリス、1844年フランスと契約)。輸出品への課税は一律5%で、東アフリカ沿岸部の税関に派遣された総督から徴収された。さらにサイドは、アラブ人商人に商隊を組ませ、内陸部に派遣した。商品の決裁は、供給側であったインド人商人に行わせた。

2.ドイツ人伝道士の活躍
 19世紀中頃、こうしたアラブ人、インド人の活躍に遅れてヨーロッパ人として本格的に活動を開始したのは、イギリスの宣教団体のCMS(Church Missionary Society)に所属していたドイツ人のクラップ(Krapf)とレープマン(Rebman)であった。クラップは、1845年モンバサから15km離れたラバイ(Rabai Mpya)に伝道本部を設立した後、1846年にレープマンと会い、二人で伝道活動を行いながら内陸部を探検した。

 1848年レープマンは、ヨーロッパ人として初めてキリマンジャロを発見。キリマンジャロとは、スワヒリ語でKilima(キリマ)−山、njaro(ンジャロ)−輝くの意味である。ちなみに初登頂は、1889年にドイツ人のメイヤーが行った。1849年にこの伝道会に加わったドイツ人のエアハルト(Erhardt)は、現地人の話を元に東アフリカの地図を作成し、1856年にイギリスで出版した。これは、”Sketch Map PART of EAST & CENTRAL AFRIKA Showing the probable position and extent of Lake Uniamesi By Erhardt & Rebman”と書かれた地図で、多くの探検家の関心の的となった。今日これを見てみると、沿岸部は比較的正しく描かれているものの、内陸部はお粗末で、アラブ人商隊の重要な通商路であったバガモヨ−ウジジ街道の方角は辛うじて合っているものの、その左に胃袋そっくりに描かれた巨大なUNIAMESI湖は、今のビクトリア湖とタンガニーカ湖とマラウィ(またはニァサ)湖をつなげた、想像力の産物である。

3.探検家の活躍
 イギリスの王立地理学協会は、ナイル川の源流を探るため、バートン(Burton)とスピーク(Speke)を東アフリカに派遣した。それは、エアハルトの地図に描かれた内陸部の巨大な湖がその源流であると考えたからである。しかし、1857年彼らがバガモヨ−ウジジ街道の半ばにあるカゼ(現タボラ)に立ち寄ったとき、現地のアラブ人から、巨大な湖は実は3つから成り立っている事実を知らされた。バートンの病気で調査は中断したが、1860年今度はグラント(Grant)と組んだスピークは、カゼの北側にあるはずの湖(ビクトリア湖)に源流があるだろうと当たりをつけて北進。1862年ついにスピークは、ビクトリア湖のジンジャで白ナイルの源流を突き止めた。なお、以後のリビングストンらの探検家の活躍は省略する。

4.ザンジバルの衰退
 欧米各国は、ザンジバルに次々と領事を置いた(1839年アメリカ、1841年イギリス、1844年フランス、1860年ドイツが開設)。イギリスのそれは、通商拡大等と引換に奴隷貿易を止めさせる目的があった。しかし、1856年サイドの死後、後継者となったマジド(Majid)も、1870年マジドの死後、後継者となったバルガシュ(Bargash)も奴隷貿易を止める気配がなかった。1873年にようやく禁止令が公布されたが、これはイギリス側の武力行使による脅迫によってやむを得なく行われたものであった。1874年イギリスの干渉に耐えかねたバルガシュがドイツに保護を求めたとき、当時は植民地政策反対論者であったビスマルクは、これに応じなかったと言われている。

 一方、それとは別の新たな動きが見られた。イギリス人のゴードン(Gordon)を雇って南下政策を進めたエジプトのイスマイールが、ゴードンの提案により1875年にソマリア南部からケニアにいたるザンジバル勢力下の港を陥落させる作戦にでた。こうしてケニアから内陸部に入り、ナイルを水源地ごと手にいれる計画であった。しかし、途中エチオピア軍に行く手を阻まれ、またザンジバルの勢力に乗って東アフリカを勢力下に置くことを狙うイギリスが外交で圧力をかけ、エジプト軍は撤退せざるを得なくなった。こうしたイギリスの力を見て、バルガシュはイギリス側に傾いた。実はこのエジプト軍の南下に思わぬ布石があった。ゴードンの部下のシュニッツァー(Schnitzer)というドイツ人(後にエミン−パシャと名乗る)が、エジプトの赤道州の知事としてゴンドコロにとどまることになったが、後にスーダンの反乱で孤立した彼を救出する競争がドイツとイギリスの間で行われ、新たな展開が始まるのである。

5.ドイツの植民地獲得活動
 ドイツ側の動きは、1878年から本格化した。デンハルト(Denhardt)兄弟がフィッシャー医師とともにケニア北部のウィツ(Witu)を探検し、1882年の二度目の探検では、ウィツ近郊のタナ(Tana)川流域の豪族と保護条約を結ぼうとしたが、ビスマルクはこれを支援しなかった。ところが、1884年からビスマルクの政策は一変した。南西アフリカ、トーゴ、カメルーンを保護領とし、11月にはヨーロッパ列強によるベルリン会議を提唱、ここでアフリカ分割の一般原則が採択された。

 植民地論者であったペータース(Peters)は、すでに17万6000マルクの資本金を集めて1884年3月にドイツ植民会社(Gesellschaft für deutsche Kolonisation)をベルリンに設立していたが、ベルリン会議開催中に密かに東アフリカの内陸部へ渡った。ザンジバルのドイツ領事がペータースに対して公的支援を拒否しているので、これは単独行動であった。彼の行動はすばやく、5週間ほどで内陸部の12の部族の酋長からドイツの保護を求めた条約(めいたもの)への署名を手にいれた。ペータースは1885年2月に帰国するとビスマルクにこの署名を見せた。今度は皇帝が保護領を認める勅許状に署名するにまで事が運んだ(2月27日)。ビスマルクは事の一切を伏せていたが、会議終了後参加者が帰国した翌日(3月3日)に、皇帝の勅許状により、条約に署名した部族の地域をドイツの保護下に置く、と宣言。ドイツ植民会社がその地域の統治を委託された。

 1885年4月2日にドイツ植民会社はドイツ東アフリカ会社に改称し、8日にはクレーメンス・デンハルト(Clemens Denhardt)がスワヘリのスルタンからウィツに入植地を購入した。これに抗議したバルガシュに対し、ドイツは軍艦をザンジバル港に派遣し、その威圧により8月13日保護を認めさせた。同時にドイツ・ウィツ会社が設立された。イギリスはこのような弱体化したザンジバルを利用せず、直接自力で内陸部に進出することを決めた。しかし、ドイツとの境界線を引く必要があるため、10月にイギリスの提案でドイツとフランスを含めた3国が、まずザンジバルの勢力圏の線引きを行い、ザンジバルはザンジバル島、ラム島、マフィア島、ペンバ島、大陸の沿岸地方は10マイル幅の帯状地帯、その他いくつかの港に限定された(この会議にザンジバル代表は参加していなかった)。次に1886年11月1日のロンドン会議で、ドイツとイギリスの2国が自分達の境界線を、ウンバ(Umba)川河口からビクトリア湖までの一直線と決定した。ただし、線上にキリマンジャロ山があるため、境界線は山の東側を迂回するように一部曲げられ、キリマンジャロ山がドイツ領側に入った形になっている。(現在もその形のまま。)その理由は、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山を皇帝ヴィルヘルム2世がイギリスに交渉させて編入させた、とする文献があるが、それは俗説である。

 残るはビクトリア湖以西の線引きであった。そのころ、赤道州知事エミン−パシャはスーダンのマハディの反乱でエジプトとの連絡が断たれており、1888年イギリス東アフリカ会社がスタンリーを派遣してパシャの救出により赤道州を押さえることを計画した。一方ペータースは、ドイツ政府の支援を得られないまま300名の手勢でパシャの救出作戦に出た。ところが、スタンリーがアルバート湖付近で一足早くエミン−パシャを救出。これで目的を失ったペータース達は、そのままブガンダ王国(現ウガンダ)に入り、ドイツとの友好条約を手に入れた。あわてたイギリス東アフリカ会社もブガンダ王国に入ったが、こちらは時すでに遅く、交渉は失敗。しかし、政治の場で形勢は逆転した。1890年イギリスのソールズベリー首相が、ウガンダはイギリスの勢力範囲であることを認めること、ドイツはウィツの権益を放棄すること、ザンジバルとペンバ島がイギリスの保護領であると認めること、それらの代わりにドイツが東アフリカ沿岸の帯状地帯を買収できるようイギリスがザンジバルを説得すること、北海のヘリゴランド島をドイツに譲ること、南西アフリカのカプリビ回廊をドイツに譲ることを提案し、ドイツ政府はこれに応じた(7月1日)。ビクトリア湖以西の国境は、南緯1度を真横に引かれた。こうして確定したイギリスとドイツの住み分けの境界線が、現在の国境にそのまま受け継がれたのである。

6.在外局の開設
 1888年11月22日ラム島に、1890年8月27日ザンジバル島のドイツ領事館内にそれぞれ郵便取扱所が開設された。ラム島はウィツ会社のテリトリーの東に浮かぶ島で、「外国」に当たるため在外局として扱われる。しかし、1890年のイギリスとの条約により、これら2つの在外局は、1891年7月31日をもって閉局した。

7.抵抗運動の激化
 1888年8月、ドイツ東アフリカ会社はパンガニを初めとして沿岸部の各地にある税関に進出し、会社の旗を掲揚した。税関は主にアラブ人が取り仕切っていて、ドイツの一方的な進出は彼らの抵抗を招いた。当初パンガニでは戦艦メーヴェ号の威嚇もあって平穏であったが、メーヴェ号が去ると、アラブ人のアブシリに扇動された住民が武装蜂起した。ザンジバル側が軍を派遣したが鎮圧できず、またたく間に反乱は各地に広がり、宣教師も含めて多くのドイツ人が殺害された。

 これを鎮圧するためドイツから派遣された指令官ヴィスマン(Wissmann)は、途中でスーダン兵やズールー兵等を傭兵として集め、1000名を越える軍勢でバガモヨに到着した。このときイギリスとイタリアが沿岸封鎖で協力し、ポルトガルは反乱軍への武器の通商禁止で協力した。1889年5月ヴィスマンはアブシリ軍に総攻撃を加えてこれを破り、10月には6000名の軍勢で体勢を立て直したアブシリ軍を再び撃破した。

 ドイツ政府は、民間の東アフリカ会社に統治を任せていたことがこうした事態を招いたとして、1890年4月1日ゾーデン総督を統治責任者とし、年末までに帯状地帯のザンジバルの権益を400万マルクで買収した。 これ以後、内陸部に向けて急速にドイツの植民地化が進むこととなる。1891年にヴィスマンは鎮圧完了を報告しているが、実はまだ抵抗運動が奥地に残っていた。中でも一時はドイツ軍を壊滅させた英雄でもあり、1898年までゲリラ闘争を続けていたヘヘ族のムクワワの抵抗が有名である。彼は隠れ家にいるところをドイツ兵に襲われて自殺。彼の頭蓋骨はドイツへ持ち去られた。1919年のベルサイユ条約で頭蓋骨の返還が定められたが、返還されたのは1954年である。

8.郵便網の拡大と切手の発行
 電信取扱いは1890年9月18日からバガモヨで始まり、郵便取扱いは遅れて翌月4日からバガモヨとダル・エス・サラームで始まった(開設日については異説がある)。初めは本国の切手をそのまま使用していたが、現地通貨のPESA(ペサ)が暴落したため、1893年7月1日からPESA加刷切手を使用するようになった。レートの換算率は2:1固定(ただし端数切り上げ)であった(例えば、10Pfenigは5PESA、5Pfennigは3PESA)。1891年4月1日にUPUに加盟、ダル・エス・サラーム局が中央局に昇格した。その後、1894年までに7つの郵便取扱所を開設したが、9つとも全て沿岸部である。奥地の抵抗が鎮静化するに従い、郵便網が急速に整備され、1895年には1年で10もの取扱所が開設された。この広がり方は、西に経線に平行するような広がり方なので面白い。なお、各郵便局間の郵便物の輸送は、主に現地人が徒歩で行った。引受印や中継印の日付と郵便局間の距離から割り出すと、彼らはだいたい1日あたり25Kmから30Km歩いたことが分かる。

 1896年4月には植民地として初めての植民地名入り加刷切手が使用されるようになった。消印にも植民地名(DEUTSCH-OSTAFRIKA)が入れられるようになったが、ちょうど取扱所の開設ラッシュが過ぎていたため、1898年まで待たなければならない。その1898年郵便網は、ついにタンガニーカ湖に接するウジジに達し、東アフリカを横断する形となった。ウジジ−ダル・エス・サラーム間の鉄道は、今でも1日半の旅程である。ウジジ−ダル・エス・サラーム間はおよそ1200Kmで、郵便物は徒歩で(途中いくつかの局を中継しながら)40日〜60日で送られている。

 1901年1月から植民地共通の船図案の正刷切手も登場した。原則として、本国のゲルマニア図案と同じ額面・刷色の切手を用意されたが、東アフリカの場合は2:1の換算率では端数がでるため、3種類少ないシリーズとなった。しかもRUPIE(ルピー)単位の高額は、64PESA=1RUPIEという換算のため、1〜5マルクいずれも該当せず、異例に刷色が変えられた。

9.ドイツ領東アフリカ最大の反乱
 ドイツはザンジバルの統治組織をそのまま受け継いだ。沿岸部では、現地人のジュンベ(村長)と複数の村を統治するアラブ人またはスワヒリ人のアキダ(郡長)がいた(内陸部では伝統的首長を中間統治者とした)。ドイツは、初めは家屋税(世帯ごと一定額)を徴収し、徴収係である首長らはその5%を報酬として受け取った。税は金納原則で、支払えない場合は、賦役(ただ働き)が課せられた。

 1902年にゲッツェン総督は、綿花の共同栽培を導入し、村の成年男子を年28日強制労働に従事させたが、実際の労働日は予定より延びることがしばしばで、郡長や村長を使って強行させた。1905年7月収穫期を迎えてついに住民の暴動が起こった。彼らは敵の弾丸に当たらない魔法の水(スワヒリ語で水はマジ)を飲む儀式を受けていたことから、マジマジ闘争と呼ばれている。もともとは、キンジキティレという呪術師が白人の力を弱める魔法の水を「発見」し巡礼者に施していたもので、これを持ち帰った住民が闘争に利用したのである。ルフィジ川の南のマトゥンビ族の暴動から端を発し、6週間後にはダル・エス・サラームとキロサを結ぶ線より南の全地域(東アフリカの1/3)に広がった。マヘンゲでは4000人の暴徒に攻撃されたが、ドイツ本国からの援軍に助けられた。その後、ドイツ軍が全地域の家屋や畑に火をつける焦土作戦に出て、飢饉が発生するなどして抵抗は2年で終結した。犠牲者は10万人以上と言われている。

10.強引な通貨改革
 1905年4月には、64PESA=1RUPIEから100HELLER=1RUPIEに変更された。計算が不便であるのでドイツ側が勝手に行ったのだが、4マルク=3RUPIEとしたため、改革前に比 べてドイツ通貨が若干有利になっている。この改革でも、端数が出るために切手は本国と同じ種類が用意されなかった。ドイツの植民地で最後まで本国の切手と揃わなかったのは、この東アフリカだけである。1906年から徐々にすかし入り切手に切り替えられていった。

11.ドイツ領東アフリカの消滅
 1914年8月第一次世界大戦が勃発すると、軍総指令官のレトゥ−フォルベック(Lettow-Vorbeck)は、現地人も含めた混成部隊でイギリス軍と戦闘を交えたが、1916年に南ア軍を主力とする90000人の軍が領内を侵攻、さらにコンゴからベルギー軍が侵攻するという事態になり、南へ退却した。この時点で植民地の大部分は、イギリス軍とベルギー軍の手に落ち、ドイツ領東アフリカは消滅した。しかし、ドイツ軍としては1500名程(内ドイツ人300人、他は現地人)の兵力が残っていた。彼らは1917年11月モザンビークに入り、北ローデシアを攻め込むなどの転戦を続けたが、大戦終結後1918年11月25日に武装解除させられた。

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