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04


 あれは始業式の翌日だったと思う。
 僕らの学校は村の中心部からは少し離れていて、役場の横の交差点からだらだらした坂を上った先にある。南向きの日当たりのよい校舎は切妻(きりづま)造りの木造二階建てで、中央部に時計台が出っ張っていて、そこだけ四階建てくらいの高さになっている。
 僕らにはある通過儀礼があった。時計台に上り、校歌をつっかえずに一節歌う。それを五分間でこなせるかどうか。勇気と体力を兼ね備えなければなしおおせない、とびきりの試練だった。
 ルートはこうだ。校舎の東側にある枝振りのいいえのきの木を登ると、屋根に上がれる。そこから棟板を歩いて校舎の中央まで行く。ここまで来られれば、時計台の屋根に上るには、かつての勇者が残してくれたはしごが用意されている。
 低学年の手足では、えのきに登れない。登れるほどに成長しても、切妻屋根はけっこう急角度で、その斜面の向こう側に校庭を見下ろすと、奈落の底に落ちてしまいそうに錯覚するほど高い。おまけに棟板はめっぽう細くて、歩くのはサーカスの綱渡りみたいなものだ。もちろん、這ったりよろけて手をついたりしたらその時点で失格だ。バカ高い時計台のてっぺんに立つのもなかなか怖いのだけれど、それよりも、この棟板を素早く渡り切れるかどうかが、遥かに難関だった。
 その日の昼休み、僕はこの棟板渡りの試練にチャレンジし、そしてまさに成功しようとしていた。バランスを取り、バランスを取り、ゆっくり、だが速やかに棟板を進み、あと数歩ではしごに手が届くところまで近づいていた。時間はたっぷり残っている。いける! と思ったときに、後方で、えのきの木の枝に取りついて固唾をのんで見守っていたはずの仲間たちの間から、「ぬへぇっ?!」と悲鳴とも歓呼ともつかない声が挙がった。
 何かと思って振り向くと、白いスカートの裾が揺れるのが見えた。アーイーが、えのきを伝って屋根に上り、棟板の東端に立っていたんだ。みんな目を丸くしていた。彼女みたいなきれいな女の子が木登りをするなんて、誰も夢にも思っていなかったからだ。
 口も聞けずにおたおたしただらしない男子一同に、アーイーは目もくれなかった。やおら足を踏み出すと、棟板の上をすたすたと、まるで廊下を歩くのとおんなじようにいやそれよりも軽やかに、僕の方へ向かってきた。必死にバランス取ってふんばって冷や汗だらだら流して、二分はたっぷりかけた僕の大冒険を、彼女は十秒足らずでこなしてしまったのだ。
 アーイーはずんずん迫る。僕の目の前まで来てもまるで歩く速度を緩めなかった。
 「邪魔。どいて」
 僕の肩にその手がかかった。見とれそうなくらい白くて細い手指だのに、熊に殴られたかと思うほどの力で押しのけられた。不安定な足場で、振り向いた姿勢を保つのにも限界があり、僕はひとたまりもなくずんがらどうと軒下の花壇に落っこちた。
 花壇のチューリップの間でぶっ倒れたまま時計台を見上げると、てっぺんにアーイーの姿が見えた。腰に手を当てて、すっくと胸を張っていた。
 そして彼女は、鳴いた。
 泣いたのではない。鳴いたのだ。その声がいかようであるか、説明するのは難しい。強いていえば『きいぃぃぃぃぃぃぁぁぁああ……』という感じで、谷に響きわたるハイボリュームで、息の続く限り発声し続けたのだ。
 耳をつんざく人間離れした声は、校舎ごとびりびり震わすほどのものだった。校庭に並んだ木々から、小鳥たちがいっせいにぶわっと飛び立つのを見た。空のかなたへ逃げていき、二度と戻ってこなかった。
 えのきの木にしがみついていた連中も思わず手を離して両手で耳を塞いだ。当然、ひとり残らず木の下にどさどさと落ちてしまった。
 教室からは悲鳴が挙がった。ことに低学年の教室では、不運にもまだ居残って遊んでいた連中が恐怖に駆られてぎゃあぎゃあと泣き喚き、いつまでも収まらなかった。
 学校から離れた村の家並にもアーイーの声は届いて、人々を震え上がらせた。魔法が信じられていた時代の古い迷信をたくさん知ってるブフじーさんなどは、悪魔の到来だとか火山の爆発だとか、とにかく不気味だ凶兆だと騒ぎ立て大暴れし、あげく腰痛でダウンして今なお起きることができない。
 恐ろしいことに今やそれはアーイーの日課だ。毎日昼休みになると、彼女は屋根に上って鳴くのだ。授業が昼までしかない低学年の連中が我先に逃げ帰る光景も、もはや見慣れてしまった。
 むろん、試練に挑戦する者は誰もいなくなった。

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