今はもういない、親愛なる人形師に―――
突然降り出した雨が、街路の埃を洗い流し、この薄汚れた街をほんの少しだけ美しく見せていた。『わたしは雨が好きよ。ここがまるで他のどこかのように思えるから』彼女のそんな言葉が甦る。僕はジャガイモの皮むきの手を休めて、激しく降る雨を見る。こんな雨の日には、彼女にまた会える。
そんな気がして。渡るべきたくさんの河1.夏の午後のスナイフの店は最悪だった。古びたエア・コンディショナーは、大きな音と湿った空気を辺りに撒き散らすことにエネルギーを使っていて、彼本来の役割までは手が回っていない。薄暗い店の中には、煙草と下水とガーリックの匂いが、混然となって澱のように重く漂っていた。僕は最近ようやく任せてもらえるようになった、ジャガイモの皮むきの手を止めて手の脂やヤニで汚れた窓ガラス越しに街路を見る。歩道のいつもの場所にいつものようにうずくまっているのはジャニスだろう。最後に彼女のまともな歌を聴いたのはいつだったか。通りの向こう側を大きな箱を抱えたがっしりとした黒人が歩いているのが見える。僕は少しの間、箱の中身を想像してみる。「やる気がないなら、いつ辞めてもらっても構わないんだぜ」暗がりから突然かけられた言葉に僕はびくりとして、振り返る。「ス、スナイフ」少し曲がった高い鼻、短く刈り込んだ銀髪。鋭く光る青い瞳は僕の方には向けられていなかった。湾岸帰りという噂も嘘とは思えないような、刃物のような鋭利さが彼にはあった。「やる気ならあるよ。ほら、もうこんなに皮むいたし」僕は手元のボウルを示して言う。スナイフが何も言わずに僕の顔をしばらく見て、そして、ふいっと店の奥に消える。「チャーリー」僕がほっとして再び作業を始めようとしたときに、スナイフが僕の名前を呼んだ。彼が僕を名前で呼ぶときには、ろくなことがないことを僕は知っていた。「まだ“あいつ”は直らないのか?」彼の問いは意外だった。けれど、ろくでもない話題ということには変わりなかった。いや、むしろ、最悪と言ってもいいくらいだった。「…まだ、だね」僕は小さな声で、やっとそう答えた。★“スナイフの店”はライヴとポテト料理が売り物の店だった。客の誰もがそうは思っていなかったとしても、少なくとも店主のスナイフだけはそう信じていた。『変な話だよな』僕は常連のボブにそう言ったことがある。『そんなものが目当てでこの店に来る客なんて、見たことがないよ』彼は、もう何ヶ月も洗ってないようなドレッドを手で払って言った。『な、何て言うか』口を開いたままで、しばらく宙を見つめた。ボブは、言葉を口に出すまでに時間がかかった。彼に言わせると、大いなる意志をトランスレートするのに時間がかかるかららしい。『誇りの問題なんだよ』『誇り?』『ああ、誇り』『ますます、わかんねえよ』またボブが考えこむ。『そ、そうだな。例えば、チャーリーはサキソフォンのプレイヤーだよな』僕は頷く。もう何日も口にしていないマウスピースの感触を思い出しながら。『ある店からお呼びがかかる。お前は喜んでその店に行くんだ。何より稼ぐには吹かなきゃいけないからね。けれど、その店に言ったら話がちがう。マネージャーはお前にどうしてもコルネットを吹けって言うんだ』僕はボブにしてはめずらしい長話に、半ば引き込まれながら頷いてみせる。『でも、お前は断る。当然稼ぎもパーだ』ボブが満足したように汗をかいた茶色い壜からビールを飲む。『で?』『それが誇りだ』店の喧燥が甦る。狭いステージで音合わせをするピアノとギターの音が、話し声に混じって耳に届く。僕はしばらく考えた後で口を開く。『でも、俺は稼ぐためにイモの皮をむくぜ?』『あ、当たり前さ。稼がなきゃ生きていけないからね』ボブはそれだけ言うと、もうその話題には飽きたとでもいうように、カードをやってる常連のテーブルに行ってしまった。僕には彼の言わんとすることが全くわからなかった。いつのまにか店の中には音楽が流れていた。古いブルース。スナイフの趣味だ。ボトルネックギターが泣いているような音を出す。ただ泣くことだけを目的にして、泣くためだけに生まれてきたような音色。僕は皮をむいてしまったジャガイモにラップをかけると、目を瞑って音楽に耳を傾ける。単調なドラムの音に混じって、街路を叩く雨の音が聞こえてくる。それに気づいて目を開ける。突然の雨に追われて街路を走る人の姿が目に入る。うずくまっていたジャニスも姿を消していた。
レコードはいつしか終わっていて、スピーカーからは針の拾うノイズがこぼれていた。また音楽が流れ出す。ジャズ、ハード・バップ。全く脈略の無い選曲がスナイフらしかった。サキソフォンの音が僕の頭に突き刺さる。今、一番聴きたくない音。
それは彼女の不在を形として僕に突きつけてくる。ジブは僕を捨てて行ってしまった。サックスの音はただそれだけを無表情に僕に呈示する。大好きだったジブ。僕にサックスを教えてくれたジブ。なめらかな肌、闇をそのままに映す黒い瞳。ふたつ違いの姉で、おまけに、僕とは父親が違った。そして彼女の銀のサキソフォン。最初に彼女が、そして次に僕が吹くことになった人の声のような音色を奏でる楽器。彼女は彼女の父親がそうしたように、それだけを僕の元に残して街を出ていった。もう一ヶ月も前のことだ。それ以来、僕はサックスを吹いていない。スナイフにはタンポがひとつ閉じたまま開かない、と嘘をついた。
彼は黙って頷いて、僕にウェイタの仕事を命じた。そのおかげで、僕はここでジャガイモの皮むきをしていられる。突然開いたドアに驚いて、僕は顔を上げた。雨の音が、サキソフォンの音をかき消した。初めて見る女が、入口のところに立っていた。ずぶ濡れになったプラチナ・ブロンドの髪の毛。黒いTシャツにオリーブ・ドラヴのカーゴ・パンツ。ギターケースを雨から庇うように抱えて、女が店の中に飛び込んできた。「開いてる?」ひどく訛った英語で彼女が言った。「まだだ」僕は我に返って短く答える。一体どこの出身だろう?「いいわ。雨宿りだけさせてくれる?」にっこりと笑って彼女が言う。僕はその笑顔に思わず見とれそうになってしまう。だけど、かろうじて踏みとどまって応える。「だめだ。うちは屋根だけは貸してないんだ」『金を払わないヤツは客でも何でもない』 それはスナイフの言いつけでもあった。僕の口元を、ひとつの言葉も聞き逃すまいとするようにじっと見ていた彼女が、わずかの時間をおいて、困ったように笑う。「いいさ。雨宿りぐらいさせてやりな」僕の緊張を解くように、店の奥からスナイフの声が聞こえた。「ありがとう。助かるわ」彼女は大きな声で店の奥にそう言って、僕の向かい側に、カウンタからストールをひとつ下ろして、座った。胸元に張りついたTシャツを顔をしかめて引っ張って、僕に笑いかける。プラチナ・ブロンドの髪の毛に茶色の眉。東洋系の顔立ちからは彼女の年齢を推し量れなかった。僕は彼女から目を逸らしてカウンタを拭く。カウンタをざっと拭き終わって、スナイフ自慢のビールサーバを磨きながら、彼女の様子をうかがう。僕の視線に気づいた彼女がにこりと笑う。「飲みな」いつのまにキッチンから出てきたのだろうか、スナイフが湯気の立ったマグカップを彼女の目の前に差し出していた。「ありがとう」そう言って彼女がカップを受け取る。そして、手の中のカップの暖かさを楽しむように目を細める。美味しそうにカップを傾けて、突然気づいた、というように彼女が言う。「あ、私お金持ってない」「その辺を散歩しようと思って出てきて、急に雨に降られたから…」散歩するのにわざわざギターを抱えて歩く人間がいるのだろうか?「まあ、いいさ」スナイフが普段からは想像できないようなやわらかい声で言う。しばらく困ったように黙り込んでいた彼女が、顔を上げて、にっこりと笑う。とても素敵なことを思いついた、というように。 僕はその表情をどこかで見たことがあるような気がした。そして彼女が妙なアクセントで言った。「じゃあ、お礼に歌うわ、私」僕は思わずスナイフの顔を見る。曲がりなりにも、ライヴを売りものにしてる店の(それが彼の思いこみに近いとはいえ)店主に聴かせる程の腕を、この女が持っているとは思えなかったから。そして、スナイフがそんな音を聴くとどういう反応をするかを僕は知りすぎるくらい、知っていたから。実際、店に出るためのオーディションを受けに来て、まともな状態で帰れた人間の方が少ないくらいだった。ある者はギターの弦を切られ、ある者は身を守るために楽器を残して逃げていった。いくら女だからといって、スナイフが自分の耳に妥協を許すとは僕には思えなかった。僕は彼の表情をうかがった。彼は少し困ったような表情をしていた。彼のそんな表情を見たのは初めてだった。そんなふたりの雰囲気に気づく様子もなく、女がどこかうれしそうにギターケースの留め金を外す。彼女がギターケースから取り出したのは青いギターだった。スナイフがため息のような吐息を漏らす。「リッケンの12弦か」スナイフの言葉に、彼女がうれしそうに微笑んで頷く。「じゃあ、オガタリナ、歌います」「リーナ?」スナイフが訊き返す。「リナ」彼女が首を横に振って、笑いながら言い直した。いつのまにか雨は上がっていた。リナと名乗った奇妙な女はそれに気づくと、ギターをケースにしまって店を出ていった。僕は少し意外だった。宿も取れないような女が雨にかこつけて店に転がり込んできた、くらいに思っていたから。彼女が店のドアを開けて、出て行こうとしたときにスナイフが言った。「なあ、お前、うちの店で演ってみる気はないか?」彼女がくるりと勢いよく振り向いた。彼女の向こうに、この街ではめずらしい大きな夕陽が見えた。夕立の後の空気は浄化されて、いつもよりもはっきりと紅を映していた。「リナ」「え?」スナイフが問い返す。「お前、じゃないわ」彼女が笑った。笑顔が紅に染まった。スナイフが苦笑しながら言い直す。「ああ、リーナ、うちの店で演ってみないか?」彼女は笑顔を大きくして言う。「ありがとう」それだけ言うと、彼女は店を出ていった。彼女のギターは特に上手いという訳ではなかった。実際、あの程度の弾き手は、この街でなら簡単に見つかるだろう。けれど彼女の歌は別物だった。何か特別なもの、それを持っている歌だった。僕は、彼女の歌を聴いて、最初に口惜しいと思った。なぜかはわからないがそう感じた。結局、雨が止むまでに彼女は三曲歌った。どれも聴いたことのない曲だった。おまけに、彼女が歌う言葉さえ、聴いたことも無い言葉だった。スナイフは腕組みをして、目を瞑り、じっと彼女の歌を聴いていた。最初のうちは彼の顔色をうかがっていた僕も、二曲目の途中からはそんな余裕が無くなってしまった。それは僕に遠い日々を思い出させた。母親が仕事に出た後の散らかった部屋で、ジブと二人で、擦り切れかかったレコードを貪るように聴いた日々。チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、クリフォード、エバンス、マイルス、ウッズ、マルサリス…。それはサキソフォン・プレイヤーだったらしい(僕もジブも会ったことがないから知らないんだけれど)ジブの父親が楽器と共に残していった数少ない遺産だった。そして、いつも仕上げに聴くレコード。古いスタンダード、甘い歌。レコードに合わせて歌うジブの姿が、なぜか目の前で歌う女と重なった。Fate is kindShe brings to those who loveThe sweet fulfillment of Their secret longing耳の奥でジブの歌声が鮮やかに甦る。似ている所など、ひとつもないのに。2.その夜のスナイフの店はいつもと雰囲気が違っていた。スナイフは客のオーダーを三回間違えた。「い、一体スナイフはどうしたんだ?」いつものようにビールを頼んで、テキーラを出されたボブは、文句も言わずにそのグラスを傾けながら、不思議そうに僕に言った。「あんなに腑抜けたスナイフを見たのは、初めてだぜ」僕は少なくとも五回はオーダーを間違え、グラスを三つ割り、一人の客にビールのシャワーを浴びせた。店内にかかる音楽を妙にわずらわしく感じた。それは、頭の中に流れるあの歌を邪魔しているからに違いなかった。理由に気がついていながら、どこかでそれを認めたくないと思っている自分がいた。それを認めてしまうと、何かが決定的に変わってしまうような、そんな気がした。僕は妙な苛立ちに支配されていた。その夜がスナイフの店にとって、本当に特別なものになったのは、9時を回った頃だった。僕はカウンタの中で適当な分量のジンと適当な分量のトニックウォータをステアした飲み物に、レモンの代わりにライムをのせるべきかどうか迷っているところだった。キッチンからは、スナイフの炒めるジャガイモとベーコンと玉ねぎの香りが漂っていた。店にはマディ・ウォーターズが歌う『マニッシュボーイ』が流れていた。やはりライムはのせないことに決めて、顔を上げたとき、僕の正面のカウンタには彼女が座っていた。「ホットミルク代、払いに来たわ」彼女が笑って言った。僕は作ったばかりのカクテルをこぼしそうになった。ちょうど特製のジャーマンポテトを大皿に盛ってキッチンから出てきたスナイフは、危うくそれをカウンタの端で寝込んでいる客の頭にぶちまけるところだった。「いくら?」彼女が大皿を抱えたままで、惚けたような顔で彼女を見つめているスナイフに問いかける。ボブや他の常連達がめずらしいものを見るように彼女を見ていた。「スナイフ」僕の言葉に、彼がやっと我に返った。「ホットミルク、いくら?」彼女がもう一度言う。穏やかに笑いながら。「あ、ああ、もうホットミルク代はもらっただろ」スナイフが答える。表情で問い返した彼女に彼が言う。「歌ってもらったじゃないか」彼女は昼とは違うギターケースを持ってきていた。古びたハードケース。ケースと同じように古びたガットギター。「本当に歌ってもいいの?」彼女はスナイフに言った。スナイフは威厳を保とうとするかのように低い声で答えた。「いいさ。ちょうど今日はステージも空いてるしな」彼女がケースからギターを取り出して、簡単に音のチェックをしている姿にボブ達は相変わらず興味に溢れた視線を向けていた。彼女がステージに上がるのを見ていたのはボブを含めた常連数人とスナイフだけだった。店の他の客達は、彼女がステージに上がったのに気づいてもいなかった。僕はスナイフの視線がステージに向いてるのを見て、わざとカウンタの奥に引っ込んだ。どうして彼があの妙な発音で話す女に入れ込むのか理由がわからなかった。そして、それよりももっと、自分がずっと奥の方で彼女の歌を聴きたがっているということが許せなかった。店の中の喧燥は収まらなかった。ステージの上の異変に気づいた誰かが、フォーレターワーズを彼女に向けて放った。彼女はカポタイトの位置を決めると、大きく息を吸った。僕はわざと見えにくい位置に立っていながら、彼女から目を離せなかった。彼女が歌い出す。スナイフは手を止めて食い入るように彼女を見ていた。ボブ達の表情が変わった。彼女が歌い出してからどれだけの時間が経っただろうか、店の中が痛いような静寂に沈んでいた。エア・コンディショナーだけがいつもと同じ音をたてていた。ギターが最後の一音を発して、その音が店内を満たす湿った空気に溶けたとき、たくさんのため息が洩れた。もう誰も彼女に好奇の視線を向ける者はいなかった。からかいの言葉を投げる者もいなかった。じっとテーブルを見つめてる年寄りがいた。口を開けてステージを見つめたままの若い男がいた。スナイフが手を叩いた。ボブが驚いたようにスナイフを見て、そして、彼と同じように拍手をした。一転して、店の中が喚声と拍手に満たされた。その瞬間、スナイフの店は、彼が考える理想の姿を現していた。彼女は小さく笑って頷くと、すぐに次の曲のイントロダクションを弾き始めた。喚声や拍手も意に介さないように。それが湧き起こることが当然である、とでもいうように。そんな風にして、スナイフの店にとっての、最初の特別な夜が更けていった。店は沸き立ちつづけた。それは終わらない夜のようだった。何かの拍子で、この店に伝説のウッドストックが甦ったようだった。僕はカウンタの隅に立って、彼女の歌を浴び続けた。サキソフォンを吹きたい、無性にそう思った。★次の日も夕立ちがあった。僕は開店前のスナイフの店のカウンタに座って、手の中のマウスピースを弄んでいた。ピルケース程の大きさの黒いプラスティック・ケースの蓋を開け閉めする。その度にパチンという乾いた音が、雨の音の合間に響いた。「…直ったのか?」突然声をかけられて、驚いて顔を上げるとスナイフが火のついてない煙草をくわえて僕の手元を見ていた。「あ、ううん」すぐに何を訊ねられたかに気づく、そして、自分が今まで彼に嘘をついていたことを思い出して、口篭もってしまう。煙草をそのままに、僕の手からリード・ケースを取ったスナイフが、中に入った数枚のリードを引き出す。「まともなのは一枚だけか」トランプのカードのようにリードを広げて、目を細めるようにしてそれを点検したスナイフが言う。僕は黙ったまま頷く。「ジャパニーズは自分でリードを作る」スナイフがつぶやく。僕は彼の言葉の意図がわからずに、彼を見つめる。彼はリードをケースに戻すと、煙草に火をつける。顔をしかめて煙を吐いて、言葉を続ける。「ずっと昔に聞いたことがある。ヤツらは器用だから、この程度のものなら自分たちで作っちまう。竹を切り出して、それを削って」竹?「日本に行ったことがあるの?」僕は彼に訊ねた。彼は片方の口の端を上げてみせただけだった。相変らず雨が降っていた。めずらしく、店内に音楽は流れていなかった。「…昔」雨の音に消されそうな声で彼がつぶやいた。「ずっと、昔。歌う女に会ったことがある」「俺がまだハイスクールに上がる前、ミシシッピの片田舎にいた頃」「あんな風に歌う女がいたんだ」それは、長い物語のプロローグのようだった。――昔、ずっと昔。あるところに、歌う女がいました。――それはどんな風に広がる話だろう。彼女は幸せになれるのだろうか。そして、彼は…。それっきり、スナイフは口を開かなかった。彼の右手の人差し指と中指に挟まれた煙草が、ただ灰に変わっていった。その夜も、彼女は店にやってきた。いつのまにか、スナイフはその日ステージに上がる予定だったレゲエ・バンドをキャンセルしていた。それを知ったボブは、店に来てからずっと、ぶつぶつと文句を言っていた。彼はレゲエこそ世界を救う音楽だと信じていた。そして、この店でかかる音楽にその分野の音楽が少ないことをいつも嘆いていた。月に一度あるかないかのレゲエ・ナイト、とても楽しみにしていたはずのそれをいきなりキャンセルされたのだから、文句を言うのも仕方ないだろう。失意のボブは別としても、店の中にはどこか虚ろな雰囲気が流れていた。喧騒にも勢いがない。そして、何より普段と違っていたのは音楽が一度も流れないことだった。短い夕立ちの後で、ストリート全体の湿気が増していた。再び上がり始めた気温が、夜の街路に靄のようなものを作り出していた。彼女がドアを開けたとき、店の中に靄が流れ込んできた。店の中に流れた安堵にも似たため息が彼女が運んできた靄と溶けあって店内に漂った。そして、期待を表す嬌声と拍手がそれを打ち払った。ちょっと面食らったような表情の後で、彼女は昨日と同じように小さく笑った。ひとしきりの歓迎の後で店の中が落着くと、彼女はカウンタに向かって歩いてきた。昨日と同じ古びたギター・ケースを提げていた。キッチンから顔を出したスナイフは、彼女の顔を見ると、何も言わずに一つ頷いて奥に引っ込んだ。彼女はそこだけ空いていたカウンタの隅の席に座ると、僕に向って言った。「チャーリー、何か飲み物をくれる?」彼女の隣では、まだボブがぶつぶつと文句を言っていた。もっとも、彼の文句はレゲエ・ナイト中止に対するものから、政府の第三国援助の姿勢に対するものへといつのまにか変っていたが。僕は彼女に名前を呼ばれたことに、妙なくすぐったさを感じつつ、背の高いグラスにサーバからビールを一杯に注いで彼女の目の前に置く。ふと見ると、彼女が曖昧な表情を浮かべて固まっていた。初めて見る情けないような彼女の表情に、僕は思わず声をかける。「どうした?冷たいビールだぜ」彼女が頷いて、そして、少しの躊躇いのあとに口を開いた。「わ、私、アルコールは駄目なんだ」僕は思わず吹き出してしまう。「あ、ほ、ほら、歌う前だしさ…」彼女が慌てたように付け加えた。「そうか、リーナはアルコールも駄目な子供なのか」僕はわざと彼女の名前を伸ばして、そう言う。「リナ。それに子供じゃないわよ」「いくつ?」僕の問いに、にやりという感じで笑って答える。「レディに年齢を訊ねるものじゃないわ」僕は大げさに肩をすくめて見せたあとで、カクテル用のオレンジ・ジュースをグラスに注いで、彼女の前に置いた。彼女は、うれしそうにそれを手に取ると、一息で飲み干しカタンッと勢いよくグラスをカウンタに置く。「レディにしては、はしたなくない?」僕は彼女に言った。「あら、そうかしら?」わざと作った高い声で彼女が応えた。僕たちは顔を見合わせて笑った。何が違うのだろう?三度目になる彼女のライヴ・パフォーマンスを見ながら僕は考えていた。聴いたこともないオリジナルなメロディ。意味のわからない言葉、そして、それだけを取れば凡庸とも言えるギターの演奏。けれど、聴く者の冷静な思考を安々と奪い去るパワーが彼女にはあった。不思議だった。僕をはじめ、スナイフや、さっきまで文句を言っていたボブ、そして、一筋縄では行かないようなヤツらばかりが集まるこの店で、小さな体で歌う彼女をみんなが受け容れてしまっていることが。誰も彼女が何者なのか知らなかった。どこから来て、いつまでここにいるのか。何を求め、何のためにこの店で歌うのか。実際のところ、そんなことは瑣末なことでしかなかったのだ。彼女の声で、彼女が歌うと、そこには確かに揺るぎない世界が作り出された。昨日、彼女の歌を聴いて、自分の手を見ながら涙を落としていた年寄りが今日はステージの目の前に座っていた。そして、何度もこう繰り返していた。「何て素晴らしい世界なんだ」その夜、僕はジブの夢を見た。彼女は僕の良く知っている表情で笑っていた。『ねえ、チャーリー』彼女は言った。『サキソフォンを吹くのは好き?』『ジブが聴いてくれるなら』僕は答える。そう、口にしたことはなかったけれど、僕は、僕がサキソフォンを吹くときに僕を見る、ジブの表情が好きだった。何か眩しいものを見るような表情。ずっと遠くを見つめるような表情。『私はチャーリーのサキソフォンが好きよ』ジブが言った。けれど、もう、その姿は闇に溶けて見えない。『もう二度と聴きたくないと思うくらい、あなたのサックスが好き』『何で…、何で二度と聴きたくない、なんて言うんだ』『……ずっとここに居てもいい、と思ってしまいそうだから』3.次の日、僕はサキソフォンを持ってスナイフの店に行った。彼は僕が手に提げたケースに目を落とすと、何も言わずに自分の仕事に戻った。「ねえ、スナイフ」僕は彼の背中に話しかける。彼はキッチンの入口で立ち止まる。「吹いてもいいかな。店を開ける前に」「準備がすんだらな」彼は振り向きもせずにそう言って、キッチンに消えた。ようやく店を開ける準備がすんだ頃、店の中にはまた雨の匂いが満ちていた。ひびの入りかけたリードにとっては、湿気が多いのはありがたい。僕は真剣な手つきでマウスピースをセットすると、ゆっくりと口に含んだ。大きく息を吸いこむ。銀のサキソフォンが発する、数ヶ月ぶりの音が店内の空気を震わせる。夢中になって音を追っていく。指が重い。肺が痛い。ブランクは遠慮なくその取り分を主張する。けれど、僕は恍惚すら感じながらサキソフォンを吹き続ける。僕が練習のときにいつも奏でるスタンダード。昔、ディズニーの映画で使われたらしいその曲を僕は何度も繰り返す。何度目の演奏のときだったろう、僕は僕の音以外の音が聴こえることに気づいた。When you wish upon a Star澄んだ声。今まで聴いたのとは全く違う声だったけれど、僕はすぐにそれが誰の声か理解した。ジブがいつもうたった歌。二人で何度も口ずさんだ歌。他の誰かにうたわせたくないと思った歌。けれど、今、僕はサキソフォンを吹くのを止めることができなかった。マウスピースから口を離して、荒い息をつきながら声の主を見た。そこには当然のような微笑みを浮かべたリナが立っていた。「チャーリー、サキソフォンを吹くんだね」“サックス”と略さないところが気に入った。「ああ、もう何年も吹いてるよ」彼女がくすっと笑って言った。「いくつの頃から?」「9才」「今はいくつ?」「16才」「え?」「1・6・才・だよ」僕は言葉をはっきりと区切って言う。リナに視線を向けると、何かを考えこむようにフロアを見つめていた。「どうした?」何度か首を横に振ってリナが言う。「私、そんなに年が違うと思ってなかった」「リナはいくつ?」僕の質問に子供が嫌々をするように小さく首を振ってリナが答える。「教えない」「同じくらい?」首を横に振る。「もっと下?」強く首を横に振る。「じゃあ…」「チャーリー」彼女が強い口調で僕の名を呼ぶ。その瞳には悪戯っぽい光が宿っていた。「レディに年を訊くものじゃないわよ」僕たちは声を合わせてそう言う。そして、同じように声を合わせて笑った。「ねえ、チャーリー、ちょっと吹いてみてもいい?」三日連続の夕立ちの音に満たされた店内。明かりのない薄暗い中で、リナの瞳だけが輝いていた。誰にも、ジブ以外には誰にも触れさせることはないと思っていた銀のサキソフォンを僕は自然にリナに手渡していた。マウスピースを外して、ただ一枚残っていた新品のリードをセットする。そして、サキソフォンを抱えて僕を見つめているリナにマウスピースを手渡す。彼女が見様見真似でそれをセットする。おずおずと口に含む。大きく息を吸って、サキソフォンに吹き込む。頬を大きく膨らませないところを見ると、何か他の管楽器を吹いたことがあるのかもしれなかった。「管楽器もいいねえ」ちょっと紅潮した頬で興奮気味にリナが言う。彼女は驚くほどの熱心さで、僕のサキソフォンを吹き続けた。「音階を鳴らしただけで、言うセリフじゃないよ」僕はわざと突き放すように言う。小さく笑って彼女が応える。「あ、嫌な言い方ね」見た目よりもずっと大人びた彼女の反応。「厳しい修行をした者だけが、その言葉を口にできるんだぜ」僕もにやりと笑って言う。「はい、マスター」彼女も調子を合わせてくれる。今日の夕立ちは、開店前にはあがっていた。僕はカウンタに上げていた椅子を下ろしてゆく。マウスピースを外して、楽器を片づけようとしていたリナがあっと小さく声をあげる。「ごめんなさい」彼女の声に視線を向けた僕に彼女が頭を下げる。「どうした?」「割れちゃった」彼女が手の中のリードを示す。その表情は、見た目通りの幼さで、僕はなぜかうれしくなる。「最後の一枚だったんだぜ」「ホントにごめん」彼女が両手を合わせて僕を拝むようにする。その姿はとても奇異で、そして、とてもかわいく見えた。「リナはチャイニーズ?」「え?」突然の僕の質問に彼女が手を合わせたままで戸惑ったような表情を浮かべた。「中国から来たの?」「ううん、ジャパニーズだよ」「そっか、なら、リードなんて簡単に作れるよね」僕は頷いて言った。「え?」「スナイフが言ってたよ。ジャパニーズは器用だから何でも自分で作っちまうって」リナが僕の言葉を噛みしめるように聞いた後で、大きく笑う。その表情は雲の間から射す陽光のようだった。「そのギターもリナが作ったんだろ?」僕は笑いながら、彼女の古びたギター・ケースを示して言った。「そう。もちろんそうよ」「あの青いギターも?」「ええ、そうね。あれはちょっと苦労したけど」「じゃあ、リードなんか簡単だよな」「うん、任せといて」★その日、スナイフの店は開店のときから異様なテンションに包まれていた。常連に加えて、彼らが連れてきた客でほとんどの席は埋っていた。ライヴが始まる時間が決まっていたわけではない。それどころかリナが店に出ることすら決まっていなかった。それでも彼らは彼女の歌を求めて店に集ってきた。スナイフはとてもうれしそうだった。滅多に見せることのない彼のその表情を見て、いつかボブが言っていた誇りの意味が少しわかったような気がした。何かを期待するような喧燥と、どこか不安さを感じさせるように立ちこめる煙草の煙の中で、この店で最後になるリナのライヴが始まった。ゆっくりと爪弾かれるギターが聞き慣れた音色を奏でる。誰もが知っている曲。使い古されたブルース。彼女が英語の歌をうたうのを初めて聞いた。それはこの店にいる誰もが知っているはずの擦り切れた曲だった。けれど、彼女がうたうと、間違いなく彼女の歌になった。丁寧に最後の一音を響かせる。そして、店内を見回して、リナが言った。
「ありがとう」店を満たす空気は昨日とは違っていた。誰もが彼女に注目していた。ゆっくりとしたブルースの後に来るものは何だろうか。誰もが彼女の発する次の音を聴き逃すまいと、息を詰めていた。一種の緊張感が店内に漲る。その頂点を正確に捉えて、彼女がギターを鳴らし始める。激しいカッティング。叩きつけるような歌声。そこには留保がなかった。疑問も理由もなかった。でも、も、なぜ、もない。ただうたうこと、ただギターの弦を震わせること、ただ自分の中にあるものを差し出すこと。それは全くの不意打ちだった。彼女の歌は僕たちを撃ち抜いた。無防備な群衆に向けられた絶対的な機関銃掃射のように。喩えなんかじゃない、彼女の歌声は本当に痛かったんだ。誰もが圧倒されたように言葉を失った。そして、一度も我に返ることなく、渦に飲み込まれていった。熱狂と興奮と歓喜と絶望。様々な感情がうねりのように店内を通り過ぎていった。嵐が去った後に、ステージに残されていたのは、僕の知っているリナだった。プラチナ・ブロンドの髪。髪の毛と色の違う眉。大きなよく輝く瞳。細い肩を揺らして荒い息を吐いている。ふっと目を瞑って、その後でゆっくりといつものように微笑んだ。そして、大きく息をついて、もう一度、最初と同じ言葉を口にした。「ありがとう」みんなが思い思いの言葉で彼女に応える。スナイフの店は今日も彼の願った通りの姿を現していた。慈しむように目を細めて、みんなの声を聞いていたリナが、喚声の切れ目を見つけて口を開いた。"Next is last song. I made it here"その言葉を聞いて、一瞬にして、静寂が訪れた。ギターのボディを軽く叩いてリズムを取った後で彼女は歌い始めた。僕は彼女を見つめていた。彼女の歌を見つめていた。言葉の意味はわからなかった。けれど、そのメロディは僕をしっかりと掴んで離さなかった。何度目かのリフレインをリナが歌っているときに、低い囁きが耳に届いた。僕はその声の主を探す。スナイフが俯くようにして、僕のすぐ隣に立っていた。――その場所はひどく遠い たどり着くための長い道のり――その長さを思って 泣いた日々もあった 始めることを あきらめたりもした――でも 今はこう言える 歌うことを知った私は こう言える――どんなに深い河でも どんなに広い河でも 渡れない河なんてあるはずがないんだ自分に言い聞かせるように、歌にあわせて、彼がそう囁いていた。真夜中前に彼女が店を出るときになっても、スナイフの店の熱狂は収まらなかった。店は満席のままで、終わりのないパーティーが続いていた。僕はスナイフに言われて彼女を宿まで送った後で、店に戻らなければいけなかった。「ねえ、リナ」僕は放心したようにぼんやりと歩く彼女の横顔を見ながら言った。彼女はゆっくりと僕に顔を向けた。気の抜けた表情は、彼女を余計に幼く見せた。でも、僕は彼女のそんな表情を好ましく感じた。「リナは誰のために歌ってるの?」彼女はやわらかく微笑んで、そして小さな声で言った。「誰のためだろう?いつかそれがわかるといいね」★スナイフが早々に寝込んでしまうと、店を切り盛りする者は僕以外にはいなかった。僕がようやく最後の酔っ払いの一人を店の外に叩き出して、表のドアに鍵をかけたときには、夜が白々と明け始めていた。僕はカウンタの中のスナイフに、店の奥で見つけた薄汚れた毛布をかけた。キッチンのガス・コンロを確認してから冷たい水で顔を洗った。肌に染み込んでいた煙草とアルコールの匂いは完全には消えなかったけれど、僕の気持ちは徹夜明けとは思えないほど、晴れやかだった。スナイフがまだ眠っているのを確認してから、裏口のドアを開けて、外に出た。夏とは思えない涼しい風が、頬に気持ちいい。僕は、どこかで聴いた何かのメロディを口ずさみながら、街路を歩き始める。夜と朝との間の儚い時間。誰もが一日の準備をするために大きく息を吸い込む時間。街路は完璧な静寂に包まれていた。その静寂を自分の歌声で震わせながら、街路をゆっくりと歩いて行った。そして、僕は唐突に気づいた。ジブがここを出ていった理由に。彼女は言った。『ずっとここにいると、わたしは何も手にできない』僕はこう言えば良かったのかもしれない。『僕だけじゃ足りないのか?』と。発せられる機会を失った言葉は僕の中にずっと残るのだろう。でも、今の僕には、それさえも大切なことのように思えた。歩道に打ち捨てられたステンレスのゴミ箱が、朝日をキラリと反射した。このままどこまででも歩き続けられるような気がした。本当にジャパニーズは自分でリードを作るのだろうか?スナイフの言葉が脳裏に浮かんだ。それを確めるために、このまま彼らの国まで行くのも悪くないと思った。そんなことさえ可能に思えた。ふと気づくと、どこかから歌声が聞こえてきた。それに合わせるように軽いギターの音。僕はその音をたどって歩き始める。最初はゆっくりと、そして、途中からはこれ以上ないくらい早く。音をたどっている途中で、僕は確信していた。その先に誰がいるのか、を。そして、こんな偶然を、偶然とさえ思っていない自分を、少し誇らしく思っていた。彼女が歌っていた。朝の街路で。白い太陽に包まれて。それは、夢のような光景だった。誰もいないストリート。真新しい太陽の光。目を閉じてギターを抱えて歌う彼女。さらさらと揺れる髪の毛。僕は、しばらくじっと彼女を見ていた。一歩も動けなかった。12弦のギターの奏でる音色が僕を縛っているようだった。僕は必死にその呪縛を振りほどいた。『今しかない』そんな言葉が頭に閃いた。僕は、急いで店に取って返して、乱暴に裏口のドアを開くと、サキソフォンのケースを手にして彼女の歌う街路に戻った。僕は懸命に走りながら祈った。初めて純粋に祈った。僕がそこにたどり着くまで、歌い続けていてくれ、と。僕がその場所に戻ったとき、彼女は相変らず歌っていた。僕の足音に気づいて、彼女は目を開いた。僕は、彼女にそのまま歌ってくれ、と目で合図をした。ギターの奏でるメロディがクライマックスに向かい、彼女の歌が一層力強く、包むように響く。あの歌。スナイフが歌詞を呟いていたあの歌だった。僕は、急いでサキソフォンにマウスピースをセットする。彼女のギターが間奏に入る。彼女が笑顔を浮かべて僕を見ていた。僕の準備が整うのを待ってくれているのだろう、何度かの循環コードが静かに流れて行く。僕はマウスピースに口をつけ、目で合図をする。彼女が小さく頷いて歌い始める。僕の知らない言葉、僕の知らない国、僕の知らない彼女。僕の知らない海、僕の知らない山、そして、そこにたどり着くまでの、遠い遠い道のり。それは本当に深くて広い河のように思えた。彼女の歌は、彼女のギターの旋律は、僕のずっと奥に真っ直ぐに響いてきた。それは僕を連れていってくれた、遠いところへと。そして、気づきもしなかった近くへと。僕は、サキソフォンを吹いた。ギターと、彼女の声と、僕のサキソフォンの音がひとつになって、朝の街路に響いていた。僕たちの音だけが、朝の空気を震わせていた。「さっきの歌、ここで作ったって本当?」僕は訊いた。彼女が腰かけた古いアパートへのアプローチの、一段上に座って。「ええ、本当よ」僕は軽く伸びをする。体の芯に残った火照りが気持ちいい。「いいね、リナは自分で歌が作れて」彼女が笑った。眩しい笑顔で。朝の光よりも、ずっと眩しい笑顔で。「誰が作ったかなんて関係無い。あなたがうたえば、それはあなたの歌よ」そして、僕のサキソフォンを指差した。ゴミ回収車が大きな音をたてて通り過ぎていった。カラスの鳴き声が耳についた。街は準備のための静寂の時間を終えて、また、今日一日の営みを始めようとしていた。僕はひとつ大きな欠伸をした。彼女がそれを見て笑った。夜通し起きてたんだ、欠伸ぐらいするさ、そう言い返そうとした僕を制するように、彼女が僕の口許を指差した。僕は自分の口許に手をやった。少しだけ、赤い血がついた。「ごめんね。昨日、私がリード割っちゃったからだね」彼女が言った。「そうだよ。とっておきのリードだったのに」僕は答えた。作った低い声ではなく、普通の声で。本当は、リードのことなんてどうでも良かったんだけれど。「今度、必ず弁償するよ」「うん、必ず」弁償なんてどうでも良かった。ただ、彼女と約束できることがうれしかった。彼女が、もうずいぶん高く昇った朝日を見つめた。プラチナ・ブロンドの髪の毛が、透き通るように輝く。濃い茶色の睫毛が微かに揺れている。めずらしい色合いのライト・ブラウンの瞳が、瑞々しい光りを放つ。「チャーリー」僕は見とれていて、彼女が僕の名前を呼んだのに気がつかなかった。「ねえ、チャーリー」二度目の呼びかけに、やっと僕は我に返る。「チャーリーはサキソフォンを吹くのが好き?」不意の質問に答えられずに、僕はじっと彼女の顔を見る。その薄茶色の瞳の向こうに、見慣れた、遠い、漆黒の瞳が見えたような気がした。「私は歌うのが好き」彼女は僕の視線を真っ直ぐに捕らえて、笑った。「私、もう行くね」4.次の日も、その次の日も、一週間経っても、一ヶ月経っても、変なアクセントで話す、プラチナ・ブロンドに茶色の眉の奇妙な女はスナイフの店に姿を見せなかった。ボブが僕に何度か訊ねた。リナは一体どこに行ったんだ、と。その度に僕は、彼の間違った“リナ”のアクセントを訂正して、それから答えた。「そんなこと、僕が知るわけがない」と。突然現れた奇妙な訪問者がいなくなっただけ、通りすがりの女が消えただけ。そんなことはわかっていた。そして、それはこの街ではめずらしくもないことだった。僕は前より真面目に働くようになった。それと対称的にスナイフは、ぼーっとしていることが多くなった。僕はひび割れてしまったリードでサキソフォンを吹いて、唇を怪我した。新しいリードが手に入るまでは、店に出るわけにはいかなかったけれど、店が終わった後や、開店前のがらんとした店内で僕はサキソフォンを吹かずにいれなかった。切れた唇を拭って、手についた血を見るたびに、あの朝の二人だけのセッションを思い出した。そして、あのセッションを思い出すと、たまらなくサキソフォンが吹きたくなった。僕の唇には傷が絶えなかった。数ヶ月が経って、ボブも彼女の話をしなくなった頃、フェデックスのロゴ入りのポロシャツを着た、この辺には似合わない身なりの白人が午後のスナイフの店を訪れた。僕は一人で、今日のジャガイモの皮むきをしているところだった。彼は明らかに怯えていた。きょろきょろと辺りを伺いながら、店の中に入ってくる。僕はもう少しで笑い出しそうになるのをこらえて、低い声で言った。「スナイフの店に何の用だい?」彼はどもりながら答えた。「ミ、ミスター、チ、チャーリー・トッシュ宛てにデリバリーに…」僕はミスターをつけられていたせいで、彼が自分の名前を言っているのに気がつくまで時間がかかった。そして、気がついたときにはいつもの作った低い声でなく、普通の声で答えていた。「あ、それ、俺だ」彼は押しつけるように僕に荷物を渡すと、サインも受け取らずに店を出ていった。僕は彼の素早さに呆気に取られてその背中を見送った。しばらくして、我に返ると、フェデックスのロゴの入ったビニール製のバッグのテープをはがして中身を取り出した。中にはエアキャップでくるまれた封筒が入っていた。エアキャップを引きはがし、封筒を手に取る。堅くて薄い手触り。誰から、何が送られてきたのか、全く見当のつかないまま封筒を開く。中には、二枚のCDケースと一枚のポストカードが入っていた。CDを手に取る。忘れるはずもない人がソファに座ってギターを弾いていた。髪の毛の色が少し変わっていたけれど、それは確かに彼女だった。白い部屋、白いカーテン、緑のソファ、青いギター、紅い唇。窓から射し込む、あの朝のような白い光。ポストカードを手に取る。表には見たこともないピンク色の花が咲き乱れていた。裏返す。短いメッセージを見つける。そこには、こう書いてあった。Dear Charlie & Snives,These are my songs.――Also your songs, hopefuly.Rinaフェデックスのバッグの中に、もう一つ封筒が入っていた。中には細長いプラスティックのケース。ふたを開けると、真新しいリードが数枚と折りたたまれたレター・ペーパー。そして、レター・ペーパーの真ん中に大きな文字で、I made it!!
渡るべきたくさんの河END
僕は今日もサキソフォンを吹いている。サキソフォンを吹くと、ジブのことを思い出す。そして、短い時間を共にした彼女のことを思い出す。そうかと思うと、そんなことは全部どっかに吹き飛んでしまうことがある。ただ音の流れを追うことに夢中で、頭の中が真っ白になってしまうことがある。サキソフォンのそんな力に気づいたのは、ごく最近のことだ。そんな風にサキソフォンを吹いた後では、僕は確信することができる。いつか、きっといつか、再びジブに会える日が来ると。再びリナの歌にあわせてサキソフォンを吹ける時が来ると。そして、そこにたどりつくために渡らなければいけない、たくさんの河を思って、僕は一人静かに笑う。
読んでくださった方、ありがとう。これも、理奈だと思ってもらえるでしょうか?
HID (2000/12/07)一部改訂
こちらもどうぞ 酔狂さんにいただきました。
(with great appreiciation)