しん、とした廊下をわたしは歩いていた。冬の放課後の校舎。静かな午後。部活に向かうわたしの視界には、他の生徒の姿はなかった。
 昨日からの雪に降り込められた中庭が、窓から見えた。
 白く煙る風景。窓枠で区切られたそれは、まるでスクリーンのようだった。
 その中にふたりの人影が見えた。肩に羽織ったストールを、しがみつくかのようにしっかり握り締めた女の子と、寒さに耐えているような、どこかその場所に馴染まない感じの男の人。
 ふたりは向かいあって立っていた。
 わたしは目を凝らす。彼らの姿をもっとよく見るために。耳を澄ます。彼女達の声を聴き取るために。
 でも、目を凝らすほど、耳を澄ますほど、ふたりは遠く離れて行く。
 そして、気がつけば、そこには人の姿なんて無い。
 そう、それは幻。いつまでも消えない、けれど、けして触れることのできない、幻。
 



 
 
白の時代
-As days go by-
 



 
 
   
「美坂、今日は私、帰るよ」黙ったままでキャンバスに向かっていた彼女が、突然顔をあげて言った。
 冬の午後の美術室。スチームが少し効きすぎていて、わたしは頬の火照りを感じていた。
 あまり良いとは言えない空気。絵の具の匂いと、洗浄用の油の匂いが混ざり合って、沈殿した部屋。
 さっきまで、わたしの操る筆がキャンバスに触れる音だけが響いていた、ふたり以外に誰もいない部屋。
 ただでさえ部員の少ないこの部、冬のこの時期に部室に姿を見せるのは、彼女とわたしくらいだった。
「うん、わたしはもう少し残るよ」同じ年の、一つ上の学年の彼女に答える。
「今日は、ダメだ。雪降ってるし」肩の辺りまでの黒髪に指を埋めて、髪の乱れるのも気にしない様子で頭をかきながら、彼女が言う。
「この前は、“冬の晴れた日に絵なんか描けない”って言ってたよ」わたしは、笑いをこらえながら言う。
「あれ、知らなかった?私はとってもデリケートなんだよ」少し笑いながら彼女が言う。
「わたしがデリケートじゃないみたいに聞こえるよ?」
「そういうわけじゃないけどさ」
 彼女が椅子から立ち上がるガタリッという音が、思ったよりも大きく部屋に響く。
 その音が消えた後では、スチームの音が前より大きくなったような気がする。
「また雪の絵なんだ」
 彼女が、わたしのうしろに立って、わたしの向かっているキャンバスを見てつぶやく。
「うん、この前のは出来が今一だったから」
 彼女を振り返って、わたしは言う。彼女は真剣な表情で描きかけのわたしの絵を見ている。
 スチームの音が耳につく。こんなにうるさかったかな、とふと思う。
 彼女が絵から視線を外して窓の方を見る。その視線を追う。曇ったガラス窓。外の景色は見えなかった。
 わたしは想像してみる。そこから見えるはずの風景。白い欠片で埋められた風景。
 わたしが、何度となくキャンバスに定着させようと試みて、そして、いつも途中で断念してしまう、雪の景色。
「帰るよ、私」彼女がさっきと同じ言葉を繰り返す。その言葉には何か決意めいたものが込められてるような気がする。
「うん、また明日」わたしは言う。
「また明日」わたしと同じ言葉を口にして、彼女がにっこりと笑う。
 彼女の笑顔を確認してから、あらためてキャンバスに向き直る。ガラリという扉を開く音を背中で聞く。
 さて――。キャンバスに向かって、心の中でつぶやく。
 そこには描きかけの雪の風景が広がっている。今のところ、満足のいく出来。
 いつもそう、途中までは、自分の思う通りの風景を描くことができる。
 けれど、描き終えた瞬間に、その絵が、キャンバスの中の風景が、自分の思い描いていたものとはかけ離れたところに到達していることに気がつく。
 何度くり返したかな?わたしは心の中で少し笑ってしまう。
 春、この部に入ってから、何度この風景を描いただろう?
 夏には、他の部員に、季節感が無いとからかわれた。
 秋には、すべてを染め抜くような紅の夕暮れに目を奪われて、それを描こうと思った。
 けれど、描けなかった。雪の風景を描ききることなしには、他の絵を描けないのかな、半ば本気でそんなことを考えた。
 そして、いつのまにか、季節の方が、わたしの絵に追いついてしまった。
 雪の景色を描いていても、もう、誰も何も言わなかった。
 
「ね、美坂」わたしは驚いて振り返る。
 彼女が、まだ、ドアに手をかけたままで立っていた。首に巻いたマフラーを、空いた方の手でちょっと直しながら言う。
「思いをそのまま描けるならいいね」
 そして、照れたように、さっきの言葉を繰り返す。
「また、明日」
 扉を閉める音が響く。スチームの音が部屋を満たす。
 わたしは、彼女の言葉に頷く。
――そうだね、思いをそのままに描けたなら、どんなにいいだろうね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ジーッという微かなノイズに続いて、下校時間を告げるチャイムが鳴る。
 それは、絵に没頭していたわたしを、雷鳴ほどの響きで打ち抜いた。
 ノイズは耳に届いていた。それが何を予告するものであるのかも知っていた。
 けれど、それを知覚できていなかった。
 大きく息をつく。体の力を抜く。少しずつ現実の世界に身を馴染ませる。
 火照った頬に手をあてる。手のひらの方が頬より冷たかった。
 曇ったガラス窓越しの空は、すっかり暮れているようだった。
 手早く片づけをして、美術室を出ようとしたときに扉が開いた。
 わたしは飛び上がるくらいに驚いて、扉を開いた人を凝視する。
 そこには、いるはずのない人が立っていた。照れ隠しのような微笑みを顔に浮かべて。
 
 
 
「本当に驚きましたよ」「一応、ノックはしたんだぞ」
 雪の降りは、少しも衰えた様子が無かった。湿った大きな雪が、傘に落ちて音をたてては、積もってゆく。
 ときどき、傾けて雪を落とさないと、傘を支えることができなくなる程、重い雪だった。
「まあ、何にせよ、悪かったな、驚かせて」
 美術室の扉を開いたのは、祐一さんだった。彼は、扉の開く音に驚いたわたしの反応に、驚いたようだった。
「でも、どうしたんですか?この時期に」
 一月の最後の日。受験を間近に控えた祐一さん達三年生は、自由登校になっていた。
 実際、この時期、三年生で学校に来ている人はほとんどいないだろう。
 推薦が決まって受験勉強の必要のないお姉ちゃんのような人にとっては、格好の自由時間。もっとも、お姉ちゃんは、ほとんど毎日を、両親の働く病院でのアルバイトに費やしていたけれど。
「担任のところに用があってな、思ったより時間がかかって、帰ろうと思って見たら、美術室にあかりがついてたからさ」
「そうですか」
 彼が傘を傾けて、雪を落とす。ガサッという重量感のある音を伴って、雪が地面に落ちる。
 あの冬からもう一年なんだな、わたしはぼんやりとそう思う。
「祐一さん、試験はいつですか?」
「最初の試験が2月7日だな」
「もうすぐ、ですね」
「そうだな」
「がんばってくださいね」と、彼を見て微笑む。
 短い間、視線をあわせて、わたしの方から目を逸らす。
 降りしきる雪を見る。去年の今頃のことを思い浮かべる。胸の奥が少し痛む。
 そうだったのか、わたしは唐突に気がつく。隣を歩く祐一さんを見る。真っ直ぐに前を見ている横顔。
 あの気持ちは、すっかり消えてしまったと思っていた。一日々をたどっているうちに、何でもない毎日を過ごしているうちに、会わない時間が増えていくうちに、いつのまにか消えてしまったのだと思いこんでいた。
 でも、消えてしまったわけではなかったんだ。
「なあ、栞」
 祐一さんがわたしの方を見る。
「はい?」
「この街で、こんなに重い雪はめずらしくないか?」
「そうですね、今年はいつもより暖かいから」
 そうか、とつぶやいて。俺には十分寒いんだけどな、と笑った。
 去年の冬はもっと寒かったですよ。わたしは心の中で語りかける。
 朝から、ひとりであなたを待つ中庭は、本当に寒かった。けれど、不思議ですね。
 あの頃は、その寒さが全然つらくなかった。朝、逃げるように自分の部屋を出て、まっさらな雪に足跡をつけて、中庭に立つのが楽しみだった。
 校舎から現れるあなたの姿を思い描いて、その表情を想像して、頭の中で声を聞いて。
 そういうことが、本当に楽しかった。ずっと、この時間が続けばいいのに、あなたを待つだけで時間が過ぎていくのなら、それはどんなに素敵なことだろう。
 そんな風に考えていた。
 
「.....のか?」
「栞、」彼の言葉に我に返る。「何ですか?」と慌てて答える。
「体の調子でも悪いのか?って、訊いてる」
「え、そんなことないですよ」
「さっきから、ぼーっとしてるぞ。それに、顔も少し赤いし」
「平気ですよ。アイス食べれるくらい」
「何だ、それは」と彼が笑って、そして言った。
「そういえば、あれから一年だな」
「そう、一年ですよ」
「あの中庭は寒かったな」
「ええ、寒かったですね」
 中庭でアイスを食べたことを思い出して、わたしは居心地の悪い気持ちになる
 何度、あそこであなたと会えたのだろう。数えてみようかと思って、すぐに止める。
 何度、あそこであなたと会えなかったのかな。そんなことを考える。
 そして、思い至る。ふたりが、あの日々から遠い場所に居ることに。
 もう、けして戻れない、長い長い道を歩いて来てしまったことに。
「なあ、栞、後から聞いたんだけど、俺が学校休んでる間もお前は...」
 そこで口を噤んで、彼がわたしを見る。顔を傾けて、傘で彼の視線を遮る。
「今更だけど、悪かったな」彼が小さな声で言う。
「平気でしたよ」わたしはつぶやく。
 
 気がつくと重い雪が傘に降り積もっていた。重さに耐えかねて、わたしは傘を傾ける。
 雪が重い音をたてて、地面に落ちる。それは確かな質感を伴う音。雪がここに在ることを証明する音。
 それをぼんやりと聞きながら、この雪でさえいつかは消えるんだな、頭の片隅でそんなことを思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 涙が止まらなかった。
 誰もいない冷えたリビングで、コートを着たまま、わたしは泣いていた。
 わたしは驚いていた。こんなに涙が流れるとは思っていなかったから。
 もう祐一さんへの思いは、特別な気持ちは、消えてしまったと思っていたから。
 こんなにも泣ける自分が不思議だった。
 
 祐一さんは、わたしをここに繋ぎとめてくれる人だった。だから、わたしはあなたと一緒にいたかった。いつも近くにいて、わたしのことを見ていて欲しかった。
 去年の今頃の、その気持ちは本当。そして、その気持ちが在ったから、わたしはここに居れるのだと思う。
 けれど、当たり前の日々を手に入れたわたしは、それを忘れてしまっていた。
 ううん、違うね。その気持ちから目を逸らしていただけかもしれないね。怖くて逃げていただけかもしれない。あなたの気持ちがわたしのことを向いていないことに気づいて、自分の思いを閉じ込めていただけなのかもしれない。
 
 あの気持ちは何だったんだろう?
 好きとも違う、愛してるとも違う。どんな言葉でも表すことのできない、不思議な気持ち。
 そう思いたくはないけれど、あなたはわたしの蜘蛛の糸だっただけなのかな。
 地獄に垂らされる一筋の糸。それを掴むことができたものだけが、それを離さなかったものだけが救われるという、細い糸。
 だから、ここに戻ってくることができた自分には必要なくなってしまっただけなのかな。
 
 思考が同じところをぐるぐると回る。中庭で見た彼の表情が思い浮かぶ。向かい合うふたりを、俯瞰しているわたしがいる。
 彼を待っていたときに見た、雪の風景が甦る。いくら待っても現れない彼を、それでも、次の瞬間にはその姿を見ることができるかもしれないと思って、待ちつづけた日々を思い出す。
 そして、あの日。あの場所で彼を待った最後の日。傘を握りしめて立ちつくすわたしを、抱きとめてくれたお姉ちゃんの温もりを思い出す。
 
 パチンと軽い音がして、リビングのあかりが灯る。
 お姉ちゃんが、驚いた表情でわたしを見ている。
 
「栞、」わたしの名前を呼ぶ。
「どうしたの?」
 お姉ちゃんの瞳が、わたしの瞳を捉える。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
 リビングのテーブルの前、床に座ったわたしに向かい合って、コートを抱えたお姉ちゃんが座る。
 わたしの右手をそっと取ってくれる。両手でその手を包んでくれる。つめたい手が、わたしの火照った心まで鎮めてくれる。
「お姉ちゃん」
「なあに?」
「わたし、ふられちゃったよ」
 本当は違う。泣いてる理由はそれだけじゃない。それはわかってるけれど。他に何と言っていいか、わからなかったから。
 ごめんなさい、祐一さん。そんな言葉を思い浮かべながら、わたしは嘘をつく。
「自分でも気がつかないうちにふられちゃってた」
「今日、それがわかったんだ」
 お姉ちゃんは、何も言わずにわたしの手を握ってくれている。お姉ちゃんの髪の毛の、やさしい匂いが微かに漂う。
「それで、泣いてたの?」
 お姉ちゃんが言う。
 わたしは首を横に振る。
「わかんない、自分でもわからないよ、何で泣いてるか。何でこんなに涙が出るのか」
「ねえ、お姉ちゃん、何でかな?」
 お姉ちゃんが、微笑みながら言う。
「栞にわからないなら、私にもわからないわね」
 わたしの泣き顔が、お姉ちゃんの黒い瞳に映っている。
「でもね」
「栞が泣いてるのは間違ったことじゃない。そんな気がする」
 もう一度、お姉ちゃんが微笑む。それは、本当にやさしい表情で、わたしはなぜか悔しくなる。それほどやさしく笑えるお姉ちゃんが、うらやましくなる。
「どうして笑うの?」
 わたしの問いに、お姉ちゃんが答える。やわらかな声で。
「ごめんね、おかしかったわけじゃないの。うれしかったんだ。栞のそんな悩みを聞くことができる、今が」
「ひどいよ」
「うん、ひどいよね。ごめん」
 わたしは、左手のコートの袖で涙を拭う。そして、微笑みながら言う。
「ううん、いいよ。ひどいけど、わたしもうれしいから」
 
 
 
 
翌朝、枕元に小さな包みが置いてあった。
薄いブルーの包み紙。銀色のリボン。リボンに二つ折りにしたレター・ペーパーが挟まっていた。
包み紙と似た色のレター・ペーパーを開く。そこには、いつもより丁寧な、でも、見慣れた字でこう書いてあった。
 
 
『誕生日おめでとう
 他の誰かから貰うまでは、これを使ってくれるとうれしい
 大丈夫、その日はそんなに遠くないはずだから(たぶん)
 だって、栞は私の妹だからね』 
 
 
小さな白い箱の中には、華奢で飾り気のない銀のリングが入っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ふーっ、と大きな息をつく。絵筆を置いて、目を閉じる。両手を組みあわせて、ひとつ伸びをする。
 目を開いて、完成したばかりの絵を眺める。
 いい出来だった。自分の思いをそのまま描けたとは言えないけれど、今までの中では一番いい絵だと、わたしには思えた。
「あ、できたんだ」
 同い年の先輩が、少しうれしそうな声をあげながら自分の席を立って、わたしのうしろに回る。
 ふたりとも息を詰めたような、緊迫した時間が流れる。
 彼女が小さく息をつく。そして、言う。
 
「うん、いい絵だね」
 
「こんな雪の中にだったら、私も立ってみたい気がするよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 












 
 We're losing brilliant time unconsciously.
 Days are going, but It seems that everything is same.
 It irritates us sometimes.
 We're always looking for the way to change ourselves with or without notice.
  (quoted from "Gift" by Maaya Sakamoto)
 



      白の時代
   - As days go by -
     −END−

【初出】 2000/2/4  天國茶房 創作書房/創作掲示板
【One Word】
 Starting over/Swingin' daysの世界の栞です。
 栞が主役のストーリーをこの世界で書きたいなと思っていたのですが(長編で)、いつ書けるか目途が立たないので...。
 祐一の気持ちも、気になるところではあるんですけど...。
 表面的には、栞はふられるわけですが、けして、それは悪いことではない。そんな気がします。
 栞属性の方には申し訳ない話かもしれませんが(汗)


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