はじめに
Starting over、Swingin' Days、「白の時代」と共通の世界。
「白の時代」から一年後の栞です。
Swingin' Daysを追い越してしまいました。時間的に。
オリジナルのキャラが多く出ますので、以下の2作品を読んでいただいた後の方が、楽しめると思います。
さすがに、Starting overから全部読んでくれとは言えませんので…。

「白の時代」

"Is This Love?"























 ねえ、ねえ、お姉ちゃん。
 なあに?
 くまさんも夢を見るのかなあ。
 くまさん?
 うん、くまさん。とーみんしてる、くまさん。
 うーん…。
 いいよねえ。ずーっと、ずーっと、夢、見れるんだもん。
 そうだねえ、冬の間中ずっとだもんね。





…くまさんも夢、見てるのかなあ…。





















Happy Like a Winter Bear














「ああ、もう」
 わたしは口に出してそう言うと、手にしていた鉛筆を傍らの机の上に投げ出した。
――全然、描けないよ。そう話しかけようと思って、イーゼルから顔を上げる。けれど、視線の先には誰もいなかった。
 スチームの作り出す湿気を帯びた暖かい空気と、様々な画材の匂いが一緒になって沈殿したような部屋。冬の放課後の美術室には、今日もわたし一人しかいない。
 ついこの間、12月に入る前までは、わたしの正面の場所に、同い年の、けれど学年はひとつ上の彼女がいつも座っていた。
 松岡楢、それが彼女の名前。
 彼女はわたし以外ではほとんど唯一の、定期的にここに顔を出す美術部員だった。
 そんな彼女も――いささか遅すぎるような気がするんだけれど――12月に入ってからは受験のために部活に出なくなっていた。
 絵を描いているときには、いや、正確に言うとキャンバスに向かっているときには、わたしたちはお互いにほとんど口を利かなかった。
 それでも、知らないうちにわたしは、ずいぶん彼女の存在に慣れていたのだろう。彼女がここに来なくなってからもう二ヶ月近く経つというのに、ふと顔を上げたときに誰もいないことにあらためて気づき、その度に、言い表わしようのない塊のような感情を覚えた。
 それは嚥み下せないことはないけれど、嚥み下したくないと思えるような種類の感情だった。
 彼女がいつも座っていた場所を、ぼんやりと眺める。スチームの音が妙に耳につく。
 すっかり白く曇ってしまっている窓ガラスに視線を移す。わたしは思わず笑ってしまう。
『ああ、こんなうっとうしい曇りの日に絵なんか描けないよ』
 そんな彼女の言葉を思い出して。
 彼女は、何かその日の特徴を見つけては、それを絵筆がすすまない理由にして、いつも文句を言っていた。
 晴れてるから、暑いから、雨が降ってるから、風が気持ち良すぎるから…、すべてが彼女のモティベーションを阻害する要因になり得た。
 彼女――楢は毎日のように美術室に来て、結局、一枚の絵も描き上げることがなかった。




 不意のチャイムに我に返る。反射的に顔を上げると、壁のシンプルな時計は、待ち合わせの時間の近くを示していた。
 わたしは、慌てて片づけをして美術室を出る。スチームのせいで体が火照っているからだろうか、アイスクリームを食べたい、とふと思った。





















「藤井君」
 わたしは窓際の席に座って、窓の外をぼんやりと見つめている彼を見つけて、声をかけた。冬の午後の混んだ百花屋の中でも、彼の姿はひときわ目立っていた。
 学校で毎日会っているとわからないけれど、彼はもしかしたら、かなり人目をひくタイプの男の子なのかもしれない。普通よりもかなり高い背、さらさらとした手触りを想像できる無造作に伸ばした髪、ほっそりとしていて、でも、男の人らしい体つき。
 実際今も、彼の席の手前のテーブルに座った、近くの女子校の制服を着た女の子のグループが、彼に声をかけたわたしの方に一斉に視線を向けてきていた。
 お姉ちゃんならこんなときに、彼女たちの視線を気にした素振りも見せずに受け止めるだろう。背をすっと伸ばして、挑戦的とも思えるような表情で。
 でも、彼女ほど自分に自信がなく、彼女ほど好戦的でもないわたしは、その視線に気づかないフリで彼の待つ席に急ぎ足で向かった。
『なんだ』とか、『大したことないね』とかいう声が聞こえた気がするけれど、わたしの気のせいかもしれない。
「お待たせ」
 そう言って彼の向かい側の席に座るわたしを、ちょっとぼんやりとした表情で見て、彼が答えた。簡潔に。
「よ」
 それだけ言うと、彼はまた視線を窓に戻した。彼の視線の先のガラス窓は、よく子供が電車の中でやるように曇りが乱暴に拭き取られていて、そこから外を見ることができた。乱雑に切り取られた景色の中で、雪が降っていた。わたしが校門を出るのが合図だったかのように、降り出した雪。空を埋めるようにして、景色を埋めるようにして降る、とても静かな雪。この街の冬には、めずらしくもない光景。
 けれど、彼はそれが希有なものであるかのような表情で、食い入るように見つめていた。
 すっと通った鼻筋と、男の人にしては長すぎるように感じられる睫毛。滅多に見られないほど真剣な色を浮べている黒い瞳。
「ご注文よろしいですか?」
 気づかないうちに、隣に立っていた店の人の言葉にわたしは慌ててしまう。彼の横顔に見とれていたという状況が、余計にわたしを慌てさせた。
 ココアを注文した後で、今日は久しぶりにアイスを食べようと思っていたことを思い出す。注文の時の様子を、何と言ってからかわれるだろうかと思いながら、おそるおそる顔を上げると、彼はわたしを見ていなかった。
 視線を感じて、その方向を見ると、彼の向こう側でさっきの女の子達が含み笑いをしていた。わたしはすぐに視線を逸らせた。
 彼は相変らず窓の外を見たままだった。
 彼の前に置かれた、大振りなコーヒーカップからは、すでに湯気は立っていなかった。





















 わたしは傘もささずに、激しくなりはじめた雪の中を歩いていた。
 顔に当たってすぐに融けてしまう雪の冷たさも、全く感じなかった。
 わたしの中で、恥ずかしいような気持ちと自分を責める気持ちと彼に対する怒りに似た気持ちが、入れ替り立ち代わり現れては、消えていった。




『だからね…って、聞いてる?藤井君』
 こっちを向こうともせずに、窓の外を見ていた彼の横顔。わたし一人がずっとしゃべっていた。
『藤井君…。藤井っ』
『え?』
『え、じゃないよ、もう。全然、人の話し聞いてないじゃない』
『あ、悪い』彼の反応の鈍さよりも、その向こうでくすくすと笑う女の子たちに腹が立った。
“何、あれ”、“修羅場ってる?”そんな言葉が耳に入った。
『わたし帰る。じゃあね』
 そう言って、わたしは隣の席に置いたコートを抱えて立ち上がった。自分のココアの代金を払うために財布を取り出そうとして、床に落としてしまう。女の子たちの笑い声が一層耳についた。その声に抗うように、バンッ、と勢いよく千円札をテーブルに置いたわたしを、呆気に取られたような表情で見ていた藤井君がようやく口を開いた。
『栞…』
『栞なんて呼ばないで』
“げ、マジ修羅場じゃない”女の子の声と、他の子がそれに頷く様子が視界の隅に入る。
『…美坂』
『わたし帰るから。じゃあね』
 そう言い放つと彼の顔を見ずに店の入口に向かう。途中、女の子たちのテーブルの所で立ち止まって、ひと睨みせずにはいられなかった。
 さっきまでいろいろ言っていた三人の女の子たちは、わたしを見ようとせずに、顔を伏せた。面と向かって何も言えないなら、言わなきゃいいんだ。わたしはそう思った。三人の顔を良く見たけれど、お姉ちゃんよりもキレイな子なんて一人もいなかった。




 ふと気がついて顔を上げると、わたしはあの並木道に来ていた。
 あの場所。もう遠い昔に感じられるあの冬に、祐一さんとあゆさんに初めて会った場所。
 おかしいな、なんとはない違和感を感じて隣を見ると、男の人がわたしに傘を差しかけてくれていた。
「よ、久しぶりだな」
「ゆ、祐一さん?」
 驚いたわたしを見て、面白そうに笑って彼が言った。
「おお、俺だ。でも、そんなに驚くほどのもんじゃないだろ?」
「お、驚きますよ。いきなり傘差しかけられたら」
「いや、いきなりじゃないぞ」
「え?」
「何やら、スゴイ顔でずんずん歩いてる女の子がいたから、ずいぶん長い間、あとをつけてきたんだ」
「え?ええっ!」
「祐一、あまり出たら目ばかり言っちゃダメだよ」
 その声に驚いて振り向くと、赤い傘をさした名雪さんが困ったような顔で笑っていた。
 おお、栞のリアクションがあまりに面白くてな、祐一さんが名雪さんにそう答える。
「ここ、学校の帰り道なんだよ。香里に聞いたことない?」
 そう言いながら、名雪さんが大ぶりなハンカチを手渡してくれた。そのハンカチを見て、わたしは自分の髪の毛が、雪で湿っているのに気づいた。
 名雪さんの問いかけに、わたしは受け取ったハンカチで髪の毛を拭きながら、首を横に振って答えた。
「ありがとうございます」そう言って、名雪さんにハンカチを返す。返したあとで、自分のハンカチを使えばよかったんだと気づいた。
「ま、何にしても、この雪の中、傘もささないで歩くのは止めとけ」
 祐一さんが口を開いた。
「めちゃくちゃ目立つから」
 そう言って笑う。名雪さんがそんな祐一さんをたしなめる言葉を口にする。わたしは何も言えずに二人を見ていた。





















『よし、栞、飲みにでも行くか?』
『え?』
『二人がこの場所で再会した記念に』
『祐一』
 バシンッ、と名雪さんが、彼の背中を叩いた。
『とにかく百花屋でもどうだ?久しぶりに会ったんだし』
 祐一さんの表情と、隣で大きく笑う名雪さんを見ていると、その申し出を断わることなんて、わたしにはできなかった。
 そうして、わたしはかなり恥ずかしい思いをしながら、その日二度目の百花屋のドアの前に立った。カランカランと乾いた音で鳴るベルの音を聞きながら、祐一さん、名雪さんのあとについて、お店に入った。
 おそるおそる顔を上げると、さっき女の子たちがいた場所には、大学生っぽい女の人の二人連れが座っていた。その向こう側の席、藤井君がずっと外を見ていた席には、わたしたちの学校の制服を着たカップルが座って、楽しそうに話しをしていた。
『栞ちゃん?』
 ドアを入ってすぐのところのテーブルに、向かい合わせに座った祐一さんと名雪さんが、立ったままその席を見つめていたわたしを、不思議そうに見ていた。
『知り合いか?』わたしの視線を追って、見知った制服を見つけた祐一さんが聞いた。
 わたしは頭を横に振って否定すると、名雪さんの隣の席に座った。




 雪の中を傘もささずに歩いていたわたしの姿は、かなり印象が強かったらしい。あの祐一さんが、心配そうな表情で理由を訊ねてくるほどに。
 わたしは、数時間前の百花屋での出来事を、その場所を目にしながら説明する羽目におちいった。現場検証をさせられるときの犯罪者は、こんな気持ちになるんだろうか、わたしはそんなことを考えた。
 意外にも――と言ったら怒られてしまうだろうか――、祐一さんはムダ口も挿まずにわたしの話しを聞いてくれた。名雪さんは、言わずもがな。いつものように、ある種のオーラさえ感じさせる真剣さで話を聞く様は、話してる方が圧倒されてしまうほどだった。


『そんなのってヒドイと思いませんか?』
 その言葉で話しを終えたときには、頬の火照りを感じるほどだった。知らないうちに昂ぶっていた気持ちを冷ますために、アイスココア(今度はアイスにしたのだ)のストローに口をつけたわたしに、ふたりは今にも笑い出しそうな良く似た表情を向けてきた。
 グラスをテーブルに戻し、ふーっと息をついたのを見て、祐一さんが堪えきれない様子で笑って言った。
『で、栞は結局、何を怒っていたんだ?』
『え?』
――やっぱり、真剣な表情は見せかけだけだったの?あんなに細かく説明したじゃない。
 わたしの中で、そんな言葉が渦巻いた。
『もう、祐一。言い方が悪いよ』
 名雪さんが言った。けれど、言葉と裏腹に名雪さんの顔にも、やさしい笑みが浮かんでいた。
『そうか?俺にはノロケにしか聞こえなかったんだが』
『ち、違いますよ』
『藤井君、雪になんか思い出があるのかな?』
 名雪さんが、わたしたちの会話を遮るように言った。
『え?』
『きっと、何か思い出があるんだよ。そうじゃないと、誘っといて、上の空なんてないと思うし』
 栞ちゃん、知ってる?と言葉を続けた。
『ったく、お前はお気楽だな』
 祐一さんが、名雪さんに向かって言った。
『どうして?祐一だって、雪を見ると思い出すことあるでしょ?』
 名雪さんが言い返した。
『おお、あるぞ』
『え、どんなことですか?』
『ね、聞きたくなるよね』
 その問いかけを待っていたように、名雪さんが言った。
『祐一の思い出でさえ聞きたくなるくらいだもん、藤井君の思い出ならもっと聞きたいよね』
『は、はあ』
 わたしは名雪さんの言わんとすることがうまく掴めずに、あいまいに返事をした。
『“俺の思い出でさえ”ってのはなんだ。さえってのは』
『だって、今は、祐一は関係無いんだよ〜』
 困ったような声で名雪さんが言った。
『あ、祐一さんの思い出、聞きたいですね』
『栞ちゃん、いいんだよ。気なんか使わなくて』
 そう言った名雪さんの頭を、バシンと軽く叩いて、祐一さんがうれしそうに言った。
『おお、そうか。栞は聞きたいか』
 祐一、痛いよ〜、という抗議の声を無視して、祐一さんが続けた。
『俺の雪の思い出はな…』
『はい』
『…名雪に殺されかけた』
『は?』
『業務上過失致死未遂だな』
『はあ』
 わたしは、よくわからないまま相槌を打った。
『祐一、ひどいよ』
 名雪さんが、頬を膨らませてみせた。
『そんなことじゃなくて、もっと他に思い出すことあるでしょ?』
 少し怒った口調で、そうつけ加える。
『ばか、冗談だろ、冗談。っていうか、ここでそんな恥ずかしい話しができるか』
『恥ずかしい話しなんですか?』
『ううん、全然、恥ずかしくないんだよ。とってもうれしかった話し』
 わたしの問いに名雪さんが答えた。祐一さんは困ったような顔で、別の方を向いている。
『…そう言えば』
 祐一さんがつぶやくように言った。窓の外を見ながら。
『あの中庭でも、ずいぶん雪が降ってたよな』

 その表情を見て、その言葉を聞いて、わたしは唐突に思う。
 あのとき、あの場所で、この人に会えて本当に良かったな、と。
 そして、今、ここでこうしていることができる関係でいれて本当に良かったな、と。

『え、じゃあ聞かせてください。うれしかった話し』
 わたしは名雪さんに向き直って、笑いながら言った。話題を変えないと、うれしくて涙がこぼれそうだった。
『うん、いいよ。ええっとね…』
 そうやって話しだそうとした名雪さんを、祐一さんが慌てて遮る。
 名雪さんはそれを待っていたかのように、笑顔で祐一さんと言い合いを始めた。
 わたしは、そんなふたりを見ながら、今度、彼に会ったら、何と言って訊いてみようかな、と考えていた。
――何でも話してよ。藤井君のこともっと知りたいよ、がいいかな。きっと、そんなセリフは言えないだろうな。
 楽しそうな祐一さんと名雪さんの言い合いをBGMにして、わたしは考える。
 気がつくと、ふたりがわたしの方を見て笑っていた。
『幸せそうだな』
『幸せそうだね』
 ふたりは言った。
 わたしが今、幸せそうな顔をしているとしたら、それは一体誰のおかげなんでしょうね。
 わたしは、そう思った。




 そして、またアイスクリームを頼むのを忘れていたことに、百花屋を出るときに気がついた。





















 ガラリと乱暴に扉を開くと、いつもの場所に荷物を放り投げるようにして置く。
 そして、大きなため息をひとつ。
 結局、今日は彼に話しかけられなかった。彼の方から、話しかけてくることもなかった。そんな彼を腹立たしく思わなくもなかったけれど、自分の情けなさを怒りとすりかえてはいけない、と考えて踏みとどまった。
 いつかお姉ちゃんが言っていた。
『いい女っていうのは、つまり、何でも人のせいにしない女ってことなのよ』
 その言葉を呪文のように口の中で唱えて、わたしは湧き上がってこようとする怒りを鎮めた。


 本当は、話しかけられなかった理由は、もうひとつある。
 彼が、この前と同じ表情を窓の外に降る雪の景色に向けているのを見てしまったから。
 その表情が、彼のどんな思い出に繋がっているのかを考えると、それに無雑作に触れてしまおうとしている自分の行為が正しいのか、と思ってしまったから。
 ううん、それを知ってしまって、自分の居場所がないことを思い知らされるのが、こわかっただけなのかもしれない。


 はあー、ともう一度、長いため息。


「ああ、もう、うっとうしいなあ」
 声に驚いて、顔を上げる。視線の先。いつもの場所には、いつもの顔で楢が笑っていた。
「え、楢?なんで?」
「え、楢、じゃないよ。部屋の電気ついてたでしょ」
「電気…。そう言えば」
 まったくもう、と呆れたように言う彼女は、制服の上に作業用の白衣を着けて、キャンバスに向かっていた。わたしは、彼女が白衣を着ているのを、初めて見た。
「え…」
「何?驚いてばかりでうるさいよ、後輩」
「…ゆ、楢が描いてる」
「そりゃ、私だって絵ぐらい描くよ。美術部員だもん」
「雪降ってるのに?」
 楢が頷く。
「すごく寒くて、美術室の中は画材臭いのに?」
 また頷く。
「部室に誰もいなくて、スチームの音が一人の寂しさを二倍増しにするかのように響くのに?」
「あー、いい加減にして。もう」
 そう言って、楢が立ち上がる。
「だって、それくらい驚いたよ」
 そう言ったわたしの顔を見て、それから、やさしい笑顔を浮べて楢はストンと椅子に腰を下ろした。
「まあね。それは驚くよね」
「私だって驚いてるんだよ、ホントは」
 そう言って、楢が私を見た。わたしは小さく頷いてから、いつもの席に座った。
「何だろう。描きたくて堪らなくなっちゃってさ」
「受験からの逃避って言ってしまえば、それまでなんだけどね」
 楢がふふっ、と小さく笑う。
「でも、今になって初めて、描きたいものが浮かんできたんだよ。そして、それはきっと、今、描かなきゃいけないものなんだよ」
 わたしは黙って彼女の言葉を聞いていた。久しぶりの二人の美術室は、いつもよりも狭く親密に感じられた。この部屋さえ、彼女の訪問を喜んでいるようだった。
「今なら、わかる気がするんだ」
「え?」
「栞が雪の絵を何度も描き直したわけが、そして、あれから一度も雪の風景を描かないわけが…」
「…今ならわかるような気がするんだよ」


 楢の言葉が、わたしの中の景色を呼び覚ました。それはいつだって、喚ばれるのを待っているものだった。
 あの日々。信じたくない未来を突きつけられて、何ごとも現実に感じられずに街をさまよい歩き、部屋の中で暗い考えに沈んだ日々。
 長い長い悪夢。けれど、それにさえ終わりが来たのなら。そして、あの風景を、今でも共に抱えてくれている人たちが、確かにいるのならば。
 それを誰かに手渡していくことを、わたしはしないといけないのだろう。
 そして、誰かからそれに良く似た何かを受け取っていくことも。


「夢、なんだよ」
「え?」
 楢が怪訝な顔で訊き返す。
「過ぎてしまえば、みんな夢と変んないんだよ」
「それでも、それは夢じゃないから、だから、わたしはあの絵を描きたかった」
 楢がわたしの言葉を噛みしめるように聞いて、口を開く。
「何かわかんないけど、でも、わかるような気もする」
 わたしは彼女らしい言葉に頷く。
「ポエミー過ぎるけど、でも、わたしに似合った考え方でしょ?」
「似合ってるかどうかは知らないけど、確かにポエミーだね」
 楢が笑って答える。
「栞にもそんなセリフが言えるんだね」
「ひどいですー。先輩」
 そう言って、わたしも笑う。 
 ふたりで、久しぶりに声を合わせて笑った。


「熊の夢だっていつかは終わるの」
 わたしは笑うのを止めて言った。
「え?」
「冬眠する熊は長い長い夢を見るの、でも、それは熊の人生では楽しみのひとつなんだよ」
 楢が、話の行く先を測りかねているような顔をする。
「どんなに楽しい夢でも、どんなに悲しい夢でも、それがいつか終わることを知ってるから、だからこそ、それはとても幸せに感じられるんだよ」
「だから、熊たちはそれを心から楽しめるんだよ」
 目の前のキャンバスに視線を落とし、少し目を細めて、そこに描かれるべき遠い風景を見通すような表情をしたあとで、楢がわたしを見た。
「私は、私の見ていた夢を描くんだね」
 わたしは頭を横に振ってから、答える。
「違うよ。楢は楢の過ごしてきた時間を描くんだよ」
 楢が笑う。そして言う。
「何か、幸せな絵が描けそうな気がしてきたよ」
「そうでしょ」
 わたしは答える。心から笑いながら。





















「それはそれとしてね」
 ひとしきり笑ったあとで楢が言った、真剣な表情で。
 わたしも笑顔を収めて、楢の方を見た。
「さっきから、ドアの辺りにちらちらと人影が…」
 わたしは楢の言葉に、ドアの方を振り返る。わたしが振り返るタイミングを測っていたかのようにドアが開いて、背の高い男の子が入って来た。
「栞」
 思いつめたような顔で、彼がわたしの名前を呼んだ。
「栞って呼ばないでって言ったでしょ」
 わたしは、落ち着いた声で答える。なぜか、彼がここに来ることは当然のことのように思えた。だから、わたしは、慌てたりしなかった。
「あ、ああ。美坂」
 彼が言い直す。
 彼のそんなところに、すごく親密な気持ちを覚える。その気持ちのせいで緩んでしまわないように、意識して表情を固く保った。
「なに?」
「この前は悪かったな」
「何が?」
「誘っといて、ほったらかしにして…」
「だから?」
「だから…」
「ね、栞、いい?」
 ふたりのやり取りを黙って聞いていた楢が、口を挟んでくる。
「何?楢」
「どっか他でやってね。私、絵描いてるところだから」
 ニッコリと笑って楢が言う。
「そ、そうだね、ゴメン。行こうよ、藤井君」
 わたしは慌てて自分のコートとカバンを持つと、彼の右手を掴んで美術室のドアを開けた。彼は何も言わずにわたしについてきた。
 そして、わたしは、彼が来て驚いていないと思ったのは錯覚だったことに気づいた。彼の姿を見たときに、楢とふたりでいたことさえ忘れてしまうくらいに、舞い上がっていた自分を見つけて。


「じゃ、じゃあね、楢。邪魔してゴメンね」
「いいえ、こちらこそ」
 楢が笑いながら答えた。
「あ、栞」
 ドアを閉めようとしたわたしを呼び止めて、楢が言った。
「熊はホントに夢を見るの?」
 ひとつ首を傾げてから、わたしは答えた。
「さあ。わかんないよ、わたしには」
「そう」
「うん。でも、わたしはたくさん見たよ」
「そう」
 楢が笑って応えた。
「栞」
「うん?」
「きっと、私もたくさん見たと思う」
 彼女の言葉に私は頷いた。
「ね、楢」
「何?」
「絵ができたら、絶対に見せてね」
 笑顔のままで、楢が頷いて言った。
「いいよ、後輩」
 わたしも頷いて、勢いよくドアを閉めた。


 それが合図だったかのように、チャイムが鳴った。ガランとした放課後の廊下で、彼とふたりきりで聞くチャイムは悪くないな、と思った。


「さて」
 わたしはそう言って、彼の方に向き直った。
「なあ、美坂」
「なに?」
「熊って何の話だ?」
「さあ、何の話でしょう?」
 わたしの答えに、彼がちょっとだけ肩をすくめた。わたしは、彼のそんな仕草も気に入っている自分を見つけた。
「それよりね、藤井君」
「何だ?」
「美坂なんて呼ばないで」
 それを聞いて、彼が笑った。彼の笑顔を久しぶりに見たような気がした。
 そして、もちろん、わたしも笑った。自分の一番のお気に入りの表情を相手が見せてくれているのに、笑わないでいられるはずなんてなかった。





















 その日の帰り、ついに百花屋でアイスを食べることができた。
 彼は、小さな熊(!)のピアスをわたしにくれた。誕生日用に買ってくれていたのだろう、綺麗にラッピングされた赤い箱と緑色のリボンには、小さな金文字でたくさん、Happy Birthdayと書いてあった。
 シルバーの地に、赤いコートを着て緑色のマフラーを巻いた明るい茶色の熊がモールドされた、とてもかわいいピアス。
 彼がそれを買ったときの姿を想像すると、結構、笑えた。
「すっごくうれしいんだけどね、藤井君」
 お礼を言ったあとで、わたしは言った。彼は、今度は何を言い出すんだろうというような表情で、わたしを見た。その顔がピアスの熊に似てるような気がして、笑い出しそうになった。
「わたし、まだ開けてないんだよ、ピアス」
 そう言って、耳たぶに手を添えた。
「だからね」
 口を開こうとした彼を遮って、言葉を続けた。
「これ、つけてるの見せるときまでは一緒にいなくちゃね」
 そう言って、手のひらにのせた小さな熊を軽く弾いた。
 彼は、大きく笑って頷いてくれた。




































「で、これはそのときまで大事に預かっておくから…」
 わたしは熊のピアスを箱に戻して、カバンにしまい込んだ。
「誕生日プレゼントは、何かすぐに使えそうなものがいいかなあ」
「って、おい。それ、誕生日プレゼント…」
 慌てた様子で言う彼に、にっこりと笑って、わたしは答えた。
「わたしの誕生日は明日だよ。今日くれるのなら、これはただのプレゼント」
 呆気にとられたような表情のあとで、彼が笑った。とてもおかしそうに。わたしは彼のその表情を見て、また、描きたいモノをたくさん見つけてしまったことに気がついた。



















 そう、夢がいつかは醒めるものだとしても、きっとまだ今は、夢の途中。























久しぶりにKanonやりました。
ええ、栞先生の誕生日を確かめるために(笑)
泣けました。栞、やっぱり、いいです。
そうそう、ストールは誕生日の前の日にもらったそうですよ。
知ってました?

あれから一年半のKanon。
ずいぶん遠い場所に来たような気もするけれど、あの世界がくれたモノが、ここにもあるような気もしています。
めずらしく長いあとがきに、10万ヒットへの感謝をこめて。

栞、誕生日おめでとう。

HID All rights reserved
2001/2/1
2001/02/03 一部改訂

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