それは僕の意識に滑らかに入りこんできた。
どこかで聴いた音楽。けれど、新鮮なメロディー。
僕は風を感じた。
頬をやさしく撫でる風。夏への階段を登る春の日々の中で、ふと、記憶を呼び覚ますように吹く、涼しくやわらかい風。
僕はゆっくりと目を開いた。それと同時にメロディーが誰によって奏でられているのかを悟る。唐突に、確信を持って。
ソファで寝てしまった僕の向かい側の壁。壁紙の綺麗な白。そこに寄りかかった女の人。青いギターを抱えて、薄く目を閉じて、ゆっくりと12本の弦を爪弾いている。
薄いレースのカーテンによって弱められた夏の陽射しが、薄暗い部屋の中に、彼女を白く浮かび上がらせている。ソファに寝ている僕と彼女の間の空気を、扇風機が無表情に掻き混ぜていた。
やわらかな日溜まりの中でギターを弾く彼女の姿は、ステージでスポットを浴びているようにも見えた。
ギターの音が止まる。彼女が顔を上げて僕を見る。
その表情は夏の白い陽射しに溶けてしまって、僕には見えない。
僕には、見えなかった……。
While The Guitar Gently Weeps
1.
初夏の陽射しは飽くことなく、地上へと降り注いでいた。僕は、オープンテラスの日陰の部分に空席を見つけて座る。黒いナイロン製の面白味のない鞄を隣の席に放り投げるように置く。その上には、彼女に手渡された二冊の雑誌。
良くわからないフランス語の名前。おそらくその意味さえ分かっていないだろう薄っぺらな芸能人が、表紙で自慢気に笑っているような女性向の雑誌と、その雑誌とはある意味対極に位置しているような、重いトーンの表紙の音楽誌。
『ごめん、急にアポが取れちゃったんだ』彼女は片目を瞑って、両手を拝むように合わせて言った。エアコンの効いていない暑い資料室の中で、彼女の着た紺色のかっちりとしたスーツと、光沢のある綿の真っ白なシャツが、逆に涼し気ですらあった。事実、彼女は汗ひとつかいていなかった。少なくとも僕の目に映る部分には。
『だから、いつもの店で待ち合わせでいいかな』
就職活動の息抜きに遊びに行こう、と昨日電話で誘ってきたのは彼女の方だったけれど、エアコンディショナーの冷たい空気のような気持ちのいい笑顔でそう言われると、僕は頷かざるを得なかった。
『ありがと』おそらく、僕が断ることなんて想定していなかったのだろう彼女の満面の笑顔に、僕は一応不機嫌な表情を作ってみせる。その理由なんて分からなかったけれど、そういったポーズが必要な気がしたから。
カッカッという気持ちのいいヒールの音をたてて、彼女が大学の就職資料室から出て行く。ふと思い立ったように戻ってきて、プラスティック製の書類ケースの中から、二冊の雑誌を取り出して、僕に渡した。
『暇だったら、それでも読んでてね』
そう言って、僕の返事を待たずににっこりと笑うと、自信に満ちた足取りで彼女は資料室から出て行った。一度も後ろを振り向いたりせずに。
僕は紺地に白と青のストライプが入ったネクタイの結び目を軽く緩める。それだけで、周りの空気の濃度が、10%くらいあがったような気がする。背の高いグラスを手に取って、ストローに口をつける。微かな甘味と強い苦味が少しだけ心を落ち着けてくれた。
目に入った二冊の雑誌を見て、僕は複雑な思いを感じる。
彼女――一つ年下の、どちらかというと物事をはっきり言うタイプの女の子――とは、去年僕が再履修していた専門課目で知り合った。背が高く、ちょっと痩せすぎていたけれど、肩を越えて伸ばした髪の毛が、中性的な印象を薄めていた。
僕は語学と必修科目の単位が足りなかったせいで、今年で五年目の大学生活を過ごしている。いや、もちろん、単位が勝手に足りなくなったりする訳はなく、そこにはそれなりの自発的な理由があったのだが。
理由。僕は大学三年の途中から、ほぼ一年間大学に行かなかった。それよりもずっと大事なことがあったから。日常なんかよりも素敵で、倦怠とか退屈とは全く無縁なこと。そんな時間を僕は手に入れたから。
けれど、どんなに素晴らしくても、ショウは無限に続くはずもなく、僕に訪れたそれも例外ではなかった。僕は気がつくと観客席に一人きりで取り残されていた。僕はステージの灯かりが落とされて、セットや機材が片づけられるのをただ呆然と見ていた。
結局のところ、あのときと同じじゃないか、そんなことを思いながら。また、自分は何もできなかったじゃないか、そう思いながら。
そして、たぶん今も同じ席に座ったままだ。
大学に戻ってからの僕は、ただ惰性で講義に出ているだけだった。講義になんて出たくはなかった、でも他に何もやることがなかったのだ。去年の今頃、僕は良く考えた。僕がここに居る理由なんて何もない。けれど、ここ以外のどこに自分の居場所があるのかもわからない。
すでに、ショウの時間は終わっていた。僕が手をこまねいているうちに。そして、それを取り戻すことができないことはわかっていた。取り戻せるはずも無いと諦めていた。
なぜ?
――僕が何も持っていないから。
『うちのクラスの人じゃないですよね。先輩…ですか?』
最初に教室で会ったとき、彼女がよく統御された口調で僕にそう言った。それは、とても上手にコントロールされていて(そのとき以上に慎ましやかな彼女を僕は見たことがない)、僕は一瞬、どこかの社交界に入り込んだかのような錯覚を感じたほどだった。
彼女の言葉に頷いた僕に、『そっか、よろしくお願いしますね』天日で乾かした白いシーツのような笑顔でそう言って、彼女は自分の名前を名乗った。僕も名乗らざるを得なかった。
彼女が、なぜ僕に興味を持ったのかはわからない。もしかしたら、どこかであの噂を聞いたことがあったからかもしれない。
一時期、僕は大学でちょっとした有名人だった。
『アイドル引退の原因』とか、『引退の裏にある男性の影』とか、そういった使いまわしの効く見出しとともに、僕の写真が雑誌に載ったことがあった。それは、全く無根拠という訳ではなかったけれど、僕の本質とは無関係なことだった。いや、そのときは自分でもそう思ってはいなかったけれど。そして、正直なところ、そういった雑誌に載ってる自分というのが、嫌ではなかったんだけれど。
とにかく、その頃、自分の空っぽな中身ばかりを感じていた僕が、自分自身に価値を見出そうとしたら『アイドル引退の原因だった男』くらいしか思いつかなかった。
僕は、一人でそんなことを考えて、バカバカしさに一人で笑ってみたりもした。
誰かにそれを話して、一緒に笑ってもらえば良かったのかもしれない。今では、僕はそう思う。けれど、僕にはそんなことを話せる相手がいなかった。
いつか訊いてみようと思いながら、今まで僕は彼女に訊けずにいる。
どうして、あのとき俺に話しかけたんだ?と。
2.
『私、まだまだしてみたいことがたくさんあるんだ』
彼女は言った。小さく笑いながら、僕の目を真っ直ぐに見て。
『まだ、あなたの家庭教師先にも連れていってもらってないし、アルバイトだってやってない』
『でもね』
『でも、たくさんのことができなくなってしまったとしても、もっとやりたいことがあることに気づいてしまった』
僕は彼女から目を逸らせた。自分は、本当はその言葉を待ち望んでいた、そんな気もした。
『ごめんね、とは言わない。嫌われても仕方ないと思ってる。もしかしたら、私は同じことを繰り返してるだけなのかもしれない。でも、たとえ間違いだったとしても、私はまた歌いたい』
声の調子を変えずに彼女が言う。僕は彼女が抱えている青いギターを見つめていた。
つまらないことで始まった諍い。
彼女に促されて、せめて取れる単位だけでも取ろうと、再び大学に行き始めていた僕が語学の勉強をしている横に、彼女がギターを抱えて座った。青い十二弦のリッケンバッカー。二人で買った初めてのギター。
僕は本当は大学になんて行きたくなかった。彼女と二人で、ずっと過ごしていたかった。だけど、彼女は二人だけの時間に、少しずつ飽いているように見えた。彼女はギターを始めた。昔、兄さんに教えてもらったの、と言うだけあって、僕が聴いてもわかるくらいのスピードで彼女の腕は上がった。僕が寝ているときにも、大学に行ってるときにも、そして、僕が隣にいるときでさえ、彼女はギターを爪弾き、メロディーを口ずさんだ。その表情は、とても眩しかった。昔、テレビモニタの中で見た彼女の笑顔よりも、そして、二人の生活の中で見せたどの笑顔よりも。
彼女の歌を聴くのは嫌いではなかった。その歌声は、僕をどこかに連れて行ってくれるような気がした。どこか遠く。海の音が聞ける気持ちのいい浜辺。風の吹きぬける涼しい高原。そんなステレオタイプな、だけど、とても素敵だと誰もが思える場所。
けれど、僕はいつも割り切れない思いを抱いていた。
そう、それはこんな思い。
―― 彼女は僕を必要としているのだろうか。
『ね、今度のライヴでね、あの曲、演ろうかなと思うんだ』
そう言って、瞳を輝かせて彼女がギターを弾き始める。眩しい笑顔で、僕が何をしているのかを気にする様子もなく。
『うるさい』
僕は、彼女から目を逸らして言った。その言葉自体は間違っていなかった。僕が間違っていたのは、もっと別のことだ。
『あ、ごめん』
彼女は素直に謝って、ギターを弾くのを止めた。
部屋の中は必要以上に静かだった。薄い壁を通して、隣の部屋のテレビの音が聞こえた。何だって、こんなことになったんだろうな、僕は思った。僕たちはただ二人でいれば幸せだったはずなのに。あなたと一緒にいろんなことがしたい、彼女はそう言ったはずなのに。
『ねえ、冬弥』
彼女が口を開いた。声だけで僕の気持ちを溶けさせてしまう人間がいるということを、僕は彼女に出会って知った。隣のテレビからどこかの誰かが歌う、ありふれたメロディーが流れ始める。そこには輝きの欠片も感じられない。
『私が歌うのが嫌、なの?』
彼女が言う。ためらいなく、真っ直ぐに切りこんでくる言葉。僕は何も答えない。眉間にしわを寄せて、手元のテキストに目を落とす。
発音さえも出来ないような単語がそこには並んでいた。彼女の視線を感じた。僕はそれを無視しようと努める。決定的な瞬間が怖かった。だけど、このまま何も変わらないことも怖かった。
彼女が一度、リッケンのネックに指を滑らせる。キュッという音が耳に届いた。
そして、彼女は口を開く。ひとつのショウの幕を引くために。次のステージに上がるために。
『私は、また、歌いたい』
約束の時間を二十分過ぎても、彼女は姿を現さなかった。6月の午後の太陽は、相変らず遠慮なく地上に降り注いでいた。事情が事情だけに仕方ないとは思ったけれど、僕はうんざりし始めていた。すっかり氷が溶けたグラスを手にする。意味も無く何度か揺らしてみる。そのとき、携帯の着信音が鳴った。
「もしもし」
「ごめんね」いきなり彼女の謝る声が聞こえた。ひそめているせいで、いつもよりも大人っぽく聞こえる声。
「どうした?」
「もうちょっとかかりそうなんだ。まだ、待っててくれるかな」
僕は、少し考える。考えるまでもなく、午前中にひとつ面接を済ませた僕には、彼女との約束以外に用事は無かった。
「わかったよ」
「ありがと、また電話する」
切れてしまった携帯をポケットに仕舞って、僕はもう一杯コーヒーを買うために席を立つ。
3.
◆ずいぶん雰囲気が変わりましたね。
「そうですか?自分ではわからないです」(笑)
◆大人っぽくなった、って言われませんか?
「まあ、もう大人ですしね」
◆三年ぶりのアルバムですね?
「ええ」
◆今回のアルバムはご自身でプロデュースされてる訳ですが、そういったことの勉強を?
「いえ、そのための勉強っていうのは特別にしてないです」
◆お兄さんの英二さんのレーベルからの発売ではないんですね。
「はい、兄と一緒にやれることっていうのは、もう全部やってしまったような気もしますから」
◆だから、一旦は引退した?
「そういう訳でもないですけど」
◆では引退した理由は
「今、それを説明しても仕方ないと思います。それに…もう、忘れちゃったし」(笑)
待つことに飽いた僕は彼女の残していった雑誌を何気なくめくってみた。この夏の着こなし。流行のアイテム。実体の無い夏の世界がそこには繰り広げられていた。
ぱらぱらと見るともなしにページを繰っていて、そして、僕は彼女に出会ってしまった。
ほぼ一年半ぶりに見る彼女は少し痩せたように見えた。あるいは、それは写真の撮り方のせいだったのかもしれない。
やわらかそうなライトブラウンの髪。プレーンな白いシャツ。ふたつ外された襟元のボタン。気持ち良く色の落ちたブルージーンズ。そして、右腕には銀のブレス。
特別な飾りなんて必要としない、本物のアイドルがそこにはいた。誰のためでもない、自分自身のための、ごく小さな微笑みを浮かべて。
もちろん、僕は知っていた。僕から離れていった彼女が再び向こう側の世界に戻っていったことを。そして、以前とは違う形で、また歌い始めたことを。
だけど、僕は彼女に関する一切の情報を耳に入れまいとしていた、今日、ここで再び出会うまでは。
どれくらいの時間、そこで微笑む彼女を見ていただろう。周りの音がすべて遠ざかっていった。自分がどこにいて、何をしているのかという認識が薄まっていった。そして、僕は、そこで彼女が語った言葉を、ゆっくりと読んだ。何度も何度も。渇いた旅人が、ようやく辿りついたオアシスで、際限無く水を飲むように。
◆三年間、何を?
「何をって訊かれると困りますね(笑)んー、したいことをしてました」
◆じゃあ、突然の復帰の理由は?
「理由、ですか。したいことをするために、です」
◆今は歌いたい、と?
「そうですね。歌いたい。いろんなことを伝えたい。今、自分が感じてること、過去に
自分が感じたこと、うれしいこと、悲しいこと、寂しいこと。そういったものを自分の言葉で伝えたいですね。そして、そのための手段として自分には『歌う』ことが一番合ってると思います」
◆以前は伝えることができなかった?
「できなかったというより、伝えたいことがわかっていなかった。そう言った方が近い気がします」
◆どうして、それに気づいたんでしょう?
「三年間があったからですね」
◆最後に、今後も活動は続けられるんですよね?
「具体的にどういう活動になるかはわからないですけど、歌うことは止めないと思います。どんな形でも。私がここにいる限り」
どれぐらいの間そうしていたのだろう、僕は彼女のインタビュウのページをじっと見ていた。どこかで電子音が鳴っていた。誰かを呼ぶように。誰かを呼び覚ますように。
僕は我に返って、携帯を取り出した。彼女の声がさっきと同じ言葉を紡いだ。
「ごめんね」
僕の意識はゆっくりと、雑誌のページから引き剥がされる。
「あ、ああ」
「どうかした?」
僕の言葉に異常な響きを感じたのだろう、彼女が訝し気な声を出す。そして、気を取り直したように明るい声で続ける。
「あとちょっと、ホントにあとちょっとで終わりそうだからさ。お願い、もう少し待ってて」
「うん」
「そうね…」
僕の言葉に安心したような声で彼女が言う。
「…あと一冊雑誌読めるくらいの時間、で終わると思う」
4.
―― 今、自ら運命を奏でるために ――
それが、このアルバムにつけられたコピーである。
正直なところ、彼女のアルバムをこのレビュウで取り上げる日がくるなどとは思っていなかった。僕がそう書く理由は、ほとんどの読者にとって自明ではないだろうか。
兄、英二の卓越したマーケティング力と『売れる』音楽を作り出す才能、そして、彼女自身の持つ一種の輝き。それは三年前の「音楽祭」でひとつのピークを迎え、彼女は最優秀賞を受賞した。
けれど、それは僕とは(そして、おそらく君たちとも)違う世界での出来事だった。その後の、多くの人々にとっては、センセーショナルであった突然の引退と合わせても、僕の世界と彼女の世界が重なることはなかった。
だから当然、彼女が再びステージに戻ってきたこと、それ自体も僕の興味を引くことではないはずだった。
だが、アルバムのクレジットを見たときに気が変わった。ほとんど全ての曲を彼女自身が作っているという事実が、僕にこのアルバムを聴くだけの動機を与えた。
いや、実際のところ、僕は初めからこのアルバムを聴くことを決められていたのかもしれない。虚飾とひとことで片づけることは簡単でも、三年前までの彼女は確かに特別な輝きを放っていた。それが好意であろうが、嫌悪であろうが、人々にそういった感情を喚び起こすだけの力を彼女が持っていたことは間違いのないことだったのだから。
そして、僕にしてもその力を感じてはいたのだ。
複雑な感情。困惑の混ざった期待は、けれど、音楽がスピーカから流れ始めた瞬間にあっさりと消え去った。
最初のトラックの最初のフレーズを耳にしたときに、僕は確信していた。『このアルバムは大丈夫だ』と。音が作り出す場。その雰囲気が肌に伝わってきて、僕は寒気すら覚えた。
Truck−1、「Painted Myself」はギターの強烈なカッテイングから始まる。それに絡む重厚で激しいリズム隊。けれど、そこに乗せられる旋律とヴォーカルは、透明な甘ささえ感じさせる。この曲がこのアルバムの最初に入っている意味、そして、シングルカットされたことの意味。さまざまな憶測がひとり歩きして、この曲のヒットとともにマスコミュニケーションは毎度のばか騒ぎを繰り広げた。全盛時の勢いは既にないとはいえ、未だにこの業界に強い影響力を持つ、兄、英二との訣別。そして、彼女がアイドル時代にリリースした、最大のライヴァルであった森川由綺とのコラボレーションアルバムのタイトルを否定するような曲名。
だけど、彼女自身はそんなことを考えてもいないんではないだろうか。この曲を聞いて、僕はそう思った。頭のどこかに、先入観を植えつけられていた僕を、彼女はあっさりと、見事に、裏切ってくれた。
詞を切り取ることにはほとんど意味などないのだけれど、あえてやってみよう。
彼女はこの曲の中でこう歌っている。
今 すべてを 私自身の色で塗り分けよう/
強さとか弱さとかでなく/手に入れるとか失うでもなく/
ただ そこにあるものに/この手で触れるために/
目を凝らそう/名前をつけよう/
いつか本当の色をあなたに見せることができるように/
この詞がはっきりとしたビートの上で歌われるとき、そこには彼女の意志が感じられる。
強烈な意志。どこまでもポジティブで、アグレッシブですらある感情。過去の否定。
けれど、それは後悔とか悔悟とかではなく、今とは違う自分になるための正の感情による訣別。全編を通して、語られるのは彼女の決意。そして、音楽への歌うことへの限りない愛情。
それが最も端的に表れているのはTruck−5、「Redemption
Song」。これはサブタイトルにもある通り、Bob
Marleyの同名曲のカヴァーである。アコースティック・ギター一本で歌われる原曲を、ほとんど忠実にカヴァーしながら、そこには彼女自身の色がある。誰に作られたものでも、誰に強いられたものでもない彼女独自の色。そして溢れ出すように伝わってくる歌うことへの歓び。
Won't you help to sing/These songs of
Freedom
彼女は気づいたのかもしれない。自由へ到達するための手段に。
僕は胸のつかえを取るように、息の固まりを吐き出した。僕の手の中には彼女が残していったもう一冊の雑誌、音楽誌があった。国内外で発表されるアルバムやライヴのレビュウを中心にした雑誌。その中に、「Intimacy」というアルバムのレビュウがあった。表紙にもタイトルが載っているその記事は数ページに渡り、カラーページのすぐ後の特集の位置に組まれていた。僕は、貪るようにその記事を読んだ。結局のところ、僕は理奈のことが知りたかったんだ。ただ、不自然に情報を遮断していただけ。子供が嫌なことから耳を塞ぎ目を逸らすように。
なぜ?
きっと、怖かったから。
なにが?
彼女自身が一度否定した世界に戻ってきた理由。そして、兄の元へ戻ることを選択しなかった理由。それは、世間で言われているようなスキャンダラスな側面など微塵もないのではないだろうか。
歌いたい。伝えたい。それらの思いは限りなく純化され、雪のように結晶してゆく。
カヴァーを除くとただ一曲、彼女の名前がクレジットされていない最後の曲、Truck−11。
アルバム全体の厚みのあるリズム・セクションとは対照的に、ギターのやわらかな音だけをバックに、ささやきかけるように歌われるこの曲。
本アルバムの中では異質ですらある女性的なヴォーカル。まるで、子に歌って聞かせる母の歌声のような。
そして 気がつけば 朝がまた来て/いつもと同じようにふたり目を覚ます/
だけどふたりは知っているね/同じ朝なんて来ないことを/
すべてはここに留まらないことを/
そこにあるのは何だろう?大切だけれど移ろいゆく時間への哀惜?いや、移ろいゆくからこそ、大切なものへの愛情。
どこかできっと 思い出すはず/あのギターのやさしい響き/
このメロディーが教える風景/眩しい朝日のあの部屋を/
そして いつでも耳を澄ませて/私の声がいつか嗄れて/
歌えなくなるときがきても/きっと 誰かが口ずさむから/
僕は思う。すぐれた才能の前では、一途な渇望の前では批評など何の意味もないと。このアルバムに関していえば、方法論など必要なかったのだろう。ただ、溢れ出すままに、思うままに歌っただけ。そんな気持ちの良い潔さが、全編を通して漂う。
そして、僕はこうも思うのだ。アイドルであった頃の彼女を少しでも知っていて良かったと。無限とも思える距離が、あの頃と今の彼女の間にはあるように思える。けれど、それはほんの紙一重のようにも感じられる。
あなたが、少しでも彼女のことを知っているならば、このアルバムを聴いてみてほしい。そして、このうえなく気高い彼女の道のりを少しでも感じ取ってほしい。
5.
気がつけば、オープンテラスはバータイムに入っていた。傾いた太陽が空の一方をオレンジ色に染め上げ、夜を感じさせる冷やりとした風がときおり頬を撫でる。
僕は二冊の雑誌を自分の鞄に放り込み、席を立つ。そして、駅に向ってゆっくりと歩き出す。今日は、彼女は来ないだろう、そう確信しながら。
ならば、明日は?
駅に向かう人ごみの中で、携帯電話が夕闇に抵抗するかのように、僕を呼んでくれる。
「ごめん。遅くなっちゃった」彼女の声が聞こえた。
「うん」
「今日は行けない」
「うん」
「ごめんね」
「いいよ」
「読んだ?」
気のせいだろうか、彼女の声が少し硬かった。電話からは、電車の到着を告げるアナウンスと、雑踏が聞えてきた。
「ああ」
「そう」
僕は駅のプラットフォームの人波の中で、所在無さ気に立ち尽くす彼女の姿を思い浮かべた。そして、不意に震えるような寂しさを感じる。また、電車の音が聞こえる。
「今度…」彼女が言いかける。電車の音にかき消されて、彼女の言葉は最後まで聞こえない。
「何?」
「何でもない。ごめん、今日はもう帰るね」
「うん」
しばらく会話が途切れた。離れた二つの駅の雑踏が、二人の間を満たす。僕はもう一度、彼女の姿を思い浮かべようと試みる。ゆっくりと息を吐いて、目を開く。
「アルバム、聴いた?」
僕は問いかける。
「えっ、う、うん聴いたよ」
「どうだった?」
「うん、良かったよ。きっと、彼女の三年間はすごく素敵だったんだろうね」
「そうか」
「今度」僕は言葉を切る。どうしても、彼女の相槌が必要だったから。
「うん?」
「今度、一緒に聴こうか」
「うん」
はっきりとした声で、彼女が僕に応えてくれる。
While The Guitar Gently Weeps
END
だから 私は憶えているの
このギターのやさしい響き
空に浮かぶ ひそやかな月 二人見上げた冬の夜も
だから 私は歌いつづける
私の声がいつか嗄れて
歌えなくなるときが来ても きっと 誰かが歌えるように
『どう?』
理奈が閉じていた目を開いて訊ねた。長い睫毛が微かに震える。僕はその表情が眩しすぎて、すっと目を逸らせた。
『ね、どう?』
彼女が僕の頬に両手を当てて、自分の顔の方に向けながら言う。その瞳の色は真剣で、少しだけ滲んで見える。
僕の瞳を覗き込むように見た、彼女の表情が崩れる。
『冬弥、泣いてるの?』
笑いながら言う。
『う、うるさいな』
頬に当てられたままの彼女の両手を振りほどく。勢い余った僕と彼女の手が、彼女の抱えたギターのボディに触れて乾いた音をたてた。
『あ、ごめん』
僕はギターに当たった彼女の手をそっと握りながら言う。
『ううん、平気。私こそ、笑ってごめん』
僕は黙ったまま頷く。
『ね、気に入った?この曲』
僕はもう一度頷く。
『じゃあ、冬弥に贈るよ、この歌』
目を閉じる。やさしいギターが流れ始める。
HID(2000/06/08)
一部改訂(2000/06/25)
改訂(2000/12/11)