○「日本」形成期2.
 
  中国には古くから文明が生まれ、経済的・政治的・文化的に強大な勢力が存在した。西方を除く周囲には、それよりも圧倒的に弱小、あるいは後進の民族・国家・文化が取り巻いていた。 中国 (※1) には早くから中華思想が確立し、朝貢関係をもって周囲との外交を行った。
 また周囲の国々は、朝貢関係によって中国に認められることで、その統治領内に対して、周りの諸外国に対して、なにより強大な中国に対して、その地位を安定させた。
 こういった中で日本列島は、朝鮮半島と海峡とを挟んで中国とは直接国境を接せず、しかも残り三方には強大な勢力は存在しなかった。日本列島上の勢力は、中国の方だけを向いて外交をした。中国の制度をお手本とし、中国の文物を採り入れ、中国の文化を吸収した。こうした中での人々の意識の上では、中国に似ていることに価値があり、中国に近いことに意味があり、高級で高度なことだった。もっと言えば、中国に似ていることが、かっこよかった。


 さて、政治的・経済的にまとまり秩序だって力を充実させてきた“国連合(大和政権)”は、その中国に対して自己主張をはじめた。精神状態として、あるいは政治的野心として、自立心が生まれた。7世紀前半、聖徳太子の頃である。遣隋使で小野妹子が持参した国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という記述があった。隋はこれに不快であったが、高句麗と対立している事情からこれを問題とせず、かわりに返答使に低い位階の者を送ることで、これに応じた(隋書倭国伝)。


 7世紀中後期、朝鮮半島では唐と新羅によって百済が滅ぼされ、百済と親を結んで(“任那”を勢力下に置いて)いた“国連合(大和政権)”は、半島から追い出されることになった。と同時に、唐・新羅が追って((日本)列島に)勢力を拡大してくる脅威が生じた。“国連合(大和政権)”は、九州北部に水城を築き、防人を置いて防衛体制をつくった。しかし、唐とは和平が結ばれた。
 西南方面・朝鮮半島への勢力拡大の道が塞がれると、この“国連合(大和政権)”は東北方面への拡大に力を向けた。南西方面の強国との平和的関係、東北方面への軍事的拡大という状態は、8世紀奈良時代に入っても続き、平安時代前期まで続いた。
 平安時代に入ると、九州北部・佐渡・東北方面の、外部からの脅威が存在する地域を除いて、軍制が徴兵制から募兵制に代えられた。大和政権が対外的・対内的に安定した存在になったことを示すものと思われる。
 そして東北への拡大が続いた。「蝦夷征討」である。大伴弟麻呂(初代征夷大将軍)、坂上田村麻呂(二代征夷大将軍)、文室綿麻呂(三代征夷大将軍)といった人達の「活躍」である。
 こうした状況によって、この頃、大和の国は、唐の文化圏に属した。強大な経済・政治・軍事力を持つ唐の存在、その唐との対立回避と友好という状態は、再び中国に対する自立心を薄れさせた。
 漢詩文や書道など漢文学が隆盛し、漢文を流暢にこなすことは、貴族として重要なことだった。最澄や空海といった人達は中国に渡り、仏教の新しい方法密教を仕入れてきて日本で流布した。密教は、呪術的鎮護国家仏教として大和の国に定着した。


 以上のように形成されてきた大和の国、日本の精神的自画像、根拠は「天皇」であった。
 よくいわれることだが、世界の歴史を見てみると、それは戦争の歴史だった。部族と部族、民族と民族、国家と国家、交渉し、侵略し、侵略され、自分以外の他に自身を主張し、認知させる戦いの連続だった。武力を使って征服し、経済力をもってからめとり、理屈でもって己が存在理由、正統性に正当性、アイデンティティを、内と外に示した。
 存在理由を示すための根拠となったのは、「神」だった。人は誰でも、感覚的に神秘的な神や霊を感ずる、全く意味なく。そこで膨大な理屈を築き上げ、その神を絶対な真と決めつけて、その結果我が民族は最優秀とでっちあげる。世界中どこでも、まず初めはここから始まるようだ。
 その後、こっちの神とあっちの神がぶつかって、神を根拠に説明できなくなったり、神を根拠にした統治に苦しめられている人々が神を無意味だと否定したりしていって、そこから先は複雑になる。聖書だの古事記だの王権神授説だの八紘一宇だの民主主義だの社会主義だの共産主義だのは、こうして生まれていった。包含すべき対象が大きくなるにつれ、説得すべき対象が広がるにつれ、歴史を経て時間を掛けるにつれ、それは工夫され、スマートなものが目指された。

 日本列島上で、あるいは東アジア全体の中で、大和政権の存在の根拠になったものは、中国の承認と、天皇だった。天皇の存在は、古事記、日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録といった「正史」によって決められていった。
 そして実態的・感覚的には存在が薄れることはあっても、理屈のうえでは、命名する知的レベルでは、天皇は明治維新まで律令制の頂点であり、神であり続けた。そして明治維新以後、第二次世界大戦に敗戦するまで、立憲君主制の君主であり、神であり続けた。天皇が「神」でなくなったのは、つい最近のことである。
 第二次世界大戦後、アメリカによってもたらされた(押し付けられた?)日本国憲法(※2)によって、天皇は“国の象徴”となった。もし今日本という存在が脅かされたら、あるいは自立と自律を求められたとき、人々が拠り所に求める自画像は、どんなものだろうか。天皇だろうか。民主憲法だろうか。それとも、他の何かだろうか。音楽は、文学は、社会科学は、哲学は、私たちの自分の顔を表わし出しているだろうか。
 
日本の表現へ
日本の表現へ
元版1990−1991
本版2003

 


※1 the Middle Kingdom” : 『日本遠征記(一)』 ペルリ提督 編:フランシス・L・ホークス 訳:土屋喬雄・玉城肇 岩波文庫 の表現 ; 「そして支那が好んで自國に名付くるに、吾が國はまことに 『中國』 “the Middle Kingdom” なりと思ふと云つゐるが、それと同じ名稱を吾が國にもつけることは吾が國の地域が大洋と大洋に跨つて横たはつて居り、ヨーロッパとアジアとの途中に位置するので隱當であると思はれた。もし東部アジアと西ヨーロッパ間の最短の道が(この蒸汽船時代に)吾が國を横ぎるならば、吾が大陸が、少なくとも或る程度まで、世界の街道となるに違ひないことは十分に明らかであった。(ペリー提督)」
※2 日本国憲法(2003年時点の姿)