第四十七話「殃禍の夜・3」


 泣いている場合ではないということはわかっている。
 折り重なるがれきの形を見れば、建物の倒壊が事故か否かは一目瞭然だ。
 これを仕掛けた化け物は、まもなく事の成否を確かめに戻ってくるだろう――いや、もしかしたら、もう既にどこかから様子をうかがっているかもしれない。
 竜介も、鷹彦もいない今、自分の身を守れるのは自分だけ。
 頭ではわかっているのに、身体がいうことを聞かない。
 腰が抜けるとはこういう状態を言うのだろうか――ふとそんなのんきなことを考えている自分が可笑しくて、紅子は笑おうとしたが、身体だけでなく顔までこわばっているようで、うまくいかなかった。

 ――怖い。

 怖くて、身体の震えが止まらない。
 一人になることが、こんなに怖いことだったなんて。
 相手が普通の人間だったなら、たとえ自分一人でもどうにかできるくらいの自信が、彼女にはあった。
 だが、今、闇の中から襲撃のタイミングを測っているのは人外の化け物だ。
 そんなものを相手に、どういう闘い方をすればいいのか。
 わからない。
 わからないけれど――何とかしなくちゃ。
 死にたくないなら、自分で、一人で。
 ぎゅっと両手を固く握りしめる。
 紅子は一度大きく深呼吸すると、固めたその拳で乱暴に涙をぬぐった。
 足の痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がり、こうべをめぐらせる。
 皮肉にも、がれきを焼く炎のおかげで辺りは真昼のように明るい。
 管理事務所の建物は倒壊したけれど、少し離れた場所にあるハンガーは無事だ。

 あそこに行けば、何かあるかもしれない。

 紅子は痛む右足をひきずるようにして歩き出した。
 普通なら数分で着けるような距離が、ひどく遠い。
 駐機場に並んでいる軽飛行機や小型ヘリのあいだを抜けてようやくたどり着いたときには、彼女はびっしょり汗をかいていた。
 ハンガーの入口は、飛行機やヘリを中に入れるときに使う巨大な自動シャッターと、その脇にある人が出入りするための扉の二カ所あった。
 紅子はまず、人間用の入口を試したが、こちらは鍵がかかっていた。
 次に自動シャッターのスイッチ。
 人間用の扉のすぐ脇にそれらしいスイッチボックスを見つけた彼女は、祈るような気持ちであちこち押してみた。
 だが、こちらもまったく反応がなかった。
 スイッチの下に小さな鍵穴がついている。おそらくそこに鍵を差し込まないと反応しないようにできているのだろう。
 紅子は思わず、両手をこぶしにしてシャッターを叩いた。
 ガシャン、と大きな音が辺りに響き渡る。
 やっぱり、一人じゃ無理なのか……。
 そんな絶望的な気分に陥った、そのとき。
 彼女をさらに戦慄させる声が響いた。

「そおねぇ?あなた一人じゃあムリかもぉ、みたいなぁ?」

 それは、冷たい含み笑いの混じった、奇妙に甘ったるい声だった。
 紅子は心拍数が大きく跳ね上がるのを感じ、声が聞こえたほうを、ゆっくりと振り返った。
 既に首筋に広がっている、独特の痛痒感が告げる。

 声の主は、人ではない、と。

 紅子からほんの二、三メートルばかり離れた場所に駐機されている、軽飛行機。
 その片方の羽根の上に、「それ」はいた。
 闇の中に、その姿を青白く浮かび上がらせて。
 「それ」は、女だった。
「うふん。初めましてぇ」
色っぽいしなをつくりながら、女は言った。
「よろしくねぇ?……今夜限りのお付き合いだと思うけどぉ」
 肉感的な赤いその唇は濡れたように光り、まなじりの切れ上がった黒い瞳の奥には、見る者の心を惑わす淫靡な炎が踊っている。
 瞳と同じ色の長い黒髪は、白い顔の輪郭に沿って背中へと流れ、鎖骨や、その下の豊かな乳房を覆うものは何もなかった。

 男なら、誰もがふるいつきたくなるような美女――その腰から下が、獣の身体でさえなければ。

 女の下半身は、黒い獣毛に覆われ、四本の脚と、一本の太い尾がついていた。
 脚と胴は、虎か獅子のようだったが、尾は獣毛の代わりに鱗に覆われ、その先は蛇のあごになっていた。
 人の腕ほどもある、目のない大蛇。
 その蛇は、女とはまた別の生き物なのだろうか。肉食獣が獲物の生き血をすするような音を立てながら、それは得体の知れない黒い塊を(むさぼ)っている。
 その光景に、紅子は言いようのない嫌悪感を覚えた。
 すると、異形の女は相手の心情を見透かすように嗤い、
「あはん、これぇ?気になるぅ?」
と言う。
「見せてあげましょぉかぁ?」
 見たくなんかない。
 そう答えるよりも早く、女は大蛇から黒いボール状の物を取り上げると、紅子に向かって投げた。
 意外に重い音を立てて、それが紅子の足元に転がった、そのとき。
 まるで時を見計らったように、稲光がひらめいた。
 次の瞬間、閃光の中に浮かび上がったのは、人の頭部。
 頭頂部はざくろのように割れ、赤黒い穴が見えた。
 顔には血でしめった髪が貼りつき、その両眼は、眼窩から半ば飛び出している。
 死の恐怖にゆがんだその表情からは、もはや生前の面影をしのぶすべはなく、年齢どころか男女の別さえ判じかねるほどに変わり果てていた。
 ほんの一瞬の稲光。
 それがまるでカメラのフラッシュのように、紅子の脳裏に凄惨な光景を焼きつけた。

 こちらを見上げる、悲しげに濁った死人の眼。

 耳を聾する雷鳴がなければ、紅子はそのまま意識を失っていたかもしれない。
 異形の女はけらけらと哄笑していた。
 すべてが醒めない悪夢のようだ。
「チョーうけるぅ、みたいなぁ?」
異形の女は、ひとしきり笑ったあと、喉をくつくつ鳴らしながら言った。
「あなたってぇ、わかりやすいのねぇ?あたくしぃ気に入っちゃったわぁ」
 その言葉が終わるや否や、女は紅子の視界から忽然と姿を消す。

 と――次の瞬間。

 紅子が慌てて首をめぐらせるよりも速く、あの甘ったるい声が、彼女の耳元でささやいた。
「ほーんとよぉ?……殺すのが惜しいくらいだわぁ」
 口から心臓が飛び出しそうになった。
 紅子は足の痛みも忘れ、はじかれたようにその場から跳び退きざま、背後を振り返る。
 異形の女は、一瞬のうちに彼女の真後ろに移動していた。
 紅子が焦って間合いを取るのを、女は可笑しそうに眺めながら、両手で空を掻く。
 十本の爪が音もなく伸びた。稲光を受けて氷のような輝きを放つ、十本の凶器。
 このヘリポートにいた人間は全て、この刃の犠牲となったのだろうか――いずれも、さっき紅子が目にしたような姿となって。
 そしてそれは、まもなく自分自身の身にも起こりうること。
 紅子は自分の首が身体を離れ、地面に転がる白日夢を見て慄然とした。
 思わず自分の首に触れてみて、それがちゃんとつながっていることを確かめる。
「大丈夫よぉ?すぐにはぁ殺さないからぁ」
獲物をなぶる肉食獣の笑みを浮かべ、異形の女はまたしても紅子の心を見透かすようなことを言う。
「ホントのこと言うとぉ、碧珠のあの男の子たちともぉ、遊びたかったんだけどぉ。だってぇ、二人ともぉけっこう可愛い顔してたしぃ?」
 女はゆっくりと一歩踏み込み、紅子は間合いを保つため、逆に一歩退く。
 ハンガーを離れ、駐機場へ。
 女はもはや紅子を仕留めたも同然と思っているのだろう。余裕の表情で無駄なおしゃべりを続ける。
「でもぉ、頭のほうはぁイマイチかもぉ、みたいなぁ。力が使えないあなたをぉ一人残してぇ、自分たちはぁ建物の下でぺっちゃんこってぇ、チョーうけるんですけどぉ」
そう言って、けらけらと嘲笑う。
 紅子は頭に血がのぼるのを感じた。

 ――情けない。

 竜介たちが愚弄されているのに、今のあたしはこいつをにらみつけることしかできない。
 いいように翻弄されるばかりで、反撃もできない。
 自分が情けなくて、悔しくて、腹が立つ。
「……あらぁ?怒っちゃったのぉ?」
 一歩、また一歩。化け物は喉の奥でくつくつと笑いながら、間合いを詰めてくる。
 紅子は、ただ退くしかない。
「いいのよぉ?あなたからぁかかって来てもぉ?」
 ひらめく稲妻を受けて、長い爪が光る。
 へたに飛び込めば、あの爪でなますに刻まれるのは目に見えている。
 とはいえ、いつまでもこのまま逃げられるはずもない。

 どうしよう――

 冷たい汗が背中を伝い落ちる。
 焦り、考えながら、じわじわと後退を続ける紅子は、いつしか駐機場に並ぶ機体のあいだに入り込んでいた。
 羽根や尾翼、ヘリのローターが邪魔で、動きづらい。けれどそれは相手も同じはず。
 だが、異形の女は紅子がどの方向を選ぼうと、必ずそこにいて、行く手をさえぎっているのだった。冷ややかな笑みとともに。
 紅子は呆然とつぶやいた。
「どうして……どういうこと」
「まだわからないのぉ?おニブさんねぇ」
異形の女はクスクスと可笑しそうに笑い、言った。
「あたくしの耳はねぇ、人のぉ心の声がぁ聞こえるのぉ。あなたのもぉ、最初からぁ、ぜーんぶまる聞こえなのぉ……おわかりぃ?」

2009.11.26改筆

2015.10.07加筆修正


第四十六話へ戻る

第四十八話へ続く

このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。

玄関/ 掲示板/ 小説
/リンク集/SENRIの部屋