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 思ったとおりの事態になった。
 「なんだよてめぇ、帰っちまうのかよ!」
 窓枠に足をかけて乗り越えようとしていたアーイーを、カインが怒鳴りつけた。
 「オレが掃除してんだぞ! なんでおまえがやんねーんだよ!」掃除してる正義マンは自分だけ、と言わんばかりだった。「掃除やってけよ、やってかねぇと、ぶっ殺すぞ!」カインは脳みそが溶けかかった声で叫んだ。コロスなんてのは穏やかじゃないが、二言目にはそういう単語が出てくるヤツだから気にすることはない。
 アーイーは窓枠に足をかけたまま振り向いて、何度かまばたきをした。すぐに自分に向けられたねじくれた敵意に気づいて、窓枠から足を下ろして、カインをにらみつけた。逆光になるからわかりにくいが───というより、彼女の場合、人間の姿だからわかりにくいのだが──総毛立てて、肌という肌を鳥肌にして、敵意を押し返した。
 「なんだよ、文句あんのかよ!」カインにはそういうふうに見えたらしい。
 「そうだそうだ、掃除やってけ!」あ、クゥニェのヤツ、カインにつきやがった。陰ではカインをぼろくそに言ってるくせに、あの日和見(ひよりみ)め! でもその日和見によって、クゥニェがそうするならってことで、僕とプラニチャ以外の班員は多かれ少なかれカインに同調し、アーイーに冷ややかな視線を投げた。逆にカインは味方を得て勢いづく。「おまえのおかげでみんな迷惑してんだぞ! わかってんのかよ!」
 「どうすんだよ」プラニチャが、後ろから僕を突っついた。「アーイーの世話役はおまえだろ。なんとかしろよ」
 「なんとかしろったって……」
 困った。いやがらせだろうが八つ当たりだろうが、学校生活において筋が通ったことを言っているのはカインだ。そして───筋が通っていようがいまいが、鷲のアーイーにはどうでもいい話で、彼女にはカインのやり方はただのコケおどしにしかならない。
 唇を噛みしめ、穴の空くほどカインをにらみつけるアーイー。カインは、アーイーが何も言い返せないのだと思って恍惚としてまくし立てる。「なんとか言ったらどうなんだよ!」そう言っておいて、もし言い返したなら理屈屁理屈正論暴論取り混ぜて十倍返しする要領をカインは心得ていた。そしてアーイーが逃げを打つか、手向かってくるか、行動を起こすのを待っていた。
 逃げればむろんカインの勝ち、手向かえば、やっぱり十倍返しでいびりぬいた後に「先に手を出したのはあっちです」と正直に先生に訴えてカインの勝ち。そうしてクラスのボスであり続けた彼は、自分が負けることなど───まして女の子に! ───まったく想定していなかった。
 でも、違う。いま絶対優位にあるのは、アーイーだ。彼女は攻撃の機会をうかがっているのだ。そうでなければ、あまりにスキだらけなデクノボーの獲物を前に、どこから引きちぎろうか算段しているのだ。
 僕が躊躇しているうちに、事態は動いた。
 アーイーが一足飛びにカインの懐に入ったかと思うや、その右手が一閃した。
 反射的にのけぞったカインの鼻っつらを爪がかすめ、脂ぎった肉が五ミリほどそぎ落とされた。幅がわかってしまうのは、すぐにそこに血が浮き出してきたからだ。
 続けざまに、アーイーはくわぁと口を大きく開いて、カインに飛びかかろうとした。やばい、アーイーのヤツ、噛みつくつもりだ。本気のアーイーはかじるじゃすまない、耳くらい容赦なく噛み切ってしまうに違いない。
 「やめろ、アーイー!」
 これ以上野性にまかせるわけにはいかない。僕は夢中で間に割って入った。アーイーの手をつかんで、肩を押さえて、必死になだめた。
 ここで逆にカインに仕掛けられてはたいへんだ。同時にカインもなだめようと思った。「カイン、おまえも……」手を引け、と言いかけて、けれど、カインは顔を押さえたままうずくまっていた。
 血が、押さえた手と顔の間から、あるいは指の隙間からとろとろと流れ落ち、後から後から出てきて止まらなかった。口元から顎へ伝わり、とろりぽたりと床にしたたり落ちていた。
 「いーてぇぇぇぇぇっ!」カインは絶叫した。「あー、あー、アァ、いぃ、いて、いてぇぇぇぇぇっ!」
 カインは後ずさった。力は緩んだものの、アーイーは未だ猛禽類そのものの形相で、カインをにらみつけていた。カインは、その凝視と一瞬目を合わせて、すぐに背けて、身を翻した。教室から逃げ出して、戻ってこなかった。
 彼のプライドはひどく傷ついたに違いなかった。血を見たことと、アーイーに負けたこと。そして、僕が止めたのがアーイーだったこと。僕はカインを守ったのだ。僕は、暴力を前になすがままにされようとしていた弱くみじめなカインを救った。カインは自分で自分に敗者の烙印を押し、そして逃げた。
 アーイーは、長い爪の間に入ったカインの鼻の肉をぺろりとなめて、「まずい」と言って吐き出した。つまらぬ狩をした、ということなのだろうか、ふん、と鼻を鳴らし、ぷいとそっぽを向いて、窓枠を乗り越えて教室を出ていった。彼女もそのまま帰ってしまい、その日は結局戻ってこなかった。
 居合わせたクラスメートは、数瞬の顛末を目の当たりにして緊張し、みな言葉もなかった。
 「掃除、しよう」僕はそう言って、雑巾を絞った。
 床に滴ったカインの血を拭った。生ぬるかったんだろうか。鉄の味だったんだろうか。自分の体にも血が流れていて、血と肉の分の重さがあることを、普段の僕は忘れていることに気づいた。
 アーイーは、やっぱりスズメを生でかじっているのだろうか。唇の端から、血を滴らせて。

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