カシマイル通りの居酒屋で、月光ビールを一杯飲んだ。
最近馴染となったこの店の、夏の特別メニューだと聞いている。話を耳にしてから、飲める日を楽しみにしていたのだ。
一万の時を月光に醸されて造られるビールだ。
年に何本も造られないと聞く。その割に値段が安いので、滅多に飲めない代物だった。
───極上の味。喉を通り抜ける細かな泡。ピリリと辛い舌触りと、その後にあらわれる仄かなる甘み。なにもかもが申し分のない味。
これがたったの三マイカーシルとは、全く世の中には不思議が多い。
その晩の居酒屋の主人は特に機嫌が良く、私に月光ビールの蒸留樽を見せてくれた。
夏でも冷やりと肌寒い地下。ここに店のすべての酒が保存されている。葡萄酒倉に様々な蒸留酒樽、吟醸酒、果実酒……がひしめきあっている。それだけでも、見に来る価値がある。
主人の持つ、アルコールランプの灯りだけを頼りに、薄暗い穴の中をさらに進んだ。
その奥に、これまでとは一風変わった、口の広い大水瓶がいくつも置いてあった。
鏡のような水面に、月が静かに写っている。
瓶の数だけ、水面の月が並んでいる。
見上げると、天井に外の空気を取り入れる細い穴がいくつもうがってあり、そこから月光が入ってくるのだった。
「こうやって、月の光に当てるんでさ。左から順に古い瓶で。毎年一つ瓶を空けて、新しいのを一つつくるんでさ。へぇ、中身ですか。そいつはちょいと御勘弁を。秘密なんで。ただ一つ、月の夜に芽吹く草を香料に使っているとだけお教えしやしょう」
大瓶の脇に立って、主人が説明してくれた。
私は「本当に一万年の時をかけて作るのか」と聞いた。瓶に写る月を数えたところ、ここには十二の瓶しかない。これはあまりに少ないのではないだろうか。
主人は「確かに一万の時がいる」と答えた。
「ですがね、ただの時じゃありませんで。まっとうに時を重ねたら、そりゃたいしたもんです。ここにはちょいと細工がしてありまして、それがあの値段の秘訣でさあ」
好奇心を刺激されて「それはどういうものか」と尋ねたが「秘密である」の一点張りで、それ以上はなにも聞き出せなかった。
それで二人でまた暑い地上に戻り、月光ビールをもう一杯ごちそうになって、私は店を出た。
口の中にはまだ月光ビールの余韻が残っている。それは爽やかな香りだった。
それから数日たち、私はまたカシマイル通りの居酒屋へ寄った。
あいにく、月光ビールはもうなかった。私は星のかけらの入ったビールをかわりに頼んだ。
星のかけらがビールの中で、しゅわしゅわ音を立てて気泡を出している。これが私のこの店での、本当のお気に入りなのだ。
ジョッキを空けて、底に残った星のかけらを最後にパリンとかじる。外側の殻はビールに溶け、残ったかけらは透明で、薄い煎餅のようだ。きつい薄荷に似た味がする。これがどんな酒のつまみにもまして、このビールによく合うのだ。
そうこうするうち、主人が「申し訳ありやせんが、今日はこれで店仕舞いにさせてもらいます」と告げた。
私は「もう仕舞いなのですか。まだ月も、中空までも達していないというのに」と言った。他にも二、三の客が私と同じような疑問の眼差しで店の主人を見ている。
「今日は特別でして。毎年この日だけは早めに店仕舞いさせていただいておりやす」と主人は答えた。
客の何人かはこの言葉に「今年ももうそんな時期か」と呟いて店を出て行った。
私の右側のテーブルで飲んでいた男は「大漁を期待しているよ」と言い置くと、脇に置いてあったシルク・ハットをかぶって出て行く。皆、何かに思い当たるのか、すぐに店は空になった。
最後に残ったのは私だった。
皆すばやく出て行ってしまい、わけもわからず突っ立っていたためだ。
「旦那、一緒に来やすか」主人が誘ってくれた。
いつの間にか主人は虫網に籠を持っていて、町外れのイシマカルの原っぱに流れ星を採りに行くと言う。
「さっきまで飲んでいらっした、星のかけらのビールのもとでさ。あれは形のいい流れ星でないとだめなんで。そこらの店に売っているものでは良くないんです。それに、先日ご覧に入れました、月光ビールの仕込みに使う草も採らなきゃなりませんで。月の夜に芽吹く草です。あれは今晩が盛りなんでさ。あの草は一晩でおわっちまうんです。それは美しい草なんですがね」
別段、断る理由はなかったし、興味もあったので、主人について行くことにした。
今夜の月はいつにまして青白く美しかった。眺めていると青く輝く波紋が、月の周りから生じて広がっていくのがわかる。
町外れに行くにしたがって、虫の声が耳につく。イシマカルの原っぱに着く頃には、虫の音はオーケストラに匹敵する旋律を奏でていた。
「どのようにして流れ星を採るのです」と私は主人に聞いた。
主人は満面の笑みを浮かべて、腰に吊してあったラッパを持ち上げた。
「これです。これを吹いて釣るんでさ」
大きく息を吸い込むと、居酒屋の主人は天に向かってラッパを吹いた。ラッパの音は、虫のオーケストラに合わせて、高く短く鳴り響いた。
私は主人から虫網を預かって、天を見上げる。
パッパラパッパラパァーッ。
三度ラッパは鳴り響いた。
パッパラパッパッパッー、パッパラパッパラパァーッ。
耳から音の余韻の消えぬうちに、このイシマカルの原っぱをめがけて星が流れてくる。
しゅわわわわわ。地面に砕ける。光の粉がパッと飛び出た。主人は地面に落ちる前の星を巧みに採り上げては籠に入れた。
「さあ旦那も、その網でお願いしますよ」
私は持っていた虫網を一振りする。雨のように落ちてくる流れ星は、それだけで網の中へ入る。網の中を探ると三つばかり入っていた。
黒くごつごつとした球体で、触ると意外にも冷やりとした。その三つを籠に入れて、私も流れ星採りにしばし夢中になった。
やがて落ちてくる星の数も少なくなり、私たちの籠も一杯になる頃には、月は中空に達しようとしていた。
居酒屋の主人は天を仰いで、「もうそろそろ草が生えてきます」と何度も頷きながら告げた。
イシマカルの原っぱは、私たちの採り損ねた星のかけらで埋め尽くされていた。光の粉がパッと浮かんでは消える。
「ほら、あすこで始まりますで、旦那」
主人が少し盛り上がった草むらのほうを指して言う。
目を向けると、ちょうど緑色に輝く蔓がするっと伸びてきて、先端に結ばれた蕾がポンとはじけた。火の粉のような花は、一瞬のうちに儚くも消え、入れ違いにそこから生まれた紅く光る丸い粒が、地面に落ちずにそこらを漂い始める。
瞬く間にそこいらじゅうに蔓は伸びて、それまで生えていた草々を押し退ける勢いだった。
主人はその蔓を根のほうから丁寧に抜いていく。
「十二本だけ採るんでさ。それ以上はいけません。あ、そうそう旦那、そこの赤い実を食べてご欄になったらいいでしょう。良い味なんでさ」
そう勧められて、私は手近の紅い粒を一つ取り上げて口に入れた。
甘くてアルコールが強く効いている。それが口の中に広がってなんともいえない味だった。
もう一度味わいたくて、もう一つ口に入れる。
「余り食べ過ぎないようにすることですよ。こいつはかなりアルコールが入っていますで」
草を採り終わった主人が私に忠告してくれる。
ほんの三、四粒食べただけで、顔が赤らむのが自分でわかった。主人の顔も、もう何粒かやったらしく、やはり赤い。
月は中空を傾きかけている。
そのうち、赤く光る粒が少しずつ天に上り始めた。
「どうしたことか」と主人に尋ねると、これらは「月に上って月を発酵させるのだ」という答えが返ってきた。
蔓も地面からすぽんと抜けて後に続く。高く上がるにつれ、粒の赤みが抜けていくのに気がついた。光の点となる頃には、月の光に似て青白い輝きに見えた。
しばらく主人とその光景を眺めていた。
居酒屋へ戻る帰り道、私は主人に「紅く光る実は月を発酵させるとわかったが、では蔓はどうなのか」と聞いた。
「それはもちろん光を生むんでさ。旦那、月の夜に芽吹く草は、月の輝きの源で、あたしはその輝きのもとを少しばかり分けてもらってるんで。そういう風に月と契約してるんでさ。十二本だけとね」
私はカシマイル通りに入る角で主人と別れて家路についた。