< 2001年に思う、若者と大人の一考 >

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絶望
 
 高校生のとき、「都会では若者ばかり闊歩して大きな顔をしやがって」という旨の“大人”の意見をテレビかラジオで耳にした。「でも『そうすると売れるから』という理由で、中高年・老人向け商品の開発は行わず、若者向けの商品ばかり作って売っているのは(都会を形作っているのは)“大人”じゃん。ばっかばかしい、悔しかったら大人向けの商品を開発しろ!」という感想を持ったのを覚えている。
 “大人になること”がこうまで魅力のないことだというのは、たとえば日本開闢以来、稀有なことではないか。

 大人になることに魅力がない、ということは、若者を(も)蝕む。なぜなら、(今の日本では)人生は70年も80年も生きていくのに、最初の20年を過ぎたらあとは絶望が待っている、ということだからだ。夢も希望もない。
 (この観点に限っては)人が夢や希望を持つには、喜びは人生の後ろにあれば後ろにあるほどいい。人生はクレッシェンド、これならがんばれる、夢も希望もある。刹那的にならない、目を輝かして生きていける。

 本当にいま、人生は20数年の間だけがクレッシェンドで、あとは絶望なのか、というと、そうでもないと思っている。でも世の表現者(「マスコミ」が最大勢力)が発信している姿はどうか?

 
 
希望
 
 戦後日本は、戦前の日本の横柄・理不尽・傲慢・理由なし(本当は理由はあるかもしれないが)の家父長制を脱したいと、もう我が子は戦場にはやらないと、その気持ちで子供たちを大事にし、“封建的な”制度、“封建的な”思考を退けてきた。その志やよし、と思う。おかげで戦争は身近に無い。いつ無理やり戦場に連れて行かれて命を落としたり、顔が崩れたり、片足を失ったりするかもしれない、という恐怖はなくなった。快適な“若者時代”も過ごせるようになった。
 じゃあ、これからは、快適な“大人時代”も過ごせるような社会を目指そうではないか。いま、始めるのだ。過去への回帰、ではなく、戦前の先達、戦後の先達の蓄積と思いの上に、いま、新しく始めるのだ。彼らが彼らなりにやった(がんばった)ように、今、われわれも。

 私は、奥田民生の、おやじ、よくやったじゃん、今度はわれわれの番だ、おやじたち、ゆっくり休んで、俺たちは身震いするぜい、という歌(愛のために)と、小室哲哉がDoSに歌わせた、現状への絶望と希望の渇望、そしておやじ・おふくろへの感謝の気持ちと愛情の気持ちを込めた歌(Baby baby baby)が好きだ。これは先達への感謝と愛情と、未来への希望の光筋だ。

 さあ、作ろう!現存の資本主義(商法?)を超える何かを。現存の資本主義(商法?)に付け加える何かを。現状否定、現状打破というのではなく、現状に付け加える何かを。現状を超える何かを。
 
 
2009年に付け加える。
 
2001年に上記を書いて以来、希望には進んでいないように見える。

人は、というか社会は、宗教か、先に進んでいる目指すべき相手か、逆らうことは恐れ多いor闘って格闘すべき体制か、信念か、信条か、なんでもいいのだけれど、「それに沿って生きるべきビジョン」の無い状況では、“前へ進む”ことは出来ないんじゃないか?
バブル崩壊後の日本は、まさに何もビジョンを持っていない状況に「陥った」状態なのではないだろうか。

江戸時代のような200年変化しなくてもいい天下泰平の状況なら、それはそれで幸せなのかもしれないし、人間的なのかもしれないけど。

思う
 
 

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