本作は以前書かれたWHITE ALBUMのSS(下記の二作)と世界観を共有しています。
 できれば、そちらを先にお読みください.

 WHILE THE GUITAR GENTLY WEEPS
 渡るべきたくさんの河













 上着のポケットからキーリングを取り出して、俺はドアの鍵を開ける。目の前にうっすらとかかる靄を振り払うように、何度か頭を振る。玄関で靴を脱ぎ、ふらつく足でそれでも間違いなく目的地にたどり着く。低いモーター音を立てている冷蔵庫のドアを開く。
 真っ暗なキッチンで庫内灯に照らされて浮かび上がった冷蔵庫の中は、きちんと整理されていた。
 俺は唐突に、冷蔵庫の中身のすべてを床にぶちまけてしまいたいような気持ちになる。
 床の上に、ミルクやドレッシングやビールや卵、その他様々なものが描いてくれるだろう無秩序な絵画を思い浮かべて、声をあげて笑い出しそうになる。
 もう一度頭を振る。ヴィジョンを追い払う。頭の片隅に、疼痛を感じる。
 少しだけ迷って、一番手前に置かれた缶ビールを手に取る。プルトップを引く。縁に口をつけ、よく冷えた液体を喉に流し込む。
 味なんて感じなかった。ただ、その冷たさが俺の頭痛を和らげてくれるような気がした。
 もちろん、そんな気がしただけだ。



























マンハッタンブリッジに佇んで


1.


「で、久々に緒方さん自らのプロデュースってことで評判の、ミカコちゃんの新曲ですけど……」
「ところで君は、才能が溶けてゆく音を聞いたことがあるかい?」
「はあ?」
 発した言葉の形に口を開いたままで、インタヴュアが困惑の視線を俺に向けてくる。
 俺は薄く笑って、椅子から立ちあがる。
 問い返すこともできずに、俺の行動をトレースするようにインタヴュアも席を立ち、決まりきった挨拶の言葉と、中身のない笑顔を俺に向ける。俺は軽く手を挙げて彼に応え、彼を置き去りにしたまま、部屋を出た。

「英二さん」廊下で、ダークスーツを着た男に呼び止められる。
「ん?」
「例の新人、ミカコの夏キャンなんですけど」そう言って彼は、手に持った企画書を示した。俺は、さほど厚くないそれを受け取って、ざっと眼を通す。
 新しいものなど何もない。同じコードに違うメロディーを乗せただけ。同じオブジェを違う色で塗っただけ。それでも違う色を塗るだけ良心的ともいえる。この世界では。
 俺は、企画書を彼の手に戻して、無言で頷いた。
「じゃあ、この線で進めますので」彼が、きびきびとした口調で言う。『有能』というラベルを作ってその額に貼ってやりたいくらいだな、と俺は思う。
 彼が軽く会釈をして、気持ちのいい靴音をたてながら立ち去る。俺は迷いなく自らの役割をこなしている彼の背中をぼんやりと見送る。
 くだらないシステムの中で割り振られた、くだらないサブ・システム。そこには才能なんてものは必要ない。ただルーティンをこなせばいいだけ。
 わかっているさ、おそらく正しいのは君の方だ。俺は薄い笑いを口元に浮かべて、自室のドアを開いた。




 都心に建つビルの最上階のオフィス。大きなガラス窓で囲まれた水槽のような部屋。分厚いマボガニー材の机。革張りの柔らかなソファ。
 俺はソファに身を投げ出すと、軽く目を閉じた。眼鏡を外し、閉じた目を瞼の上から指で押さえる。たくさんの幾何学模様が、暗闇に描かれる。
 部屋に入ってきたときに感じた違和感をふと思い出して、体を起こす。
 その原因は一目でわかった。
 机の上に大きな花束と、花束とは対称的な愛想のない薄いブルーの封筒が置かれていた。
 封筒を手に取る。堅い手触り。その重さと大きさからするとCDだろうか。封筒を机に戻そうとした拍子に、一枚のカードが落ちる。俺はそれを拾って、見るともなく眺める。
 白い部屋。風に揺れるカーテン。緑のソファ。窓辺に置かれたリッケンバッカーの12弦。
 派手なギターだな……。俺はそんなことを考えながら、その考えのさらに下層で何か引っかかるものがあることを感じていた。
 少しの間、目を閉じて、それについて考える。しかし、それは容易には引き揚げられない種類のもののようだった。
 俺はあきらめて目を開き、ひっくり返してカードの文面を見る。最近耳にすることが多くなった新進のレーベル名の下に簡単な文面があった。


 
緒方理奈 「Intimacy」リリースにあたって

























 ビールの冷えた缶を持ったまま、俺は考えていた。いや、本当はバーのカウンタでも、自宅に向かうタクシーの中でも、俺は、ずっとそれだけを考え続けていた。
 一度は机の上に放り出して、それでもどうしても気になって、ジャケットのポケットにつっ込んで持ち帰った、一枚のCDのことを。
 簡単なことだ。パッケージをはがす。ふたを開ける。ステレオのスイッチを入れる。CDをセットする。スタートボタンに触れる。
 そうすれば、音楽は始まるはずだ、自動的に。けれど、何かが俺にそれをさせまいとしていた。その何かの言うままに、俺は数軒のバーのカウンターを巡り、数リットルのアルコールを、流し込んだ。そして、ここにたどり着いた。この忌々しい冷蔵庫の前に。


 パチンという音とともに、キッチンが白い光で満たされた。俺は突然の光の奔流に目を細めた。
「英二さん」柔らかい声。ようやく明るさに慣れてきた俺の目が、パジャマ姿の由綺をぼんやりと捉える。大きなブルーの格子柄のパジャマを着たその姿は、実際の年齢よりもずいぶん幼く見えた。
 何に驚いたのか、由綺は俺の顔を大きく見開いた目で真っ直ぐに見つめていた。
 俺は無意識に右手で自分の頬に触れる。ざらっとした、無精ひげの感触。俺はそんなにひどい顔をしているのだろうか?
「おかえりなさい」すっと目を逸らして、由綺が言う。つぶやくように。
「ああ」俺はそれだけ言うと、まだ半分以上残ったビールの缶をテーブルの上に置いて、由綺の横を通ってキッチンを出る。
 横を通りすぎる瞬間に、由綺が何か言おうとした。けれど、彼女は途中でそれを諦めて、中途半端な形で開かれたままの口許で俺を見送った。俺は一歩行き過ぎて、立ち止まった。
「なあ、由綺」
 彼女の視線を背中で感じる。真夜中を遠く過ぎた部屋に、居心地の悪い静寂だけが満ちている。何だって、深夜の蛍光灯っていうのは、こんなに場違いなんだろうな、俺はそんなことをぼんやりと考える。
「なに?」
 たっぷりの沈黙の後で、俺を促すように由綺が言う。
 俺は何を言おうと思ったのだろうか。わかっていた、ただ名前を呼んだだけだということは。
 壁に掛けられたアンティークの時計が耳障りな音をたてていた。どこか遠くからバイクの音が聞こえた。俺はポケットのCDケースに触れた。
 ひとつだけ、伝えるべきことがあったことに気づく。
「……おやすみ」








2.



 次の日、二日酔いで痛む頭を抱えて、なんとか午前中のミーティングを乗り切り、自室に生還した俺に、困惑した顔で秘書が言った。
「受付にお客様がいらっしゃってます」
「お客様?アポ入ってたか?」
「いえ、アポイントメントはないんですが……」
「何かワケありか?」ズキンと頭が痛んだ。
 少し迷ったような間のあとに、彼女は言った。
「昔の仲間だ、すぐに取り次げと仰ってるそうで」
「昔の仲間?」
「はい。昔の仲間にも会えないほど、腐っちまったのかと……」
「腐っちまった?」
「あ、失礼しました」しまったというように、手のひらを口に当てる。人差し指のリングが、きらりと光った。
「で、誰だ。名前は?」
「木暮様と仰ってますが」
「会わない」考えもしないうちに、口が動いていた。
「はい?」
「会わない。帰らせろ。と言っておいてくれ」
 秘書が俺の口調に驚いたような顔で頷くと、すぐに手元の受話器を取った。俺は受付と話をする彼女の声を聞きながら、奥の部屋の扉を開けた。




















 ノイズ混じりのスティーリー・ダンで目が覚めた。部屋は暗かった。冷たい風を感じて、俺は毛布を引っ張り上げた。気がつくと、窓のそばに彼女の姿があった。俺は、ベッドサイドに置いた眼鏡を探した。彼女の姿を見るために。
 窓辺に置いた椅子に座り、革のジャケットを着たままの彼女が、じっと外を見ていた。
 遅い秋の夜気に、彼女の吐息が白く見えていた。遠くでサイレンの音が聞こえた。それは、聞き慣れた音階とは違ったけれど、やはりどことなく気持ちを落ち着かなくさせた。
『真理子』と俺は呼んだ。小さく音を絞られたラジオからは、曲を紹介するD.Jの声が途切れ途切れに聞こえた。
 真理子は俺の呼びかけに答えなかった。
 外を見ていた。夜の街を見ていた。見ているようにみえた。
 本当は彼女の目に何が映っていたのか、俺にはわからなかった。








 開け放した窓から、街の喧騒が聞こえていた。俺は、射し込む陽光に少し痛む頭を抱えて、ベッドに横たわっていた。タオルケットを引き上げ、頭から被る。光が遮られ、やわらかいコットンの感触とそこに残る真理子の匂いが、俺の頭痛を和らげてくれる。
 クラクションの音が聞こえた。トラックの地響き。ストリートにたむろする黒人たちが鳴らすレゲエ・ミュージック。警官のホイッスル。そして、俺を包む彼女の匂い。
 唐突に昨日の夜の彼女の姿が甦る。俺はタオルケットから顔を出し、彼女を探す。
 飾り気のない部屋。ベッドの向かい側のグリーンのソファ。風に揺れるカーテン。
 リビングに置かれた二人がけのテーブル。窓際に置かれたままの椅子。その背にかかった、茶色い革のジャケット。テーブルの上のコーヒーカップと、ビールの空きビン。
 ベッドの上に半身を起こし、ゆっくりと部屋の中を見回す。彼女の姿はない。
 俺はゆっくりと立ち上がり、窓へと向かう。近づくにつれ、大きくなる喧騒。車の音。人々のざわめき。そして、切り取られた視界一杯に広がる、大きな橋の姿。








「英二さん」俺は、その声で目を覚ました。俺の名前を呼んだ部下が、助手席から身を乗り出したままで、車のフロントウィンドウ越しの前方を見つめていた。
 ここは東京か。俺は、ぼんやりと考えていた。いくつかのテレビ局を回った帰り道、車の後ろのシートでいつのまにか眠り込んでいたらしかった。無意識にシートに手を伸ばし、タオルケットを探した。そして、そんなものは、ありはしないことに気づいて、その手を自分の頬にあてた。妙につるりとした、非現実的な手触りがした。
「何の人だかりだ?」助手席の男が、運転している男に小さな声で話しかけた。視線は、さっきから前に向けられたままだ。
 俺はスモークが貼られたサイドのウィンドウ越しに、外をうかがった。どうやら、事務所のすぐ近くまで戻ってきているようだった。
「どうした?」
「うちの事務所の入り口に、人だかりができてるみたいなんです」助手席の男が俺を振り返り、言った。
「出待ちか?」
 稀にではあるけれど、事務所に所属するタレントを待って、人が集まることがあった。
「出待ち、っていう雰囲気じゃないですね」助手席の男が、前を見たままで言った。
 俺は、外の様子を確認するために、視界を妨げるスモークのウィンドウを下ろした。最初に耳に飛び込んできたのはギターの音だった。どこかで聴いたことのある、ブルースのフレーズ。音の方向に視線を向けた。それは、人だかりの向こう側から聞こえてきた。渋滞した道路を、車がゆっくりと事務所のビルに近づく。人だかりの中で、ギターをかき鳴らしている長身の男の、黒い革のジャケットを着た後ろ姿が見えた。
 その背中を見て、俺はすぐに悟った。遅すぎるくらいだった。もっと早く、秘書が奴の来訪を告げた時点で気がつくべきだったのだ。
「ビレッジのつもりか」そんな言葉がこぼれた。
 俺は、ウィンドウを上げ、シートに背をあずけた。眼鏡を取り、右手で目を押さえた。
「どうかしましたか?」ルームミラー越しに運転席の男が言った。
「いや、なんでもない」俺は目を押さえたままで答えた。
「俺は、ここで降りる。次の信号で停めてくれ」俺の言葉に少しの間を置いて、彼は、はい、と答えた。
 エアコンの効いた車に乗っていたせいだろうか、外の空気がひどく湿ったものに感じられた。俺は、事務所のビルの前の人だかりにまっすぐに歩いていった。何人かが俺の顔に気づいて、驚いたような顔をした。ギターの音が大きくなった。"マニュッシュボーイ"。よりによって、なぜ、ミシシッピブルースなんて演ってるんだ。俺は、心の中で思いながら、ギターの男の肩に手をかけた。
「人の事務所の前で何やってる」
 ギターを弾く手を止めずに、木暮が振り返った。その表情に驚きはなかった。長い時間を一緒に過ごしていたあの頃と、変わらない様子。昨日別れて、今日会った相手に見せるような、気負いのない表情。長く伸ばした髪を、払うように一度頭を振り、俺に背を向けてギターを掻き鳴らす。周囲に集まった人だかりの、あからさまな好奇の視線が俺たちに集まる。
 激しいカッティング。「英二、歌えるか?」と俺を振り返り、木暮がにやりと笑う。俺は木暮の腕を掴むと、まだ曲の途中だ、という文句に耳を貸さずに、事務所のビルへと入った。エントランスの受付には、俺を見て慌てて部屋に戻ろうとしている、秘書の姿があった。俺は、ため息をついて木暮を見た。木暮は肩にギターをかけたままで、誰かに向かって 左手の親指を立てていた。その視線を追うと、エレベーターに乗り込もうとしている俺の秘書が、同じように左手の親指を立てているのが見えた。俺はため息をついた。もう一度木暮を見た。喉が渇いたな、と木暮は言った。






















「ブルックリンの結構やばいストリートを昼間歩いてたんだ」
「くたびれたギターを、もっとくたびれたこの両手で抱えて」
 木暮はそう言うと、口許でにやりと笑って俺を見た。俺は、何の感情も込めない視線でその顔を見返した。こいつには、わだかまりというものはないのだろうか、そんなことを考えながら。木暮は俺の視線を気にする様子もなく、話を続けた。
「サキソフォンが聴こえた。どこかで聴いたことのある音の感じがした」
 そういうのってわかるだろ、と言って木暮がグラスの中のスコッチを飲み干した。
 俺は、目でバーテンダーに合図した。彼は折り目の正しい動きで、俺たちの前に琥珀色の液体が入ったふたつのグラスを置くと、音も無く元の立ち位置に戻った。
 俺はバーテンダーの無駄のない動きを見ながら、木暮の言葉を反芻していた。
『そういうのってわかるだろ?』
 わからなかった。今の俺には、木暮が頭の中で聞いている音を想像することができなかった。
「音をたどって行くと、小汚いダイナーに行き当った。ドアは開け放たれていた。中からサキソフォンとギターと女の歌声が聴こえた」
 木暮は、チェイサーで口を湿らせると、一息でダブルのスコッチの半分ほどを喉に流し込んだ。そして、その熱さを味わうように、軽く目を閉じた。
 傾けた顔に間接照明が当たって、不思議な陰影を作り出していた。陰影のせいで、その表情は造りモノめいて見えた。それは陰影をつけることで無理やり奥行きがあるように見せようとして、無残に失敗してしまった絵画のようだった。目を閉じたままで、木暮が口を開いた。
「歌はよく聴き取れなかった。何語で歌ってるのかさえ、わからなかった。それでも俺はストリートの真ん中に突っ立って、そのセッションを聴いていた。サキソフォンの音だけがはっきりと聴こえた。それは、何かを慈しむような音だった。どれくらいの間、そこに立っていたんだろう。気がついたらサキソフォンの音も途切れていた」
 木暮の頭の中ではその音が鳴っているのだろうか、目を閉じたままの彼の顔を見てぼんやりとそう思った。
『そういうのってわかるだろ?』
 木暮の言葉が頭の中で繰り返される。今の俺にはわからない。あの頃の俺ならわかったのだろうか。
「CDだかテープだかラジオだか知らないが、それから流れる曲に合わせて誰かがサキソフォンを吹いてたんだ」
 木暮が目を開いて、俺の視線を真っ直ぐに捉えて言った。まるで、俺が彼のことを見ているのを知っていたかのように。
「俺は音が途切れてからも、しばらくの間そこに突っ立っていた。そして次に歩き出したときには、あの街を出ることを決めていた」

 薄暗い店内は、若い客で混み合い始めていた。
 喉が渇いたと言って、会社のロビーから動かない木暮を、俺は仕方なく、ビルの裏手にあるこのバーに連れてきた。 木暮は、店の調度とカウンターの向こう側に並んだ酒瓶を見て、小さく口笛を吹いた。そして、迷うことなくスコッチのダブルとエールをオーダーすると、スツールに座って、俺の顔をじっと見た。俺はなんだかバカらしくなって、木暮の横に座った。そして、木暮と同じものを顔馴染みのバーテンダーにオーダーした。

 女の二人連れが俺の顔を見て、何かを囁き合っていた。あるいは、それは俺の妄想に過ぎないのかもしれない。最早、俺の顔なんてめずらしくも無いはずだったから。
 小さな音でレゲエ・ミュージックが流れていた。昔、流行ったラブ・ソングの焼き直し。滑らかなメロディーラインに媚びているかのように遠慮がちなレゲエのビートを聴いたら、ボブ・マーリィは何と言うだろうか。ピーター・トッシュは何と言うだろうか。
 ただ、薄く笑って、そういう時代だと受け容れるのだろうか。いや、どんなに浪費され、再生産されても、誰かがそれを信じているのならば。そして、スピリッツが死なないのならば……。俺は脈略なく浮かぶ自分らしくもない考えに小さく笑うと、それを振り払うようにグラスのスコッチを飲み干した。
 俺がグラスを置くのをじっと見ていた木暮が口を開いた。
 その音だけどな、と木暮は言った。
「俺はお前の音かと思ったぞ」


 それからしばらくの間、俺たちは黙って酒を飲んだ。バーテンダーは、彼の定位置と俺たちの前とを五回往復した。
 俺はずっと考えていた。俺には、木暮が聞いた『俺の音』を想像することができなかった。
 もちろん、それ自体は特別なことではない。誰だって、他人の考えをそのままに受け取ることなんてできないし、それは音楽に限ったことでもない。そもそもすべての伝達は、誤謬なしには成り立たないのだから。俺の音を木暮が聞いた瞬間に、それは木暮の音になる。どうしたって、俺の音を俺の音のままに他人に伝えることなんてできないのだ。他人が思う俺の音を、俺がそのままに受け取れるはずがないのだ。
 それはあの頃から、俺の持論だったし、それが原因で俺たちはいつも言い合いをした。
『お前は悲観的すぎる』木暮はいつも言った。
『人類がみなお前くらいオプティミストだったら、1万年前に滅んでるさ』俺は応えた。
 ときには殴りあいにさえ発展することもあった俺たちの議論は、けれどいつも真理子のひと言で終わりを迎えた。
『それでも私はこの音が好きよ。私たちで作る音が好き。それを歌う時間が好き。それ以上に何を望むっていうの?』
 いつのまにか例の女の二人連れが、俺の横に来て何か言っていた。けれど、俺がその言葉に耳を貸さずにじっと顔を見つめていると、意志の欠片も感じとれない曖昧な笑みを浮べて、俺たちの前を去った。なるほどスィート・レゲエにふさわしい人々はいるのだな、と彼女たちの細い腰を見ながら俺は考えた。彼女たちには、それだけですべてに代えられるようなものがあるのだろうか。どんなことがあっても譲れない痛切な何か、そんなものを持っているだろうか。
 おそらく持っていないだろう。今の俺と同じように。
 そして、自分がそういった人々に消費されながら、ここにたどり着いたことに俺は今さらのように気がついた。

「なあ、英二」と木暮が言った。かなりの量の酒が入った後でも、その口調に変わりはなかった。こいつには今でも、この砂糖菓子みたいな音楽は似合いそうもないな、と思いながら俺は木暮を見た。
「もう一度店に戻ったんだ」
「え?」
「気になって、俺は店に戻ったんだ。あの頃のお前の音。あの頃の俺たちの音が、どうして今頃ブルックリンなんかで聴こえてきたのか、それが知りたくなって」
 木暮が一度言葉を切った。
「もしかしたら、そこであいつが歌っているかもしれない。そんなバカげたことを考えた。バカげてるのはわかっていた。あいつは、真理子は俺たちから去っていったんだから。歌うことを止めちまったんだから」
俺は黙って手元のグラスを見ていた。氷が融けて、ゆっくりと琥珀と混ざり合うのを、ただ見ていた。微かな風が吹いた。吹いたような気がした。ギターを弾きたい。なぜか、そんなことを思った。
『私はこの音が好きよ』と真理子が言った。


「開店前の店には若い黒人がいた。カウンターに座って、サキソフォンの手入れをしていた。俺は、吹いていた曲のことを訊ねた。そいつは、一枚のCDを手渡してくれた。女がギターを抱えてるジャケットだった。アルバムの名前は……」
 そこまで言って、木暮が言葉を切った。そして、グラスに残っていたスコッチを飲み干し、カタンという気持ちのいい音をたててグラスをカウンターに置くと、席を立った。

「いいんだよな、帰国祝いってことで」
 足元のギターケースを左手で持ち上げながら、木暮が言った。
 俺は黙ったまま頷いた。それを確めると、木暮は俺に背を向けて、店の出口に向かった。
「なあ、英二」
 俺は背中でその言葉を聞いた。
「今ならどんなフレーズでも弾ける気がするぜ」
 木暮を見た。左手のギターを軽くかがけて、笑みを浮かべていた。
 俺は何も言わずに、右手のグラスを揺らした。グラスの中の氷が乾いた音で鳴った。


























 リビングの淡い灯りを映す琥珀色の液体を、俺はじっと見ていた。
 木暮と入ったあのバーから数えて、一体何杯目になるだろう。数えてみようとして、すぐにその作業を諦めた。重ねたグラスの数に意味はない。意味があるのは重ねた理由だ。
 そんな事を言って騒ぎまわっていた昔を、ふと思い出す。
 いくらアルコールを注いでも、今日の俺の神経は安直にそれを受け容れようとはしなかった。飲む毎に、グラスを重ねる毎に、逆に頭の中がクリアになっていった。
 久しぶりに灯を入れられたリビングのステレオ・セットは、俺がつけたヘッドフォンにうれしそうに音楽を送りつづけていた。
 そこには確かに世界があった。あっちに行ったり、こっちに行ったり、ときにはぐるりと回って、結局、出発地点から一歩くらいしか進んでいなかったりしていたけれど、その世界の担い手の意志は確かに感じられた。
 俺は、再び最初の曲を奏で始めたステレオのインディケータを見ながら、ぼんやりと思っていた。
 俺がもう少し若くて、これを歌っている女が俺の妹でなかったとしたなら、確実にこの音に囚われていただろうなと。そして、その理由を知りたくて、彼女のことを知ろうと躍起になったに違いないだろう。その先には何があっただろう?焦がれて、灼けつくような気持ちを抱えて、彼女の跡を追いつづけただろうか?どこまでも追いかけて、追いつくことができただろうか?
 激しいビートの向こう側には、流れるメロディーの奥底には、たくさんの面影が見えた。
 俺があいつに教えたもの、俺があいつに教えた憶えのないもの。そして、俺があいつに教えることのできなかったもの。
 手にしたCDのジャケットをぼんやりと眺めた。そして、俺は最初にこのジャケットを見たときに引っかかったものの正体に、ようやく気がついた。




『この世界にはたくさんの歌があるよね。でも、同じ歌はひとつもない。同じ歌でも、別の人がうたえば、それは別の歌になる。ううん、同じ人がうたっても、うたうたびに、歌は姿を変える。それってとても素敵なことだと私は思う』
 真理子の声が甦った。革のジャケットを着たまま、灯りも点けずに窓の外を見ていた横顔。俺のシャツの袖を掴んで、声をたてずに泣いていた姿が浮かんだ。地下のスタジオへの階段を駆け下りる後ろ姿。その隣には、ギターを肩に掛けた木暮の背中。その背中が、今日見た、バーを出て行くときの木暮の後ろ姿と重なった。それは、遠い時間の向こう側で何度も見た後ろ姿だった。
 ずっと、昔。俺と木暮が一緒にいた頃に。真理子と俺と木暮が、同じひとつの音楽を奏でていた頃に。


 俺たちは、そのバンドで一枚だけアルバムを出した。ソーホーのインデペンデント・レーベルから発売されたそのアルバムは、ほとんど売れなかった。
ジャケットには、彼女が暮らしていたアパートメントで撮った写真を使った。初夏の陽射し、7月の風に揺れる白いカーテン、そして夏の草原のような緑色のソファ。
 あの部屋からは橋が見えた。マンハッタンとブルックリンを分かつイーストリバーにかかる橋。朝も夜も、そしてもちろん昼間も、車通りの絶えることのない橋は、私がこの世界と確かにコネクトしてることを証明してくれる。どんなときでも、ひとりきりで部屋にいても、世界が確かに在ることを感じさせてくれる。だから私はこの橋が好き、と真理子が口にするのを、俺は何度も聞いた。あの部屋で。
 最後の瞬間の彼女が浮かんだ。俺を責めることをせずに、ただ事実として語られた別れ。いや、それは真理子の決意だった。
『私には私の言葉に応えてくれる人が必要なの』
 俺に投げられたその言葉を、そのままに伝えてバンドの終結を告げたときに、木暮に殴られた頬の痛みさえリアルに甦った。もう10年近く昔のことだというのに。
『英二はきっとやさしいんだね』
 真理子は言った。
『やさしくて、やさしすぎて、だから自分が誰かを傷つけることが嫌なんだね』
『……だからあなたは私に、甘えさせてさえくれないんだね』








 理奈が、俺たちのレコードのジャケットと良く似た写真を使ったことには意味があるのだろうか?
 共時性なんて言葉が、頭の中にふわりと浮かんだ。俺は、そんな感傷にも似た考えを、すぐに振り払った。
「どうしたの?」
 ヘッドフォン越しに声が聞こえた。それは、記憶の中の真理子の声にひどく似ていた。俺は驚いて声の主を見た。夏物のコットンのパジャマを着た由綺が、隣に膝を抱えて座り、俺の顔を覗き込むようにして笑っていた。
 彼女が隣に来たのに、俺は全く気がつかなかった。
「何がだ?」
 俺は、驚きを気取られないように、意識してゆっくりと言った。
 由綺が口を開いた。理奈のシャウトに遮られて声が聞こえなかった。
 その様子を見て、由綺が右手を伸ばした。
「笑ってたから。英二さん」由綺がヘッドフォンの右のパッドをずらして、俺の耳に直接言葉を放り入れるように言った。
「俺がか?」自分が笑顔に見える表情をしていたということに少なからず驚いて、俺はすぐに問い返した。由綺はなぜかうれしそうに笑って、大きく頷いた。髪の毛が揺れた。シャンプーの匂いがした。
 俺は急に酔いを感じた。理奈の歌がつづいていた。目の前に、あの窓から見た橋が浮かんだ。行き交う車のエンジン音とクラクションの音がすぐ間近に聞こえて、そして消えた。

















3.



「めずらしいね、英二さんが朝ご飯食べたいなんて」
 キッチンから顔を覗かせて由綺が言う。無地のネイビーブルーのTシャツに、色の落ちたカットオフ・ジーンズ。どんな格好をしても、年齢よりは幼く見える容姿。
「そうか?俺だって腹ぐらい空くさ」面倒臭げに答えた俺に、何がうれしいのか、顔一杯に笑みを湛えて、由綺がキッチンに消える。
 何かを炒める音と香ばしい匂い。コーヒーの香りとオーブンのタイマーのカウントダウン。
 朝、と言うには少し遅い時間。けれど、窓から射し込む光は、まだ新鮮だった。
「英二さん」向かい合わせにテーブルに座って、由綺が笑う。
「うん?」
「何でもない」また笑う。
「何でもないことはないだろ?」
「そうだね。何でもないことはないね」
 そう答えて、ひときわ大きな笑顔を俺に向ける。
「うれしかったから」
「うれしかった?」
「うん」
「何が?」
 俺の問いかけに、そんなこともわからないのという風な、小さなため息を漏らす。俺は、由綺ではない他の誰かが、同じような表情を俺に向けたことを思い出す。
「さぁ、朝ご飯、朝ご飯」由綺が歌うように言う。
「あ、ああ」
 問いかけへの明確な答えを得られないまま、由綺に促されて、朝食を口に運びはじめる。


 朝食を終えた俺は、リビングのソファに横になって、ステレオのスウィッチを入れた。
 昨日セットしたままの理奈のCDが流れ始める。
 窓からの、すでに夏を思わせる陽射しが眩しくて、眼鏡をテーブルに置き、右腕で眼を覆う。カチャカチャという小気味いい音がキッチンから聞こえる。由綺が歌を口ずさみながら、朝ご飯に使った食器を洗っている。ついさっきまでそこにあった朝食と、由綺が使う水道の水の匂いが混ざりあって、遅い午前中特有の無責任で楽観的な雰囲気を増長していた。

『私は自分でやりたいの。お掃除も、お料理も、お洗濯も。それが、二人で暮らすということの、私にとっての意味だから』

 結婚するとき、歌うことをつづけないのかと訊ねた俺に、強い口調で答えた由綺の表情を不意に思い出す。強く覆いすぎた目蓋の裏に、いろいろな模様が浮かんでくる。重なり合う三角形や、いくつもの光点が現れては、消えていく。
 由綺の口ずさむメロディが耳に届く。それを追うように、スピーカーから同じメロディーが流れ出す。
「由綺」俺は、ソファから体を起こして、キッチンの彼女を呼ぶ。俺の声が聞こえないのか、カチャカチャという音と由綺のメロディーは続いている。
「由綺!」俺は大きな声で、もう一度由綺を呼ぶ。彼女が振り返って、キッチンとリビングを区切るように作られたカウンターから顔をのぞかせる。
「どうしたの?大きな声」驚いた表情で、彼女が言う。手には泡だらけのスポンジと、洗いかけの白いプレート。
「メロディー」
「え?」
「その曲」
 何かを納得したような表情で、由綺が頷く。そして言う。
「いい曲だよね」
「聴いたのか?理奈のアルバム」
「うん」
 由綺が、再びキッチンに向かう。今度は、ステレオからのメロディーにあわせて、ハミングをする。
「送ってきてくれたんだよ。わたしにも」
 皿を濯ぐ音。ステレオの曲。由綺の語尾は、再びメロディーに変わって。
「聴いたのか?」俺の再度の問いかけに、背中を向けたままで頷いて答える。
 サビをリフレインして、曲が終わる。きゅっという蛇口を閉める音。手を拭いている気配。
 静かな足音が近づいて、由綺がソファに横になっている俺の目の前の床に、正座をするようにして腰をおろす。
「うん、聴いたよ。送ってきてくれたのは、なんかもったいなくて開けられなかったから、その日のうちに買いに行って聴いた」
 テーブルの上のリモコンをステレオに向けて、この曲好き、とひとり言のようにつぶやいて、リプレイさせる。
「俺の妻ともあろうものが、うち以外のプロダクションの売上に貢献したわけだな」
「ごめんなさい」本当に申し訳なさそうに、由綺が言う。
 俺は、笑いながら彼女の頭に手を置く。髪の毛の、つやのある滑らかさ。ひやりとした感触。
「社長としての俺のセリフは今の通りだけど……」
 由綺が曲にあわせて歌いながら、俺を見る。
「うちのできの悪い妹のCDを買ってくれてありがとう」
 俺は、わざと真剣な声音で言う。
「……兄としては、そんなところかな」
「理奈ちゃんは、できの悪い妹じゃないと思うけどな」
 すぐにそう応えて、由綺が笑う。
 由綺が寄りかかるようにして、そっと体を俺に預ける。歌いつづけている。それは、窓越しの光と相まって、残りわずかな午前中の時間と相まって、俺をやわらかに包みこんでゆく。
「ということはだ」
 俺は由綺の髪をゆっくりと撫でながら、話しかける。うん?という表情を彼女が俺に向ける。
「俺に贈られてきた分と、由綺に贈られてきた分と、由綺が買った分」
 俺は右手の指を折って数える。
「うちには今三枚のIntimacyがあるってことだな」
「そうだね」
 由綺が面白そうに、大きく頷いてみせる。
「熱狂的、緒方理奈フリークの家って感じだな」
「そうだね」言ったあとで、由綺が笑う。

 突然、電話のベルの音が鳴り始める。今、この部屋に流れる時間がここだけで流れているのではない、ということを告げるように。この部屋と世界の繋がりを証明するように。
 由綺がすぐに立ち上がり、受話器を取る。何か慌てた様子で電話に向かってお辞儀をしながら話をしているその姿に、数年前までのステージの上にいた由綺との落差を思って、俺は少し笑う。
「英二さん、英二さん」手招きしながら、由綺が言う。
「誰からだ?会社からなら俺は居ないって……」俺はソファに寝転んだままで応える。
「どうしよう。理奈ちゃんからだよ」
 どうしようもないだろう、と思いながら、由綺の慌てる様子がおかしくて、俺はしばらく寝転んだままでそれを楽しんだ。そして、ゆっくりと起き上がり受話器を受け取る。
「替わった」
「兄さん?」
「ああ」
「久しぶり」
「ああ」
 電話の向こうの声の落ち着きと、今もすぐ隣に立って、子供のように目を輝かせて俺たちの電話を聞いている由綺の対比に、俺は笑いそうになる。
「CD届いた?」
「ああ」
「そう。よかった」くすりと笑いながら、理奈が言う。
「どうした?」
「何が?」
「何か、笑えること言ったか?俺」
 俺の言葉に一頻りくすくすと笑ったあとで、理奈が答える。
「あんまり思ったとおりの反応だったから」
「で、俺の反応を確かめるための電話なのか?」憮然としながら、俺は言う。
「あ、そういうわけじゃないんだ」ちょっと慌てた様子で、理奈が言う。大事なことを忘れるところだったというように。
 俺の言葉の調子に反応して、由綺が不安そうな表情をしている。そういえば、こんなに多くの由綺の表情を、こんなに間近で見たのは、久しぶりだった。
「ねえ、木暮さんって知ってる?」
「は?」俺は、マヌケな声で問い返してしまう。理奈が口にした名前が、あまりに意外で。
「ギターを弾く人で、前に兄さんと一緒にバンドやってたって言うんだけど」
「その人が今朝、うちの事務所の前に座っててね……」
 俺は、昨日の木暮の姿を思い出す。それは、ほとんどまっすぐに、あの頃の木暮の姿に繋がってゆく。演奏する場所を求めて、開店前のライブハウスに通いつめたこと。デモ・テープを持ちギターを担いで、レコード・レーベルを片っ端から回ったこと。あの頃、俺と真理子と木暮の三人で交わした会話や、緊張、落胆、そしてレコード化にOKをもらえたときの喜びまでが、一瞬で甦る。手に取れるくらいはっきりと。
「俺にギターを弾かせろって。こんなヘロヘロギターじゃ曲が泣いてるって、私のCD持って騒いでたらしくて」
 思い出の奔流はあっさりと通り過ぎ、俺は堪えきれずに笑い出す。由綺が怪訝な顔で俺を見る。
「とにかく、私にギター聴かせるまでは帰らないとか言って、事務所の前で歌い出したらしくて。事務所の人も困って、私も朝から呼び出されちゃって……」
 電話の向こうの理奈の話は、まだつづいていた。俺は久しぶりに笑った。声をあげて。
――結局のところ。
 そう、結局のところ、俺たちにできることはそういったことなのかもしれないな。
 俺は、木暮に話しかけていた。
 それが、俺たちの本当のやり方だったな。
「兄さん。笑ってないで聞いてよ」電話の向こうで、理奈が大きな声を出す。
「聞いてるさ。それで?」俺は止まらない笑いの下で、問いかける。
「え?」
「それで、木暮のギターはどうだった?」
 ほんの少しのあいだ、電話の向こうで理奈が考えこむ。
「ちょっと古くさい感じはするけど。ソロとか煩さすぎる気はするけど」
 得意気にソロを弾く木暮の表情さえ見える気がして、俺はまた笑う。
「どこかで聴いたことあるような、妙に馴染む感じがした」
「そうか」
「それはいいんだけどね」理奈がつづける。
「ヘロヘロギターとか言われたの、私が弾いてたんだけど」
 俺はまた笑う。由綺が呆気に取られたように俺を見ている。電話の向こうの理奈が、そんなに笑うことないじゃないと言いながら、けれど自分も声を合わせて笑い出していた。



























 太陽は一番高い場所に登り、夏の前の白い陽射しを地上に注いでいた。
 事務所からの電話をやり過ごした俺は、買い物に行くのをやめた由綺と一緒にリビングのフローリングに座っていた。
 ギターを抱えた俺のとなりで、俺のギターに合わせて由綺は歌った。由綺の昔の歌、俺の好きだった歌、由綺が好きだと言った歌。歌詞を知らないときには、由綺はラララとハミングをした。そのハミングでさえ彼女だけの歌になっていて、俺はあらためて由綺の才能に感心していた。ひと通りレパートリーを演り終え、俺は心地よい疲労を感じながら、ソファに寄りかかりぼんやりとしていた。隣では、由綺が同じようにしていた。微かな息づかいを感じた。いろんな歌の断片が、脈絡なく頭に浮かんだ。それは、もう少しで何かの形になりそうだった。新しい何かが生まれそうな気がした。けれど、それが容易に形にならないことも、俺は知っていた。

「理奈ちゃんからの電話、なんだったの?」由綺がゆっくりと肩にもたれ、俺を見上げるようにして言った。俺は由綺に、昨日俺を訪ねてきた木暮の話をした。木暮たちと過ごした日々の話をした。その話は当然、真理子についての話でもあった。由綺は目を輝かせて、俺の昔話を聞いていた。聞き終わったあとで由綺は言った。
「そのレコードはある?」どこかにあるはずだった。俺がそう言うと、由綺はすぐに立ち上がって、ステレオの隣のキャビネットの、数百枚からあるレコードを調べ始めた。
 俺はなぜか嬉しそうな由綺の後ろ姿を見ながら、まだメロディーの断片の中をたゆたっていた。由綺のハミングが、頭の中に流れていた。もう一度、その歌声を聴きたいと思った。
 気がつくと、由綺が一枚のレコードを抱え、うれしそうな表情を浮かべて俺の前に立っていた。
「これ」両手でレコードを俺の前に差し出す。そこには、記憶よりはくすんだ色合いの、彼女の部屋が写っていた。
「見つかったな」
「うん」大きく頷き、少し躊躇して、由綺がつづける。
「聴いてみてもいい?」
「どうぞ」
「ありがとう」笑顔でそう言って、レコードをターンテーブルに載せる。礼を言われるほどのことじゃないさ、と思いながら、俺はその背中をぼんやりと見つめる。
 もったいぶるようなノイズの時間があって、リビングに音楽が流れ始める。真理子の歌が流れ始める。けれどそれは、俺の知っているどんな真理子の歌声とも違っていた。それは、俺をあの頃に連れて行ってはくれなかった。
ただ、ここに立っている俺に、あの頃の景色を見せてくれるだけだった。
 俺はここに佇み、あの窓からの風景を眺めていた。
 由綺が隣に来ていた。何かを測るように俺の顔を見つめたあとで、ゆっくりと俺に体をあずけてきた。
「今、この人はどうしてるの?」由綺が言った。
「この人?木暮か?」由綺は首を横に振った。
「歌っている女の人」
「彼女はそのままニューヨークに残った。ニューヨークに駐在に来ていた、どこかの企業の誰かと結婚した。今はどこに居るか知らない。日本に戻ってきたのか、まだニューヨークに居るのか。それとも、まったく別のどこかで暮らしているのか」
 そういえば、真理子のことを話したのは、木暮以外では由綺が初めてかもしれなかった。
 それは触れることができない程の痛みではなくなっていた。けれど、誰彼構わず言って回るような類いのものでもなかった。
 ふーっと大きく息をついて、由綺が言う。
「わたしって英二さんのこと何も知らなかったんだね」どこか悲しそうな表情。いつか、見たような。俺は由綺にかける言葉を探す。その表情を変えるための言葉を。けれど、由綺は俺の言葉を待たず、すぐに笑顔になってつづけた。
「でも、うれしいな。英二さんの昔の歌を聴けて」
 俺は由綺の頭に手を置いた。そして、ゆっくりとその髪の感触を楽しんだ。由綺は少し首をすくめ、子供のような表情でそれを受け入れてくれた。
「好きだった?」由綺が小さな声で言った。
「うん?」
「この人のこと好きだった?」思い詰めたような表情だった。
「忘れた」
「え?」
「昔のことだから、すっかり忘れた」由綺が俺を見た。表情が揺れた。大きく笑った。
「ずるい」
「知らなかったのか?俺はずるい男だ」
「でも、やさしい人だね」由綺が言った。
「誰が?」俺は思わず訊き返した。
「英二さん」すぐに由綺が答えた。
 そして、俺は気づいた。今さらながらに。俺が今、由綺と一緒にいる理由に。そして、この歌が俺をあの頃に連れて行ってくれなかった理由に。
 それは簡単なことだった。俺は、それを望んだのだ。由綺と共に暮らしたいと思ったのだ。この場所、由綺のいるここにいることを望んだのだ。俺はそれを言葉にしようとした。由綺に伝えたいと思った。けれど、その思いをそのまま言葉にすることは、俺にはできなかった。
「なあ、由綺」レコードが終わり、アームが自動的に戻る音が聞こえる。俺はリモコンでCDをスタートさせる。カッティング・ギター。流れ始める理奈のメロディー。
「うちには3枚もIntimacyがあるんだよな」さっきと同じ話題。
 由綺が指折り数えて確認してから、頷く。
「カムバックでもしてみるか」
「え?」俺の唐突な言葉に、由綺が驚いた顔をする。
「このままじゃ、理奈に負けたみたいで、くやしいだろ」
 俺の言葉に由綺が笑う。俺も、由綺と声を合わせて笑う。
 ひとしきり笑ったあとで、由綺がぽつりと言う。
「くやしいか、くやしくないかは別にして……」由綺が俺を見る。
「今、私は誰かのためには歌えないから」
「うん?」
「理奈ちゃんのようにはできないから」
 する必要もないさ、と思いながら、俺は頷く。
「今、私は英二さんのためにしか歌えないから」
 俺は由綺の視線を受け止める。しっかりと。
 そして、俺は伝えることのできなかった言葉を口にする。真理子に。
 伝えるべきだった言葉を口にする。あの最後のときに。
「じゃあ、俺は由綺だけのために歌を作ろう」
 由綺が頷く。
「俺のために由綺がうたう、歌を作ろう」
 たゆたう黒い瞳。微かな吐息。
「歌ってくれるか?」俺は訊ねる。大切な問いを、俺は訊ねる。
 俺を見る。ステレオのスウィッチを切る。
 俺は、ギターを弾き始める。
 由綺の歌が、流れ始める。










































マンハッタンブリッジに佇んで
END





























『こんなペシミストの気取り屋なんかじゃなくて、俺にしとけって。お前のためなら一日中だって、ギターを弾いてやるぜ』
 そう言って、木暮がギターを鳴らす。たっぷりのエフェクト。スタジオ中を埋め尽くすようなリバーヴ。
『英二の言い分は?』真理子が耳を塞ぎながら、大きな声で俺に言う。木暮は、すでに俺たちがそこにいることを忘れてしまったかのように、軽く目を瞑ってギターとの会話に没頭している。その姿に小さいため息。そして、真理子に視線を移す。まっすぐに俺を見る、大きな瞳。
『歌を作ろう』
『え?』
『俺は、お前のために歌を作ろう。いつか、お前のための歌を作ろう。誰が歌っても、お前をうたう歌。いつまでもうたい継がれる歌。お前のことをうたった歌。そんな歌を作ろう』
 彼女が微笑んだ。そして、ゆっくりと首を振った。わかってないのね、というように。
『40点』
『え?』ギターの音にかき消されて、彼女の声がよく聞こえなかった。
『それじゃ、40点しかあげられないわ』
『どうしてだ?』俺は問い返す。
『どうしてだろうね?』彼女が歌うように言った。
『俺が訊いてるんだ』
 彼女が笑った。
『それを一緒に探すのも、いいかもね』








『いつか、それがわかるといいね』












 

 
 読んでくださって、ありがとう。よかったら、感想を聞かせてください。
 HID (2002/08/16)


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