第三十七話「出発前夜・6」
俺たちのご先祖は今から五百年ほど前に、黒珠を封印した場所の正確な記録を失った。
日本史をなぞればわかるように、戦乱の時代だったから、あり得る話だ。
不安定な時代背景にもかかわらず、彼らは必死になって探したらしい――でも、見つからなかった。
黒珠の気配を、誰も見つけることができなかった。
何でかって?
強力な封印が、黒珠の気配そのものまで消しちまってたのさ。皮肉なことに。
残った方法はといえば、俺たちの家に伝わる古文書なんかを片手に、めぼしい遺跡を片っ端から掘り返してみることくらいだった――親父の会社が大学や博物館の考古学研究施設に資金提供していたのはそのためだ。
だから、あの黒滝遺跡にしても、掘ってみるまで本当に何もわからなかったんだ。
言い訳に聞こえるかもしれないけど、もし最初からあそこにあの石柩があると知っていたら、何も知らない歴史研究所をあいだに挟むなんてまどろっこしいことはしなかったさ、もちろん。
竜介は一通り話し終えると、サーバーから二杯目のコーヒーを注ぐため、立ち上がった。
「お代わりは?」
と、彼に訊かれて、紅子はマグカップの残りを急いで飲み干し、彼に手渡した。
竜介はコーヒーを注ぎながら、背中ごしに話を続けた。
「あの石柩は、井出博士にとっても、まさに歴史的な大発見だった。そりゃそうだろう、国内であんなものは二つとない。それをうちの会社が公開もせずにただ現場から持ち去ろうとしたら、だれだって盗掘だと思うよな」
研究者として義憤に駆られた彼は、真夜中の発掘現場に忍び込んだ。
石柩とその中身を写真におさめ、それを証拠としてスポンサー企業の横暴を暴露するために。
それがどんな結果を招くかも知らずに。
不幸な偶然の連鎖。そんな言葉が紅子の頭に浮かんだ。
「もっと早く、きみに話すべきだったんだけど」
マグカップを手に再びテーブルに戻ってきた竜介が言った。
「俺たちが井出博士の行動をもっと警戒していたら、きみや、関係のない人達を巻き込むこともなかったと思うと、なかなか言い出せなかった……すまない」
「もういいよ」
紅子はかぶりを振った。
「起こっちゃったことは、今さらどうしようもないもの」
だれも、黒珠の封印が解かれることを望んだわけじゃない。ただ、何も知らなかっただけなんだ。
でも、と彼女は思った。
たとえ事前に知らされたとしても、井出博士は信じようとはしなかっただろう。
記憶が戻る前のあたしと同じように。
「それで、出発の日取りなんだけど」
竜介の声で、自分の思いに沈んでいた紅子はハッと現実に引き戻された。
「えっ、出発?」
おうむがえしに尋ねると、彼はうなずいた。
「そう。急で悪いんだけど、明日の午後だから荷造りとかよろしく」
そっか、ここしばらくほとんどうちにいなかった竜介が、今ここでこうして話をする時間があるってことは、出発の準備が終わったからなんだ。
明日の午後か。でも、荷造りったって着替えとかどれくらい持ってけば……。
などと紅子が考え込んでいると、まるでそれを読み取ったかのように竜介が言った。
「着替えは二、三日分でいいと思うよ。その辺りは、へたなホテルより行き届いてるからね、白鷺家も俺の家も」
ま、ウェルカムシャンパンまでは期待できないけどな。
そう言って笑う彼を見ながら、紅子はちょっと心配になった。
これまでの話だと、白鷺家や竜介の家って、ひょっとしてものすごいお屋敷とかなんじゃ……?
「あの……あたし、あんまり堅苦しいのは苦手なんだけど」
最初、竜介は紅子の言葉の意味がわからずきょとんとしていたが、やがて合点がいったらしい。
「ああ、なんだ。そんなこと気にしなくても、普通にしてりゃいいんだよ」
と、彼は言った。
「そういえば、紅子ちゃんは今のところ、白鷺家はもちろん紺野の人間だって、俺しか知らないんだよな。大丈夫、両方ともそんなに堅苦しい家じゃないから」
親戚の家にでも行くつもりで気楽にしてればいいよ。
竜介はそう言ってしまってから、このたとえはまずかったかな、と思った。
一色家は十四年前、親類縁者と絶縁してしまったから、彼女は親戚の家というものに行ったことがないのだ。
けれど、心配するには及ばなかった。
「あ、そうか!」
紅子はぽんと手を打つと、笑顔になった。
「あたし、初めて親戚の家に行くんだ。こんな時にアレだけど、ちょっと楽しみ!」
竜介はホッとすると同時に、意外にのんきな彼女の反応に思わず笑った。
子供らしいというか、無邪気というか……。こういう反応だけだと、こっちもやりやすいんだがなぁ。
とりあえず、起きてきてからというもの、ずっと不安そうな仏頂面だった彼女に笑顔が宿ったのはいいことだ。
「やっと笑ったね」
竜介からそう言われて、紅子は自分が今日初めて笑っていることに気づいた。
いや、ひょっとしたら、笑ったのはかなり久しぶりかもしれない。
黒珠の封印が解けた理由とか、自分はこれからどうなるのかとか、疑問と不安だらけだったから。
その疑問や不安も、今は竜介が少しだけだけれど、ほぐしてくれた。
彼女はサンドイッチが載っていた皿を見た。
竜介、気を遣ってくれてるんだな――
不思議と反発する気にならず、少し照れくさいけれど、彼の心遣いを素直に嬉しいと彼女は思ったのだった。
二杯目のコーヒーも空になりかけた頃、竜介が言った。
「親戚といえば、明日、きみを迎えに俺の弟の片方がここにお邪魔することになってるから、よろしく」
「弟の片方?」
なんだか妙な表現。
紅子がおうむ返しに聞き返すと、
「俺の弟、二人いるんだ。明日来るのは下のほう」
と、竜介が答えた。
ふーん、と返事をしながら、紅子は竜介が病院に乗ってきていた大型ランドクルーザーを思い出していた。
竜介に弟が二人もいるとは思わなかったが、明日来るのはどちらだろう。あの車の持ち主のほうなのだろうか。
好奇心をかき立てられるが、あまり彼にあれこれ個人的なことを尋ねてまたからかわれるのもしゃくなので、紅子は黙って明日の楽しみにしておくことにした。
それに、今日は彼女にも予定があった。
学校が終わってから、春香が来ることになっているのだ。
2015.09.15加筆修正
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