余  Second Line

 Chapter1.

 far land, light rain
 




 
 
 
 ガラリというドアの開く音に驚いて、私は部室の入り口を見る。そこには、ギターバッグを肩に掛けた、色の黒い少年が立っていた。
「何だ、広紀か」
 檜山広紀、今年入学したばかりの一年。私たちのふたつ後輩。広紀は私の言葉には応えずに、部室に入ってくる。私はまだ、この無口な一年生のペースが掴みきれていない。
 いつもの自分の居場所(といっても、部室の片隅の床だけれど)に座り込んで、広紀がギターバッグを開く。黒いレスポール・タイプ。洋平が使っていたのと同じタイプのギター。
 
 
 私は視線を窓の外に戻す。六月の雨の月曜日。朝からずっと暗い空。静かに、とても静かに雨が降り続いていた。
 雨の音には不思議な作用がある。私はそう思う。
 静かに降る雨は、自分でさえ忘れていたような過去を思い出させてくれる。激しく降る雨は、今を忘れさせてくれる。その強いリズムですべてを壊してくれる。
 私は雨が嫌いじゃない。雨がもたらすそういった効果も嫌いじゃない。
 ただひとつ残念なことがあるとすれば、私たちには選択権が無いということだけだ。
 つまり、雨は、思い出したいことだけを思い出させてくれるわけではない。そういうことだ。
 
 
 そんなことを考えていたとき、もう一度、勢いよく部室のドアが開いた。
「よっ、待った?」いつもの調子で言いながら、良太が姿を現す。今日も頭に黒いバンダナを巻いている。
「ったく、あんたはいつになったら時間通りに来るようになるんだ?」
 私は、座っていた壁際の机から降りて、良太にきつい口調で言う。
「はいはい、わるうございました。……ちぇっ、部長になった途端にこれだからよ」
 もう何度となく繰り返したはずの文句を、誰に言うともなくこぼす良太をひと睨み。
 その視線に気づいた良太が肩を竦めてみせる。確かに良太の言うことにも一理ある。私だって、いつも部会には遅れていたんだから、ほんの一年前の今頃には。手を伸ばせば届きそうなくらいの距離、季節ひと巡り分、たったそれだけの時間。
 でも、今、私は三年生で、軽音楽部の部長で、もう部会には遅れない。
 
 
 広紀は二人のやりとりに興味を示すでもなく、壁にもたれて、ギターを爪弾いている。
 アンプに繋がれていないギターの、どこか間抜けな音が部室の中に広がってゆく。
 私はぐるりと部室を見渡す。音楽雑誌やスコアが詰め込まれた本棚。その前の床には、購買のパンの袋とか、ジュースの空きパックだとか、本棚から溢れた雑誌だとか、わけのわからない物が積み重なり、絡み合ったシールドがヘビのようにのたうっている。それとは対照的に向かい側の棚は綺麗に片づけられている。そこには、古びた、けれど、丁寧に磨かれたアコースティックギターと私のドラムスティック、後ろを向いたフォトスタンドが二つ。
 小さくひとつため息をつく。やはり、この部屋は三人には広すぎる。そんなことを思って。
「おーい、やるんなら早くやっちまおうぜ、夜になっちまう」
 良太の声に頷いて、私は口を開く。
 
 
「うん。じゃあ、部会を始めるよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 窓の外では、六月ももうすぐ終わりだというのに、相変らず雨が降り続いていた。今日で何日目だろう、ずいぶん長い間、灰色以外の空を見ていない気がする。私は手に持ったシャープペンをくるくると回しながら、ぼんやりと外を見ていた。
 糸のような細い雨。音もなく地面を濡らし、校舎を濡らし、木々を濡らす六月の雨。
 世界に染み込んで、そのすべてを自らの望む色に染めてしまう雨。雨は世界を沈黙に染めようとしていた。どろりとした液体のような、沈黙の世界。授業をする教師の声さえ液体に取り込まれて、私には届かない。
 去年の今頃には純がいた。綾菜もいた。洋平はまだいなかったんだっけ? ずいぶん長い間一緒にいたような気がしてたんだけど。私は記憶を辿ってみようとして、それにあまり意味がないことに気づき、途中で止める。
 去年、一番多いときには五人の部員がいた軽音楽部。今の部員は三人。引き算すれば二つだけしか違わないのに、どうして、あの頃のことがこんなに遠く思えるんだろう。
 
 こつん、と私の頭に何か軽いものが当たる感触。見ると、机の上に小さく折りたたまれたノートの切れ端。
 私はそれを手にとって、辺りを見回す。
 雨の午後のどこか気だるい雰囲気の中で、教室のみんなは空虚な視線を黒板の方に向けている。
 私の斜め後ろに、違う方向を向いている生徒が一人だけ。私の視線を捉え、手の中のメモを示して『見てみろよ』、と口を動かす。こんなことをするのは今では良太しかいない。
 メモを開く。中には見慣れた汚い字で、「放課後に乞うご期待」と書いてあった。
 私は良太に向かって『なにが?』と声を出さずに訊ねる。
『ひ・み・つ』と良太が片目を瞑ってみせる。
 私は大げさに顔をしかめて、『気持ち悪い』と口を動かす。
『なにが?』と今度は良太が訊いてくる。
 私は片目を閉じて見せて、答える。
『坊主のウィンク』
 
 
 
 
「で、何?昨日部会やったばっかだろ」
 私は部室に入るなり、良太に訊ねた。良太に呼ばれたのだろう、部室には広紀の姿もあった。相変わらず、黙ったままで、壁にもたれてギターを抱えている。
「へへ、聞いて驚け」さすがに自分で招集をかけただけあって、今日は誰よりも早く部室に来ていた良太が、勿体をつけるように言う。
「何だ?もし、つまんないことだったら、責任とってもらうからな」
「まったく、ノリが悪いよな、お前らは」ぶつぶつと文句を言いながら、良太がくたびれたカバンの中から数枚のコピーを取り出す。
「俺が、学園祭用に世紀の名曲を書いてきたってのによ」
 私は呆気にとられつつ良太の手からコピーを受け取る。広紀も黙ってそれを受け取っている。
「そろそろ、学園祭の準備しなきゃいけないだろ?一応、美香がボーカルって線で書いたからよ」
 良太が私の顔を見ながら言う。
「ま、ホントは俺のボーカルで坊主ロック☆2ndステージとかやりたかったんだけどさ。今回は部長の顔を立ててやるよ」
 そう言って、授業中と同じように片目を閉じてみせる。
「ギター、ベース、ドラムの最小構成だからな、そんなに凝った曲はできないけど、ロックンロールの原点っつーか」
 雨の音が急に耳につく。それは、窓の外からではなく、私の内側から聞こえてきた。
「ま、俺の作曲センスに驚けって感じ……」
 体が急に冷たくなる。私は両手で自分の体を抱きしめる。手から良太のスコアが床に落ちる。
「美香?」
 良太が訝しげに私を呼ぶ。その声は確かに聞こえている。それに応えようと思う。応えなきゃだめだ、と思う。けれど、私の声は、声帯を震わせてくれない。
「おい、美香。どうしたんだよ」
 良太が私の肩を強く掴んで揺する。良太の手が、私に少しの温もりをくれる。
 その温もりのおかげで、私はやっと声を出すことができた。
「あ?ああ、何でもない。平気だよ」
「平気だって、お前、顔真っ青だぞ」良太が私の肩から手を離して、心配そうに言う。
 いつのまにか私の近くに来ていた広紀が、落ちたコピーを拾って、手渡してくれる。
「調子でも悪いンか?なら……」
「ごめん、ホントに平気」
 
 
 部室の中に不自然な沈黙が流れる。今度は、窓の外から、本当の雨の音が部屋に忍び込んでくる。さっそく良太のスコアを見て、コードを押さえてみている広紀の指が弦と擦れてたてる、キュッという音が雨の音と絡まるように響く。
 私は視線に気づいて良太を見る。
 その表情は、最近では見せなくなっていた暗いものだった。それは私を映す鏡のようだった。私もきっと、そんな表情をしているに違いない。あの頃と同じように。
 広紀が入学する前。私と良太、二人だけがここに取り残されたあの冬のように。
「どうした?私は大丈夫だよ」明るい声でそう言って、良太の持ってきたスコアに目を通す。エイトビート、典型的なロックンロール。
 スティックを取ろうと、座っていた机を立つ。私の背中に、良太がつぶやくように言う。
「なあ、俺たち、また演れるのかな?」
 私は一瞬、立ち止まって振り返りそうになる。けれど、辛うじてそれを堪えて、片づいている方の棚に置いてあるスティックを手に取る。床に座ってフレットをG7の形で押さえたままの広紀が私をじっと見つめている。
 この無口な一年生の目に、私は、私たちは一体どう映ってるんだろう、ふと、そんなことを考える。
「や、演れるよ。何言ってるんだ」
 視線が痛いな、そんなことを思う。どうして、広紀の視線がこんなに痛いんだろう。そんなことを考えながら、棚に向かう。
 磨かれた古いアコースティックギター、そのボディに寄り添うように置かれた二組のスティック。後ろを向けた二台のフォトスタンド。
 スティックを取るときに、スタンドの中の写真が目に入る。あの別荘のスタジオ。五人で撮った写真。真面目な顔でレンズを見つめる純。その隣で、何も考えていないみたいな顔で笑っている、私。
 
 
「演れるさ、演んなきゃいけないんだ。私たちは」
 私は写真に向かって、そうつぶやく。その声はひどく硬くて、その声はひどく小さくて、まるで私の声じゃないようだった。
 どこか遠くで降っている、静かな雨の音のようだった。
















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(2000/08/24)