第六十話「渇愛


 それが、全ての始まりだった。
 最初は、年上の、それも一風変わった少年に対する好奇心、それだけ。
 少なくとも、日可理自身はそう思っていた。
 彼と顔を合わせ、言葉を交わすことがその日よりのちに全くなかったとしたら、本当にそれだけで終わっていたかも知れない。
 けれど、御珠という共通の秘密を持ち、かつ、国内有数の巨大企業をそれぞれに経営している白鷺家と紺野家のつきあいが疎遠(そえん)であるはずもない。
 ことに、日可理と志乃武がその後、白鷺家の継嗣(けいし)として両家の集まりに繁(しげ)く顔を出すようになると、当然ながら、彼女と竜介が言葉を交わす機会もそれに比例して増えていった。

 日可理は彼を、穏やかで温かな海のようだと思った。

 どこまでも広く、深く、そしてつかみどころがない。
 その深みに触れてみたいと彼女が願ったとき、その思いはもはや、単純な好奇心や憧憬(しょうけい)ではなくなっていたが、彼女がそれに気づくには、まだ少し時間を必要とした。


「あの子をお気に入りなのはけっこうだけれど、あまり深入りしてはいけませんよ」

 祖母は、孫娘が竜介の名を口にするたび、やんわりと、だがきっぱりした言葉でそう忠告したものである。
 だが、その頃まだ何も知らなかった日可理は、その言葉の意味も、理由も、理解できなかった。
 何より、祖母がときおりほかの家族の前などで口にする竜介の評価は決して低いものではなかったから、日可理の目に、それが余計に矛盾と写ったのは仕方のないことだった。
 彼女にとって祖母は敬うべき師であり、愛すべき家族であったが、それでも、同じことを何度も口を酸っぱくして繰り返されればいらつくものである。
 十代半ば、反抗期ともなればなおさらのこと。
 思いあまった彼女は、あるとき祖母に「深入り」とはどういう意味なのか、なぜそうしてはならないのかと尋ねた。
「星をご覧なさい」
 返ってきたのはその一言と、『星見』に使う天宮図が一枚。
 図の右肩には竜介の名前が記され、そこに描かれた星の配置が、彼の生まれた日のものであることを示していた。
 日可理は小さいときから何度も目にしてすっかり憶えてしまった自身の天宮図を、頭の中で彼のそれと重ね合わせてみた。
 彼女は身体から血の気が引くのを感じた。
 二人の星が、とりたてて凶相を作っていたというわけではない。
 ただ、ことを恋に絞ってみたとき、星たちはこう告げていた。

 その思いに未来はない。ただ妄執(もうしゅう)の闇に沈むのみ――と。

 彼女に「思い」そのものがなければ何ら問題はない。
 それだけのことだ。
 しかし、その託宣は日可理の心のみならず身体をも、氷のように凍えさせた。
 そのとき、彼女はようやく気付いた。

 すべてはもはや手遅れなのだと。

 彼女自身が『星見』でなかったなら、たかが占いと笑い飛ばすこともできたろう。
 このときほど、彼女は自ら持って生まれた予見の力を呪ったことはなかった。
 恋は彼女の心に深く根を下ろし、今にも花を咲かせようとしていた。

 決して実を結ぶことのない花を。

 そのつぼみをむしり、その根をそぐことと、予見のはずれるよう祈ることの、どちらがよりたやすいだろう。
 日可理は後者を選んだ。
 祖母が見、自らもまた確かめた未来が、星の言葉が、変わることを願い続けたのである。
 その祈りがむなしいものだと思い知るまで。



 それは、彼女が十七歳を迎えた年の晩秋のことだった。
 祖父が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、数ヶ月の植物状態ののち、他界してから一年余り。
 遺産の相続手続き、形見分け、初盆と、葬儀に続くあれこれをようやく済ませて家族全員が安堵した、その矢先――今度は祖母が床(とこ)についてそのまま、連れ合いのあとを追って逝ってしまった。
 あまりにもあっけなく。
 物心つく以前から共に暮らし、ほとんど親も同然だった祖父母を相次いで亡くしたことは、日可理たち姉弟にとって大きな痛手だった。
 ことに、祖母の死に対する日可理の落胆は大きかった。
 祖父の死が悲しくなかったわけではなく、彼女にとって祖母の存在がそれほど絶大だったということだ。
 葬儀は、祖母が生前より弁護士に書き渡していた遺言に従い、密葬で行なわれることになった。
 そのため、大がかりだった祖父の葬儀と比べて弔問客は格段に少なく、通夜も葬儀の当日も、邸内はひっそりしたものであった。


 通夜の日は、夕刻からみぞれ混じりの冷たい雨が降り出すと、元々少ない弔問客(ちょうもんきゃく)はぱったり途絶えた。
 そうなると、喪主(もしゅ)とその家族のすべきことといえば、祭壇にささげられている線香とろうそくを絶やさぬことくらいである。
 翌日の葬儀に備えて交替で仮眠をとろうという提案が出たとき、日可理は最初のろうそく番をかってでた。
 海外の出張先からあわてて帰ってきた両親を思いやってのこともあったが、何より、彼女は眠気を感じていなかったから。
 自室に引き上げるとき、志乃武が、眠くなったらいつでも自分を起こすようにと言ってくれたが、おそらく朝までその必要はないだろうと彼女は思ったほどである。

 葬祭用の幔幕(まんまく)が張り渡された広間では、雨音が陰鬱で単調な葬送曲を奏(かな)でている。

 日可理は弔問客をもてなすために置かれた応接セットに腰を下ろすと、ただぼんやり、聴くともなしにその音を聴いていた。
 疲れているはずなのに頭はさえ渡っていて、そんなふうにじっとしていても不思議なほど眠くならない。
 広間正面には、花で飾られた祭壇。
 昨日まで何ら変わりなく共に暮らしていた祖母が、今は、その祭壇の奥のひつぎにいる。
 目を閉じて、冷たく、固くなって。
 しかし、日可理はいまだそのことを信じてはいなかった。
 その目で確かめたことだから頭では理解していたけれど、心はそれを事実として受け入れることをまだ拒んでいた。
 あまりにも突然の別れが、大きすぎる痛みが、あたかも麻酔のように彼女の五感を麻痺させていたのである。
 何もかもが薄い透明な膜を隔てているかのように現実味を欠き、夢のようにあやふやだった。
 真に夢だったならば、彼女の心はどんなにか救われたろう。

 このまま、何日くらい食べなければ死ぬのかしら……。

 玄関の呼び鈴が来客を告げたのは、そんな鬱屈(うっくつ)した考えが、彼女の脳裏を去来していたときのことだった。
 時計はそろそろ夜の十時を指そうとしていた。
 遅い弔問客だろうか。日可理はインターホンを取って誰何(すいか)した。

「夜分遅くにすみません」

 聞き慣れた声が、彼女の耳朶(じだ)を打った。

 来客は、誰あろう、竜介だった。

 彼は白鷺家前当主の妻君(さいくん)が亡くなったという報せを受け、遠路を弔問に訪れたのである。
 本来ならば彼の父も来るべきところだが、密葬という形式を慮(おもんばか)り、大げさにならぬよう、長男である彼を代理に立てたのだった。
 思い人の来訪は、かすみがかかったように生彩を失っていた日可理の世界に、色彩を、匂いを、音をよみがえらせた。
 それはしかし、拒み続けていたことをも彼女が受け入れねばならなくなった瞬間でもあった。
「急なことで大変だったね」
玄関で日可理と対面した彼は、気遣わしげに悔やみの言葉を述べた。
「父の代理で来たんだけど、焼香させてもらっていいかな」
 そのとき、それまで蜃気楼のようでしかなかった祖母の死というものが、もはや変えようのない現実のこととして、実感としてその身のうちに立ち上がってくるのを彼女は感じた。

 ――生まれてから十七年間、一度も経験したことのないような、強烈な嗚咽(おえつ)の発作を伴って。

 足から力が抜けた。
 身体が鉛のようだった。
 床にくずおれてしまう前に、彼女は目の前にいる青年――出会った頃は少年であった――にすがった。
 竜介は日可理がいきなり自分の胸にしがみついて激しく泣き出したことに、一瞬、当惑した様子だった。
 が、すぐに気を取り直すと、少女の細い肩を抱き、その背中をなでてやった。

 温かく、優しい愛撫。

 けれど、そこに日可理の求めた熱情はなく、我知らず抱いていた淡い期待はうち砕かれた。
 彼女はただ、星たちの言葉の正しかったことのみを思い知った。

 彼らが既に告げたとおり、彼女の思いは今も、そしてこの先も、報われることは決してないのだ――少なくとも、彼女が真に望む形では。

 竜介が彼女に向ける優しさは、いとこに対するそれと何ら変わるところがなかった。
 彼にとって日可理は、紺野家と公私に渡って深い関わりのある大事な家の令嬢というに過ぎないのだ。
 無論、彼とて他の多くの男性同様、彼女の華麗な容姿に好意と称賛の念を寄せてはいただろう。
 彼女がもしも自らの胸の内を明かしたなら、そしてその心がいまだ誰のものでもなかったなら、彼は彼女の思いに応えてくれたかもしれない。
 そうすることは、白鷺家と紺野家の双方にとって、利益となりこそすれ害とはならないだろうから。
 そうなれば、よほどの理由がない限り、彼は生涯を彼女とともに過ごすだろう。
 優しく、温かな愛を彼女に注いでくれることだろう。
 だが、彼女は、自らが本当に求めるものを彼のうちに見いだすことはないのだ。

 永遠に。

 優しいだけの、穏やかなだけの愛――それもまた「愛」ではないかと人は言うだろう。
 しかし、日可理にとって、それは水を求めて酒を与えられるほどの違いがあった。
 どちらも渇きを癒すには違いないが、酒のそれは、あとにくる渇きをさらに酷いものにするだけのごまかしにすぎない。
 それとも、自分が相手に対して捧げると同じだけの熱情で報いられたいと願うのは、わがままなことなのだろうか。
 過ぎた望みなのだろうか。
 もしも心を切り離す刃があったならば、日可理はいかなる代価を払ってでもそれを手に入れようとしただろう。
 そして自らの心から、彼への恋慕を切って捨てたことだろう。
 しかし、そんな魔法の道具はどこにもありはしないのだ。


 あの冷たい雨の日から三年。
 癒されぬ渇きと諦観(ていかん)のあいだで揺れ続ける日可理の心をよそに、星たちは、彼女の思い人を奪っていく者の訪れを告げた。
 日可理は、まもなくこの世を覆うであろう災いの黒い影を幻視し、同時に、自らの羨望の対象こそが、それを退ける鍵となることを知る。

 その者の名は――

2009.12.21一部改筆


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