− 荘園の歴史 −

 

律令制:
奈良時代・平安時代 の(に有効だった)国の基本法。律は刑法、令は行政法・民法・商法。隋 ・唐のものを範にし、制定した。668年の近江令が最初とされ、701年の大宝律令で確立した。

公地公民制:
大和政権(律令中央)の勢力成立・確立後、その支配の下に置いた地域で、各地で豪族が所有していた土地や人間をとりあげ、これを公(国(大和政権(律令中央))の所有物とする制度。645年の大化の改新によって制定された。土地の私有を禁止し、人々は班田収授の法によって公(国)から口分田を与えられ、土地に見合う租税を納める義務を負う。

班田収授の法:
中国の均田制(5世紀北魏で始まり、8世紀唐の中頃まで行われた。原則として成年男子に一定の土地を与え,それに見合う税や兵役を義務付けた制度)を範にし、645年の大化の改新で制定した(701年の大宝律令で整う)。6年毎に改める戸籍(公(国(大和政権(律令中央))による人間の把握)を元に、6歳以上の男女に口分田を与え、死亡すると田(耕地)は公(国)に返納される制度。その面積は、良民の男子は2反(約23a)、女子は1反120歩、家人・私奴婢には良民男女の3分の1。




 国(大和政権(律令中央)の勢力)成立・確立後も経済社会は変動し、人口の増加によって(制度上配給すべき)口分田は不足し始めた。大和政権(律令中央)は公地公民制を維持(・発展)させるため、723年、三世一身の法(土地の開墾を奨励する法令。用水を新しく開削したうえで土地を開墾した者には三代の間、既存の用水を利用して土地を開墾した者には本人一代に限って、土地の私有を認める令)を出し、耕地の拡大を企図した。
 しかし間に合わず、743年、墾田永年私財法を発し、(国司の許可を得たうえで)山や荒地を開き耕地を開墾した者には、その土地を“永年私財とする”ことを認め、人々の開墾・開拓・開発意欲を刺激しようとした。
 これによって、貴族(豪族)や社寺など有力な者・勢力は、自身で開墾したり、(相対的な弱者に)寄進させたりしていって私有地を拡大した。こうして生まれた荘園(私有地)は、やがて不輸・不入の権(不輸の権:免税特権のことで,田地にかかる租税を免除される権利・不入の権:国司が派遣する検田使(田地を調査する役人)の立入りを拒否できる権利)を手に入れ、国土(国の勢力的・政治的な支配・統治地域)に存在する耕地は増えていくが国(大和政権(律令中央))が掌握する土地・税収はいっこうに伸びない、という状態になり、統治下に置く人々に与えるべき口分田は増えず、国(大和政権(律令中央))の(勢)力・支配力・治安・統治力は弱まっていき、社会不安が増大した。それは武士が発生するほどの(武装して我が身を守る者・集団が生まれるほどの)社会不安だった。




 時の権力が鎌倉幕府になると、鎌倉政権の統治の仕組みの中の地頭が荘園を侵略し始め、室町時代・戦国時代に入ると、守護大名・戦国大名がその領国支配を強める過程で荘園を侵略・破壊していった。その後、豊臣秀吉の太閤検地(国(時の権力)による(日本)国土の完全掌握を目指す施策)によって、荘園は消滅した。

 
 戻る