第十二話「困惑の日」
「春香……春香」
紅子は、机上でうたた寝をしている友人の肩を、先刻から何度か揺すっていた。
が、かなり熟睡しているらしく、なかなか相手は目を覚まさない。
「ちょっと、春香ってば!」
大声を出し、強く揺さぶって、ようやく彼女はぼんやりと目を開けた。
「ん……あ……何?」
「何、じゃないよ、爆睡しちゃって」
紅子は呆れた調子で言った。
「次の授業、休講になったから、みんなが早めにお昼にしようって。ほら、学祭の準備もあるしさ」
「ああ……」
春香はとろんとした表情のまま、曖昧な返事をする。
その目は、ただ開いているだけで、何も見ていないようだ。顔色もよくない。
紅子は親友の様子がどことなくおかしいことに気付いた。
「春香?」
「な……に?」
呼ばれれば、一応は返事をし、そちらに顔を向ける。
だが、その視線は目の前の紅子を素通りして、どこかまったく別の場所を見ていた。
やっぱり、変だ……たとえ極度の睡眠不足だとしても、こんなにぼんやりしているのは。
「どうしたのよ?なんか、ヘンだよ……気分でも悪いの?」
「気分……?」
無表情な顔。抑揚のない声。
「そう……あたし、気分が良くないの……」
そう言うと、彼女はゆらりと立ち上がり、夢遊病者のように、歩き出した。
「え?ちょっと、春香?」
紅子があわててあとを追いかけようとすると、彼女はおもむろに振り返り、言った。
「保健室……行って来る」
「ついて行こうか?」
友人の申し出に、春香はかぶりを振った。
「いい……一人で、大丈夫……」
それだけ言うと、またきびすを返し、歩き出した。
春香とは遠慮したり気を遣ったりするような間柄ではない。
だから、紅子も変に気を回すようなことはしなかった。
相手が「大丈夫」というのなら、そうなのだろうと思ったし、よく見れば、表情は寝惚けたように、とろんとしているが、足元はしっかりしているようだ。
それでも、春香の様子が平生とは違いすぎていた。
奇妙な胸騒ぎが、紅子に友人のあとを追わせようとした。
しかしその足は、別の級友に呼ばれたことで止まってしまい――そうして、それきりになってしまったのだった。
紅子が級友たちと昼食を食べ終わってしばらくしても、春香は戻ってこなかった。
心配した彼女が、保健室に友人の様子を見に行ったところ、そこには生徒は誰もいなかった。
しかも、養護教諭に訊いてみたところ、
「一年の松居春香さん?さあ、来てないわねぇ」
そんな返事が返ってきた。
あまりに気分が悪くなったので、直接、家に帰ってしまったのだろうか?
そんなことを考えながら、彼女は次に春香がいそうな場所として、部室へ向かった。
扉を開けると、中には先客がいた。
藤臣である。
彼は開け放った窓の枠に腰を下ろし、紅子が入ってきたことに気付くと、ちょっとばつの悪そうな笑みを浮かべた。
その右手には火のついた煙草があって、紫煙がそこから立ちのぼっていた。
「まずいところを見つかっちゃったな」
未成年の喫煙は、法律で禁じられてはいるが、別段、珍しいことでもない。
それが校内だったとしても、同じことだ。
しかし、相手がそんな言葉を口にしたので、紅子もなんだか見てはいけないものを見てしまったような、居心地の悪い思いを味わった。
「す、すみません」
思わず謝っていた。
「すぐに出ていきますから」
見たところ、ここにも春香の姿はなかった。
それなら、もはや用はない。
ところが、きびすを返そうとした彼女を藤臣の声が引き留めた。
「待った、待った。何か用があってきたんじゃないのかい」
「いえ、友達を捜してただけなので」
「ふぅん。今、急いでる?」
紅子は一瞬、考えた。
「……いえ、特には」
「それなら、しばらくここにいてもらえないかな」
思いがけない頼み事に、彼女は心中、いぶかしがりながら、
「はぁ……」
と、曖昧に返事をした。
なんだろう。学園祭ライブのこと?
しかし、藤臣の様子は何か大事な話を始めるというふうでもない。
彼はおもむろに胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、紅子のほうに差し出した。
「吸う?」
紅子はかぶりを振った。
「いえ、あたしは……」
「そう」
藤臣は箱を戻すと、持っていた吸いかけの煙草を、傍らにあったジュースの空き缶の口でもみ消した。
「実はさっき、部長が来てたんだ」
彼は吸い殻を缶の中に落とすと、ゴミ箱に向かって投げた。
アルミ缶は部室の壁に一度ぶつかってから、狙った場所におさまった。
紅子はおうむ返しに尋ねる。
「井出先輩が?」
「うん。あとで他の部員にも報せるけど……明日、親父さんの葬式なんだと」
彼はため息をついた。
「正直、参ってるんだ……あいつとは中学からのつきあいだけど、あんなふうに落ち込んでるところなんか見たことなかったから、何て言って慰めればいいのか、わからなくてさ。僕は肉親の死なんて経験したことがないし……結局、ありきたりなことしか言ってやれなかったのを、後悔してたところ」
そう言ってから、彼はちょっと笑った。
「なぁんて……悪い、変な話をしちゃったな。情けないよな、後輩にぐちるなんて」
「あ、いえ……」
紅子はあわててかぶりを振った。
「言葉は、言葉でしかないから……ただ黙って傍にいてもらうほうがいいときもあるし。自分と一緒に悲しんでくれてる人は、態度や表情でわかるから……だから、センパイが思ってること、部長にもちゃんと伝わってると思います」
「ありがとう」
藤臣は、ふっと表情を和ませた。
「一色が来てくれて、よかった」
紅子は照れてうつむきながら、春香のことを考えていた。
保健室にも、部室にもいなかった……てことは、やっぱ、帰ったのか。
かなり、様子おかしかったし。あとで電話してみるかな。
「……で、……なんだけど……どうかな?一色?」
「は?」
上の空だった紅子は、いきなり名前を呼ばれて間の抜けた返事をした。
それから我に返って慌てる。
「あっ、その、すみません。考え事してて……何でしたっけ?」
「しょーがないなぁ。こんなこと、何度も言わせないでくれよ」
彼は苦笑すると、紅子と視線を合わさないようにしながら、言った。
「卒業してからも、ときどき、こんなふうに二人で会いたいと思うんだ。……もちろん、一色さえよければ、だけど」
その言葉が終わるか終わらないかというとき、突然、扉のほうで、何かがひっくり返ったような、ガタン、という大きな音が聞こえた。
「あたし、見てきます」
紅子はそう言うが早いか、そちらへ向かっていた。
心中ひそかに、助かった、と思いながら。
だが、外には誰もいなかった。
ただ、出入り口の脇に置かれていた防火用バケツが、ころころと転がっていた。
まるで、たった今、誰かが蹴り散らかしたばかりのように。
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