○ヨーロッパの接近
 
 さて、大航海時代(15世紀末から16世紀はじめ)に入ったヨーロッパは、その交流・侵略領域を拡大し、世界全域に進出し始めた。それは日本にも及び、南蛮貿易が行われ始めた。
 ヨーロッパの文物は従来の日本・東アジア文化圏のものとはかなり異質なものだったが、その先進性と新鮮さにより、広く受け入れられた。学問や技術が採り入れられ、鉄砲や活字印刷、天文学や医学が広まった。外来語(ヨーロッパ系の名詞)、風俗や食物など、生活習慣も採り入れられた。
 キリスト教も広まった。それはかなり異質なものだったが、伝道者や宣教師は社会事業や医療事業を盛んに行ったので受け入れられ、急速に浸透した。キリスト教を積極的に信奉する守護大名も現れた。
 南蛮貿易やヨーロッパの文物は、好意を持って迎えられた。


 守護大名の覇権争いの中で、尾張の織田信長が台頭した。他の大名を次々に平定し、勢力を持った神社仏門を滅ぼし、焼き討ちにした。また彼は経済を発展させるために商慣行上の様々な制約を取り除き、自由な貿易を奨励し、有力な仏門に対抗するためにキリスト教を保護した。
 下克上、戦国の時代に快進撃を始めた信長は、しかしその途上、配下にあった明智光秀に暗殺された。この事態にあって明智光秀を討ち事態を治めたやはり信長の配下にあった豊臣秀吉は、信長の後を受け継いで進撃を続け、遂に全国の守護大名の平定を成し遂げた。そして、いかにその状態を維持するかに注力した(検地・刀狩り)。戦国時代は終結した。


 秀吉が信長に重用されたこと、後を継いで日本全国の守護大名を支配下に置けたことは、個人にとっては偉大な立身出世であった。このことによって性格付けられた秀吉の政治的野心は膨張し、日本の統治のみならず、外国にまで影響力を広げようと考えた。
 彼は朝鮮、ゴアのポルトガル政庁、ルソンのイスパニア政庁、高山国(台湾)に対して、従来日本が中国に対して行ってきたような入貢を要求した。しかし、いずれの国・政庁にもこれを拒否され、秀吉の野心と面対は傷つけられた。
 このため秀吉は2度にわたって朝鮮に出兵し、武力による侵略・併合をもくろんだ(文禄の役・慶長の役)。しかし、朝鮮の義勇軍と明の援軍の力は強く、交渉においても、明は「汝を封じて日本国王となし」その朝貢を許す、という姿勢をくずさなかったため、秀吉の病死により日本軍は撤退した。この戦いは朝鮮に大きな被害と、豊臣家の財政的・政治的基盤に大きな傷を残して終わった。


 一方秀吉は信長の施策を受け継ぎ、南蛮貿易を奨励し、キリスト教の布教を認めていた。
 ところが、九州を平定する際に、キリスト教の洗礼を受けた大名の教会への所領寄進(日本列島上におけるイスパニアまたはポルトガル領(土)の発生)と、ポルトガル人による日本人の輸出(奴隷として南方に売買)が発覚し、大名のキリスト教信仰を禁止し、宣教師の国外退去を命令した。さらに、1596年に起こったサン=フェリペ号事件(イスパニア船サン=フェリペ号が土佐に漂着した際、乗組の水先案内人が、世界地図を示しながら、“イスパニアはまず宣教師を派遣して住民を手なづけ、次に軍隊を送って領土を占領するのだ”と失言したといわれる事件)をきっかけとして宣教師・信者を逮捕、長崎では、宣教師・信者26名を磔刑にした。
 個人の野心により朝鮮を侵略しようと企てた一方で、ヨーロッパによる日本の植民地化の匂いが漂ってきていた。


 豊臣家にとって代わった徳川家康の江戸幕府は、海外諸国と平和な貿易を行おうとした。東アジア・東南アジアで活動していた倭寇とまともな貿易船を区別するため朱印船貿易を行い、友好と通商を求めて、メキシコ、ヨーロッパに使節を送った。イギリス、オランダ、ポルトガル、イスパニアの商船が来航し、朝鮮と貿易を行い、商人による明との私貿易が行われた(明が鎖国政策をとり始めたため、国交はならなかった)。

 琉球は、東アジア地域における中継貿易で栄えていたが、ヨーロッパの進出によりその利点を失いつつあり、また薩摩藩により征服され、従来の明との関係に加えて、明と島津氏の二重支配を受けることになった。


 キリスト教について、当初江戸幕府は黙認の方針を採った。しかしキリスト教倫理が幕府推奨の封建道徳(儒教)と矛盾することと、(やはり)ポルトガル・イスパニアの領土的野心の脅威が存在することから、禁教へと変わる。
 禁教令を出し、応じない者は、大名を中心として国外に追放、欧船の来航地を長崎に限定、さらに、火刑・斬首を含む処罰をもって信者に応じた。見つけ出し、あるいは改宗させるための“踏み絵”は有名である。
 禁教令は幾度かにわたって出され、長期海外滞在日本人の帰国禁止、貿易と関係のない欧人の国外追放、混血児の国外追放が行われた。
 そして、ポルトガル・イスパニアは日本から追放され、(なぜか)イギリスは長崎に築いた貿易拠点を放棄し、外国との交流は、長崎の出島で、オランダ・中国・朝鮮とのみ続ける、ということで、江戸幕府の鎖国体制が完成した。以後200年間、日本は諸外国に対して門戸を閉ざす。
 
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元版1990−1991
本版2003

 

 
地図の歴史 - 大航海時代