ふわりと、どこからともなく鼻をくすぐる香りがする。
「……なんだ、コレ…?」
唐突に感じた香りは吹き抜ける風と共に姿を消した。
……気のせいだったのか?
むずむずするような、なんとも微妙で複雑な感覚に陥って、デュオは答えを求めるように前を歩く背中を見つめた。
背筋をぴんと伸ばし真っすぐ前だけ見て歩くその背中は、デュオの問いかけに気付いているだろうに返事をくれる素振りもない。
後ろの確認もせずにさくさく進むその動作はまるで、デュオが付いて来るのが当然、という風情だ。
……そう思われるのってなんだか不愉快。
漠然とそう思うが、だからと言ってここで引き帰すのも負けたようで癪だ。
『見せたいものがある』
一緒に与えられた任務を片付けて、帰るための仕度を丁度整えたところだった。
朝から姿を見ないな、とは思っていたけれど、別にどこに外出しようと咎める謂れはない。だからいきなりドアを開けられても「ああ、帰ってきたんだな」くらいにしか思わなかった。
その後告げられたセリフは予想外だったけど。
『ヒイロ』が、『自分』に、『見せたいもの』。
全く予想がつかないのが逆に面白くて、ついつい誘われるままに付いてきてしまった。
だけど、部屋を出て半時程過ぎるというのに未だに目的地すら聞いていない。
始めの興味はとうに尽きてしまい、今はほいほい付いて来てしまった己の旺盛な好奇心と付き合いの良さが恨めしくなってきている。
少し古びたような家の立並ぶ住宅街は、その先に珍しい何かがあるとはとても思えなかった。
「……おい」
「………」
「おいってば」
「なんだ」
腹立ちを込めて呼びなおした時、ようやく不機嫌そうな顔が振り返った。
これでシカトしたら大声で名前を叫んでやる、と考えていたデュオは少し残念な気持ちにもなったのだが。
「一体いつ着くんだよ」
「……もうすぐだ」
端的にあっさり答えたヒイロは、そのまままた前を向いてしまう。
彼独特の硬質な気配はデュオが今後ろを歩いてることすら拒絶しているようで、お前が連れて来たんだろとデュオは内心腹立たしく呟いた。
と、またも鼻先を何かの香りが掠めた。
―――今度は絶対に気のせいじゃない。
甘ったるいような、暖かいような。
むせるような香りとはこの事を言うんだろうと思うくらいに辺りを包む強烈な。
答えを求めて、デュオは辺りに視線を巡らした。
「………着いたぞ」
ヒイロの言葉とほぼ同時に角を曲がる。
その先に、小さな児童公園があった。
人気のない朽ちたそこにひときわ目を引く黄色の固まり。
たくさんの花を咲かせた木なのだ、とわかっていても遠目にはやっぱり黄色の固まり、としか表現しようのないものだった。
吹きつける風。
眼前のそれが、香りの正体だった。
「………これ…」
「金木犀、という花だ」
「キンモクセイ?」
「モクセイ科の常緑小高木だ。秋になるとこうして芳香のある橙黄色の花を咲かせる」
「いや、名前は知ってるけどさ。あのバスオイルとかになってるアレだろ?…なんか思ってたのと全然違う」
なんとなく近づく気にはなれなくて、遠目に香りをいっぱいに吸い込んでみる。
「ふーん…やっぱ、作り物は作り物だな、全然違う。こんなにきれいだとは思わなかった」
こんなにも強烈なのに、まるで浄化されるような香り。
それは自然でしか絶対に作りだせないものだ。
「さんきゅ」
「………」
「コレ見せるために連れてきてくれたんだろ?」
デュオは口元を綻ばせた。
想像通りと言えばそれまでだけど、やっぱり返事が返ることはない。
そのまま二人、無言で立ち尽くす。
長かったのか短かったのかわからない沈黙の後、ヒイロがそれを破るように動き出した。
「……戻るぞ。撤収までそう時間はない」
「んー…もうちょっとだけ、ダメ、かな?」
「………好きにしろ」
ダメ元だと思ってねだってみたのに、予想外に肯定の返事が返ってデュオは驚いてヒイロを振り返った。
その眼差しがデュオを見ていたらしいヒイロの視線と重なる。
心の奥底まで見透かすようなまっすぐな瞳に一瞬息をのみ、そうしてゆっくりと視線をヒイロから引き剥がして金木犀へと移していった。
視線を逸らした後も、何故だかはわからないけれど、脳裏には先程の眼差しが痛いくらい焼付いていた。
ヒイロは無言でそんなデュオを見つめると、そのまま同じように金木犀へと視線を移した。
甘い香りだけが、二人の回りを包んでいる。
やがて冷たい冬が来る。
けれど、今は実りの季節。
end.
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