第六十一話「晨明(しんめい)


 誰かに呼ばれたような気がして、紅子は動きを止めた。
 それは、昨日昼食をとった白鷺邸の中庭で、彼女が形の稽古を始めてから一時間ほど経ったころだった。
 始めたときには、まだ東の彼方に薄ぼんやりと見えるばかりだった夜明けのきざしが、今は夜陰と星とを西の空に追いやりつつある。
 だが、まだ大気は冷え込んだままで、紅子の荒い息を薄闇に白く浮き上がらせていた。
 彼女は肩からかけていたスポーツタオルで汗を拭うと、呼吸を整えながら、辺りを見回してみた。
 数メートルおきに点在する、膝くらいまでの低い常夜灯が石畳を照らしている。
 人影はなく、ひっそりと静まり返っているばかりだ。
 空耳だろうか?
 こんな早朝に起きだして、しかも寒い屋外にいるような物好きが、自分以外にもいるとは到底思えない。

 しかし、気配は感じられる。

 「誰か」あるいは「何か」がいることは確かなようだ。
 誰何(すいか)すべきか否か迷っていると、今度ははっきりと声が聞こえた。
「おはようございます、紅子さま」
 ややあって、かたわらの生け垣ががさがさと音をたて、和服の上に温かそうなショールを羽織った日可理が姿を現した。
 お嬢様は生け垣の中に入ってはいけない、などという法律はないけれど、予期せぬ場所から出てきて優雅に朝のあいさつをする相手に面食らいつつ、紅子も挨拶を返す。
 最初のころはくすぐったかった日可理の「紅子さま」という呼び方も、三日目ともなればあまり何とも思わなくなっている。慣れとは恐ろしい。
「どうしたんですか?こんなとこで」
と紅子は尋ねた。
 日可理は紅子のほうへ歩み寄りながら、
「結界を見て回っておりました」
にこやかに答えた。
「昨日、新しいものに貼り替えたので、はがれていないかどうか気になって」
「貼り替える?」
 紅子がおうむ返しに訊き返すと、日可理は生け垣をかき分け、その向こう側に建つ高い煉瓦塀(れんがべい)の根元を指さした。
「ほら、あの呪符。あれで結界を作っているのです」
 そう言われて生け垣の中を覗き込んでみると、なるほど、塀を支える柱の基底部に、和紙でできた短冊が貼られているのが見えた。
 紅子は、薄闇の中で青白く淡い燐光を放つそれに、見覚えがあった。
 竜介が彼女の家に結界を作るとき、使っていたものと体裁(ていさい)がほぼ同じだったのである。
 あれは日可理さんが作ったものだったのか。
 紅子がそんなことを考えていると、日可理が言った。
「わたくしは部屋にもどりますが、紅子さまは?」
 白んできた空を見て、紅子は、
「あ、あたしももどります」
と答えた。
 朝食の前にシャワーを浴びて着替えたい。

 紅子と一緒に屋内へむかって歩き出しながら、日可理が尋ねた。
「武術の稽古をなさっていたのですか?」
「はい。足も治ったし、久しぶりに」
 明るく即答する少女に、日可理もつられて笑顔になる。
「竜介さまも、昨晩遅くに同じことをなさっていました」
 紅子は思わず、日可理の白い横顔を見た。
「竜介が?」
「緊張で、なかなかお休みになれないようでした」
 紅子は昨日の昼食後、日可理に勧められてとった午睡から覚めたときのことを思い出した。
 窓のそばに置いた肘掛けに腰を下ろし、外を見ていた竜介は、紅子が目を覚ました気配を感じると、こちらを振り返って柔らかく微笑した。
 それから彼は、気分はどうかと尋ねただけで、すぐに部屋を出て行ったけれど、目が覚めたときだれかがそばにいてくれるって、なんだかいいな、と彼女は思ったのだった。
「ヘリポートで、いろいろありすぎたからなー……」
 紅子が自分への言いわけのようにそうつぶやくと、日可理は竜介のことだと思ったらしい。
「そうですね。責任感の強いかたですから」
とうなずいた。
「紅子さまは、よくお休みになれまして?」
「はい。日可理さんは?」
 無邪気にそう聞き返されて、日可理はほんの一瞬、ためらってから、笑顔で答えた。
「……大丈夫ですよ」

 でも、本当は――

 本当は、この三日間、あまり眠れていない。紅子がこの屋敷に来てから。
 日可理は心の中でため息をついた。

 いまさら、嫉妬なんて無意味なのに。

 大変なときなのに、こんなつまらないことに心を奪われているなんて、あってはならないことだわ。
 そんな日可理の心中など知らない紅子は、屋内へ続くテラスの階段の途中で外を振り返り、
「今日もいい天気になりそうですね」
のんびりとそんなことをつぶやいている。
「そうですわね」
 日可理は同意しながら、後ろを振り返るふりをして、そっと少女の横顔を見た。
 今はまだ、意志の強そうな眉や目の大きさが際だつばかりで、愛らしくはあるけれど、日可理の美しさとは比べるべくもない。
 しかし、朝日に映えるその横顔から、近い将来の彼女を想像することはさほど難しいことではなかった。
 日可理を大輪の白菊とするならば、紅子は、その名のように真紅の薔薇(ばら)となるだろう。
 鋭いとげでその身を鎧(よろ)い、たわむれに手折(たお)ろうとする者を傲然(ごうぜん)と傷つける花。
「紅子さまは……」
 呼びかけとも単なる独り言ともつかないその声を聞きとがめ、紅子が尋ねた。
「え、何ですか?」
「いいえ、何でもありません」
 日可理は笑ってかぶりを振った。

 訊いてどうするの?――竜介さまをどうお思いですか、なんて。

 二人の今の気持ちは、問題ではないのだ。
 星がその言葉をたがえることはない。それは、この十年間でいやというほど思い知ったことではなかったか。
 運命の大いなる歯車は、いずれ必ず、音を立てて動き始めるのだ――人がそれを望もうと、望むまいと。

 そのときがきっと、この苦しみの終わるとき。
 この執着から、解放されるときなのだわ……。

 日可理は心にまとわりつく埒(らち)もない思いを振り払うと、時刻を確かめようと袂(たもと)から携帯電話を取りだした。
 その液晶画面を見て、少し慌てる。
「紅子さま、朝食の前にシャワーをお使いなら、少しお急ぎあそばしたほうが」
そう言って紅子にも画面に表示された時刻を見せると、
「ウソ!もうこんな時間!?」
紅子はあたふたと廊下を走り出した。
「ありがと、日可理さん!またあとで!」
「はい、朝食のときに」
 日可理は笑顔で紅子の背中を見送った。
 明るくて、無邪気で、可愛い人。

 あのかたと、もっと親しくなれたら、きっと、わたくしのこの心の迷いも晴れる気がする――

 暁雲(ぎょううん)のはざまからのぞく、抜けるような秋の青空を見上げながら、日可理はそう思っていた。

2009.12.22.一部改筆

2015.11.05加筆修正


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