Therefore, that hand is left −だからその手を離す−
− 上 編 −


 
「タツさん…タツさん…」

その言葉に飛び起きるように関口は体を起こした。
ひんやりと汗を吸い込んだ寝間着が体にまとわりついて震えが走る。
雪絵はそっと自分の体を掻き抱く関口の肩に上着を掛けてやった。
「魘されていたのか…」
聞くまでもない、冷え切った体、そして燃えるように熱い咽。

季節はお盆が迫った夏

「はい、酷く。水、お持ちしましょうか?」
雪絵のその言葉に素直にこくりと頷く、そして静かに台所に去っていったその後ろ姿をじっと見送った。
夢の内容は覚えていない、だが額から汗が流れ落ち、拭った手の甲で光る水滴をじっと見つめる。思い出せそうで思い出せない、夢の内容。
思い出さなくて良いんだ、そう叫ぶ自分と、しかしと叫ぶもう一人の自分、為すすべが無く毎夜毎夜がただ、過ぎ去っていく。
だが、いけない、これではいけない!そう頭を抱え込んでしまう。
いったい寝られない夜は何回を数えた?
「大丈夫ですか?」
気がつくと水が入ったコップを持った雪絵が心配そう関口を見ていた。
そしてそっと衣擦れとともに横に腰を下ろす。
関口同様、雪絵の顔にも疲労が困憊していた。
「すまない」
そう小さく呟き水を飲み干す関口の姿を雪絵は黙って見ていた。小さくこくりこくりと水が喉元を通っていく。
医者に行く事を薦めるが頑なに拒む関口。過去の心の病が必要以上に病院の敷居を高くしているらしい。
溜息が思わずでそうになる。
こっそりと関口の知り合いの里村に相談をしようかとも思ったが、関口の反応を想像すると暫く様子を見てから、そう思い延び延びになってしまった。
だが、もう一週間である。
ただでも眠りが浅い関口にはかなり辛いはずである。
再び横になった夫を見ながら、自分もそっと横の布団に身をすべらせた。
「お休みなさい」
「あぁ」




「ねぇあなた、雪絵さんこのごろ窶れてはいませんか」

昼下がり、石榴の蚤を捕っていた中善寺の手が止まる。
関口の細君の顔を思い浮かべる。彼とは似ても似つかぬ陽の人間。
彼女を初めて紹介されたとき、その眩しさにただただ目を細め、そして全てを彼女に託すことを心に決めた。
「いくら奴でも飯ぐらい、食わせてやっているだろう?」
我ながらの見当違いな言葉に、千鶴子は驚いた事に真剣な表情で相槌を打つ。
「だと良いんですけど…」
おいおい、と心の奥底で呟きながらも再び石榴の腹に手を伸ばし、だがにゃんと一言、そのまま逃げられた。
ふと、猫が無遠慮に踏みつけていった新聞を見る。
あぁ、もうこんな時期なのか。
終戦記念日関連が一面を飾っていた。
記念日という言葉が使われるようになったのは本当につい最近の話である。
千鶴子もつられるように新聞をのぞき込んだ。
「もうあれから7年もたったんですね」
「別に感慨深げに言うことでもあるまい」
「でも、あのときを思い出せば、今の生活は夢のようですよ」
「夢か…」
千鶴子はそっと中禅寺の顔をのぞき込んだ。いつもなら憎まれ口を叩くはずなのに、今日は思案深げに顎をさすっている。
正直なところ、千鶴子もそして中禅寺も本当の戦争の恐ろしさは知らなかった。
終戦を迎えた何年後に初めて知った米軍の文化遺産への配慮。東京に戻って傷跡の深さに初めて真の恐ろしさに震えが走った。
たぶん研究所にいたという中禅寺も一緒だと思う。
だが物資の乏しさ、帰らない人々、敗戦の焦燥感、心に得た傷は誰しも一緒である。
何故あのとき、日本が勝つと信じていたのであろうか?
心が沈みそうになる、助けを求めるように目の前の人を見るが、唯一の理解者は自分の世界に入り込もうとしていた。
いつもは無視に近い形でそのまま遠くに行かせるが、だが千鶴子は目の前の男に声をかけようとした。まさにその時、玄関口に誰かが入ってくる気配が感じた。
短い鳴き声とともに、縁側に寝そべっていた石榴が、敏感に尻尾を左右に揺らしながら先に出迎えに行く。
「誰が餌をあげていると思っているんだ」
中禅寺の憎まれ口に千鶴子は笑みを漏らす。
「上げているのは私ですよ?でも誰かしら?」
少なくとも中禅寺の友人ではなさそうである。誰一人として静かに入ってくる常識人を彼は知らない。そして石榴は真っ先に外に避難する。飼い主に似て賢いと飼い主は強調するが…

「ごめんください」

「あら、やっぱり雪絵さんだわ」
ぱっと笑みを綻ばせ千鶴子も石榴の後を追うように部屋を出ていった。一人残された中禅寺も、ゆっくりと新聞を畳み座り直した。先ほどの千鶴子の言葉を思い出す。
そして雪絵が目の前に現れたとき、心の中で思わず唸っていた。
確かに千鶴子の指摘するとおり、疲れ切った顔を隠すことが出来ないほどやつれている。
だが中禅寺はそっと読みかけの本に手を伸ばし、本を読み始めた。雪絵の方も気にせずお邪魔しますねと一言声をかけ縁側の方に座った。
「あいつがまた困らせているのかい?」
本を読みながらも、雪絵が首を横に振るのを見る。
「今更、遠慮する仲じゃないでしょ?」
お茶と茶菓子をお盆に乗せて千鶴子がやって来た。そして茶菓子に手を伸ばそうとした中禅寺の手をぴしゃりと叩いた。だが赤くなった手の甲を撫でつつも中禅寺は書物から目を離さないで居る。
「雪絵さん、貴女気が付いている?顔に疲れているって出ているわよ?」
「そうかしら?」
慌てて頬に手をやり、笑みを浮かべるがより一層哀愁が漂ってしまう。
「巽さんは?」
「ようやく寝付いたわ」
「寝付く?赤子じゃあるまいし」
再度、茶菓子に伸ばした手が赤く腫れる。中禅寺は溜息を軽く吐くと書物から目を離し、雪絵の方を見た。
だが未だ書物を開いたままであるのを千鶴子は敏感に察知し、目にも留まらぬ早さで閉じてしまった。
一瞬、千鶴子を睨み付けたがそれぐらいでびくともする訳がない。
諦め、冷めかかった茶に手を伸ばした。
「またあいつは夜、眠れないのかい」
今に始まったことではない、学生時代、幾夜彼の頻繁な寝返りに目を覚ましたことか。
「いつもとは違うんですよ。タツさん、一応寝るんですが、いつも酷く魘されて、寝れば寝るほど疲労が濃くなっていくんですよ」
「で、日が昇って明るい昼に寝ると?」
「昼間だと何故か魘されないんです」
「でも、そうなると雪絵さんも寝られないって事になるんじゃない?」
千鶴子の声が少しうわずる。いつものように昼、二人は顔を合わせているのだ、雪絵が昼寝をしている暇がないのは一目瞭然である。
「私は丈夫ですから…」
「そう言う問題じゃないでしょ?」
「で、何に魘されているのか本人は知っているのか?」
「いいえ、寝言でも言ってくれればいいのですがただ呻き声を上げるだけで」
ふと先ほど綺麗に畳み直し脇に寄せて置いた新聞の一面の記事が目に入った。
中禅寺は彼が南方でどのような戦争体験をしたのか知らない。ただ部隊は木場を残し壊滅したとだけ、関口以外の口から聞かされた。
「いつ頃からその発作は?」
小首を傾げながらも、たぶん八月に入ってからでは…と答える。
「その直前、何か変わった事はなかったのかな」
これでは自分は刑事か医者かではないか、そう思いながらも、顎を撫で続ける。言葉を忘れた猿はこうやって周りを固めていくことしか方法がないのである。
長年付き合ってこそ出来る、忍耐力の技なのである。
「特にはないと…気が付かなかっただけかも知れませんが」
雪絵を見ながら、どうしてこのように出来た女があのような自力で生きることが出来ない男と所帯を持つ気になったのか不思議であった。
この世に不思議なことはないと日頃常々言ってはいるが、これだけは不思議でしょうがなかった。
それとも自力で生きる事が出来ないことが、関口の魅力なのであろうか?もしかして自分も、その魅力に取り込まれてしまった一人なのではないか?
「ねぇ、あなた、病院に連れていった方が良いんじゃない?無理矢理にでも」
はっと意識を目の前の二人に戻した。実は雪絵はそれを頼みに来たらしい。
「ほら里村先生の処なら」
「彼は専門外だ」
きっと里村の元に連れていったら嬉々として関口の体を微塵切りにするであろう、それが心であっても。しかしかといって、あの人見知りの激しい猿を連れていけるような病院は他に心当たりがなかった。不健康そうに見えながらも、これと言った病にかかったことがないのだ。
「あなた、どうにかならないの?」
正直な話、細君よりも関口に関してはすべてを知り尽くしている。魘されている彼の顔が脳裏に過ぎる。そして起きても怯えている彼の姿。
一瞬セピア色がかった情景が過ぎる。

 あれは…

「なら雪絵さん、うちに泊まりに来なさいよ」
「でもタツさんが心配だから…」
「ねぇあなた、どうせあなたは睡眠が短くても大丈夫な人でしょ?ちょっとばかしタツさんの面倒を…」
全てを言い終わる前に雪絵が慌てて遮った。
「何言っているの、駄目よ駄目」
だが中禅寺は顎をさする手を止め、真っ赤になって千鶴子の案を拒否する雪絵を見る。
「暫く僕が様子を見て上げよう」
彼は覚えているのであろうか?あの美しい日々を?
そして…




誰かに呼ばれたような気がした。
いつもなら起きることに非常な苦痛を感じるはずなのに、何故かすっきりと目が開けられた。
外を見るとすでに夕暮れ時に差し掛かっている。
そしてその光景に交わるように慣れ親しんだ書物をめくる音。
覚醒しきらない頭をそっと音のする方に向ける。
中禅寺が相変わらずの仏頂面で書物を読みふけっていた。
また僕はうたた寝をしてしまったのか?
だが瞬間にして此処は六畳一間の下宿でないことに気がつく。
二三度、目を擦る。
「起きたかい」
関口の方を見るわけでもなく、独り言のように呟く。紺色の着流し、その姿は学生時代の彼ではない。そして時の流れを思い出す。
「どうして君が…あぁ」
自分で聞きながらも雪絵の気配がないことで、だいたいが察知できた。
「珍しく察しがいいな、今日は雪でも降るかな?」
外では蝉が鳴いている。だが関口は聞き流す。そんな彼をじっと見つめながら、中禅寺は話をさらに流す。
「夕飯はどうする?」
「夕飯…」
時間の感覚を失いつつある関口は、空腹の感覚も失いつつあった。昼も食べては居なかったが何故か腹は減らない。でもそれは当たり前かも知れない、寝ることしか今の自分はしていないからだ。
だがいらないと言う言葉を発する前に中禅寺がかき消す。
「君には出来過ぎた奥方が用意しておいてくれたぞ」
少し非難がましい声に関口は拗ねるように背を向ける。
「いらないのなら僕一人で頂くとしよう」
そう告げると返事も聞かずに、中禅寺は本当に一人分の夕餉を用意すると旨そうに食べ始めた。その間、一度たりとも関口には視線すら寄越さなかった。
何時からであろうか?自分との間にそうやって距離を置くようになったのは。
昔はそれでも自分の元に食事を運ぶ彼の姿があった、そして喜んで食べる自分の姿。
腹は空いてないが、その姿から目が離せない己の姿が今現在あった。
そしてその己の姿に我が帰ったとき、目の前に困った顔の中禅寺が覗き込むように屈んでいた。優しく頬に指を這わせる。
突如訪れた彼の気配、親指で目元を、そして小指で顎の線をそっとなぞるようにして。
「なぜ眠れない?」
瞬時にして自分の元に飛び込んできた中禅寺に、関口の小さな心臓は音を立て始めた。まるでそれは昔に戻ったような、昔、互いに伴侶を迎える前、いや、戦争にかり出される前。
今彼の目は自分以外のモノは何一つ写し出していない、遠い昔と同じ、高まる鼓動に動揺しながら視線を泳がせる。
これは何を意味するのか?全てを預けてしまって良いのであろうか?
だが観念したように中禅寺の方を見、ゆっくりと頭を左右に振る。
「分からない…でも…」
「でも?」
「夢を見るんだ…とてつもなく恐ろしい…」
「どうな夢だ?」
「…分からない、だけど僕はひどく怯えている」
二人の間を叩ききるように、細い腕が中禅寺の目の前を遮った。
広げられた指がゆっくりと閉じられる。
「震えているんだ…片方の手で押さえきれないほど」
あのときの感情を思い出すだけで、再び手の震えが始まりそうである。脳が覚えていなくても体が覚えているのである。
「関口…」
だが皆まで言わさずに関口は中禅寺の口元に人差し指をたてた。
「僕は夢の内容を思い出さない方がいいと思うんだ…」
中禅寺は眉をひそめる。たぶん彼が考えたことは関口自身もすでに考えたことなのであろう。催眠術、インチキ術と世間では名高いがこれも立派な医療用法として海外でも、そして戦時中の日本でも一部のごく一部の世界だが使われている。
意識的に閉じこめられた記憶の扉を第三者が開くのだ。だがほとんどの場合、扉が頑なに閉じられている理由を持っている。その理由は本人にとって忘れてしまいたい傷でもある。
「心当たりはあるのか?」
首を力無く左右に振る、だが関口も消滅させてしまいたいほどの傷の存在を敏感までにも察知している。己の心の弱さは己が一番よく知っている。
「無いけど、でもきっとあると思う、そしてそれを知りたいとは思わない」
頼りなげに向けていた視線をそっと横に逸らす。
新聞が無造作に畳まれちゃぶ台の下に押し込まれていた。その一面は中禅寺の家にもあった新聞同様、終戦七周年の記事で埋め尽くされていた。
そっと関口の体を自分の方に近づける、そして彼の体は簡単に中禅寺の体にもたれ掛かる。
あやすように撫でられる背中、蝉の鳴き声を感じながらも何故か暑さは遠のき、心安らぐ。
「あれからもう七年もたつ、忘れるんだ」
「え?」

キーワードは戦争

だがその言葉の意味よりも眠気が襲ってくる。
「僕がいる、だから眠りなさい」
魔法の様に瞼が重くなる。外は日が落ち暗闇の帳が庭を覆っていた。




あれは何の音であろうか?
遠くで聞こえてきた音が徐々に近づいてくる。
土を抉るような鈍い音、そして聞こえてきた人々の声…いや、これは声ではない、呻き、そう呻き、その瞬間、関口は飛び起きていた。
「そうあれは呻き声…」
滝のように汗が流れ落ちていく。
「そう、あそこは…」
「それ以上思い出すな」
並べられた布団から中禅寺が上半身を起こしこちらを見ていた。
「どうして?僕は思い出しそうなんだ、そうなんだ、あれは戦場、そう戦場なんだ!」
「関口!」
中禅寺の鋭い呼びかけ、だが関口は耳には入らず宙を一点に見つめる。
先ほどの鈍い音が、そして人々の叫び呻きが左右の耳を行ったり来たりする。慌てて後ろを見る、そうここは戦場なんだ。みんなが自分に向かって走ってくる。
みんな?
嘘だ、誰一人顔が無い、無いのである。
「来るな!来るな!」
藻掻く関口を中禅寺が抱きしめた。
「何が見える、何も見えないだろう」
「みんなが来るんだ、みんなが僕に向かって…」
「何を言っているんだ?此処は学生寮だよ?いったい誰が襲って来るというのだ」
「え?」
一瞬にして目の前の戦場が薄汚れた砂壁にと変わっていく。
そして背中越しに抱きついている中禅寺を首を曲げて姿をとらえる。ゆっくりと覆い被さってくる彼の唇。
「あぁあ…」
関口の目はゆっくりと閉じられた。中禅寺の背中に回す手には確かな力が込められている、それを確認すると肩口に顔を埋もれされると彼の手にも更なる力が込められた。
唯一、自分が安らぎを得る場所。
中禅寺の顔がよりいっそう肩口に押しつけられる。襟足の短い髪が鼻をくすぐり、鼻腔一杯に広がる関口の匂い。深く深く息を吸い込んだ。
この腕で彼を抱きしめ守ることを止めたあの時、人知れず藻掻き苦しんだ。なぜ時は止まらない。なぜ人は変化し続ける。
同時に蘇るセピア色に染まってしまったあの日々。
寝乱れていた浴衣に手が伸びそっと忍び寄る、そして手の平にしっとりと汗ばんだ関口の肌が何の躊躇いもなく吸い付いてきた。
「中禅寺」
そう小さく囁く、それが合図のように中禅寺の重みが全てに関口にのし掛かり全てが暗転する。押さえきれない下半身の熱が燃え上がる。そして誘うように自分にまとわりついてきた関口の細い足。


「…っ…やぁ…」

ふと自分の声で意識が戻った。
自分の声?
そうは思いたくないほど甘ったるい、鼻にかかった声。そしてそれに重なるようにして荒い息が漏れ聞こえてくる。
僕はいったい今、何をして居るんだ?
見慣れた天井、そして開け放たれた雨戸。
「あっ…」
忘れていた最奥での快感が再び思考を乱そうとする。
痛みも襲ってくるのであろうか、のし掛かる相手の背中に爪を立てて縋る己の姿。
そしてまた襲ってくる断続的な閃光。絶え間なく漏れる快楽を示す喘ぎ。
何故自分は今一糸も纏わぬ姿で、そして男相手に足を広げそして艶を売っているのであろうか?
興奮している。欲情している。貪り食いついている。
相手の汗が敏感になっている乳首に落ちたとき、薄い靄がかっていた相手の顔が鮮明に関口の目に飛び込んでくる。
苦しげな表情を見せる中禅寺。
「中禅寺?」
目が合うと信じられないほどの優しさで微笑み、そして悪戯っぽい笑みに変わり彼の唇が自分の汗で濡らしてしまった乳首に伸び、そして甘く噛まれた。
「…っぁ」
再度疼いてしまう体の奥底。だが次の瞬間世界が反転した。

「愛している」

そう、そう関口の耳に飛び込んできた。
聞き覚えのある言葉、意味は…
「違う!」
それは関口が雪絵に言った言葉。
再度舞い降りてきた中禅寺の唇に関口はとっさに両手で拒絶を示した。だが意志に反し、ぎりぎりまで追いつめられていた己が解き放たれ、そしてその後を追うように、自分の中の奥深くに納められていたものが生々しい動きをし、そして果てた。
それでもまとわりつく自分の内部。
怠惰な動きで関口は自ら中のモノを抜くように、腰を引いた。まとわりつくそれを相手の体を押さえる事で外に出したとき、内も外も体は冷え切っていた。
ここは戦場でも、ましてや学生寮でもない。
ここは雪絵と一緒に手に入れた我が家である。
視線を合わせられない関口に中禅寺は痛いほどの視線を向けている。
「後悔するな」
その命令口調に関口は睨みつけるようにして中禅寺に視線を合わせた。
「どうして…どうして今頃…」
既にはだけ、片腕に引っかかるだけであった浴衣をすっと胸元にたぐり寄せた。
「愛している」
そう再度繰り返す中禅寺。
「違う!」
「違わない」
近寄る中禅寺に尻で後ずさる関口、だがすぐに壁が背中にぶち当たる。
「それは僕が雪絵に言った言葉だ!そして君が千鶴子さんに言った言葉だ!僕ではない、僕に言うべき言葉ではないのだ」
感情に押し負けたかのように関口の大きく広げられた目から涙がこぼれ落ちた。
一瞬にして影が彼を覆った。
「すまなかった」
苦痛に満ちた声、だが関口はそのような言葉、聞きたくもなかった。
両親よりも肉親の誰よりも真っ先に会いたかった、会って自分の無事を報告したかった。長い船旅の元、変わり果てた東京に降り立ったとき、全ての建物を失っしまった東京よりも、中禅寺の横に立つ見知らぬ女性に頭の中は真っ白になった。
紹介こそ受けないが、こうやって自分に会わせることの意味は痛烈に感じた。だが引きつる頬に鞭打ち、にっこりと微笑んだ。
「ただいま」
そして中禅寺が先に言葉を発する前に横の女性が答えた。

「お帰りなさい、秋彦さんから良く伺っておりました」

その瞬間、僕たちの関係は終わったのであった。
そう今の今まで、互いの肌を重ねることはなかった。

「だが僕はずっと君のことを愛し続けている、今、この瞬間も」
信じられないモノを見るような関口の瞳、それでも中禅寺は放さなかった。根負けしたかのように閉じられる関口の瞳。心が分からなくても、今肉体は此処にある、中禅寺の関口を抱きしめる腕は強められた。


そして漆黒の闇とともに、関口は夢の中で再び藻掻き苦しんでいた。

20000402


泥沼ッス!