抵抗のために突き出した腕は無力だった。
どんなに撥ね退けようとしてもそれは簡単にかわされて、掴まれた腕は呆気なく縛り上げられた。
抗議の声は聞き遂げられることもなく服すらも破り捨てられる。
千切れた布は本来の役目を果たすことなく、自分から離れていく。
信じられない。
そんな言葉だけが頭の中を木霊するけれど、それは嫌になるくらい現実だった。
押さえられた口からは悲鳴すら上げられず、逃げられない恐怖に絶望を感じた。
身体が震える。
でもそれが恐怖のためなのか、それとも彼に触れられたその感触ゆえなのかは自分でも判断がつかなかった。
怖い。逃げたい。
――――誰か。
顔を背けようとしてもそれすらも叶わず、押さえこまれた身体は指先くらいしか動かせず。
ただ触れてくるそのやわらかい感触にだけ意識が集中する。
肌に噛み付かれる覚えのない感覚に耐えながら、涙の滲みかけた瞳を閉じた。
泣いてなんかやらない。
それが、オレの最後のプライド。
歯を食いしばって、指先でシーツを掴んで。精一杯の拒絶を示して睨み付けようとした瞳に、予想外の光景が映る。
「……っ」
「…………お前が悪い」
自分でも気付いていないのか、静かに頬を流れる涙を拭おうともせずにゆっくりとした動きでその顔が近づいてくる。
深くて吸いこまれそうな瞳。いつも真摯な光を湛えているそれが今はどこか虚ろな色をしている。
気付いてしまった涙と、その言葉と、その瞳と。どれかはわからないけれど、もしかしたらその全てかもしれないものに身体の力が自然と抜けていった。
ゆっくりと重なる口唇。
拘束する様に縛った手首を押さえていた右手が、傾けるよう頬へと滑る。
―――悪いって、何が?
告げられた言葉の意味を考えながら、触れるだけで離れていったその顔を見つめた。
―――どうして。
「ヒイロ……」
ぽつりと呟いた名前に、のしかかる男が瞳を細めた。
「………ヒイ、ロ」
どうしてだろう。嘘のように心が穏やかになっていた。
一つのキスを境に凪いだ海のような冷静な思考が戻ってきている。
縛り上げて…でも、それでもこの上なくやさしく触れてくる彼の真意がわからない。でも、一生懸命考えてわかることは一つだけある。
そう、一つだけ、ある。
また口唇が重なる。
ゆったりと瞳を閉じ、デュオは気づかれないようそっと手首を動かし拘束しているものから引き抜いた。近くにあったものでされただけの有り合せの拘束具は、落ち付きさえすればそれほど大したものではない。
デュオが拘束から逃れたことに気付いたヒイロが再び腕を伸ばしてくるその前に、デュオは自分からその首にしがみ付いた。
「…こんなの要らない」
はっきりと断言するように告げたデュオに驚いたヒイロが動きを止めた。その隙に、しがみ付く腕にこめた力をより強くする。
「……逃げないよ。だから、要らないだろ」
肩口に顔を押し付けるようにして、言い聞かせるように囁く。
「………ここにいる」
オレは、ここにいるから。
始めはいぶかしむように体を強張らせていたヒイロから、だんだんと余計な力が抜けていった。
押さえ付けるような体勢からふわりと包み込むように抱きこまれたのを感じて、デュオはくすりと微笑んだ。
さっきまでと同じ人間の腕とは思えない。
不思議と身体に馴染んで心地よい。
「…オレはいいから、さ」
自分から瞳を閉じたデュオに、当然のようにヒイロが顔を傾けていく。
触れるだけの先程とは違い、深く重ね合わされるのを感じてデュオの身体が跳ねた。
ヒイロの動きに遠慮はなく、デュオの怯えを気にする気配もない。
「…んっ……」
緊張に強張りそうになる身体を、目の前のタンクトップに皺を作ることでやり過ごす。
自分から縋りつくようにして全て委ね、そして覗き込んだヒイロの瞳にはやはり光がない。
見慣れた、けれど見たことがない、虚ろなその無表情。
―――おかしくなってるなら、付き合うから。
「ちゃんと、忘れろよ」
オレは、お前ならいいから。
静かに微笑んで、デュオは瞳を閉じた。
「こんなトコいると風邪ひくぞ」
声と同時にひょこん、とドアから顔が覗く。
深夜の、誰も来ないはずのリビングに現れた人物にヒイロは眉を寄せた。
人が真剣に思い悩んでいるというのに、元凶たる人物にのんきに近づいて来られるのは非常に遠慮したい状況だ。
現在この屋敷に滞在しているのはヒイロとデュオとソロだけなのだから、よく考えなくてもここに来るのはデュオ以外にあり得ないのだが、ヒイロとしては他の人物であった方が良かったような気さえする。
寝間着に毛布を引き摺ったような格好で現れたデュオは、ヒイロの不機嫌そうな眼差しを気にする風もなくトコトコと近づいてきた。
「珍しいな。パソコンも持たずにこんなとこでヒイロが寛いでるの」
そのままソファのすぐ脇に座りこんでしまう。
毛足の長い絨毯が敷かれているから冷えるということはないが、あまり体にいいとも言い難い体勢にヒイロが文句を言う前にデュオはソファの手すりに凭れる形で体を落ち付けてしまった。
もう動く気はないぞ!と全身で主張しているようなくつろぎっぷりに、仕方なくヒイロは浮かしかけた腰をまた落ち付ける。
腹立たしげに少し視線を逸らすヒイロにデュオは気付かれないように口元を綻ばせた。
過保護と言おうか、世間一般の女の子への扱いを徹底していると言おうか、とにかくヒイロはデュオが女の子だとわかってからの扱いが以前と格段に変わった。
始めでこそ前と全く同じ対応だったわけだが、一緒に生活するうちに嫌が応にも意識し始めてしまったのだろうか。なんだか妙に大事にされてるような雰囲気である。
―――別に、壊れやしないんだけどな。
そんじょそこらの女の子よりも格段に頑丈な自信はめちゃくちゃある。そうでもなければガンダムになんて乗ってるわけはないんだし。
「なあ、何してたんだ?」
思ったままに問い掛ければ、返ってきたのは相変わらずの冷たい眼差し。
「お前には関係ない」
「はいはい、そうでしょーとも」
むっとしたデュオは、べーと舌を突き出しそのまま口を閉じた。
考え事を一旦放棄したヒイロは、気付かれないよう横目でデュオを伺うと視線を逸らして気配だけでその存在を追っていた。
意識せずとも甦ってしまう夢の内容を反芻してしまいながら、それを打ち消し、逃れるようにただ現実の目の前にいるデュオの存在感に意識を集中させる。
向いてる方向が異なるため意図しなければ視線が交わることのないままの体勢で、穏やかな沈黙がおちる。
静かな室内には、外で風が吹くたびに聞こえる葉ずれの音さえもが印象的に響いた。
「………」
沈黙の中、デュオはそっとヒイロを伺った。
ベッドの中階下に降りる気配を感じて、その不安定な気配が気になって、思わず出てきてしまったのだけれど…やっぱり迷惑だったかもしれない。
降りるか無視するかは悩んだのだ、一応。
でも普段揺らぐことのない気配のヒイロだから、その危うさは酷く気にかかった。
余計なお世話かもしれないなんてわかってたけど。それでも様子くらいは見に行こうと来たのだが、なんだか全然普段通りのヒイロだ。
本当に、余計なお世話だったのかもしれない。だとしたら、一人になりたかったヒイロの時間を邪魔したことになる。
なんとも引っ込みのつかない気まずさを感じ、気付かれないよう溜め息をつく。
戦時中からかなり疎まれてはいたのだけれど。最近では扱いこそ丁寧になったけれど、心は前よりも離れた気がする。
やっぱりダメだ。
どうにもタイミングが合わないらしい、自分たちは。
無視されることも、冷たい言葉もどうってことない。一番辛いのは、耐えられないのはあの拒絶の瞳だった。
最近のヒイロは全身でデュオの存在を拒絶している。言葉にされずとも、ふとした時にそれがわかる。
面倒事に巻き込んでしまった自覚があるから、それが酷く痛い。
ヒイロが選んだんだし、抜けるのも自由だと言ってある。でも、それでも。
それでも。
「子供は、どうした?」
「え?」
かけられた声に、考えに没頭しかけたデュオの意識が急激に戻る。
「え、え?何」
ぼーっとしてた為に聞き取り損ねた言葉を求めて伺うように覗き込むと、ヒイロは不機嫌さを増したような雰囲気で睨み付けてきた。
「………お前は、工作員じゃなかったのか?」
「…どういう意味だよ」
むっとして視線を鋭くしたデュオの顔を一瞥した後、何か言いかけたヒイロは思い直すように口を噤んだ。
代わりに先程聞きかけたことをもう一度尋ねる。
「あの子供はどうした、と聞いたんだ」
「ああ、ソロは隣の部屋」
上置いとくと不安だし四六時中一緒ってのも変に育ちそうだし、夜は寝かせたいし。
にこにこと明るく説明するデュオにヒイロは何か違うものを感じてしまった。
「狙われてるのはあいつだぞ」
「でもマザコンになられても困るし…こういうのって小さい時に決まるって聞いたぞ」
ぴしっと指を突き立ててさも当たり前のように喋るデュオに、ヒイロの頭に恐ろしい考えが浮かんだ。
「…お前まさか今までもそんな感じだったのか?」
「うん」
「………」
よくここまで守り切ってこれたものだ、そんな感想がヒイロに浮かぶ。
同時に、よくこんな単純な思考回路の人間がガンダムのパイロットをやっていたなと感心に近いものが湧いてしまった。実力あってこそ、だろうがそれにしても大雑把過ぎる。
「大丈夫、センサー付けたから」
ホレ、と見せられた小型端末には確かに現在地を示すライトがついている。
だが、こんなものを使うくらいなら傍にいた方が手っ取り早いのではないのだろうかと思ってしまうヒイロだった。
やはりデュオは謎が深い。
理解不能な相手に対し、やっかいな悩み事を抱えた今の自分は多分思っていたよりも大変な状況なのだろう。
…………そう、不可解な感情を抱え込んだこの状況は。
デュオの軽口に明るくなりかけていた思考が、自分の内に向いた途端また闇を取り戻す。
気重な様子で沈黙したヒイロを少し困ったように見つめた後、デュオがふ、と視線を逸らした。
沈黙の意味をどう取ったのか、思案気に瞳を伏せると次の瞬間にっこりと笑った。
「…………あいつはね、出来るだけ早くオレから離れなきゃいけないんだ」
ぽつり、と呟いた声は小さかったけれど、静かな室内にはよく響いた。
「だから『ソロ』なんだ」
微笑んだまま、くりっと顔を向けてヒイロと視線を合わせる。
「名前には意味があるんだよ。だって親が子供に最初にあげれるプレゼントだもの。一生懸命考えて、これしかないって付けたんだ」
そうして言葉を切って瞳を軽く伏せるその姿は妙に近寄り難いものを感じさせる。
そう、ソロを護るのだ、と告げたあの時のように。
離れていた距離と時間と、その間の変化を見せつけられるような心地だった。
「…『だからソロ』、とは?」
奇妙な空気を破りたくて言われた言葉を反芻するように、無意味な問いかけをした。
急に大きな声を出したヒイロを、きょとんと見上げるように見返した無防備なデュオの姿がヒイロの意識に焼付く。
少しの間意味を図るようにヒイロを見つめたデュオは、次いで柔かく微笑んだ。
「気になる?」
「別に」
反射的に答えるが、ヒイロの内心の動揺に気付いたのかデュオはふふん、と面白げに口元を緩めた。
「そうだな。せっかくの夜だし、内緒でヒイロにだけ教えてあげちゃおう。 なんでソロが、ソロなのか」
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