Second Line

 
Chapter 2.
 The days I spent with you



 
 
 
 
 その日は朝からとてもいい天気だった。夏の訪れが近いことを教えてくれる、濃厚な青空。草いきれと潮の香りが混ざり合った、濃い匂い。
 雨の気配なんかどこにもなかった。それでも、私は天気予報の警告に素直に従って、折りたたみ傘をカバンに入れて学校に向かった。
 午後の授業に入る頃には、空には嘘みたいな厚い雲が広がりはじめていた。
 ただ、その雲の色でさえも、夏を連想させるものだった。青い空ばかりが夏ではないだろ。雲は、そう言いたげな勢いで空を覆っていった。
 確かに、それは夏の夕立の時にしか見ることができないような、重い灰色の雲だった。
 教室を出る頃には、もう激しい雨が降り出していた。
 
 
『ごめんね。今日はバイトだから先に帰るね』綾菜がカバンから赤い折りたたみ傘を取り出しながら、言った。
『うん。自転車、気をつけなよ』
『大丈夫、ゆっくり走らせるから』
『人、轢かないようにね』
『大丈夫だよ。美香じゃないんだから』
『私は狙ったヤツしか轢かないよ』
 私の言葉に、短く笑って、綾菜が教室を出ていった。
 私は何をするでもなく、席に座ったままで、雨を見ていた。
 激しく均等に、アスファルトを、校庭を、生徒達がさす傘を、雨が叩いていた。
 その音がバスドラムのように聞こえた。時折、リズムラインに差し挟まれるシンバルのように、遠い雷が響く。
 お腹にずっしりと響いてくるリズム。それは、夏のリズムだった。
 席を立って、ひとつ大きく伸びをして、カバンを手に取った。
 いくら傘を持っていても、家に着く頃には、たぶんずぶ濡れだろうな。そんなことを考えながら、教室を出た。
 
 
 私は、昇降口で立ち往生していた洋平をちょっとからかった後で、自転車置き場に向かった。
――洋平を傘に入れてあげれば良かったかな。少しだけそんな後ろめたさを感じながら。
 でも、仕方がないよ。この傘は二人で入るには小さすぎるし、本来、洋平は別の誰かの傘に入れてもらうべきなんだから。
 この雨のせいで、置き去りにされてしまったのだろうか、その時間にしては、いつもよりも多くの自転車が残っていた。
 自転車置き場のトタン屋根の下でヘルメットを被る。屋根がスネアのような軽い音でリズムを刻んでいた。
 そういえば、純の曲どうなってるのかな、ぼんやりと考えながら、右手で自転車を押してゆく。左手に持った傘は、容赦なく雨に叩かれて、少し重かった。
 雨のカーテンの向こう側、さっき洋平がいた昇降口から傘もささずに駆け出そうとする白いシャツの背中が目に入った。
 その後ろ姿を、私が見間違うはずはなかった。
『純っ』
 駆け出そうとしていた足を止めて、不思議な格好で純が私の方を向いた。そして、私のことを待つために、昇降口の屋根の下に戻った。
『やあ、美香』
 二人の距離が近づくのを待って、純が口を開いた。大きな声ではなかったけれど、雨の音に消されもせずに、その言葉は私に届いた。
『やあ、じゃないよ。何やろうとしてるんだ?』私は咎めるような口調で言った。
『何って、帰ろうとしてたんだよ』
『この雨の中を?』
『そう』
『傘もささないで?』私は呆れた声で訊ねる。
『ああ』いつもと変わらないやわらかい笑顔で純が答える。
 私は肩の力が抜けてゆくのを感じる。
『止むまで待てないのか?』
『えっ?』
『夕立だから、すぐに止むと思うよ』
『ああ、ちょっと大事な用事があるんだよ』純がそう言って、腕時計に目を落とす。
『あ、わるい。もう行かなきゃ』
『それ、テレビの時間に間に合わない、とかっていうんじゃないよな』
『は?』
『だから、どうしても見たい番組があるんだ〜、とかじゃないんでしょうねって訊いてるの』
『違うよ』小さく笑って純が答える。
『じゃあ、はい』私は手に持っていた傘を差し出す。
『え?』
『え、じゃないよ。これ使っていいよ』
『でも、美香はどうするんだ?』
『ん、私はちょっと部室に用事思い出したから』
『それが済む頃には雨も上がってると思うんだ』
 純から視線を逸らして、早口で言った。
 私の言葉に目を細めるようにして笑って、そして、純がやさしく言った。
『そうか、じゃあ、借りるよ』
『うん、この時期、受験生が風邪ひいてるわけにはいかないでしょ』
『ああ』
『それに、名曲も作ってもらわないといけないし』
 笑顔のまま無言で頷いて、純が雨の中に駆け出す。私の小さな折りたたみ傘をさして。
 私は、その背中をじっと見送る。煙るような雨の中に、純の背中が消えてゆく。
 少し行って立ち止まって、純が私を振り向いた。
 そして、雨にかき消されない、大きな声で言った。
『美香、ありがとう』
 私は純に届くように大きく手を振った。けして、彼が見落としたりしないように、大きく。力を込めて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 期末試験が終わった後の最初の月曜。私たち五人はInfiniのスタジオに入っていた。
 そこで初めてあの曲を聴いた。
 青い空、白い雲、広がる海。空と海の境界を曖昧に示す水平線。そして吹き抜けてゆく涼やかな風。それらが形づくる、懐かしくて、それでいて、希望を掻きたてられるような世界。
 その曲から私が感じたのはそういうものだった。聴いた途端にそんなイメージが広がっていった。
 純は、まだ歌詞は全部出来てないんだ、と言って、ところどころハミングで歌った。
 歌い終わったあとでみんなの顔を一通り見て、言った。
『どうかな?』
 私たちは大きく頷いた。何も言わずに、大きく頷いた。そして、すぐに音合わせに入った。とにかく、一刻でも早くその曲を演奏してみたい、そう思った。
 綾菜も、洋平も、良太も、みんながその曲を気に入ってるのが、ドラムスのポジションにいると良くわかった。
 みんなの気持ち、その曲を好きだと思う気持ちが、背中から、音から伝わってきた。
 それは、私にとって、とてもうれしいことだった。
 純は、みんなが演奏するのを笑顔で見ながらキーボードを弾いていた。私は純から視線を逸らした。そのまま純を見ていたら、リズムが狂ってしまいそうだったから。
 
 
 いつも以上に短い時間を過ごして、くたくたに疲れて、スタジオを出たときには、夏の長い日もすっかり暮れていた。
 まだ、体の芯が熱かった。五人が五人とも同じ高揚感に包まれていた。
 それは、商店街でみんなと別れて、純と二人になってからもまだ消え去らなかった。
 いや、より一層高まったようだった。
 商店街を抜けて、人通りのまばらな道を二人黙ったまま歩いた。その道は、ずっと続いてるように思えた。途切れることなく、ずっと遠くまで続く道。この道をずっと歩いていければ、そう思った。こんな風に、ずっと歩いていきたい。
 そして、それはそんなに難しいことではない、私はそう思っていた。
 
 
『どうだった、かな?』
 純が口を開いた。その声を聞いて初めて、辺りに虫の鳴き声が響いていたことに気づいた。それとも、それは耳鳴りだったのだろうか。
『どうだったって、何が?』
『曲、だよ』ちょっと不安気に純が言う。
『良かったに決まってるだろ。みんなも気に入ってたし…』私は勢い込んで大きな声を出してしまう。そして、バツが悪くなって語尾を濁らす。そんな私にいつもの笑顔を向けて、純が言った。
『みんなも、だけど、美香はどうだったのかなと思ってさ』
『わ、私は…』慌てて答えようとして、何と言っていいのかわからなくなって、口ごもる。
 青い空がどうとか、白い雲がどうとかは、恥ずかしくて、とても口に出せなかった。
 純は相変わらず笑顔のままで私を見ている。私は視線を逸らして、小さな声で言う。
『わ、私もいい曲だと思うよ』
『そうか』うれしそうに純が答えて、空を仰ぐ。私もつられて空を見上げた。
 夏の星々が暖かみのある輝きを放って、黒に少しだけ紺色を溶いたような空一杯に広がっている。
 もっと上手く伝えられたらいいのに、そう思った。言葉なんかじゃなく、思ってることのすべてを、ひとつもこぼすことなく、そのまま伝えられたらいいのに。
 
 
『俺さ』
『え?』純の言葉に思考を中断される。
『俺、この街を出るつもりなんだ』
『えっ?』
『大学、京都の大学を受けてみようと思って』
『え?』
 小さく笑って、えっ?ばっかりだな、と言ったあとで純が続けた。
『この街も好きだけどさ。ここじゃないどこかに行ってみたい、そう思ってな』
 少し早口で純が言った。
『美香はそんなこと考えたりしないか?』
 突然向けられた質問と、純の視線の真剣さに気圧されてしまって、私は上手く答えられない。
『私は大学は行かないつもりだから』
 私の的外れな答えに、そうか、頭いいのにな、と応えてくれてから、純が言葉を続けた。
『別の場所に行ったら、やっぱりあの街が良かった、と思うかもしれない。でも、それでもいい。俺はここ以外のどこかに行くべきじゃないかと思うんだ』
 今度は何も言わずに、私のことをただ見つめる純の瞳。
『わ、私は…』純の言葉のせいでぐるぐると回る頭とは関係なく、私の口が言葉を紡ぐ。
 それはどこから来た言葉だったのだろうか。
『私はどこでも一緒だと思う』
 え、という表情を純が私に向けた。
『私はただ、自分がいて気持ちのいい場所がほしい。そこにいると心が落ち着いて、悲しいことも、嫌なことも、笑い飛ばせるような、そんな場所があればいい』
 純が笑った。とてもやさしく、純が笑った。
『この街がっていうんじゃなく、今のバンドは、今のバンドのみんなと入るスタジオは、音を合わせる時間は、間違いなくそういう場所なんだよ。私にとって』
 どうしてだろう。涙が眼の端に滲んでいた。なにも悲しいことなんてないのに。
 
 
『いつまでも変わらないものなんてない』純が言った。私の頭にやさしく手を置いて。
 頭に感じる純の手の重みが心地よかった。
『けれど、大切なものは何も変わらないさ』
 私は空いてる方の純の手を取る。確かな温もりが私に伝わる。
 虫の声が耳につく。暖かい星々が二人を照らしていた。
 二人、子供のように手をつないで、つないだ手を勢いよく振りながら、星明かりの道を歩いた。
 夏の夜だった。夢に見るような、夏の夜だった。
 
 
『ねえ、純』
 どれぐらい手をつないで歩いただろう。私は、急に恥ずかしくなって、純の手を解き、跳ねるように数歩駆け出して、純に話しかけた。
 体が軽かった。何かを脱ぎ捨てたような、素軽い気持ちだった。どこまででも歩いていけそうな気がしていた。
 純がこの街を出ると言ったのは、確かにショックだった。けれど、それを話してくれたことがうれしかった。私には、私たちにはまだ時間がある。どうしても、離れたくなかったら、追いかけていけばいいんだ。
 私たちは何だって選び取ることができる。
『あの曲、どんな歌詞にするつもり?』
 純が、そうだな、と言って、ちょっと眉根を寄せて考え込む。私は笑って続けた。
『よーく、考えなよ』
『どうしてだ?』
『自分のうたう歌なんだから、よーく考えなきゃ』
『や、俺は歌わないぞ』
『いいえ、たった今、あの曲は純が歌うことに決定しました』
『お、俺よか美香の方が上手いだろ?』
『街を出ていってしまうような、つめたーい男がつくった歌はうたえません』私は舌を出して答える。
 私の言葉に絶句してしまった純が、ちょっと考えたあとでにやりと笑う。
『じゃあ、美香が泣いて頼むような歌詞を作るよ。私に歌わせてくださいって泣いて頼んでくるような』
『泣かないし、頼みませんっ』歌うように私は応える。
『泣かせてみせるよ』振り返って、そう言いきった純の顔を見つめる。純も私を見つめていた。まるで、私が振り返ることがわかっていたかのように。
『ね、純、それって自分にすごいプレッシャーかけてない?』私はわざと静かな声で訊く。
『う、そうだった。せっかく作曲が終わってほっとしてたのに』困った表情を作って、純が答えた。
『でも、聞いたからね。泣かせる歌詞、作ってくれるんだよね』
『そ、それは……』
『約束っ』
  私は純の手を取って、その小指に自分の小指を絡めた。
  指を切る。大切な気持ちを込めて指を切った。
 
 
  二人の指が離れたあとにも、ぬくもりが残っていたのを憶えている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 それは子供じみたカード・ゲームのようなもので、そこにいるみんなが、お互いの持ち札を知っていた。それでいて、知らない振りで、騒ぎながらゲームを続けていた。
 いつまでもそんなことが続くとは思っていなかった。いつまでも続けたいとも思っていなかった。
 私は、手札を開く決心をした。あの夏の夜に。夢のようなあの夜に。
 いつにするかも決めていた。私たちの大切な日。純にとって、とても大切な日。
 その日こそが、このゲームを終わらせるのに相応しいと思っていた。
 不安と期待の中で、カレンダーの日付をひとつずつ消しながら、それでも、私は間違いなくその日を楽しみにしていたんだと思う。
 合宿での綾菜の不調は心配だった。けれど、それは気づいたときには解決している類のことだと思っていた。後でみんなで笑って話せるようなものだと思っていた。
 実際、合宿から帰ってきてからの綾菜は、以前のような笑顔を、いや、前以上に明るい笑顔を見せるようになっていたから。
 
 
 大きな太陽が遠慮無く照りつける、リフレインのように無個性な夏の日々は、だから、私にとっては一日々が大切なカウントダウンの過程だった。
 
 
 私はその日を楽しみにしていた。
 その日が来ることを信じて疑わなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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(2000/08/25)