「あら、カトル。まだ起きていたの?」
「すみません、もう少ししたらちゃんと休みますから」
念の為。と執務室を覗いたイリアは、そこに先程わかれた時のままの弟の姿を見出して驚いたように声を上げた。
毎日かなりのハードスケジュールのはずなのに、休むと言って部屋に戻った筈の彼が何故まだ作業を続けているのだろう。本日彼は体調を崩していて、青い顔をして戻ってきたくらいだというのに。
よほど時間が惜しいのか、返事を返しながらもカトルは顔を上げることも作業の手を休めることもしなかった。
礼を尊重する弟の、そのいつにない態度にイリアは苦笑を洩らした。
何に関して調べているのか、わかってしまったから。
「あまり根を詰めてはダメよカトル。いくらお友達のためでも、ね」
「はい」
作業の手は止まらないまま、即座に返事が返る。
「一区切りつけたら休むこと、これは主治医からの命令です」
「………はい」
微笑みと共に告げられた譲歩に、カトルもようやく手を止めて苦笑を返した。
優しい姉は、弟に甘くできている。それに甘えてしまっていることを自覚しているから、カトルも彼女に対しては強く出ることができなかった。
やると決めたらいくらでも無理を続けるカトルの対策に、側近達は彼女に主治医として傍にいてもらうよう配慮したのである。
元々腕はいいし、家柄は言うに及ばず。安心して当主を任せられる存在として、彼女はもうずっとカトルの健康管理をしてきていた。
体調が悪いのは本当で、心配されているのがわかるから。だから彼女の言葉には逆らえない。
「そんなに真剣な顔をして、一体何を調べていたのかしら?」
「うわあ!」
ひょい、と唐突に画面を覗きこまれそうになって、カトルは慌てて画面を隠した。そのカトルの慌てぶりを見て、イリアが「冗談よ」と笑う。
「私には見てはいけないものがたくさんあるものね。あなたが無理をしないなら、それでいいの。それだけは覚えておいて、カトル」
「イリア姉さん、……でも今のはちょっと酷いですよ」
本当に慌ててしまったので不貞腐れたようにカトルがぼそぼそ呟いた。その年相応と言うか、子供っぽい反応にイリアの笑みが深まる。
「ええそうね、ごめんなさい。お詫びにあなたのこの間のおねだり、聞いてあげるわよ」
告げられた途端、カトルの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?!」
「以前勤めていた病院の院長先生に機材使用の許可を頂いたわ。検査は私がするから大丈夫」
「…ありがとうございます、姉さん」
心底嬉しそうに言う弟に、少し心配そうな、複雑そうな顔で彼女は微笑んだ。
どこまでも部外者でしかない自分の、せめてもの手助けだと理解していたのかもしれない。
「かわいい弟の、滅多にないお願い事ですもの。……詳しいことは敢えて聞かないわ。ただ危険なことは止めてね、お願いよカトル」
「大丈夫です。…僕は、皆が幸せになれる方法を探しているだけですから」
大丈夫、とそう言うカトルに不安そうな眼差しを向けた後、もう一度「ちゃんと休むこと」と念押ししてから彼女はその場を去った。
完全に気配が消えたことを確認してから、カトルはイスの背もたれに寄りかかった。
「ふーーーーーーーー、……危なかったぁ」
安心した途端、深いため息が洩れる。
ちらりと向けた視線の先、ディスプレイにはゼロシステムの詳細なプログラムが表示されている。
かつて彼女はこれを目にしたことがあるから、見ればそれが何であるかを悟ってしまったはずだ。
あの事件が心に傷を残したのは彼女とて同じことで、そして弟を狂わせたこのシステムを嫌悪している。見られれば、まず間違いなくこの件に関わるなと説得が始まっていたはずだ。
詳しいことを知らずにいる今だからこそ黙認されている作業である。
今回は、関わっている人物が人物だけに引くわけにはいかない。
何より、大元となるこのシステムを世に出してしまったのは自分なのだ。
「…本当に、どこまでも甘えてしまっているな……」
多分姉は聞きたいはずだ、そして止めさせたいとも思っているはずだ。
それでも、頼まれたことを請け負ってくれた。
―――ソロのDNAを調べる。
彼の父親を、探し出す。
カトルが独断で進めていることだけれど、このままでいいとはどうしても思えなかったから。
「この状況を父親も知るべきだよ、デュオ。その人だってデュオのことを愛している可能性を、どうして君は始めから捨てているんだい…?」
呟いたカトルの意識に甦るのは、どこか諦めたようなデュオの微笑み。
遊ばれたのだとしても構わない、と言ったそれは仮定形だった。デュオ本人ですら相手の真意を知らないのだ。
もしも『彼』がデュオを愛していたら?
彼女の状況を、自分の子供の存在を知って、後悔はしないだろうか?
デュオはもっと幸せになれる可能性を持っているんじゃないだろうか?
全て仮定。
調べるまでは真実なんてわからない。
連絡する必要がないと言った、デュオのあの拒絶感はなんだったんだろう。
相手の存在を最初から思惑に入れていない、あの徹底した切捨て方はどうして?
カトルにはどうしても納得できなかった。
何かある、とも思った。
プライベートなことだとはわかっている。だが、見過ごすことができないとも思った。
だから、完全なる独断。勝手に事を押し進めている。
「デュオ、ピースミリオンに東洋人は、そんなに多くなかったんだよ…」
絞る事は可能だ。
情報さえ、あれば。
サリィにはもう話を通してある。彼女も同じ意見だった。
今度もう一度健康診断をすることになっているから、その時一緒に血液採取を行ってくれる手筈だ。
それをカトルがイリアに渡し、DNA鑑定を行う。
プリベンターに資料を作らせるわけにはいかないからサリィの元での検査は無理だった。それでイリアに頼んだのだ。
イリアはそれが誰の血液なのかも知らず、とにかく結果をカトルに渡すように頼まれている。
その結果とかつての資料から、父親を探し出す。
その間デュオにも、他の誰にも何も知らせないことに決めた。
万が一の場合を考え、全てカトルの胸の内に。そうして、責任も全て自らが背負う。
「ごめんね、デュオ」
―――でも僕は君に幸せになってほしい。
それが免罪符にはならないことを理解して、それでもやらなければと思うから。
「このままでいい筈がない。でも僕は、君に嫌われるかもね」
哀しいけれど、しょうがないかな…、と、カトルは困ったように微笑んだ。
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