第七十六話「壊れた鏡・2」
車中の人となった紅子は、窓の外を見ていた。
夜が明けつつあるにもかかわらず、街の景色が異様に暗い。
それがなぜなのか気づくのに、さほど時間はかからなかった。
街灯はおろか、家々の窓からもれる光も、商店の看板も、信号さえも、明かりという明かりが消えてしまっているからだ。
歩道上に人影はほとんどない。
すれ違う車もまばらで、たまにサイレンを鳴らした緊急車両とすれ違うくらいだ。
それは彼女にとって――いや、そこにいた誰もが初めて見る光景だった。
「朝早い時間でラッキーでした。この分なら、道が空いているうちに停電の地域を抜けられるでしょう」
運転席で志乃武が言った。
彼は交差点に入るときこそ慎重を期して速度を落としたが、それ以外ではかなりのスピードで車を走らせ続けていた。
「そうだね」
紅子とは反対側の窓際に座っている竜介が同意した。
「今日はこれから、水や食料を求めて停電エリアの外に出ようとする車で混雑するだろうな、きっと」
彼の言葉を裏付けるように、明かりもなく早朝の薄明に沈み込む24時間営業の店が、窓の外を通り過ぎた。
会話が途切れると、志乃武が低くかけているカーステレオのラジオが、未明に起きた原因不明の高圧鉄塔の崩壊と、それに伴う停電についてのニュースを繰り返すのが聞こえた。停電中の地域名と、断水、バスと鉄道の臨時運休。
外の光景にこのラジオのニュースと徹夜と戦闘の疲労が加わって、車内は会話も少なく、ともすれば雰囲気は沈みがちに――は、ならなかった。
なぜかといえば、
もぐもぐ。むしゃむしゃ。
いわゆる、「咀嚼音」である。
この間の抜けたBGMが、車内の沈黙を破り続けていたからだ。
その音がどこから聞こえてくるかといえば、紅子と竜介の間に座っている鷹彦から。
彼が食べているのは、他でもない、竜介が停電前に作ったサンドイッチである。厨房に置き去りにされそうだったのを、志乃武が昼顔に命じて急ぎ包んで持たせてくれたのだ。
ずっと空腹を訴え続けていた鷹彦がこの心遣いを喜ばないわけはない。
サンドイッチだけでは喉が詰まるだろうと、志乃武の心遣いはそこも抜かりなく、夜顔が人数分のミネラルウォーターのボトルが入ったクーラーボックスを貨物スペースに乗せてくれていた。
そんなわけで、鷹彦はこの車に乗り込んだ直後から、サンドイッチを食べ続けている。
と、こんなふうに書くと、彼がサンドイッチを独り占めしているように思われるかもしれない。だが、そうではなく、彼にも人並みの気遣いというものはあって、最初は他の四人にこの軽食を勧めていたのである。
が、志乃武は運転中を理由に遠慮し、紅子は自分の足元から漂う異臭で食欲がなく、日可理と竜介は少しだけ食べてあとは鷹彦に譲ってしまったため、結果として彼がひたすら食べることになってしまったのだった。
見るからに冷めきって美味しくなさそうな付け合せのポテトまでも鷹彦がうまそうに平らげ、「ごちそうさま」を言った頃、携帯電話をチェックしていた日可理が、
「志乃武さん、携帯の電波が届き始めてよ」
と、明るい声で言った。
すると、姉からの報告を受けた志乃武が言った。
「ありがとう、日可理。それじゃ例の場所に電話してくれるかい」
二人のあいだではそれで通じるらしく、日可理は何も問い返すことなくどこかへ電話をかけた。
狭い車内のこととて、聞き耳など立てなくても彼女が電話に向かって話す言葉は聞こえてくる。こちらの人数と何分後に到着するかを伝えているので、何かの予約を入れているようだ。
「例の場所ってどこのことですか?」
紅子は好奇心にかられて、日可理が電話を切ってから尋ねてみたが、
「それは、着いてからのお楽しみですよ」
白鷺家の姉弟はユニゾンでそう言って、紅子をはぐらかしたのだった。
そうこうするうちに、それまでモノトーンだった窓の外は、どんどん色彩と活気を帯び始めていた。
街灯や信号、民家の窓、商店の看板などに明かりが灯り始め、その明かりの数に呼応するかのように、歩道を行き交う人影が、車道上の車が増えていく。
一気に「日常」がもどって来たようだ。
車内にほっとした空気が流れた頃、車は瀟洒なリゾートホテルの敷地に滑り込んだ。
日可理と志乃武の説明によると、このホテルのオーナーは白鷺家と旧知の間柄で、スイートルーム一室を常時、白鷺家のためにとってあるらしい。
ホテルの表玄関を闊歩したいような姿ではない紅子と日可理のことを慮り、志乃武は車を人目につかないようホテルの地下にある関係者用駐車場に乗り入れ、さらに従業員用出入り口の前で待っていたホテルのフロント係が、彼らを直接、大浴場まで送ってくれた。
「大浴場の通常の営業開始時刻は午前10時ですので、それまでは事実上、白鷺さまの貸切となっております。では、どうぞごゆっくり」
フロント係がそう言い残して立ち去ると、彼ら5人は男湯女湯にそれぞれ分かれ、しばし入浴を楽しむことにした。
さて、こちらは男湯。
大浴場の中は屋内浴場と露天風呂に分かれていて、露天風呂と外界を隔てる柵の向こうは、赤や黄に色づいた山並みが見え、早朝の澄んだ青空と好対照をなして、気持ちがせいせいとするような眺めだった。
BGMは、時折聞こえる小鳥の声のみ。
「たまにはこういう余録も悪くはないですね」
露天風呂の広い湯船の中で大きく伸びをしながら、志乃武が言った。
「色々と気を遣ってくれてありがとう、志乃武くん」
疲労でこわばった身体をほぐしながら、竜介が言った。
「悪くないどころか、最高だよ」
なあ、鷹彦。
と弟に同意を求めたが、返事がない。
不審に思って振り返ると、隣にいたはずの鷹彦は、腰にタオルを巻いただけの素っ裸で、なぜか露天風呂と外界を隔てる柵に取り付いている。
弟の奇行に呆れながら、竜介が尋ねた。
「……お前、そんなとこで何やってんだ?」
その声に、鷹彦ははっと我に返った様子で振り返り、兄の胡乱そうな視線と志乃武の微妙に困惑した表情に気づくと、
「いやっ、何でもない!」
と、慌てて湯船に降りてきた。
すべてを見透かしたように、志乃武が言った。
「ここから女湯は見えませんよ?」
鷹彦の顔に一瞬、衝撃が走った。
彼はとっさに、
「なっ、なんのことかな?」
と、しらばっくれたが、目が泳いでいる。
竜介が片手で額を押さえてため息をつきながら、
「恥ずかしいやつだなー」
と言うと、鷹彦はとたんに慌てて弁解のようなものをまくしたて始めた。
「ちらっと!そう、ちらっと何か見えたら良いなぁっていう軽い好奇心だけだったんです!二人ともお願い、紅子ちゃんには言わないで!」
志乃武が呆れたように笑った。
「言いませんよ。ただ、バレたとき嫌われるようなことは、基本的にしないが肝心だと思いますけどね」
鷹彦は不平そうに口を尖らせた。
「女の子たちが日替わりで夕食作りに来てくれる志乃武くんには、俺っちの気持ちなんてわかんねーよっ」
今度は竜介の顔に衝撃が走った。
「女の子が日替わり、だと……!?」
「なっ、なっ、すげーだろ?」
鷹彦はなぜか得意げにそう言ったあと、黙って苦笑する志乃武に向き直り、おもむろに尋ねた。
「念のため聞くけど、志乃武くんは紅子ちゃんに興味ないんだよね?」
「恋愛対象としては、まったくありませんね」
志乃武が即答すると、鷹彦は大げさに胸をなでおろした。
「よかったぁ。志乃武くんがライバルじゃ、絶対勝ち目ないもんな」
「ただ、」
と志乃武は鷹彦の言葉をさえぎるように続けた。
「僕は、僕たちのうち誰も、彼女とそういう関係になるべきではないと思っていますけどね」
「は?」
なんで?
と半ば怒って反論しようとした鷹彦を彼は手で制し、さらに言った。
「八千代おばさんの悲願は、紅子さんが平凡に幸せに暮らすこと、だったんでしょう?それならそのご遺志に沿うよう、今の件が片付いたら元通り力を封じて、僕らとの縁も切って、元の生活に戻るほうがいいんじゃありませんか?」
2010.01.09一部改筆
2019.03.15改筆
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