空海伝説
空海の歩いた足跡に伝説が付き纏う、此れほどまでに伝説・伝承の多い人物は稀である。全国津々浦々に空海伝説があり、その数約300編を越えるといわれている。伝説は真実ばかりでは無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものもある。
1.猪苗代湖「福島県」
ある娘が少ない水を空海に全部与えたところ、次の朝、磐梯山の麓が湖になり水が豊かになった。
2.清水稲荷「東京都」
台東区下谷で病気の子供をもった親が空海に懇願した。空海は独鈷で地を突き病を治す霊水を湧かせた。
3.修善寺「静岡県」
修善寺町の桂川上流で空海が岩盤を独鈷で打つと加持された熱湯が湧き薬湯になった。
4.塩の井「長野県」
下伊那で貧しい村の民を哀れみ銀杏の杖で岩の根元を突き塩水を湧き出させた。
5.不使の水「石川県」
能美で村人が水を惜しみ与えなかったため空海は怒り村のどこを掘っても鉄気のある水にした。
6.渇き水「兵庫県」
淡路島で村人が空海に水を与えなかったので水が涸れた。
7.湯の池「熊本県」
下益城で、もとは温泉だったが空海の問いに老婆が水だと嘘をつくとただちに水の池になった。
8.甘蕨「岩手県」
空海はある家で蕨汁を供された。その面倒な調理法を聞き、あく抜きせずにすむ蕨を授けた。
9.杖銀杏「岩手県」
空海の刺した杖が大銀杏に成長。祈ると乳の出が良くなるという。
10.ちばひめ「茨城県」
僧がある家に宿を乞うたが主人は拒絶。あとで空海だとわかり欅の大木に登って大声で呼んでいるうちに「ちばひめ」という蝉になった。
11.宝手拭「新潟県」
老夫婦が空海に宿を提供して、その礼に貰った1本の手拭いで顔を洗うと若返り、他人に貸したらその人は猿になった。
12.孫が栗「山口県」
孫のために栗を採ろうとして苦労する老婆を見て村一帯に栗の実を沢山生らせた。
13.大師芋「鹿児島県」
煮ていた里芋を通りかかった空海に与えなかったので黒焦げになったので食べられないので捨てると芽がでたが生ったのは食べられない芋だった。
14.夜啼き石「静岡県」
妊婦が大岩の近くで山賊に殺されて以来、岩の上で胎児の夜啼きがやまないので空海が祈祷したところ子授けの岩になった。
15.ダケ石「岐阜県」
空海が杖をついてできた石。これに触ると怪我をする。
16.足跡石「三重県」
空海の足跡を2ヶ所残した岩で、触れると仏罰があたる。
17.姥石「和歌山県」
捻じれた形をした岩。空海の母親が高野山の結界を越えられず、恨んで足ずりした跡だという。
18.腰掛け石「岡山県」
空海が座って休み、その重さでへこんだ跡が残る岩。
19.阿吽寺の不動明王「北海道」
松前で当寺を開いた空海が本尊として刻んだ霊像だという。
20.俎の名号「群馬県」
空海が俎の裏に六字の名号を阿弥陀の形に書き親切な農夫の家に置いて行った。
21.三方の石観音「福井県」
空海が御影石に彫った観音。右の手首ひとつのこして夜明けになったのでノミを置いて下山した。それ故、本尊には右手首がない。
22.九十九谷「福岡県」
遠賀には百谷あるので最初、空海はここに霊場を造ろうとしたが妖狐が一谷を隠し九十九谷にみせたのでここを諦め高野山を開いたのです。
[泊崎地方]
23.駒の足跡
駒に乗って弘法大師がこの地を訪れ、小川に架かる石橋を渡ったときに駒のひづめの跡が石に残ったと伝えられている。
24.木瓜(ほけ)
弘法大師がこの地を訪れたとき、通った山道の木瓜は、それ以後実をつけなくなってしまったと伝えられている。
25.逆松
弘法大師がこの地を訪れたとき、持ってきた松の枝を挿したものが根づいて地をはうように見えることから、逆松と伝えられている。
26.独鈷藤(とつふじ)
弘法大師堂地にあった藤の節々が独鈷に似ていることから独鈷藤と名づけられたと、伝えられている。
27.硯水
弘法大師がこの地を訪れたとき、字を書くのに湧水を使って墨をすったと伝えられ、この水を使って字を練習すると上達するといわれている。
28.五葉の杉
弘法大師堂地にあった杉の葉が、五枚の葉を付けていたことから、五葉の杉と名づけられたと、伝えられている。
29.法越(のつこし)
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた後、他の地へ移動するとき馬に乗って川を渡った場所が法越と名づけられ、法越には藻が生えなかったと伝えられている。
30.弁天像
弘法大師がこの地で千座護摩の行を修めた時、炊いた護摩の灰を固めて三体の弁天像を作った。
日照が続き困った時、村の若者がこの弁天像を抱いて牛久沼に入り雨乞いをすると雨が降った。
31.弘法大師の使い
牛久沼のほとりで鎌を研いでいると小さな蛇が寄ってきた。鎌に引っ掛けて投げ捨てようとすると大蛇に変身した。この大蛇は弘法大師の使いと伝えられている。
[山の根地方]
32.多摩の二度栗
昔、武州多摩郡の山の根の村には、たいそうできのよい大型の栗がたくさん取れたそうだ。ある秋のこと、腹をすかせた旅の乞食坊主が、ふらふらとやってきておいしそうに栗を食い散らかしている村の子供たちに「栗を一粒めぐんでくれ」とたのんだそうだ。子供たちはそのみすぼらしい乞食坊主をみて「いいとも食え」といって空の食い残しの殻をほおったそうだ。その乞食坊主は悲しい顔をして次に村の中にある大きなお屋敷にきたそうだ。そこでは大人たちが縁側に腰掛けて栗を食べていたそうだ。乞食坊主は大人達に声をかけて「栗をひとつめぐんでくれ」といったが、大人たちは「いいとも食え」といって空の食い残しの殻を投げつけたそうだ。乞食坊主はたいそう悲しい顔をして村の外れにあるそれは見るからに貧しい小屋にやってきたそうだ。小屋には17才ほどの若者を頭に弟妹が4人住んでいたそうだ。父母はとうに死んでこの若者がみんなを養っていたようだ。そこにこの乞食坊主がやってきた。この坊主はもう空腹で目もみえなくなっていたそうだ。「どうか栗を一粒でもいいからめぐんでくれ」と頼んだそうだが、この小屋にとっては一粒が一家の全部の栗だった。しかし見ればかわいそうに飢えやつれた坊様である。若者は弟妹に「いいな」と見まわした。弟妹は兄の心の優しさに気持ちよく応えた。「たった一粒ですがどうぞ食べてください」乞食坊主はたいそう喜んでこれを食べたそうだ。するとどうだろう。 とたんに乞食坊主は元気になり、「ありがとう、みんなの優しい心が天に通じ、裏山に天の恵みをうけることだろう」と言い残し達者な足取りで村を出ていったそうだ。その後、不思議なことに、若者の裏山の栗林には、大型で美味な栗が、春と秋の二度なったそうだ。村人はこれを多摩の二度栗と呼んで大切に扱ったという。若者達はそれから幸せな生活を送ったという。この乞食坊主が実は弘法大師だったのです。
33.飯盛杉(箸立杉)
昭和39年に都の天延記念物に指定された樹齢700年の杉の大木は、薬王院の門前の茶屋を左の方に下ったところにあります。弘法大師が高尾の参道を登ってこられると、杉の木達は枝を震わせたり、葉を鳴らしたりして騒ぎはじめた。ところが途中の並木の1本が枯れ木となっていたのです。弘法大師は傍らの杉の木にたずねたところ、この間の落雷に打たれてしまったとのこと「千年を共にし弘法大師様のおこしを待っていたのですが非常に哀れです」と別の杉が言ったところ、弘法大師は、1枚の飯盛りの杓子を取り出すと、枯れ木の跡に突き立てた。するとあれよあれよと見る間に、ぐんぐん杉の木が伸びはじめ、枯れ木がよみがえって見事な千年杉となりました。
34.岩屋大師
弘法大師が高尾山にやってきたところ折からの雨が、嵐と変わり、大師に容赦なく襲いかかってきました。ともかく山を下り始めたもののこのままでは体が冷え切ってしまいます。岸壁ばかりの小道を行くと大岩の影に、ずぶぬれの姿でうづくまってい母子がいました。気の毒にと近づいてみると母の方は病気でその子でもが懸命に介抱しているではありませんか。なんとかこの子のために雨宿りが欲しいものよと大師が合掌すると、突然、目の前の岩屋が音を立てて崩れ始め、ぽっかりと洞穴があいてしまったのです。大師はそこで母子の冷えた体を温め、嵐の通り過ぎるのを待ったということです。岩屋の中は外の嵐から完全に遮断されて暖かく、見る間にこの母は回復していったということです。この洞穴は、「岩屋大師」と呼ばれる様になったと言う事です。
[葛飾地方]
35.石芋
昔、弘法大師が諸国遍歴の時、川で芋を洗っている老婆に出逢いました。お腹をすかせたお大師さまは、その芋をぜひ一つ頂きたい、といったところ、老婆は貪慾な心の持ち主で、この芋は石芋で堅くて食えないといって与えませんでした。お大師さまは「それなら仕方がない」といって行き過ぎました。・・・が、後で老婆がその芋を煮て見ると、不思議なことに堅くてとても食べることができなくなっていました。そこで老婆はこれを川へ捨てたところ、その芋から年々青い葉を生じて絶えないのだといいます。
36.石芋2話
昔、弘法大師が日暮になってきたので、ある家に立寄り宿を借りようとしたところ、老女が一人いましたが、宿を貸してくれませんでした。お大師さまはそばに植えてあった芋を石にしてしまいました。その後、その老女が芋を掘出して食べようとすると、石となった芋は食べることはできません。やがて芋は棄てることになり、腐ることなく年々葉が出てくるようになりました。 この石芋の物語は、実際に昭和二十八、九年頃まではその芋が残っていたといいます。ここを旅行して実際にこの芋を見た方の記した『成田道の記』には以下のようにあります。『成田道の記』(文政十三年)海神村の右に田あり。中に木の鳥居を建つ。左りに田二丁ほどを隔て山岸に竜神の社あり。二間半四面、前に拝殿あり、榎の古木八九本境内を廻れり。石の鳥居を建たり。傍に二坪にたらざる小池有。端高く水至て低し。水草繁き中に青からの芋六七茎生たり。これを土人石いもと呼り。昔弘法大師廻国してここに来りしに、老たる婆々芋を煮ゐたりしかば、見て、壱つ給はれと言ふに、心悪きものなれば、石いもと言ひてかたしといろふ。大師たち去りて後食せんとせしに、石と化て歯もたたざりし故、この池へ投捨たり。其より年々芽を生じ今に至りて絶えずと。余児と来り見しに疑はしきまま二三株を抜て見るに、石にはあらず、ただの芋なり。案内せる小女顔色をかへて恐懼し神罪を蒙らんと言ひたるまま、もとの如く栽へ置たり。芋は水に生じぬものと思ふに、一種水に生じる物有にや。年々旧根より芽を出しぬるも珍らし。或書には是をいも神と言へり。
37.片葉の蘆
片葉の蘆というのは、葉が片方にだけある蘆で、昔は龍神社の傍の田の中に残っていたといいます。これも弘法大師が杖で片葉を払ったから生じたのだと伝えています。今も石に掲げた小池の傍には弘化四年に建てた小碑があり、「弘法大師加持石芋片葉蘆之碑」と刻してあります。
38.満濃池「四国・讃岐」
空海は820年、四国・讃岐の満濃池(香川県仲多度郡満濃町)の修築工事の指揮をしています。現在の満濃池は周囲二十キロに及ぶ日本最大の溜め池(平安時代にはもっと小さかったと思われますが)。この池が大決壊。朝廷は築池使を派遣して、3年の月日をかけて修築工事を進めさせましたが、うまくいきません。そこで、空海を派遣。空海の指揮のもと、修築工事が再開されると、地元の農民の協力もあって、わずか3ヶ月でその難工事は完成しました。空海は、この工事で、堤防をアーチ型に設計しました。アーチ型にすると、水圧が分散され、直線のものよりはるかに高い水圧に耐えられるようになるそうです。また、満水時の放流の際の堤防決壊を防ぐために岩盤をくりぬく工事も行われたといいます。現在でも通用する合理的な工事が、空海によってなされたのです。池をつくる専門科であるはずの築池使が3年かけてできなかったことを、空海は3ヶ月で行ってしまいました。土木技術者としての空海の実力をまざまざと世に知らしめた修築工事でした。
39.衛門三郎物語「愛媛県(松山市)」
衛門三郎の子供のものといわれる、こんもりと盛り上がった群集古墳(八つ塚)が松山市恵原町 にある。愛媛県内に多く残る空海伝説で、衛門三郎物語はとりわけ有名だ。この物語は、有名であると同時に、子供が次々に死ぬという特異さでも目を引く。多くの伝承があり、細かな点で幾つかの相違があるものの、文殊院(松山市恵原町)に伝わる「遍路開祖衛門三郎四行記」によると、大筋はこのようなものになっている。 衛門三郎は、伊予の国荏原に住む庄屋。強欲非道で、私利私欲をむさぼり富を増やしていた。ある日、一人の僧がたく鉢に来た。その僧は、この地に立ち寄った弘法大師空海だった。三郎は追い返したが、翌日も、その翌日も空海はやって来た。三郎は立腹し鉄鉢を竹ぼうきでたたき割り、追い返してしまった。鉄鉢は八つに割れ、翌日から僧の姿も見えなくなった。三郎には八人の子があったが、毎日一人ずつ、八日のうちに次々に亡くなった。三郎は、空海が諸国を巡歴しているという話を耳にし、高僧を打った罪深さに戦りつする。ざんげの心が芽生えた三郎は、会って謝罪しようと遍路の旅に出た。二十度巡っても会えず、旅路の疲れで阿波の焼山寺のふもとで病になる。そこへ空海が現れ、三郎は涙を流して罪をわび、「来世は国司の家に」の望みを残してこの世を去る。空海は道端の石を三郎に握らせた。翌年、この地の領主河野家で男児が生まれたが、左手を固く握り、開こうとしない。三歳の時に南方に手を合わせ南無大師遍照金剛と両手を合わせた拍子に、手の中から「衛門三郎」の文字が刻まれた石が転がり落ちた。 衛門三郎の屋敷跡だった場所は文殊院となっているが、ここに戒名も位牌も残っているところから、三郎が実在したと考えられる。近くには子供を祭ったといわれる群集古墳(八ツ塚)が点在し、南方の山には鉄鉢が八つに飛び散ってできたくぼみが八つ(現在は三つ)あり、湧き出る水は「お加持水」と呼ばれ、今も枯れることがない。
まだまだ沢山ありますが、これからも随時紹介していきたいと思っています。