Therefore, that hand isn't left −だからその手を離さない−
− 下 編 −


 
「あれ、京極堂は?」

蝉の音が今年も又一層うるさく感じられる。
燦々と照りつける日差しから避けるように丸まると熟した西瓜を二つ、軽々と抱えながら榎木津が薄暗い店の中をのぞく。
ひんやりとした店内、現れたのは京極堂の細君であった。
「あら、榎木津さん」
「やぁ相変わらず客が居ないね良いことだ、で、京極堂は?」
「二日ほど前から関口さんの家で寝泊まりしておりますの」
「猿の家で?」
ちょっと考え込むようにして榎木津は千鶴子の頭の上を見つめる。そして無言のまま西瓜を一つ千鶴子に渡した。
「猿の細君と一緒に食ってくれ」
そう一言だけ言うときびすを返す。
そしてすたすたと登ってきた坂を下りはじめた。
「あの馬鹿猿め」



勝手しったる関口宅の玄関の引き戸を思いっきり乱暴に開ける。
「おい、入るぞ!」
それでも声を掛けるが返事はない、そして漂って来る異様な空気に榎木津は眉をひそめた。

「嫌っ…もう…」
一糸纏わぬ関口に中禅寺は容赦なく襲いかかる。
既に布団は乱れそして重くなっていた。尻で後退る細い体を難なく引き寄せそして両手を畳の上に押さえつける。
「許して…!」
泣き疲れた頬に大粒の涙がこぼれ落ちる、だが中禅寺はそのまま己を勢いよく撃ち込む。
「何故、何故夢を見るんだ、私の知らない夢を見るんだ!」
「いやぁ…許して…」
揺さぶられるままに頭がかくかくと上下に揺れる。

一線を越えてしまえば、後は簡単であった。

体を重ねることに歯止めが利かない。
逃げまどう関口の足を捕らえ、そして自分の体の下に組み伏せ鳴かせることも、そして己の欲望を受け止めさせることも、何もかも簡単であった。
震える関口、気を失う関口、そして魘される関口、それは昔よく見たあのセピア掛かってしまった光景であった。
紅く立ち上がった乳首にそっと唇をふれるとそれは現実に変わり、そっと、だらしがなく開けられた唇に指を銜えさせると唇に色が付き、立ち上がった下半身に己を擦り合わせればそこに熱がともる。
だが今、彼が見ている夢の色が分からなかった。
彼は何を見ているのか、何に怯えているのか、中禅寺には分からない、情景が見えてもその色が分からないのだ。
再び触れてしまった関口の体、気が付けば触れなかった分だけの欲求がきっちりと溜まっていた。それは自分で決めたことなのに、それなのに関口を攻めるように抱いてしまう。
「ひゃ……あぁ…」
関口の体にもう数え切れないほどの欲望をまた穿つ。
「関口っ…」

「馬鹿もん!この腐れ外道めが!」

何が起こったのか分からなかった。
瞬時にして淀んだ空気を裂く用に眩しい日差しが二人の裸体の上に降り注いだ。
眩しさに手で目を覆う中禅寺の上に一つの影が過ぎる。
「畜生以下の奴らめ、お天道様の登っている内から何をやっているんだ」
半分閉められていた雨戸を勢いよく開けた榎木津が、仁王立ちになって寝室の前に立っていた。何故か片手には西瓜が抱えられている。
関口はしどけなく裸体を晒したまま、無表情に榎木津に視線を寄越す。
榎木津は呆然と見上げる中禅寺を蹴り倒すと、そのまま関口の元に歩み寄りしゃがみ込んだ。そしてゆっくりと手を彼の背中に回すと抱き上げた。
西瓜がごとりと転がり落ちた。
男臭さと汗くささにさすがの榎木津も顔を顰めるが、中禅寺を無視し足でつづきの襖を開け、既に用意をして置いた風呂場に向かった。
「何をやっているんだ俺は!」
中禅寺はそのまま頭を抱えた。
細くて長い指が黒い髪を掻きむしった。



「おい猿、一人で風呂に入れるか?」
無反応な猿を一人浴槽に残し榎木津はそのまま中禅寺の元に行こうとした、だがそれは浴槽で滑る関口の騒音に寄って止めさせられた。
「やはり猿は猿だ!」
ガラガラと勢いよく開けた先に、関口の己の体を掻き抱くようにして小さくしている姿があった。暫く榎木津はその姿を見ていた、だが溜息を一つ吐くと自分のシャツのボタンに手を掛けた。そして全てを脱ぎ取るとそっと引き戸を閉め自分も風呂場にと入る。
「いや、君は本当に猿以下だ、中禅寺はもっとそれ以下だがな」
お湯をそっと桶で汲み取ると自分の体に掛け、目の前に怯える関口にと軽く掛ける。
二三回掛け続けると、ようやく頬に血の気が戻りはじめてきた。立ち上がると瞳に力がこもってきた関口を再度抱き上げ、湯船に一緒に入り込んだ。
狭い浴槽から大量のお湯が湯気を上げながらも流れ出していった。
自分の足に跨がせるようにして向かい合わせに座る関口、頬や耳の裏には白い固まりがまだこびり付いている。
「おまえ達、いい加減にしろよな」
そっと宙を睨み付ける関口の顔に、湯で濡れた指を這わせそして汚れを拭い取ってやる。
「僕はお人形遊びは当の昔に卒業したんだよ」
一杯にお湯が入った桶を取りそのまま関口の頭から掛けてやった。
「猿の分際で、物事考えようとするかこうなるんだよ」
関口が軽く頭を左右に振った、水飛沫が榎木津にも掛かる。
関口の顔が上を向くのと榎木津の指が関口の頬をつかむのとほぼ同時であった。
「落ち着いたか?」
だが答えは目からの新たに流れ落ちる涙であった。
「僕は…」
そう呟いて、関口の体から安心したかのように力が抜け落ちた。



「おい、しっかりしろ」
そう僕の頬を力一杯叩く男、僕はそいつの服を力無くそれでも必死に掴んでいる。ごわごわしたこの感触、綿であろうか?
何故かゆっくりと目の前の男の顔が近づいてくる、そして素直に目を閉じる自分。
暗転して暗闇の洞窟の中、そこでは二人の男が睦み合っている、獣みたいに四つん這いなって尻を振っているのは…自分である。嬌声をあげているのも自分である。
だが聞こえてくる、全てのモノを破壊する音が、そして呻き声、木々を、そして屍を押しつぶしている機械の音。
助けなければ、助けに行かねば!なのに、なのに二人は、いや自分は何を!
「人殺し!」
誰かの叫びが聞こえてくる。
ヒステリックな声。
「あんがた殺したんだ!あんたは人殺しだ!」
「返して、返して私の男を!」
違う、違う、僕は…僕は…
気が狂う自分の上に滝のような雨が叩きつけてくる、


「え!」
慌てて上半身を起こした関口の目の前に、バケツを片手に持った榎木津が偉そうに立っていた。
自分の前髪から滴り落ちる水滴を指ですくってみる。
そして自分の今置かれている状況をゆっくりと判断する、何故か縁側に寝かされている、体の節々の痛みが自分の寝ていた時間を饒舌に物語っている、更にその周りは水浸しである。
縁の下まで水は流れ落ちていた。
「何て事を…」
「猿の分際で夢を見るな!」
つまり寝ていた自分に榎木津が水を掛けたのである。
「僕は攻められる要因は何一つ持っていた無い、在るとしたらお節介心ぐらいだな!猿、感謝しろ」
その言葉に水以外のモノを体に感じた。
「また、また魘されていた」
「あぁそうだ、気持ちの悪いものをみやがって!危うくおまえの首を絞めてしまうところだった、おい京極堂!」
びくりとそう呼びかけられた方に関口は首を回した。
奥のちゃぶ台で本を読んでいる、いつもと何一つ変わらない彼の姿があった。
今までのは夢?あれも悪夢であったのであろうか?
学生時代毎日のように戯れ睦んだあの日々の夢であったのだろうか?彼が今更、突然突き放した自分を抱きしめるはずがない。
そうだ…そうに…
「残念だな猿、おまえはさっきまでこいつに泣かされていたよ」
「えっ!」
一瞬、中禅寺と視線が交わった、無論視線をはずしたのは関口の方。
そっと汚れてしまった自分の体を抱きしめる。
「風邪をひくぞ」
だが何事もなかったかのように中禅寺は関口に着替えを渡すために近寄る。
「ち、近寄るな」
そう思わず叫んでしまった。
「あぁあ、猿が怯えているよ、夢にも現実にも」
「エノさんは黙っていて貰いたい」
「あ、良いのか、僕には見えたぞこの猿の要因が」
中禅寺ははっとしたように榎木津を見下ろした。だが榎木津は口笛を吹きながら明後日の方向を見る。
「戦時中のことですか?」
だが榎木津が言葉を向けたのは関口の方であった。
「思い出したいのか、思い出したくないのか?」
思いの外優しい問いかけに関口は榎木津の顔を見つめた。榎木津の瞳の奥に自分の顔が写っている、だが彼が見ているのは自分自身ではない。
「木場を、木場修を呼ぼうか?」
「え、木場さんを?」
「覚えていないのか?」
木場は関口の隊にいて共に闘った同士である。関口の口ではなく木場の口から戦場の悲惨さを中禅寺も榎木津も聞いていた。だがたぶんその語りも表面的なことであろう。中禅寺も表面的なことしか話したくなかった、自分が犯した罪は。
たぶん榎木津も陰の部分を持っていると思う。
戦争とは、そう言うものであろう。
だが木場と関口の間には隠し事が何一つ無いのである。復員兵を乗せた船が到着したとき、いつもその場所にいたはずの自分の代わりに彼がいた、関口を守るようにして木場が横に立っていた。その時言葉を失った自分、お帰りすら言えなかった。
「お願いします」
だが関口は再び木場を頼ろうとしている。中禅寺は慌てて間に入る。
「関口、本当にそれで良いのかい?」
びくりと体が竦むのが良く分かる、関口、そう呼び捨てする時は閨の時だけであった。

「タツさん?タツさん起きているの?」

関口の心を見透かしたように雪絵の声が玄関に響き渡った。
「ゆ、雪絵?」
思わず裏返ってしまう己の声。
中禅寺がそっと渡せずに居た着替えを寄越す。そして自ら主に替わって玄関口にと向かった。
「どうしましたか」
何事もなかったように関口の細君の前に姿を現す。彼女の手には今日の夕飯が握られていた。
「夕餉の支度です。ご飯を今から炊きますわ」
そう言うと、台所へと向かっていった。
戻ると着替え終わり、濡れてしまった毛布を庭に干す関口の姿があった。
気が付けば日差しは強さを弱めている。
「そう言えば榎木津さん、こちらに見えませんでしたか?」
ふと見渡せば西瓜が一つ転がっているだけで、榎木津の姿が無くなっていた。
「エノさんならさっき帰った」
白いシャツを気怠げに着た関口が縁側に登ってくるなりそう答えた。
「あら、じゃ西瓜のお礼言いそびれちゃったわ」
前掛けをした雪絵が手を拭きながら部屋に入ってきた。
そして庭に干された毛布を見る、まだ乾ききらない縁側を見る。
バケツが横に転がっていた。
だが雪絵は何も言わずに、床に転がっていた西瓜を抱えた。
「良かったわ、きっと内にも西瓜持っていったわよと千鶴子さんが言うから、持ってこなかったのよ、冷やしておきますからね」
「それぐらい僕がやりますよ」
中禅寺が雪絵と共に部屋を出ていった。
糸が切れたように関口は縁側に座り込んだ。そして両手で顔を覆おう。
聞こえてしまっては駄目だ、必死に嗚咽を飲み込んでいた。
犯してしまった罪は昔よりも業が深かった。


雪絵を交えた夕食は地獄のようであった。
さっきまでここで繰り広げられていた陵辱の数々、米粒の味すら分からなかった。半分以上も食べれなかった関口に、だが心配そうな顔を見せながらも無言で、雪絵は自分の家から出ていった。
「西瓜でも食べるか?」
中禅寺が関口の横に腰を掛けた。
目の前に置かれた赤く熟した西瓜、そっと楊枝を刺し口元に運んだ。それはとても冷たく美味しかった、美味しすぎて涙が止まらなかった。
「雪絵さんからの罪悪感なのか、僕の行為に対する悲壮感からなのか」
何について中禅寺が言っているのか分かったが関口には答えられなかった、分からないのである、どうして此処まで自分は追い込まれてしまったのか。
「僕は…僕は雪絵を愛している、そして君は千鶴子さんを愛している」
「あぁ」
「なのに、なのにどうして今頃になって僕を…僕を…千鶴子さんを愛しているんだろ!」
「だがそれ以上に僕は君を愛し続けている」
関口の目がこれ以上となく見開かれた。
「君は…君は何を言っているのか…」
「分かっている、これ以上君を束縛することは君のために良くないと思った、君の周りには僕の代わりとなる人が気が付けば一杯いた、だから僕は静かに見守ることにしたんだ」
「何、勝手なことを、僕は…僕は待っていた、君がお帰りなさいと行って来るのを、そして良く帰ってきてくれたと抱きしめてくれるのを!だが、だが君は…」
言葉は続かなかった。あの時の情景が蘇る、何年たってもあの胸の張り裂けるような思い。机の上に突っ伏した。
「何のために生きて帰ってきたんだよ、何のために…何のために…」
ふたりの温もりが関口の背中を覆った、跳ね返そうと一瞬もがいたが直ぐに大人しくなった。中禅寺の手がゆっくりと体を抱きしめる。
「あぁ僕のためだよ、僕に再びこうやって抱きしめて貰うために帰ってきたんだ。だがそこで抱きしめたら再び元に戻ってしまう、元の弱い君に戻ってしまう、そう思った」
「なら何故、今更こうやって甘い言葉を!」
「君が僕の知らない夢を見るからだ…僕の知らない世界で君が苦しんでいるからだ」
関口の体が半回転し、中禅寺に向き合いそして中禅寺に抱きついた。
「君でも…君でもそんな事を考えるんだ…それって独占欲だよね?」
言われるまで気が付かなかった、そう、自分は関口に対しての独占欲を抑圧していたのだ。雪絵よりは自分の方がより知っている。
大好物も苦手なものも思考回路も、そして彼が一番感じるところも。一歩高いトロコに自分が居たのである。
だが今は違った、目の前が闇なのである。
関口が自分の手中には居ないのである。



そしてまた関口は魘されていた。
そっと起こし、水を運ぼうとして夕餉の残りの西瓜を持ってきた。
見えない記憶に怯える関口、宙を見つめているその瞳には自分は写っていない。
しゃりしゃりと西瓜をかじる口元。
沸き上がる激情を中禅寺は必死に押さえる。
「木場さんをやはり呼ぶかい?」
無言のまましゃりしゃりと関口は西瓜を囓る。だが答えは一つしかない。それでも無言で囓り続ける関口をそっと抱き込んだ。
汗でしっとりとした体。
自分の想像すら及ばない戦争の古傷の深さを思い知らされる。
「思い出したんだ」
未だ宙を睨む関口、だがその言葉は彼の口から発せられた。
「一つだけ思い出した…僕の体は汚れている」
ずっと昔、酒の勢いで木場が漏らした一言が蘇る。訓練学校から奴は性的暴行を受けていたそう辛そうに呟いた瞬間。
自分の傷のように話す木場に怒りも感じた。
受けないはずがない、既に中禅寺の手によって開花させられた体、予期していた、その為にも暗示をかけて置いた、出来る限りの手法を用いて。彼の心が壊れてしまわないように。
そして彼は戻ってきたのだ。
「だが心は汚れていない、そうだろ?」
壊れ物に触るように中禅寺の唇が関口の上唇を啄む。
頼りなく腕が中禅寺の首に回った、そして襟足に顔を埋める。
「抱きしめて、あの頃のように抱きしめて」
汗ばむからだ同士が隙間無く絡みつく。
互いの鼓動をこんなにも近く感じたことは未だ嘗てあったであろうか?わずかに重ならない鼓動が歯痒くも感じ、そして今の自分たちで在るとも悟る。
だが今は関口の寝息にこの今という時間に安息得る。
「あの頃の夢を見るんだよ、関口くん」



ふと目を覚ますと隣に寝ているはずの中禅寺の姿はなかった。
布団もきちんと畳まれていた。
朝をかなり回っているのであろうか?
寝室に届く日差しが既に強くなっている。
久しぶりによく寝た、上半身をゆっくりと起きあがらせた。
そしてようやく隣室に複数の人間が居ることに気が付いた。

「やつはおまえの夢も見るし、知らない女性の夢も見る、また戦闘の夢も混じっている」
中禅寺は両手を組み、聞き手に回っていた。
「そして性的暴行も受けている」
木場が汗を何度と無く拭う。そして中禅寺の拳に力がこもる。
「おまえなら何か心当たりがあるだろ、特に女性は関口に向かって人殺しと叫んで居るぞ」
「人殺しか…戦争にかり出された奴は全員人殺しだ」
「確かおまえらが居た部隊は全滅だったよね」
「おまえも相変わらず、すかねぇ野郎だな。ズケズケと言うな、あぁそうだ、そうだよ、だが必死に頑張った結果だ」
「ふん、とっと逃げればいいものを」
「何だと!」
中禅寺は慌てて立ち上がったが遅かった、木場は榎木津の襟元を掴みあげるとものすごい勢いで頬を撲った。
「木場さん!」
「京極堂、おまえは黙っていろ!どんなに、どんなにあの戦場は辛かったのか、おまえらに分かるものか!逃げたくても逃げられない状況を!」
再度殴ろうとしたとき、隣の襖がすっと開いた。
「木場さん、止めてください」
寝間着のままの関口。
「どうして止める!」
「お願いです」
榎木津と関口の顔の間を何度も視線を往復させた、そして溜息を大きくつくと投げ捨てるように榎木津の襟元から手をはずした。
「この馬鹿力め、猿も猿だぞ!起きているならさっさと出てこないからこうなる」
「ごめん」
「謝るな関口!いや関口隊長だ」
はっと木場の方を見る、そして木場も関口の方を見る、その鋭い視線は何かを思い出させる。
そう今二人の間は戦場である、そして足下に転がるのは仲間の屍。そしてそれでもまだ降り注いでくる銃弾。
自分や木場は何をしているのであろうか?仲間の元に跪いて何をしてるのであろうか?
「思い出したか?俺たちのし残したことを…」
せめて形見をと仲間の身につけているものを一つ一つ取り外しているのだ。写真、指輪、そしてメモ帳…
それを自分はどうしたのであろうか?
軍隊名簿を手掛かりに渡しに行ったのだ、家族に兄弟にそして親族にと。

「あんがた殺したんだ!あんたは人殺しだ!」
「返して、返して私の男を!」

投げつけ返された一つの指輪。
そう確か結婚したばかりだった男の持ち物であった。それが最後の遺品の引き渡しであった。
面と向かって初めて言われた罵声、それまではただ礼を言われるだけであった、だがきっとその瞳の奥には何故おまえが助かって我が子が、その憎悪に燃えていたに違いない。
途端に自分の罪の深さに再度、襲われた。
恐怖に震える関口を横に木場は投げ捨てられた指輪をそっと拾い上げた。だが目の前の扉は固く閉ざされたままであった。
歯の根が噛み合わないほど震える関口をそっと包み込んだ。
「俺たちは何も悪くない、悪くないんだ、だから閉じこもるな自分の中で」
何度も頷いた、何度とも無く頷いた。
だが記憶はそこまでであった、あの指輪はどうしたのか、まらどうやって自分は立ち直ったのか、記憶があやふやである、だが自分はその後学校に戻り研究室に籠もるようになっていた。

「関口隊長」

木場がそっと拳を関口の目の前に差し出した。
そしてゆっくりと一本一本の指が開けられていく、手の平の中央に鈍い銀色の光を放つ指輪。
「木場さん…」
「俺がずっと持っていた肌身離さず、これは共に闘ってきた仲間の魂が入っている」
目が頷く。そっと関口の細い指がそっとその指輪に伸ばされ触れる。
ずっと木場の手の平に握られていたのに、何故かヒンヤリとしていた。
「きっと帰りたいんだね?」
「あぁ、多分そうだと思う。きっとあの人も今なら受け取ってくれるかもしれない」
既に薄れてきた戦争の跡傷、だが消えない人の方が多い。でも傷が懐かしいものに変わっていることもある、そしてそっと心の引き出しに仕舞うのだ。
「あぁそうした方が良いな、きっと指輪の持ち主もそれを願っている」
榎木津は腫れはじめた頬をさすりながら、ふてくされたように付け足した。
「そうすれば猿も寝られる、もっとも違った意味では分からないがな」
中禅寺の鋭い瞳に榎木津は降参のポーズを取る。

きっと明日にでも二人はその女性の元に行くであろう。
だがこの時点で中禅寺は気が付いた、木場と関口の間には特別な絆があったことを。
何故関口は生きてこられたのか、それは自分の力でない……

榎木津は中禅寺に視線をやり一瞬考え込んだが、そのまま畳の上に寝ころんだ。


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