第十三話「獣臭」


 帰り道。どんよりと雲がたれ込め、今にも雨が降り出しそうな空を見上げて、紅子は何度目かのため息をついた。
 まるで、あたしの心みたいな空……。
 彼女にため息をつかせているのは、もちろん、藤臣のことだ。
 部室の外に誰もいないとわかったときは、心底、がっかりした。誰か来たなら、必然的に話題も変わるだろうし、何か理由を見つけて教室に(もど)ることもできるだろうと思ったのだが。
 しかし、現実は甘くなかったようだ。
 戻ってきた彼女に、案の定、藤臣は先刻の話の返事を(うなが)した。
 付き合うことについては、どうにか断ったけれど、
「僕はこれからもバンドを続けるつもりなんだけど、そのボーカルを君に頼みたいんだ。君は、自分ではどう思っているか知らないけど、とてもいい声をしてるし、センスもあると思う」
などと、真顔で言われれば、それが単に、会う口実を作るための申し出だったとしても、無下(むげ)に拒絶することは難しかった。
 紅子は、彼に対して、恋愛感情こそ皆無(かいむ)だったが、人間としては、副部長などしているだけあって、そこそこ統率力もあり、誠実で好ましい人物と思っていたのだ。
「……考えておきます」
 その場はそう言って切り抜けたが、考えれば考えるほど、頭の痛い問題だった。
 バンドの話は、まるきり嘘でもないだろう。
 しかし、承諾すれば卒業後も藤臣とは頻繁(ひんぱん)に会う機会を作ることになりかねず、それだけ、彼が春香の方を向く可能性も減ってしまう。
 やっぱ、断るしかないかぁ……。
とは思うものの、「考えておきます」と答えたときの、ほっとしたような彼の笑顔を思い出すと、頭の痛みが胸や胃にまで響くのだった。
 自宅のすぐそばまで帰ってきたとき、重くたれ込めていた雲から、ついに小雨がぱらつき始めた。
 紅子はやれやれとため息をつきながら、手近な街路樹の陰にいったん避難した。
 (かばん)から折り畳み傘を取り出し、開きかける。
 と、不意に視線を感じ、彼女は何気なくそちらを振り返った。
 夕日を遮る分厚い雲のせいで、辺りは早くも薄闇に包まれ、街灯の青白い光だけがスポットライトのように彼女の姿とその足元を照らしている。
 虫の声さえ聞こえない沈黙の中で、しかし、彼女の耳は奇妙な音を捉えていた。
 生き物が(あえ)いでいるような、せわしない息づかいの音。
 その中に時折、低く押し殺した獣のうなり声が混じる。
 生ぬるい微風にのって流れてきた、独特の異臭が鼻を突く。
 それは、生き物を飼ったことのある者なら、誰もが嗅いだことのある臭い――獣の放つ臭い、獣臭であった。
 何か、人ではないものが、すさまじい殺気を放ちながら、闇に隠れて近づいて来る。
 紅子は肌が(あわ)立つのを感じた。
 小学校低学年からずっと武術には親しんできたが、どんな相手との試合でもこんな感覚を味わったことはない。それは、人間が生命の危機に瀕して感じる、本物の恐怖だった。
 ひそかに、退路を探る。が、それは既に絶たれていた。
 闇が、ぞろり、とうごめき、街灯の薄明かりの中に殺気の主が姿を現す。
 それは、薄汚れた犬だった。
 街路樹のある背後を除いて、彼女は犬の群れに包囲されていた。
 首輪を着けているものもいれば、着けていないものもいる。大きさも、毛並みもまちまち。ただ一つだけ共通していたのは、いずれも目つきが尋常でないことだった。
 どの犬も、両目からぞっとする光を放ちながら、今にも飛びかからんばかりに頭を低くして近づいて来る。
 その唇はまくれ上がり、()きだしになった黄色い牙からは、泡の混じったよだれが(したた)っていた。
 冷たい汗が、紅子の背中を伝い落ちた。
 自分が何故こんな目に()うのかわからない。
 わからないが、犬達が彼女に尋常ならざる殺意を持っているということと、逃げ道がないということだけは確かだった。
 辺りに人影はなく、助け手は期待できそうにない。もっとも、この状況では、誰か通りかかったとしても、見て見ぬふりで逃げ出すだろうが。
 自力で何とかするしかない。
 紅子は小さく舌打ちをすると、持っていた傘を得物(えもの)代わりにかまえた。
 ざっと見渡す限り、相手の数は十数頭といったところか。一人でどうにかできない数ではない。
 ところが。
 そんな余裕のある考えは、まもなく消し飛んでしまった。
 獣たちは、()ぎ払われ、たとえ地面にたたきつけられてもすぐに起きあがり、何度でも襲いかかってきた。
 いかに手酷く負傷しようと、まるで痛みを感じている様子がない。
 傷口から血を流しながら、あるいは、折れたか(くじ)いたかしたらしい脚を引きずりながら、なおも殺意で目を爛々(らんらん)と光らせている彼らの姿には、まさに鬼気迫るものがあった。
 狂ってる……!
 紅子は産まれて初めて、死の恐怖というものを覚えた。
 肩で息をしながら、汗で滑る傘の()を握りなおしたそのとき、額の汗が流れ落ち、あろうことか、目に入ってしまった。
「つっ!」
 思わぬアクシデント。
 そしてその一瞬に生じたわずかな隙を、彼女の敵が見逃すはずはなかった。
 突然、目の前を大きな黒い影がよぎったかと思うと、紅子の手からは、武器がもぎ取られてしまっていた。
 汗が入った方の目を、反射的につむった、その死角を突かれたのだ。
 それはひときわ大柄な雑種犬で、奪い取ったぼろぼろの傘を地面におろすと、これ見よがしに後ろ脚で遠くへ蹴り飛ばした。
 獣の群れは包囲をじりじりと狭め、紅子もそれに合わせて後退した。
 やがて、後ろの木に、彼女の背中がぶつかると、次の瞬間、狂犬たちは(とき)の声のような咆吼(ほうこう)を上げながら、いっせいに(おど)りかかる。
 万事休す。
 紅子はとっさにその場にうずくまると、頭を腕でかばい、強く目を閉じた。

2009.11.7.一部改筆


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