私が詩をポエムと呼ばない幾つかの理由

 

 知人のページのリンクコーナーから出発して次々と個人のホームページを巡回していくと、多くのページで実に様々な詩に巡り会います。思いもよらない視点や、到底太刀打ちできない瑞々しさや鋭さを秘めた詩の数々を見るにつけ、人はかくも率直に思いを詩に綴ることができるのだな、と感心します。

 然るに・・・・・・表題です。

 少なからぬページで、は「ポエム」又は「poem」と呼ばれています。趣味の一環で詩を書く人間には、これは実に些末な問題であって、どちらでも良いのです。しかし、詩人を自認して詩を書く人間は、この問題に無頓着であってはいけません。たとえば、自分の詩を詩と呼ばずあえてポエムと呼ぶなら、相応の考えがあってのことでなければなりません。

 私は、私の作品を「ポエム」と呼んだことはありませんし、プロの詩人が書いた作品は絶対に「ポエム」と呼ばないことにしています。

 理由その一。日本語に従来からある語彙を捨ててまで外来語で呼ぶ利点が無いからです。
 コンピューターがcomputerという英語をそのままなぞったカタカナ語で呼ばれているのは、日本語なり漢語なりでうまく言い換えられなかったからです。最近は部分的な用法で「電脳」という表現も耳にしますが、耳で聞くと何のことやらピンときませんし、PCショップで「電脳ください」と言っても店員さんの目が点になるのは明らかです。
 戦時中の日本のお上は、「敵性言語を使わないために」との理由から、野球の「ストライク!」を「良し!」と呼ばせたり、楽器のトロンボーンを真鍮曲金抜差喇叭(しんちゅうまがりがねぬきさしらっぱ)と呼ばせたりしたそうです。真鍮曲金・・・はある意味非常に写実的な表現なのですが、既に定着していた単語とは使い勝手の面で比べようがなく、日本の敗戦と同時にこれらの語彙は消え去りました。
 では、詩の場合はどうか。ポエムと呼んだところで字数が減るわけでもなく、詩と呼ぶ場合よりも指し示す対象が明確にイメージできるというわけでもない。だったら、詩でいいじゃないか、となるのです。

 理由その二。事実上、日本の世間に言う「ポエム」は詩の一分野しか指し示していないのです。
 個人のホームページの「ポエムコーナー」で出てくる詩は、人生の悩みや恋愛など、個人の内面の問題をテーマとした作品が殆ど、否、全部だといっても過言ではありません。一人一人がその人だけの人生を生きているからこそ、共通のテーマを扱っていながら、それらは似たものを探すのが難しくなることがあるほど多彩なのです。
 しかし、詩が語ることができるテーマは、それだけではありません。第二次大戦前から活躍していたフランスの詩人ルイ・アラゴンポール・エリュアールは、ナチスドイツの占領下で抵抗の詩を書きつづけました。エリュアールが最初恋人に捧げる積もりで書いた詩は、恋人の名を呼ぶ最後の一行だけがエリュアール自身の手で書き換えられ、それがそのまま祖国解放を熱望するフランス国民のための詩となったのです------

『・・・・・・(前略)・・・・・・
そして このただ一つの言葉の力で
僕の人生は再び動き始める
僕は生まれた 君と出会い
君の名を呼ぶために

自由よ』

 韓国の詩人金芝河(キム・ジ・ハ)は軍事独裁政権に抵抗する詩を書いたかどで逮捕され、死刑の判決を下されても不屈にたたかいつづけました。民主化運動の末に監獄から生還した後も社会を見据えた詩を書きつづけている、私が尊敬する詩人の一人です。
 国土が戦場になっておらず、独裁者が横暴を極めているわけでもない今の日本で、その種の詩は不要なのでしょうか?------私は「必要だ」と答えます。「社会派のコーナー」の「平和って?」で指摘したような問題が今の日本にある限り、それをテーマとした詩は必然的に生まれてきます。そういった視点を持ちあわせた(そういうテーマの詩しか書かないという意味でなく)詩人会議という詩人の集団が、日本にもあります。
 不幸なことに、私は「ポエムコーナー」からこの種の詩を見出したことはありません。詩と違って「ポエム」がそのようなテーマを回避しているからなのか、単なる偶然なのか。私は、前者ではないかと考えています。

 理由その三。私の独断が含まれているかも知れませんが、これが最大の理由です。
 意識しているいないにかかわらず、詩の書き手が自分の作品を「ポエム」または「poem」と意識的に言い換えたくなる時には、何らかの理由で書き手自身が作品に自信が無い時なのです。自分が選んだ言葉やそこに込めた思いにどこか迷いがあるから、あるいは照れや気負いのせいで自然体で書けていないから、カタカナ語につきまとうスマートさと幾許かの曖昧さとがつくる居心地の良さに傾いてしまう。
 率直な意見を率直な言葉で言えない時、どこかにひずみやゆがみがあるのです。日本の政治を見れば枚挙に暇がありません------銀行に国民の税金をくれてやるのだと素直に言うと国民の非難が轟々と上がるのが目に見えているので“公的資金導入”、電話を盗聴するとかEメールを盗み読みするための法案だと真っ正面から言えないから「組織犯罪防止のため・・・」と屁理屈を言う、失敗したときの言い訳が用意できないから就任当初から「国民に痛みを求める」だなどといけしゃあしゃあとて言ってのける、等々。
 

 誤解が無いように付け加えておきます。
 私は作者自身に「ポエム」と呼ばれる一群の詩を否定する積もりは全くありませんし、「ポエム」の作者を「詩人として未熟だ」などと批判する気も全くありません。
 詩を書くということは、たとえ一欠けらといえども自分の内面を文字で目に見える形にすることです。物心ついた頃から偏差値・学歴偏重の教育、いじめ・校内暴力・学級崩壊など教育現場の荒廃、退廃を退廃ではないかのように垂れ流す一部マスコミ等々に取り囲まれて育ってきた私たちにとって、心のうちを一部分でもさらけ出すことが、どんなに勇気のいることか。それらを乗り越えて生み出された詩の数々を、「ポエム」と銘打っていることを理由に卑下される権利は、誰にもありません。少なくとも私は、それらが「ポエム」であることを理由に批判するより、詩として形にした作者の方々の努力と決意をたたえたいと思います。

 ただ、私は自分が書いている作品は「ポエム」ではないし、そうであってはいけない、と考えています。
 自覚された障壁を乗り越えずに逃避に走ることは、退廃の一形態に他ならないからです。


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