第四十六話「殃禍の夜・2」


 一方。紅子は外開きのドアに阻まれて、室内をまだ見ていなかった。
 しかし、かすかに鼻を突く血のにおいや、ドアを開けて中をかいま見るや変にくぐもった声を出し、口を両手で押さえながらどたばたと奥の階段の影に走って行く鷹彦、内部を凝視したまま真っ青になっている竜介を見れば、室内が尋常でない状態だということは察しがつく。
「何?どうしたの?何かあったの?」
 背後からの紅子の声でようやく我に返った竜介は、怖い物知らずにも中をのぞき込もうとする少女の視界を慌てて自分の身体でさえぎった。
「きみは見るな」
 彼は紅子の両肩をつかんで自分の背後を見せないようにしながら、厳しい口調で言った。
 一方的な命令に、紅子はむっとして何か言い返してやろうと口を開けたが、相手の顔を見たら、そんな気持ちは失せてしまった。
 ひどく具合が悪そうだ。
「あの……大丈夫?」
「ああ」
竜介は無理に笑って見せた。
「俺も鷹彦も、血の臭いでちょっと気分が悪いだけだ」
 どんどん濃くなってくる血なまぐさい臭い。
「中、どうなってるの?」
 だいたいの想像はつくけれど、訊かずにいられない。
 彼は紅子への適切な言葉を選ぼうとしてか、苦い表情でしばらく沈黙したあと、答えた。

「人が死んでる」

素っ気ない口調。まるで、わざと感情をこめずに話しているかのように。
「普通の死に方じゃあない。たぶん……黒珠にやられたんだ」
 普通じゃない死に方って、どんな死に方?などとは、訊くも愚かだろう。
 鷹彦の様子を見れば、扉のむこうには恐るべき惨状が広がっているに違いないことは容易に想像がつく。
 紅子は背中に冷たい汗がにじむのを感じた。
「それじゃ、まさかここの人って、全部……?」
「多分」
と、彼は言った。
 眉間に刻まれたしわがさらに深くなっていて、それが彼を年相応に見せる。
 紅子はまた上の方で何かがきしむような音を聞いた。が、竜介は気づかない様子で、
「ここはやばい。すぐに出ないと」
と言い、続けて後ろにいる弟を肩越しに呼んだ。
「鷹彦!」
 床に突っ伏すようにしていた鷹彦は、壁に手をついてよろよろと立ち上がりながら、
「うーす」
と、返事をした。
 どうやら、吐き気はおさまったらしい。胃袋を空っぽにしてしまった虚脱感からか、顔には今ひとつ覇気がなかったが、返事をする声はしっかりしていた。
「いつまでもそんなとこにいないで、こっちに来い。ここから出るぞ」
 竜介が言うと、
「いやぁ、それがさぁ」
鷹彦は、申しわけなさそうに頭を掻いた。
「足元ふらついちゃって。わりーんだけど、こっち来て肩、貸してくんない?」
 そのあまりにもあっけらかんとした言葉に、紅子は笑っていいのかどうか困り、竜介はため息をついて片手で額を押さえた。
「ったく、しょうがねーなぁ。ちょっと待ってろ」
それから紅子に向かって、
「しばらく、あっち向いててくれる?」
彼女の背後を指さし、言った。
「後ろは見ないほうがいいぜ。鷹彦みたいになりたくなきゃね」
 それは説得力のある一言だった。
 紅子はうなずいて、彼の言うとおりおとなしく回れ右をする。
 すると、背後で竜介がふっと笑うらしい気配があった。
「すぐ戻る」
という声と一緒に、大きな温かい手が紅子の頭に軽く乗せられ、離れて行った。
 彼女の視界前方には、開け放たれたガラスの扉。
 その向こう側は、いよいよ夜の気配が濃くなりつつあった。
 薄明に沈む外の景色を、時折、稲光が瞬間的に浮かび上がらせる。
 と、頭上からまた何かが軋むような音が聞こえ、彼女は反射的に天井を見上げた。
 雷が吠えるたび、何かが軋むようなあの音が大きくなっていく気がする。
 なぜか不安をあおられる、奇妙な音。
「しっかりしろよ」
という、鷹彦にかけているらしい竜介の声や、こちらへ戻ってくるらしい気配がなければ、紅子は思わず背後を振り返っていただろう。
 竜介たち二人の気配は、もうすぐそこにまで近づいてきている。
 彼女は二人の足音に神経を集中させることで、気分を落ち着けようとした。

 しかし――

 そのとき、ひときわ大きな雷鳴が、辺りを震撼させた。
 窓ガラスのみならず、建物全体が、すさまじい雷鳴に震えているようだった。明かりがほんの一瞬、明滅する。
 紅子は停電かと思って頭上の蛍光灯を見上げ、それと同時に、巨大な氷が割れるような音を聞いたような気もしたが、定かではない。
 なぜなら、その次の瞬間、轟然と音を立てて、天井が崩れ落ちてきたからだ。
 巨大なコンクリートのかたまりが、視界いっぱいに広がっていく――スローモーション再生のように、ゆっくりと。
 しかしそれは、実際にはほんの一瞬の出来事だった。


 気がつくと、紅子は硬い地面に突っ伏していた。
「あたし、なんで……?」
 こんなところに寝転がってるんだろう。
 途切れた記憶の断片をたぐり寄せながら目を開けると、そこにあるのは巨大ながれきの山。
 それがほんの少し前までたしかに頑強な威容を誇っていた建築物のなれの果てであることを思い出すのに、さほど時間はかからなかった。
 そうだ、天井が崩れて――!
 慌てて起きあがろうとしたとたん、背中に鈍い痛みがはしり、紅子は思わずうめいた。
 が、その痛みが記憶のピースをつなぎ合わせていく。
 落ちてきた天井の下敷きになる直前――誰かにものすごい力で背中を突き飛ばされた。
 兄に肩を借りていた鷹彦には無理だろうから、たぶん、竜介だ。
 そういえば、二人はどこだろう。
 視線をめぐらせる。が、彼らの姿は、どこにもない。
 心臓が耳元で早鐘を打つ。
 だが、その音に急き立てられるように立ち上がろうとしたとき、右足首に激痛が走り、彼女はその場に尻餅をついた。
「ったぁ……」
 突き飛ばされて外に転がり出たとき、玄関の段差を踏みはずして、ひねったらしい。
 痛いのは、足と背中だけではなかった。
 どこからかもれているらしいガスの臭いと煙で、目と喉もひりひりする。
 切断された送電線から散る火花が引火したのか、倒壊した建物を、炎が猛烈な勢いで焼き始めていた。
 炎の中に浮かび上がるコンクリート塊の断面は、どれも鋭利なナイフで切りとられたチーズのようにあざやかな直線を描き、それが老朽による崩壊などではなく、何者かの手によって破壊されたことを示している。しかもそれは、人ならざる者の手によって。

 視界が涙でぼやけるのは、煙のせいか、足の痛みのせいだろうか。
 しかしその涙は、いったんあふれ出すと、なかなか止まらなかった。
 竜介と鷹彦の名前を、紅子は叫んだ。

 返事はなかった。

2009.11.22改筆


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