第九十二話「悲恋」


 日奈は二週間ほどで快復した。
 少なくとも、傍目にはそう見えた。
 しかし、紺野家を辞して再び修練の場に出た彼女は、ひと月と経たずにまた体調を崩し、同家へ再度、舞い戻ることとなる。
 復調すれば修練に戻り、二、三週間でまた病み伏す。
 そんな生活を繰り返すうち、やがて快復までにかかる時間は長くなり、修練に出ている時間は急速に減っていった。
 日奈の病は、おそらく自律神経の失調からくるものであったと思われる。
 長旅の疲労もあったろう。
 しかし何より、開花する兆しを見せない己が力と、終わりのない厳しい鍛錬、そういった過度の精神的ストレスに、彼女の心はともかく、身体が音を上げてしまったのである。
 力はなくとも、彼女の身のうちに流れる血が、一色の、炎珠のものであることに変わりはない。
 修練はあきらめ、希望を次代に託してはどうか――
 一度ならず、日奈は紺野家の家人たちからそう勧められた。
 が、彼女はかたくなにかぶりを振った。
「私は、炎珠の血を受けた者です。黒珠の場所が確認されていない今、もしもその封印が過って解かれてしまったとしたら……私には力がない、では済まされないのです」
 折れざる心――しかし、それだけで支えるには、彼女の身体はあまりに疲れ、病んでいた。

 結局、朋徳親子の紺野家滞在は一年近くに及んだ。
 男女が親しくなるには十分な時間であるといえる。
 実際、出逢ってからの二人は、急速に親交を深めていったようだ。
「思えば、あの二人は似ていたな」
 独り言のような泰蔵のそのつぶやきを、紅子は聞きとがめ、たずねた。
「それって、父さんにも力がなかった、ってことですか」
 泰蔵は静かに笑ってかぶりを振る。
「力は、あったさ」
彼は言った。
「だがな……玄蔵の力は、この家の期待に見合うものじゃなかった」

 紺野家には、白鷺家と同様、実業家という現実的な面と、頭抜けた身体能力や異能といった霊的側面とがある。
 どちらも、炎珠を支援して黒珠を探しだし、その封印を確かなものにするために必要不可欠なものだが、とくに紺野家は効率的な理由からか、その二面の分業を心がけてきた。
 幼い頃から身体能力にも異能にも秀でていた泰蔵はこの家の霊的なことを負い、比較してそうでもなかった彼の兄は実務的なことに専念したのである。
 加えて、この家には、数世代おきに「顕化(けんげ)」と呼ばれる、特別な身体的特徴を持つ者が生まれ、その者は特に霊的能力に恵まれるという、不思議な遺伝的特質があった。
 その身体的特徴とは、頸椎から腰椎にかけて生える、白く輝く柔毛(にこげ)である。
 紅子はその特徴の持ち主に、いやというほど心当たりがあった。
「それって、竜介の背中にある……」
「おう、気づいておったか」
泰蔵はうなずいた。
「そうだ。あやつは顕化を持って生まれた。だから、その名に「竜」の一字が入っておるのさ」
 紺野家に伝わる文書には、大昔、顕化を持つ者は天地の力を自在に操り、竜に姿を変えて空を飛ぶことさえできた、という一節があり、それゆえに、顕化の持ち主には「竜」の名が冠されるのだと泰蔵は説明した。
「まあ、安直な慣例さね」
と、皮肉っぽく笑ったあと、老人はふと遠い目をして、続けた。
「そうさ、みなそう思っておった。玄蔵に足りないのは「竜」の一字のみだ、と……な」

 紺野家の霊的側面を支える泰蔵と、実務的側面を支える彼の兄。
 顕化の持ち主が現れるとすれば、当然、泰蔵の血筋であろう――そう、紺野家の誰もが期待していた。
 とはいえ、顕化が何世代ごとに現れるものか、正確な統計などはない。
 そのため、玄蔵に顕化がなくとも、泰蔵の後継として能力的に十二分であれば、何の問題もないはずだった。
 実際、問題などなかったのだ。
 竜介がこの世に生を受けるまでは。

 泰蔵の甥である貴泰は、異能とは無縁の人物である。
 だから、彼の長子として竜介が生まれたとき、泰蔵を始め、紺野家の親族たちは歓喜すると同時に、かなり当惑したようだ。
 そして、その当惑は竜介が成長するにつれて大きくなっていった。
 紺野家では魂縒(たまより)を受けるのは満十三歳を迎えてからと決まっており、その身に異能が備わっている者であっても、力が使えるようになるのは、魂縒を受けてからが圧倒的に多かった。
 ところが、竜介はそのはるか以前、五歳くらいから誰に教わるともなく雷電を使い始めたのである。
 むろん、制御は不完全で、威力も大したことはない。
 しかし、異能に加え、彼の身軽さ、身体能力の高さは、やがて彼が玄蔵を――いや、紺野家の誰をもしのぐであろう未来を予言していた。
 そして、彼が七歳を過ぎ、泰蔵に本格的に師事し始めたときから、その予言は現実のものと なっていく。
 玄蔵は竜介を彼が生まれたときから知っており、弟のように可愛がってきた。
 彼に顕化があり、いずれ自分をしのぐ存在になるであろうことも知っていた。
 しかし、その未来はあまりにも早く玄蔵の目前に立ち現れた。
 当時、玄蔵は二十二歳。
 修練に費やしたのは十五年ほどだろうか。
 決して短いとは言えないその歳月を、まだ幼い竜介に一足飛びに飛び越えられてしまいそうな彼のいらだち、焦りは、 察するにあまりある。
 泰蔵の跡目を竜介が継ぐなら、自分はこの家にとって、もはや無用の存在ではないか――そんなことさえ、当時の玄蔵は考えていたようだ。
 彼が日奈と出逢ったのは、そんな頃であった。

 日奈がいつから玄蔵に好意を抱くようになったかはわからないが、玄蔵は一目惚れだったようだ。
「あやつ、魂でも抜かれたようなふぬけ面で帰ってきおって。見ものだったぞ」
初めて日奈に出逢った日の玄蔵の様子をそう言って、泰蔵は呵々(かか)と笑った。
 しかし、この出逢いはやがて笑い事ではすまない事態を招いてしまう。
 日奈が、玄蔵の子を、みごもったのである。

 それは、年の瀬も押し迫り、雪のちらつくある日のことだった。
 突然、離れから、怒鳴り声と悲鳴、立て続けに何かが壊れる音が、紺野家の邸内に響き渡った。
 家政婦の滝口が何事かと様子を見に行くと、朋徳が寝間着姿のままで泣いている日奈を引きずり、渡り廊下を母屋へ歩いて来るところだった。
 日奈と玄蔵の関係を何となく察していた滝口は、日奈が腹部をかばっているのを見てピンと来るものがあり、なんとかその場をおさめようとしたが、朋徳は仁王のごとき形相で彼女をにらみつけ、
「あんたたちには関わりのないことだ」
と、一蹴。
 行く手を遮る滝口を押しのけ、再び歩き出した。
 まもなく、当時の当主夫妻と、執事の(いつき)も騒ぎを聞きつけてやって来たが、朋徳の憤激の前には、彼らも物の数ではなかったようだ。
 彼は母屋をまっすぐ、玄関へと向かっていた。
 どうやらこの屋敷を出ていこうとしているらしい――それはわかったが、だからといってどうこうできる力は彼らにはなく、後を追いかけながら説得を続けるより他なかった。

 玄蔵と泰蔵がこちらの屋敷に駆けつけたとき、朋徳父子は今にも玄関を出ようとしているところだった。
 到着が遅くなったのは、竜介が直接知らせに来たからだ。
 彼は、母親である美夜子が、子供が大人の話に首をつっこむものではない、と固く制止するのを振り切り、玄蔵たちのところへ向かったのである。
 竜介が日奈と玄蔵のことをどこまで知っていたのかは、わからない。
 ただ、この日、時折聞こえてくる怒声や、日奈のものらしい悲鳴などに居ても立ってもいられなくなり、玄蔵たち なら何とかしてくれるかもしれないと、その一念だったようだ。

「竜介のやつ、裸足でな」
泰蔵が、ぽつりと言った。
 紅子はここへ来るまでの道のりを思い出した。
 舗装などされていない、人が踏み固めただけの道。
 子供だった竜介の足は、傷だらけになったことだろう。
 それでも、彼は走ったのだ。
 ただ一途に、大好きな「お姉さん」を助けたくて、玄蔵たち親子を信じて。
 胸が痛んだ。
「もう十七年も前になるか……」
泰蔵は、遠くを見たまま、独り言のようにつぶやいた。
「だが、あの日のことだけは、昨日のことのように憶えておるよ」

 見るものすべてを凍り付かせるような、朋徳の冷たく恐ろしい眼光にも動じず、玄蔵はその行く手をさえぎると、告白した。
 日奈の腹にいる子供の父親は、自分だ、と。
 そのときの朋徳の顔を、おそらく一生忘れることはないだろう、と泰蔵は言った。
 憤怒、絶望、諦念、そして、深い――とてつもなく深い悲しみをたたえた顔を。
 泰蔵は、朋徳が泣き出すのではないかと思ったが、違った。
 次の瞬間、彼は素早く玄蔵との間合いを詰め、その頬に拳を叩き込んでいた。
 玄蔵は、避ける暇もなく、数メートル先の生け垣まで吹っ飛ばされた。
「あのオッサン、すげぇ……」
 すぐ隣で竜介がつぶやく。
 彼と泰蔵を除いては、その場にいた誰も、何が起きたか「見る」ことができた者はいなかったようだ。
 ただ、悲鳴と驚嘆の声が辺りを満たした。
「お父様、やめて!!やめてください!!」
 全身に殺気をみなぎらせ、さらなる鉄槌を下すべく玄蔵のほうへ歩き出す父親に、日奈は必死に取りすがった。
「悪いのは私です!!罰するなら、私を……キャッ!!」
 日奈は乱暴に振り払われ、悲鳴とともに冷たい玉砂利の上に這いつくばった。
「お前は、そこで見ておれ」
朋徳は冷ややかに言い放った。
「己の分もわきまえず、炎珠の神女に手を出した男の末路をな」

2008.8.28

2010.01.12一部改筆


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