第四十三話「北へ・4」
最初、その生物の群れを目にしたとき、機内の誰もが、それを「魚」の群れだと思った。
南米かどこかに棲む肉食魚を連想させるような、しゃくれたあごと、びっしり生えそろった牙、ぬめりを帯びた鱗。
長さ二メートルばかりの、革ベルトのように薄っぺらな身体と、それをくねらせて「泳ぐ」さまに至っては「魚」そのもので、紅子は一瞬、自分が深い海の底にでも迷い込んでしまったかのような錯覚を起こした。
しかしまもなく、その「魚」たちの持つ奇妙な違和感が、彼女に、ここは確かに飛行機の中で、今、自分は空の上にいるのだということを思い出させた。
そう、彼らは確かに、魚類によく似ていた――その「眼」の位置を除いては。
彼らには、眼窩と呼べる部分がなかった。
たいていの魚類ならば眼があるはずの場所は、鱗に覆われているばかりで、何もない。
それだけでも充分薄気味悪い容姿といえるが、その真の異形は、彼らが牙をむいて輸送機に襲いかかってきたとき、さらけ出された。
大きく裂けた口の奥で、不気味な赤い光を放つ球体。
それが群れをなしてコクピットの窓いっぱいに迫ったとき、虹彩と瞳孔のようなものが見て取れた。
彼らは、牙のむこうから外界を見ていた。
異形の魚のあぎとが群れをなし、窓の外に迫ってくる。
「きゃあああっ!!」
紅子は悲鳴をあげながら、衝撃に備えてすぐそばのアームレストにしがみつき、ぎゅっと目を閉じた。
もっとも、化け物どもが窓を割って飛び込んでこようが来まいが、連中の何匹かをジェットエンジンに吸い込んでしまえば、そこで一巻の終わりなのだが。
それでも、彼女としてはそのとき、反射的にそうせずにはいられなかったのである。
――ところが。
十秒、二十秒。
いくら待っても、一向に何も起こらない。
機体が不安定に揺れていることと、ジェットエンジンの低いうなりを除けば、衝撃もないし、何も聞こえない。
恐る恐る眼を開けてみると、窓の外には信じられない光景が待っていた。
化け物たちは、コクピットに突っ込むどころか、輸送機の機体に触れてさえいなかった。
どういうわけか、こちらに近づいただけで、彼らはずたずたに切り裂かれていくのだ。
まるで、化け物たちとこの機体のあいだに、フードプロセッサー付きの、目に見えない壁でもあるかのように。
外の光景は、見ていてあまり心楽しむものではないが、それでも我が身の安全さえわかれば、人はいくらか気丈になれるものだ。
紅子は気持ちがやや落ち着き、この状況について考える余裕が自分に出てくるのを感じた。
機内の防音がしっかりしていて、外の音が聞こえてこないことも幸いした。
さもなければ、この化け物の群れを抜けるあいだじゅう、紅子はおぞましい断末魔の嵐に耐えねばならなかっただろう。
だれかが、この機体を守ってる?
あの化け物たちとこの機体とを隔てる「壁」が自然現象でないならば、それしか考えられない。
紅子は隣に座っている竜介を見た。
すると、彼は黙って片手で鷹彦のほうを示した。
紅子が相手の指示通り鷹彦を見ると、彼は彼女が自分のほうを振り向くのを、ずっと待ち受けていたらしい。
ばっちり目が合ってしまった。
「そう、俺がやってんの」
にこにこ。
さも得意そうに満面の笑みをたたえ、彼は言った――全身を青く輝かせながら。
紅子がまだ何も訊いていないというのに。
「どういう仕掛けかってーと、この機体を真空の膜で包んでるんだ。俺、半径だいたい百メートル以内なら、自分の周りの気圧を自由に変えられるから」
つまり、化け物たちをミンチ状にしているのは、急激な気圧の変化によって起こる「かまいたち」というわけだ。
出発時の機内で、鷹彦が自分たちのことを「鉄壁」と言ったのは、こういう意味だったのだろう。
そもそも、この雲の中に突っ込んだときも、彼ら兄弟はやたら落ち着いた様子だった。
それに気づいた時点で、何か策があると見抜くべきだったのだ。
が。
それならそれで、もうちょっと何か説明があってもよかったんじゃない?!
などと、紅子はつい恨みがましい気持ちになった。
鷹彦の力のことを事前に聞いていれば、悲鳴をあげたり醜態をさらさずにすんだのに。
紅子は少しだけ鷹彦を見直したけれど、そんな感情がないまぜになって、
「ふーん」
という素っ気ない返事になってしまったのだった。
「それにしても、まさかマジで力を使うことになるとは思ってなかったな〜」
紅子の冷ややかな相づちが、聞こえていたのかいなかったのか。
ようやく、輸送機が化け物だらけの雲を抜け、青空が見えたことで上機嫌に拍車がかかった鷹彦は、おしゃべりをさらに続けていた。
「ひょっとしたら奴ら、俺たちが考えてるよりも、早く力を取り戻してきてるのかも」
口調は軽いけれど、聞き流してしまうにはあまりに不穏な言葉。
紅子は思わず真剣に訊き返していた。
「それ、どういう意味?」
鷹彦は始め、彼女の表情に気圧されたようだったが、すぐに気を取り直して答えた。
「実は、俺たちの予想だと、飛行能力のある連中は、まだ覚醒してないはずだったんだ。ま、たとえ覚醒してたとしても、あの程度のザコばっかなら、全然問題ないけどね」
彼は最後の一言を、笑ってつけ加えた。
そう、確かに問題ではない――自らを守れる者たちにとっては。
だが、何も知らない、何の特殊な力もない、普通の人間にとっては、どうだろう?
そして、覚醒しているのは、本当にまだ、取るに足りない小物たちだけなのだろうか?
彼らは楽観的に過ぎた――あまりにも。
2015.09.24加筆修正
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