真言密教雑学

真言宗や密教の関連の事柄ならジャンルを問わず何でも掲載するコーナーです。


真言立川流

淫祠邪教(いんしじゃきょう)の代名詞とまでいわれた。本来戒律で禁止されている性行や肉食をすすめ、精液と愛液の混合したものを塗った髑髏を本尊に、反魂の術を行ったり、多くの歴史家たちは男女の乱交を進める奇怪な宗教とみなしている。しかし、実際の根本的なものをみると、当時の真言宗や天台宗とたいして変らない。立川流はそれら宗教と同様に、超人的な修行で取得した呪力で人々を救おうというものであった。また、鎌倉時代末期には、高野山の僧たちに影響を与え、男女が交合が密教理念の極致だとする理論を生み出している。しかし、鎌倉新仏教の諸派は支配者に容認されて現代まで生き残っているが、立川流は鎌倉新仏教の正反対の行き方をとる危険思想として、南北朝時代に大弾圧を受けて姿を消している。創始者は仁寛<にんかん>と言う東寺の高僧で天皇から冤罪で流刑されその時に武蔵国立川出身の見蓮と言う陰陽師を弟子にして密教の秘術を伝授したのです。故に真言立川流と呼ばれるようになったのです。

立川流の秘法「髑髏本尊歓喜法」の内容とはどのようなものなのだろうか。

人頭髑髏をよく洗い清める。 出来れば亡くなって直ぐのものが望ましい。 真言を唱えながら髑髏に漆を塗る。 美術品を扱うように美しく仕上げる。 よく乾いてから桐の箱に納めて枕元に安置する。 そして何人もの美女と性交し、その際に溢れ出た双方の愛液・精液を髑髏に120回塗りつづける。 そして毎夜12時から2時まで「反魂香」という香を焚いて、その香りを髑髏に染み込ませる。 その際ずっと「反魂真言」を唱え続けなければならない。(毎日千回ずつ唱える) 「反魂」とは、死者の霊魂をあの世から現世に呼び戻す事を意味する。 これを1週間続ける。 道場内に食物を準備し、愛の囁きを絶やさずに強壮の漢方薬を飲みながら、可能な限り濃厚なセックスを続けなければならない。 結願の夜に、髑髏の中に秘密呪符をいれる。 性液と香の入り混じった強烈な臭いの髑髏の頂部に金箔を3枚張り、そこに諸仏の(交合)曼荼羅を描く。 この時の絵具は男女の性液を混入したものを使う。 次に開眼供養である。 この髑髏の唇に紅を乗せ、歯には銀箔を張る。 そして最後に模造品の眼球を嵌め込み、美女のような化粧を施す。 この開眼供養は8日目の深夜12時から夜明けまでに行なう。 朝6時になったら髑髏本尊を錦の袋に納める。 この後は髑髏を袋から出してはならない。 そしてその日から7年間毎夜その袋を抱いて寝る。 起きたらば檀上に安置し、読経を行なう。 本尊が完成するのは8年目である。偉大な力が授かり、所願を成就する。

この様な異端邪教が世間から疎まれ廃絶になった今でも完全に真言宗は関係無いと言い切れない後ろめたさがあるのも事実です。それには過去に確かに何人かの正式な真言宗の高僧が関係して広めていた事実があるからです。


高野山真言宗の宗紋が巴紋と桐紋であるのは何故か?

空海こと佐伯真魚は讃岐国の豪族である佐伯直田公の3男として生まれる。巴紋は佐伯家の家紋です。後に天皇から弘法大師の称号を下賜された時に一緒に天皇家の家紋である5・3の桐紋も頂いたのです。それからこの二つの紋が宗紋として定められたのです。


空海が高野山に総本山を建立するのに拘った理由

当時の天皇が都を守って欲しいので空海に東寺を下賜してもらっても高野山に拘ったのには水銀があるのです。表向きは中国で空海の投げた独鈷が仏の力で高野山に落ち示したと言うことですがそれは天皇に体裁を繕っただけなのです。本当は高野山一帯に眠る莫大な水銀鉱脈が目的だったのです。煉丹術を用いて水銀を取り出し水銀で純金を精錬することが空海にはできたのです。だからその莫大な財産を基に寺院が建立して行けたのです。又、水銀は顔料・仏像製作・即身仏ミイラ作りにもかかせないものなのです。即身仏を科学的に調べると水銀を用いて防腐処理が施されていたのです。内臓を調べると生きているうちから大量の水銀を服用していた形跡がみられるのです。多分、今で言う覚醒剤の変わりに使用していたのだと思います。中国の皇帝は水銀を使って仙人の様に不老不死になれる薬まで実際に作らしていたそうですから、実際読経修行だけでは超人的な覚醒は無理だと思います。だが実際に空海は覚醒していたのも事実です。おそらく秘術と言うのは様々な事柄を行い最後に水銀を調合して超人的な覚醒を成し遂げたのだと思います。だが諸刃の剣で水銀中毒を患い短命だったのです。僧侶は水銀使用を認めてないですけどね。殆んどの即身仏から水銀が検出されたのもまた事実です。


現代日本で行われた呪法

昭和45年頃の話である。当時、日本は工業化に成功し、凄まじい経済発展を遂げていた。しかし、急速な発展には無理がつきものである。その経済発展の裏側では水俣病、四日市喘息などの公害問題が、続々と噴出していたのである。そんな中で、恐るべき組織が出現した。彼らの名を「公害企業主呪殺祈祷僧団」という。密教系の僧侶が集まって作られたこの組織は、実際に「呪殺」と書かれたのぼりを掲げ、全国を行脚し、公害企業の前で「呪殺の儀式」を行ったのです。彼らが企業側に送った声明文は次のような内容である。「 公害企業の経営者は環境を破壊し、地域住民を苦しめている。つまり、彼らは恐ろしいほどの悪業を積んでいるといえるのではないか。
これ以上、悪業を積めば、何度生まれ変わっても地獄から抜けられなくなる。そうなる前に、彼らを呪殺してあげるのが「仏の慈悲」である。当時慈悲を旨とする僧侶のとるべき行動ではないと言う批判も有ったが「呪殺」することが、本当に「仏の慈悲」なのかどうか、私には分からない。その結果、ある企業の場合約1年後、幹部が次から次へと死に至ったのです。それから間も無く企業側は自社の過ちを認めたのです。それで保障の交渉に進んでいったのです。幹部の死亡原因は事故死とか急変死、自殺とかの変死が多かったとのことです。それで噂になったのだが警察も呪殺祈祷と変死との因果関係は不明の為、彼らは、法律に触れない不能犯として、処罰の対象にはならなかったのです。

九字の印・真言等に幾つかの文字が違うのが伝わっているがどれが本当なのか?


おもに、次の「臨兵闘者皆陣烈在前」「臨兵闘者皆陣列在前」「臨兵闘者皆陣裂在前」それと陣の字が陳となっているものなどです。陣と陳はたんなる書き間違いです。九字の印は元々は道教が発祥で仏教がそれを取り入れて行ったものなのです。ですから「臨兵闘者皆陣裂在前」が正しいのです。道教では「臨兵闘者皆陣裂在斬」としてあったもの引用して仏教では「臨兵闘者皆陣裂在前」と変えて伝えてきたのです。ですから陰陽道・神道・修験道・忍術などで一般的に使用されるのは「臨兵闘者皆陣裂在前」(臨める兵、闘う者、皆 陣裂きて、前に在り)です。但し、真言宗と天台宗は次のように言われています。真言宗は『臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前』(臨める兵、闘う者、皆 陣烈れて、前に在り) 天台宗は『臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行』(臨める兵、闘う者、皆陣列ねて、前を行く)である。 それぞれの教義の違いでこの様に九字の唱え方が違うのです。多分、「臨兵闘者皆陣列在前」は真言宗と天台宗がごっちゃになり間違って伝わったものでないでしょうか?


何故、空海が唐へ行けたのか?

当初は最澄だけが国費で行くことになっていたが叔父の阿刀大足とか学友の藤原冬嗣らの推挙で20年間の留学僧として許可がでたが渡航費以外は全て私費なのです。当時の留学の費用は莫大な金額で何年も乞食坊主の如くな生活を送っていた空海にその様な金は無いはずなのにどの様にして工面したのか?佐伯一族からも多少の援助は有ったろうが費用の大半は高野山の麓にある天野村に住む中国人の鉱山師達から出ているのです。当時、東大寺大仏建立の為に沢山の鉱山師が中国から呼ばれ金箔貼りの為の水銀が必要で原料の辰砂を求めて日本の山々に中国人の鉱山師が入り込んでいたのです。修行の為に山野を駆け巡っていた空海が巡り会ったのは必然的な事なのです。奈良仏教の堕落に嘆き、半強制的に仏像建立の為に手伝わされている事に不満を持っていた鉱山師が唐に密教を学びに行きたいと言う空海の素質を見抜き大仏建立の水銀を使い煉金術を用いて大量な金銀を採掘したのです。この間に中国語を教わり7年かけて資金と中国語の準備をしていたのです。空海は内密に国の事業の為に採掘した水銀を流用して金銀を蓄えたのです。故に帰国後、寺を建立するにも金が要るのももちろんだがこの時の横領の件が露見しない様に高野山を所領に賜るように仕向けたのです。



何故、恵果和尚は自分の死期が近いのを知りながら千数百人の弟子がいるのに他国の空海を待ち密教の後継者として伝法灌頂したのか?


それは恵果の師である不空三蔵の遺言だったからです。大暦9年(774年)6月14日長安の大興善寺で密教第四祖の不空は死の床にいて弟子の恵果を呼び次の様な遺言を述べたのです。「恵果よ、わしの命はもう絶える。そなたには金・胎両部の秘法を伝えたが、この密教は唐ではやがて滅ぶであろう。そこでわしは東の国へ密教を伝えたい。わしの命は東の国へと移りそなたと再びめぐり合い、そなたの弟子になるだろう。」と言い遺して翌15日未明にこと切れたのです。師の言葉を信じ恵果はずっと待ったのです。不空が死んだ時、日本は宝亀5年(774年)6月15日でした。同じ日の未明に空海は誕生したのです。空海の母の玉依御前は自分が出産する前にインドの高僧が胎内に入ってくる夢を見たと述べているのです。不空はこうして空海として生まれ変わり30年後に遺言どおりに恵果の弟子になるために唐に遣って来るのです。待ちに待った再会なので恵果はとても喜んだのです。そして後継者となった空海は恵果から僅か2ヶ月間で金・胎両部の秘法を授かり、その年の12月に恵果和尚は臨終を迎えたのです。空海を枕もとに呼び「師弟の関係は永遠である。そなたは早く日本に帰り密教を広めよ。わしの魂は先に日本に行き、そなたを待ちこんどはそなたの弟子となるだろう。」と空海に遺言して息絶えたのです。そして恵果の魂は日本で生まれ変わり覚鑁と言う空海の孫弟子になったのです。ちなみに聖徳太子の生まれ変わりとされた聖宝と言う孫弟子もいるのです。これら全てが偶然に起きたことだと思いますか?これらの全てがドラマの台本の様に決められていたのです。これこそが時空を超えて行なった不空と恵果の最大な秘法なのです。

般若心経や観音経など殆んどのお経が呉音で唱えられているのに般若理趣経は漢音で唱えられるのは何故か?

理趣経は仏教では戒律で禁じられている男女間の性交を礼賛している部分があり誤解され易いのでおおっぴらにできないのでお経を聞いただけではどの様な字なのか見当がつけにくいようにする為に漢音にしてあるのです。それが証拠に臨済宗などで用いられている般若経の中の一部に般若理趣分(玄奘三蔵が訳した経)と言う経があります。真言密教で使用される理趣経は不空三蔵が先の原典を密教的に更に煮詰めて訳してできたお経なのです。したがって訳した人は異なるが根本的なところは同じ経なのです。それなのに般若理趣分は呉音で読まれ般若理趣経は漢音で読まれているのです。密教では般若理趣経は必ず毎日唱えられるのですが臨済宗では祈祷時のみに般若理趣分を転読と言う唱え方(経本をぱらぱらめくり声に出さず心の中で唱える)で行なわれるのです。この様に唱えるときの形態が異なる為、外に洩れる可能性の高い密教の方が漢音で唱えだし、露見し難い臨済宗の方は呉音のままだったのです。


空海の死はなぜ「入定」と言うのか?

実際、空海は62歳をもって高野山で最期を迎えているのですが通常僧侶の死は入滅、入寂などと表現されるが空海に限ってそうは言わず、入定の語を用いられるのです。本来、入定とは生きて禅定の修行に入っている状態をさし、死とは違う意味合いなのです。それなのにこの様に云われ続けられているのには次の様な出来事があったからなのです。空海の死後最初は通常のように入滅されたとか言われていたのです。延喜21年、空海死後86年経った時、高野山の第4代座主を務めた観賢という高僧の活躍により朝廷より空海に弘法大師という諡号が贈られたのです。その事を空海に報告する為に御廟の石室の扉を開けてみたらそこには言い伝えどおり禅定をする空海の姿があった。しかも驚いた事に頭には30pぐらいの長さの髪がはえ、まさしく現在も生きているかのごとくであった。感激した観賢僧正は髪を丁寧に剃りあげて浄衣に着せ替えて身支度を調えて退出したが生きている人と別れるのと同じ思いがして悲しみのあまり涙がとまらなかったそうです。そのことがあって以後は今尚、生きて禅定され続けていられるとの思いで入滅ではなく入定されていると言われ続けられているのです。


空海が入定しいてる御廟の詳細は?

廟窟の上に御廟が建立されているのです。廟窟は地下4.5m掘られ1.8m四方の石室なのです。石室の内部に石棺がありその中に空海が坐して入定しているのです。石棺には魂の出入りするための孔が開けられているのです。石室の天井は厚さ90cmの大きな石でできていてその上に土をかぶせ、地上に五輪塔が置かれているのです。石室の脇には石壁一つ隔てて地下の納骨堂がありそこには毎年多くの信徒の位牌が納められて空海のお膝元で和すらかな永遠の眠りについているのです。納骨堂には信徒しか入れません。一般の人は地上の御廟のまえで拝むのですが信徒は燈籠堂から地下の納骨堂に入れるのです。地下の納骨堂には空海の像が坐しているのです。その像の後ろの石壁ごしに本当の空海が前方を向き座しているのです。ここで拝むのが一番、空海に近いのです。


御廟の断面図






東寺の仏舎利(ブッダの骨)の不思議な伝承とは?


東寺の舎利は空海が請来した本来80粒のはずだが空海が入定する8年前に唐の霊仙と言う僧が天皇に舎利一万粒を請来して献上したのです。その中から千粒、空海のもとに奉納されたのです。入定3年後には空海の弟子の円仁が入唐して霊仙の弟子から舎利三千粒譲り受ける。こうして四千粒余の舎利が高野山真言宗にもたらされ如意宝珠として甲・乙の壺に入れられて護り継がれてきているのです。現在は行なわれていないが入定後450年間は慣習として後七日御修法の時、壺の蓋を開け舎利の数を勘定したのです。その記録に記されていることには舎利の数が国の繁滅に比例して増減をくり返すと伝承されているのです。東寺の記録では天暦4年甲壺535粒・乙壺4259粒、天永3年甲壺623粒・乙壺3365粒、大治2年甲壺668粒・乙壺4486粒、久安2年甲壺619粒・乙壺3159粒、建保4年甲壺517粒・乙壺2550粒、文永8年甲壺338粒・乙壺1959粒 近年は甲乙壺合わせて4千粒台で安定しています。一番多い大治2年は長年続いた摂関政治を打破した白河上皇の時代で一番少ない文永8年には元寇が襲来して絶体絶命の危機にみまわれるのです。実際に天皇や高官の前で公に数えられて正式に記録として舎利の増減が認められ記載されているのです。


仏舎利が如意宝珠になると記され如意宝珠の製造法を説いている「大乗本生心地観経」を請来したのは空海でなく霊仙と言う僧がもたらし伝授したのです。その謎の僧・霊仙とは?

滋賀県米原市出身で奈良の興福寺で法相を学び入唐の僧に選ばれたのです。船は最澄と同じ船だったと云われています。空海が師事した般若三蔵のもとで長く学びその語学力をかわれ「日本国内供奉霊仙三蔵」という位の高い称号を皇帝より与えられた日本人僧なのです。留学期間の20年が過ぎても日本には戻れないで皇帝の権力闘争に巻き込まれて五台山で毒殺されて亡くなったのです。20年の間に般若三蔵と共に国土全域に散らばった釈迦の舎利を探し回り一万粒以上の舎利を発掘したのです。



嵯峨天皇の墓が高野山にあったのです。京都の天皇陵「嵯峨山上陵」に埋葬されているはずだが?

嵯峨天皇は空海の良き理解者であり友人の一人なのです。空海は嵯峨天皇のブレーンとして政治的にも国家安泰の修法や呪法を駆使してあらゆる難題解決に手をかしていたのです。その様に堅い信頼の絆を築いていったのです。その為、嵯峨天皇は空海の側で永眠したいと遺言していたと思われます。だが天皇の墓所は天皇陵と決まっているので変えることは出来ないのです。決まりどおり崩御するとすぐに葬儀を行い嵯峨山上陵に埋葬されたことになっているのですが本当は遺言で8人の側近の者によって棺を内密に高野山に運び入れられたのです。根本大塔の付近で内密裏に火葬にされ骨を銅筒に入れ分骨と言う形で御廟橋を渡ってすぐのところに墓はあったのです。それが明治の頃に無くなってしまったのです。たぶん宮内庁の方から天皇の墓が天皇陵以外にあり一般庶民と同じところにあるのでは天皇は人でなく神であると教え込んでいた時代なのでとてもまずいと言うことで取り除かれたのではないでしょうか?