死ぬなら闘え、闘うなら生きろ!
第二章



幾分風があり珍しく清々しい朝を迎えていた。

「一同敬礼!」

木場の号令によって朝の訓練を終えた30名の兵士達は敬礼をし、そして新しい上官を見据えた。
目の前には一人の少年を囲むように数人の将校達、むさ苦しい顔を並べていた。
浮いた少年が一歩前に出る。
そしてぎくしゃくと答礼をする少年が曹長で、顔色悪く貧弱な青年であった。一際大きな瞳には覇気がない。
「二月八日付けで第一四軍教育隊より転属の命を受けた関口です。今後宜しくお願いします」
そう弱々しく挨拶する関口を木場は唖然と見つめていた。
予想以上に貧弱な上官にさすがの木場も驚きを隠せなかった。
後ろで私語が涌いた。
「そこ、私語を慎め!」
木場は慌てて後ろを見、叱咤した。彼だけなら言い、だが今は本部から他の士官達も同行している。
それでも兵士達の目は不安げにそんな木場を見た。そして小森はうっすら笑っていた。
「あの、木場軍曹、別に構わないです」
そう弱々しく話しかけられて事に対し木場の顔も情けなくなった。
まだ横暴な上官の方が増しなのかもしれない、一瞬そう思った。
それが彼の第一印象であった。

ずどーん!

遠くで砲撃の音が聞こえた。
「米軍が動き出したか?」
上層部にも緊張が走る。昨日と同じくサンレン無しの攻撃である。
通信兵が彼らの元に走り寄り小声で何かを告げる。
険しい顔付きをした上官達はテントに一時場所を移動させた。木場はその入り口止まりで、遠くから士官達のやり取りを見守っていた。
一時期仕切っていたとはいえ、前と何一つ変わらぬ立場である。
机の上に地図を広げ、新米曹長にいろいろ指を指しながらしきりに何かを言い、そして馬鹿の一つ覚えのように新米は神妙な顔付きで頷く。
木場の耳には何一つ届かなかったが、周りはザワザワしだした。
関口の耳に襟元に大尉の階級を付けた見知らぬ髭男が今度は何か耳打った。
関口は軽く敬礼をした。
また直ぐ陣の移動命令が下るであろうと、そう言葉を残して本部の人が慌ただしく去っていった。
気が付いたらテントは木場と関口の二人っきりになっていた。
再び遠くで砲弾の音がした。逆に聞こえないと落ち着かなくなるほど生活に密着している。
対称的に関口は、しきりに落ち着かないのか爪を囓っていた。
そんな学徒兵を見ながらふと、久しく思い出しもしなかった遠い故郷のことを思い出した。
確かあいつも年齢から言って、あの徴兵に引っかかっているはずである。
幼馴染みという単語は似合わない腐れ縁の男、肉親よりもまず先に思い浮かべた。
入営の激励会の時、珍しく来てくれたと想いやはり友人だったと感動していたのは束の間、奴はこう耳元で囁いた。
「お前は顔がでかいから弾に当たりやすい」
だから気を付けろとか、それに準じた言葉は後に続かなかった。
その時は憤慨したが、今思えば、そう続けたくてもテレで続けられなかったのであろうと、正の方で考えるようになった。
あいつはどんな士官になっているのであろうか?考えてみると思いのほか楽しかった。何故ならまともな人間ではないからである。
「あの…」
そう小さく言葉を掛けられて、木場は初めて自分がにやにやしながら物思いにふけっていたことに気が付いた。
本来なら軍曹といえどもも体罰覚悟の失態であった。
木場は習慣となって慌てて立ち上がり90度腰を曲げた。
だが関口までつられ立ち上がり一緒に動揺する。
「違うんです、ただ、これから何をするのか聞こうと思って…」
木場は驚き顔を上げた。
耳を澄ませばすでに砲撃の音は止み、静寂さを取り戻していた。
確かに今日はもう出撃の要請は来ないであろうだが、今後の予定など、こっちが聞きたい、そう言いたかった。
「あっ、すみません。貴方に聞くべき質問ではなかった。忘れて下さい」
木場の不振な目を怒りの目と勘違いした関口は、おろおろと前言を撤回しようとした。
だんだん敬意を表するのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
木場は再び席に着いた。
関口もそれに倣った。
「いつ軍に配属されたんだ?」
「え?」
「あまりにも慣れていない」
「一応、四月に入隊を」
「ふうん」
「あのそれが何か?」
おどおどと木場の目を覗き込んでくる。その大きな目が気に入らなかった。輝きが無く、それでいて人の挙動を一つ一つ伺っているような怯えた目が。
「だから言ったどう、軍隊生活になれていない。もっと堂々としなければこの先あんたが辛い目にあるぜ?」
「それは…」
「下っ端から馬鹿にされたら、あんたの軍隊生活終わったも同然って事を言いたいんだよ」
「僕は馬鹿にされているのでしょうか?」
「お前は馬鹿か!」
気が付いたらドンと机を叩いていた。
「そう下官の俺に敬語を使っている段階で、すでに下っ端の奴らに軽く見られるんだよ」
乱暴に椅子をけると外に出た。
テントの幕に手を掛けながら振り返ると、縋るような目つきの関口を再び睨んだ。
「もっと、堂々としろ!」
関口の大きな目がより一層大きく見開かれた
それは怯えではなく驚きの目であった。


もっと堂々と…

ふと、遠い昔言われたことを思い出した。
彼は関口に言い聞かせるように何度も何度も耳元で囁いた。
良いように躯を弄ばれ、そしてその現実に歓喜の悲鳴を上げていた彼にはその言葉はなかなか届かなかった。 だが何度も何度も囁いた。
乱暴に突き上げ、そして優しく口づけを交わし、囁いた。
「もっと、堂々と、胸を張って。君は何一つ恥じることはない」
ただ歓喜の声を上げるだけであった。
それにも関わらず、今こうやって思い出す。
ふと甘い気持ちになり笑みがこぼれる。
初めて感じた幸せの時であった。
「堂々としなければ」
関口は誰も居なくなったテントを初めて見回した。剥き出しの地面に机が一つ、そして椅子が数個並んでいる。
この小隊の本営でありここで参謀する場そして隊長が寝る場でもある。
片隅に申し訳程度に置かれた木のベットがある。
「関口曹長殿、本営から荷物が届きました」
そうテントの外から声がかかった。
「あぁ、中に入って下さい」
そう言いながら自ら立つと、入り口に取りに行った。
入り口には思ったより若い兵士が敬礼していた。
「何処に置きましょうか?」
そう言いながらテントの中を覗き込んでいる。
物珍しいのか、かなり無遠慮に物色する。不快に思いながらも
「ならベットの脇にでも置いて下さい」
そう頼んでいた。
「はい!」
そう答えると大きな鞄を軽々運び込んだ。
「君、名前は?」
「森田二等兵です!」
「森田くん有り難う、下がって良いよ」
「はい!」
再び敬礼するとそのまま出ていった。
まずは人の名前をきちんと覚えること。
そう言われた。
そして人の目を見て話しなさい。下から見るのでなく正面切って見るんだ。
そう指導された。
「中禅寺…」
そう呟くと自分の躯を掻き出した。
中禅寺、自分の全てを支配する愛しい人。
入営すべき、自分の実家に帰る為の電車に乗り込むとき、彼は自分に微笑み、そして雑踏にも関わらずそっと頬にキスをしてきた。
慌てて左右を忙しなく見る関口に、
「僕は待っている」
滅多に笑わない彼は微笑んだ。
そっとその頬に手を当てた。
何度この頬を上官に殴られたであろうか?だが、そこに手を当てると自然と心が安らいだ。
教育隊時代も自分のような内向的な性格は、格好の虐めの対象になることは百も承知していた。
事実、数回に渡り謂れのない難癖を付けられ古兵から罰を貰ったこともあった。それ以上に酷い目も何度と無くあった。
だが自分には彼が待っている、そう思うと辛いことも辛く感じなくなった。
無論、それだけではなく、同じ内務班の同窓の兵士が無償で心の支えになってくれた。
しかも入営延期の筈の理系が手違いによって入営してきたとの噂は、班以外に広まり、教官達も同情の目で自分を見てくれた。
古兵が処罰された。
だが、此処には仲間も自分の身に降りかかった不運も通用しない。
信じられるのは自分一人だけなのだ。
孤独であった。
「中禅寺…君に会いたい」

「誰だその中禅寺とは?」

「!」
あまりの至近距離からの言葉に心臓が止まる思いをした。
木場が後ろに立っていた。
「いつ…いつ…」
「あぁ?いつ入ってきたかって?」
流石に睨み付けながら頷いた。いくら何でも勝手に入ってくるとは無礼ではないか、怒りがこみ上げる。
「何度呼んでも返事がないから勝手に入れさせて貰ったよ」
「え?」
「深刻な顔して宙を見ているもんだからちょっと心配になって」
「え?」
「飯どうする?」
「飯?」
ふと僅かに開かれている入り口からは夕陽色の光が射し込んでいる。
外から活気に溢れた声が聞こえてくる。
「此処に運ぶか、みんなと一緒に食べるか、二者択一だ。さっさと決めろ」
「あっあの…前の人は?」
「は?あぁ、此処で食っていたな」
ホッと胸をなで下ろした。
「なら私も此処で」
「ふぅん」
意味深な頷きを木場は関口に返した。
「何か?」
「別に、それじゃ誰かに運ばせるから。せいぜいその恋人に手紙でも書くんだな」
関口の顔が真っ赤に染まった。
「違う、恋人なんかじゃ」
「良い良い!内緒にして置いてやるよ。でもここいらは戦地に近いせいもあって、なかなか女も味わえずに苛立って居るんだ。周りに悟られないようにな」

無骨そうな手をひらひらさせながら、木場は関口の言葉に耳を貸さずにそのまま去っていった。
19980928